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交野歴史健康ウォーク
2003.3.8  第45回

がらと川の源流を尋ねて(シリーズ最終回)
   交野ドーム→青山→関電枚方変電所→警察学校・結び谷池→津田南町・新池→
円通寺跡→がらと川上流→津田城本丸山跡→がらと川砂防ダム→津田サイエンスヒルズ→
国見池(がらと川源流)→国見山→白旗池・いきものふれあいセンター交野山→交野ドーム  


2003.3.8(土)、参加者は9名。前々回の2/8は、枚方市津田地区の「がらと川の上流」を歩き、続いて前回の2/22は、倉治から「がらと川の下流」を歩いた。今回の歴史ウォークは第2京阪道路予定地の青山を通り、関電枚方変電所、警察学校の結び谷池を見て、枚方市の津田南町に出て、がらと川の上流から源流を尋ねる行程である。風が強そうで寒さが心配されたが、午前9時過ぎがらと川源流を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前を元気にスタートした。

がらと川と北川

 がらと川の源流
は、津田元町の地蔵池から東へ進み、国見山に向かって約700m登ったところに国見池がある。それが源流で、その上は国見峠の分水嶺よりの谷水と思われる。がらと川を遡ると、大原池と巨大な砂防壁の見える場所があり、立派な砂防ダムは100年に一度の大雨の為の改修と言われている。がらと川の上流、津田南町付近
 上流は立派に整備されているが、津田南町1丁目の住宅街の東を流れる下流は、交野市に入る迄の部分がお粗末である。津田南町の大池、津田霊苑の南を流れ、倉治の警察学校の東を南へと流れて行き、関西電力枚方変電所との間から流れ出した川と、学研都市線の手前で合流して倉治の北を流れる。
 このあたりの川を「がらと川」と呼んでいる。がらと川とは、小石や土の入り混じった砂礫の多い川、また水の少ない、よく干上がる、枯れる状態の多い川をいう。
 2/8の歴史ウォークの際、平田さんはもう一つのがらと川の名前の由来は、奥野平次氏の「ふるさと交野を歩く、ひろい話」に紹介されている、伽藍に通じた川、伽藍途川(がらんと川)だと説明された。この川の上流、清水谷(しみったん)の扇状地にもと「はただ」という村があって、奈良時代にできた津田寺という大寺があり、この川上にある大寺に通じた川だと言われる。実にいい響きのある名前だ。参加者全員、「伽藍途川はいいですね」と感嘆する。果たして伽藍途川なのだろうか?
 今回のウォークは、この由来を検証する機会でもあった。

 変電所あたりから学研都市線を過ぎ,倉治の北側を流れている状況はまさに天井川である。
一方、倉治の村中を流れ,交野市教育文化会館の南側に出てきて、その後西進して新田橋でがらと川と合流する。この川を倉治中川とよんでおり、この合流点より下流が北川となる。
 郡津の出鼻橋で枚方市津田春日から流れ出た北川、野々田川と合流して一回り大きな川となって村野との境界を流れて天野川に注いでいる。
 昭和40年代、郡津の松塚団地が造成され、免除川、北川ともに天野川への合流部分が付け替えられたことによって、郡津の低地、長淵あたりの洪水常襲地帯は洪水の苦悩から免れることとなった。

 いつものように府道久御山線を北上、青山の住宅街を東に折れて私部から神宮寺へ通じる古い道路を歩き、第2京阪道路の予定地に出た。有池遺跡付近で、中角さんから「倉治の歴史、交野山の成り立ち、倉治の集落」について説明をして頂いた。

