[ホームページ] へ戻る

交野歴史健康ウォーク
2003.2.8  第43回

がらと川の源流を尋ねて(シリーズ第1回目)
   交野ドーム→私部墓地→かゆ池→免除川→源氏池→桜道→警察学校→
影見池
地蔵池(早来迎仏)→がらと川上流→倉治(庚申橋)まで訪ねる。

 2003.2.8(土)、参加者は、15名。 いつものメンバーに、お隣の枚方市から元気な方がお見えになった。2002.10.2発売の『WALK関西版秋冬号』の関西ウォーキング団体・歩く会のイベントリポートとして交野歴史ウォークの活動が紹介され、その記事を見られて、交野の歴史を勉強したいと参加された。誠にありがたいことである。

 午前10時過ぎ、がらと川源流を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。

警察学校の西を流れて
JR学研都市線の下流へと
流れるがらと川
がらと川の上流

本日の案内は平田さんと中角さん。府道久御山線を南にとり、北川沿いに東に行くと私部の共同墓地があり、墓地の北のはずれを東に迂回すると小さなに出る。この池を「お粥(かゆ)池」と呼んでいる。干ばつのためにつくられた池で、その勤労奉仕にお粥がよく食事として出されたことから、名がついたと言われている。
 のどかな青山の田圃道を北に進み、青いフェンスに囲まれた第2京阪国道予定地を通り過ぎ、免除川に出た。昨年8月慶長伏見地震の痕跡が見つかった有池遺跡は、埋め戻されて介護施設の建設が急ピッチで進んでいた。

 免除川の堤防から見える、交野山は素晴らしい。交野ドームの北側から青山の住宅地と田圃を縦断、源氏池とJR学研都市線を跨いで高速道路が建設される。高さ30mにもなる大きな建造物(国道)が走ったら、もうこんな素晴らしい交野山や山麓の風景が見られなくなるだろう。源氏池も1/3ぐらいが埋められ、関西電力変電所の周りにある、鐘撞堂池、松塚下池も埋められると聞く。どんどんと、交野の風情のある里の風景が変わって行く。

 桜並木が変電所へと続く桜道に出て、JR学研都市線で右折して直ぐに、細い小川に出会う。この川が本日の目的地の「がらと川」である。
 ここで、案内の平田さんは、この川が一旦大雨が降ると小石や土の混じった砂礫、がらくたを流すから「がらと川」と言われていること、またもう一つのがらと川の名前の由来は、奥野平次氏の「ふるさと交野を歩く、ひろい話」に紹介されている、伽藍に通じた川、伽藍途川(がらんと川)だと説明された。この川の上流、清水谷(しみったん)の扇状地にもと「はただ」という村があって、奈良時代にできた津田寺という大寺があり、この川上にある大寺に通じた川だと言われる。実にいい響きのある名前だ。参加者全員、「伽藍途川はいいですね」と感嘆する。果たして伽藍途川なのだろうか?



がらと川と北川
 倉治の関西電力の枚方変電所と警察学校との間から流れ出した川が倉治の北を流れる。このあたりの川を「がらと川」と呼んでいる。がらと川とは、小石や土の入り混じった砂礫の多い川、また水の少ない、よく干上がる、枯れる状態の多い川という。
 変電所あたりから学研都市線を過ぎ,倉治の北側を流れている状況はまさに天井川である。
一方、倉治の村中を流れ,交野市教育文化会館の南側に出てきて、その後西進して新田橋でがらと川と合流する。この川を倉治中川とよんでおり、この合流点より下流が北川となる。
 郡津の出鼻橋で枚方市津田春日から流れ出た野々川と合流して一回り大きな川となって村野との境界を流れて天野川に注いでいる。
 昭和40年代、郡津の松塚団地が造成され、免除川、北川ともに天野川への合流部分が付け替えられたことによって、郡津の低地、長淵あたりの洪水常襲地帯は洪水の苦悩から免れることとなった。

免除川沿いの介護施設建設現場
青山の有池遺跡・慶長伏見の
大地震の痕跡が発見された場所
免除川を歩く
免除川の堤防から見える、
交野山と山麓風景は素晴らしい
交野ドームの北側から青山の
田圃を縦断、源氏池とJR学研都市線を
跨いで高速道路が建設される。
源氏池も1/3ぐらいが埋められ、
関西電力変電所の周りにある、
鐘撞堂池、松塚下池も埋められる

 このあとの案内は、中角さんが奥野平次さんの「山の根道を歩く」を辿って歩かれたガラト川の源流と津田城址を訪ねてを参考に記載させていただきます。
 先ず影見池へ、津田駅の左のトンネルを東に抜け左手を東に直進し突き当たりを左折すると左に送電線の鉄塔があり、その下にある。(第一メリヤス株式会社は無くなり住宅になっている) 池の傍らに津田財産管理委員会(平成拾年参月)の立て札が立っている。

          《影見池と惟喬親王》
 惟喬親王(844〜897)は文徳天皇の第一皇子であったが、藤原良房の孫で第四皇子の惟仁親王が皇太子に立てられた。のちの清和天皇である。失意の惟喬(これたか)親王はたびたび交野の別荘渚院を訪れ、在原業平らと歌を詠み遊猟して心を慰めた。
   ここ影見池は、いつも清水を湛えていたので、惟喬親王遊猟のとき、見失った愛鷹が池面に写る姿から発見されたという伝説を残している。田を養ってきたこの池も宅地化の波にのまれその役割を終えたが、枯れることなく湧く水が惟喬親王の秘話を今に伝えている。