倉治は、交野市の東北に位置し枚方市の津田南町・津田駅前町・春日元町と、交野市の寺・私部・郡津に隣接している。地形は東に交野山(344m)を中心にその谷と、山麓に広がる扇状地の末端部に位置する。有池遺跡付近で、中角さんから倉治の歴史の説明を受けるそして前面に台地状の平地が広がっている。交野山を始め生駒山・六甲山は「六甲変動」という地殻変動によって、地面が隆起して出来たと考えられているが、第4紀という時代を通じて、じわじわと高くなってきたのではなく、最近の50万年前から急速に隆起して今のような形になったと推定されている。
 現在の倉治の集落は、学研都市線の西、機物神社を東にしてその西一帯、がらと川にかけて集落をなしている。津田山から交野山、竜王山にかけての山麓一帯は、昔、渡来人が住居をかまえていた所でであった。特にこの地区に移り住んだ人々は機織り紡績を主とする氏族であった。彼らは今よりもっと山手の扇状地の上部に集落(現在の関電枚方変電所付近)を構えた。
 交野山一帯は花崗岩地帯であり、しかも、非常に風化が進んでいるため、土砂の流出が激しく、また扇状地上もしばしば氾濫を起こした。そんな災害の中でも山崩れが一番怖いものである。大雨や長雨が続くと地盤が緩み、どっと大量の土砂を押し出す。そうすると山麓の集落は土砂によって押し流されたり、のみこまれてしまったりする。変電所あたりにあった渡来人の集落はこの山崩れによって崩壊したもので、もっと安全な場所を求めて今の地に移ったものである。(交野市史・自然編参照)

 学研都市線を越し北に折れて免除川を渡り、倉治の共同墓地へと続く「新助坂」を下り雇用促進住宅前を通り過ぎ、青いフェンスに囲まれた東倉治の第2京阪道路の予定地を北に出ると、松塚上池・下池、鐘撞堂池に出会う。下池の一部、鐘撞堂池は高速道路の工事の為に埋められてしまうようだ。関電枚方変電所の建設時に植えられた桜並木も一部取り払われるようで、この一帯の景色が一変しコンクリートの大きな建造物に取って代わってしまう。桜道から南に広がる段々畑と池の方向を眺めると長閑な里の風景が見られるが、もう、あと数年もすればこんな風景が無くなってしまうのだ。
 東倉治4丁目の住宅街をくねるように歩くと、左手に警察学校の建物が見えてきて、敷地の南端に結び谷池があった。正方形のプールのような池で、今はまったく水が無かった。結び谷と呼ばれる山手に少し入ると、左手に小さな池があり、ここにも青いフェンスが張り巡らされ、一目で第2京阪道路の予定地であることが知れた。この池も埋められてしまう。どことはなく暖かい母の胸に抱かれているような里の風景がまた、一つ無くなって行く。
 東倉治5丁目を北端にして我が町・交野とはお別れだ。隣町・枚方市の津田南町1丁目の閑静な住宅街を抜けると、一変して青いフェンスに囲まれた国道予定地に出た。第2京阪道路の掘割予定地と書かれた看板が目に付いた。児童公園の側には、新池があり、少し山手に上ると、大きな大原池がある。
 大原池の堤防からの眺めは絶景だった。直ぐ下には、2/8に津田駅方面から「がらと川の上流を尋ねて歩いた」川の上流が、またその向こうには「大池」が、そのずっと向こうに津田駅周辺のマンション群が建ち並んで見えた。 


幾重にもなった段々畑があり、一段と高くなった台地には、昔、円通寺が建っていた。奈良時代にできた津田寺という大寺があり、この川上にある大寺に通じた川、伽藍途川(がらんと川)だと、がらと川の由来を聞いた。 大原池の堤防からの眺めは絶景だった。直ぐ下には、がらと川上流が、またその向こうには「大池」が、そのずっと向こうに津田駅周辺のマンション群が建ち並んで見えた。 

左に目を転じると、幾重にもなった段々畑があり、一段と高くなった台地には、昔、円通寺が建っていた。この辺りをえんず谷といい、平安時代の頃、惟喬親王(844〜897)が鷹狩の時、門前に雪女が現れたという伝説が残されている。また、この寺は興福寺官務牒疎に記されている、奈良時代に創建されたと言う、津田寺にあたるといわれている。
 前々回のウォークの際、奥野平次氏の「ふるさと交野を歩く、ひろい話」に紹介されている、奈良時代にできた津田寺という大寺があり、この川上にある大寺に通じた川、伽藍途川(がらんと川)だと、がらと川の由来を聞いた。果たして伽藍途川なのだろうか?まさしく、左手の台地には当時の大寺が建っていて、それに通じた川だったのだ。実にいい響きのある名前だ。しばし、感嘆!今回のウォークは、この由来を検証する機会でもあった。