影見池の伝説
 
昔、文徳天皇の皇子惟喬親王がこの地方で遊猟されていた。大切な鷹を放ったがいつまで待っても帰ってこなかったので、鷹匠たちは心配してあちこちとその鷹を捜してまわった。畠田郷(昔の津田)から流れてくる川の水がよどんでいる小さな池(影見の池)まで来た時、そのほとりにある高い木の枝が水に映っており、その影の中に見失った鷹の姿が見えた。
 枝の上の鷹を見ると、その足に結びついた紐が枝に巻きついて、どんなにばたばたしてもその枝から離れることが出来なかった。そのことを親王に申し上げると、私部に住む弓の名人に足の紐を切るよう命じられた。名人がさっそく幅に広い大きい鏃のついた矢を放ったところ、一矢でその紐を切り、鷹は喜んで鷹匠のもとに帰った。親王はその名人を誉めて「大矢」という姓を与えたという。 
     (津田の尊延寺に残っている「当郷旧跡名勝誌」による)

 津田駅周辺とがらと川源流地図


 影見池の道を北に進むと地蔵池の手前、道の左の地蔵さんのグループ二つが三つに増えていた。第一のグループで片腕を差し出した地蔵さんが珍しいとある石仏は『早来迎』と思われる。星田の薬師寺の石仏は向かって右向き、ここは左向きである。地蔵さんから衆生に手を差し伸ばして下さった姿だといわれている。
   池から道を隔てて畑の中の治郎兵衛宮は健在でした。津田寺址は不明。地蔵池の遊歩道に沿って進み東の端に改修前まで、地蔵池に流入していた川に架っていた石橋のたもとにあった石碑の石のモニュメントの傍に『念佛橋・南無阿弥陀仏・正徳三年巳七月十八日』 裏面は『○休』(○は判読出来ず)。 土地の岡沢さんの話では、昔土葬の頃はこの念仏橋が村のはずれで、喪主が莚(むしろ)のうえに裃(かみしも)を着て座り、野辺送りの人々に御礼する、しきたりの場所だと教えていただいた。
 地蔵池の道を東に行くと新しい道に突き当たる。307号線に繋がる新しい道路が丘を縦断して津田駅方面に伸びている。
 左側に山本家の墓がこの近くから移されたのか道からお参りするように出来ている。その続きに『津田城主 津田周防守正信之墓』と刻まれた自然石状のこじんまりとした墓標がありその横に三体の立派な石仏が並んでいる。以下の碑文と共に祀られている。

  《津田周防守正信について》
 
 津田周防守正信は津田氏の初代城主で戦国時代に、ここより東に位置する国見山に居城を構え、活躍した人物である。しかし文亀三年(1503年)八七歳でこの地に没し津田城の搦手なる、いばら谷を下った谷間の芝生(しばお)に墓をつくり葬られた。
 以後墓は馬場谷に移され更にここ古城(ふるじよう)の地に移しまつられ幾星霜を経て今日に至る。以来津田氏は備後守正忠(二代目)・周防守正明(三代目)・主水頭守正時(四代目)と続き津田の地を統治したが。天正三年(1575)織田信長の軍勢により平定され津田氏は勢力を失うこととなった。


  墓から下って新しい道と分かれ、大池の北側を通って、東進するとがらと川に突き当たる。
がらと川の源流はここから東へ迂回して進み、国見山に向かって約500m登ったところに国見池がある。それが源流らしく、その上は国見峠の分水嶺よりの谷水と思われる。途中、立派な防砂ダムが造られている。100年に一度の改修と言われているらしいが、上流は立派なものだが、下流、交野市に入る迄の部分がお粗末である。
 右上が上新池、左上が大原池その土手を少し下がった右に円通寺跡と教えてもらう。第2京阪国道予定地のフェンスの中である。
 奈良時代にできた津田寺という大寺の跡地は不明だが、この台地に立った時、1200年のロマンを感じるに相応しい場所だった。果たして皆さんは如何思われたか?私は「がらと川」は正しく伽藍途川(がらんと川)だと直感した。
 がらと川に沿って、津田南一丁目を経て警察学校の南西の道にでて、JR学研都市線を越した。府道久御山線の手前左手にあるのが、現在はレストラン「フェスト」になっているが、ここに大きな「かご池」があった。
 近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のようによく水が漏れたためにこの名がついたという。そして直ぐ西の外池に流れ込んでいた。
フェストの北側、久御山線沿いにかご池跡石碑があり、「石つき唄」が彫られている。
 「わしの若いときゃ 津田までかよた 
倉治かご池で夜が明けた
 おもしろや おもしろひょうたんや 
おおあげおおあげ」

この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌である。今回のウォークは倉治の(庚申橋)で解散。

 平田さん、中角さんの的を得た説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

影見の池(見過ごしやすい)
池の傍らに津田財産管理委員会の
立て札が立っている
第一の地蔵グループで
片腕を差し出した地蔵さんが『早来迎』
地蔵池
きれいに整備され公園となっている
津田城主 
津田周防守正信之墓
大池の向こうに 
津田駅付近の高層
マンションが見える
がらと川の源流へと続く溜池
枚方市と交野市の境界付近
直ぐ東側を第2京阪国道が通る


戻る