 残念なことに、この一帯は、第2京阪道路の予定地で、新池、大原池も埋められ、寺が建っていたと言う台地も無くなってしまうという。田圃が住宅地に変わり水の需要の減りつつある現状では池も不要なのか、どんどん惜しげもなく埋められてなくなって行く。ほんとうに、これで良いのだろうか。一旦、大雨が降ったときに流れて貯まる池が無くなったら大洪水を引き起こすのではないだろうか?またここも、心休まる里の風景が無くなってしまう。
 せめて、道路工事による発掘調査で、昔の歴史が解き明かされることを願うばかりだ。
がらと川の源流、国見池
 大原池を北に行くと、がらと川の上流に出る。新しく開発中の津田山手1丁目の住宅地(津田城の本丸山跡)(=大阪府住宅供給公社が住宅整備を進めており、将来、戸数約1,000戸、人口約3,000人の街となるそうだ)を左手に見て、ここからがらと川を遡って源流を尋ねて歩くことになる。200〜300mばかり登ったところに、平成5年に造られた素晴らしい砂防ダムがある。100年に一度の大雨を予想して造られたとか、少ししか流れていない水を見ると何だか無駄遣いのようには見えるが、過去何度となく大雨に泣かされた地域の要望で出来上がったものなのだろう。
 しばらく上ると、二つ目のダムがあり、なお「がらと川」を確認しながらハイキングコースをゆっくりと登る。左手に津田サイエンスヒルズの大阪大学研究科の自由電子レーザー研究施設が見えてきて、関西文化学術研究都市として開発された高台に出た。北の方に目をやると、石清水八幡宮の男山や天王山がくっきりと見えた。

津田サイエンスヒルズ津田サイエンスヒルズは枚方市の東部に位置し、関西文化学術研究都市の大阪府域における文化学術研究地区の一つであり、研究(開発)施設や教育・文化施設の集積拠点として大阪府、枚方市、大阪府住宅供給公社等が一体となって、その整備を進めている。
さらに、平成14年度末に一部供用開始を予定している第二京阪道路が本地区に接する形で計画されており、関連道路の整備とあいまって、交通の利便性が飛躍的に向上することが期待されている。国見山山頂の案内板
 
 この高台の南に国見池があり、池の北側からわずかな音を立てて「がらと川」に流れていた。遂にがらと川の源流を確認することができた。池では、数人が釣り糸をたれ魚釣りを楽しんでいた。池を少し登ると、谷水を集めて水が勢いよく音を立てて池に向かって流れていた。池の樋から溢れた水が「がらと川」となって、津田から倉治へと流れ郡津を通って、天野川に注いでいるのだ。壮大な水の旅を3回の歴史ウォークで歩いて確認できた喜びは一入である。

 今回のウォークは、これから、国見山→白旗池・いきものふれあいセンター→交野山へと登る予定だ。休憩後、それぞれ会話を楽しみながら、ハイキングコースをゆっくりと登った。折から北西の季節風が強かったが、国見山からの眺望は素晴らしかった。枚方市と交野市の全景が望め、遠くは、山城から摂津方面の山々が一望された。第2京阪道路は307号線までほとんど完成まじかで、今年春には一部開通も確実のように見えた。果たして、数年後第2京阪道路が開通したら、交野市の風景はどのように見えるのだろうか?

 ※2003.3.30 第二京阪道路・京滋バイパス 一部開通
 第二京阪道路の巨椋池インターチェンジ〜枚方東インターチェンジ間、京滋バイパスの巨椋インターチェンジ〜久御山ジャンクション間が今後必要な手続きを経て3月30日、15時に開通します。あわせて、第二京阪道路に併設される一般部の一部区間と京滋バイパスの宇治西インターチェンジの西向き(久御山方向への入口、久御山方向からの出口)が同時に開通します。詳しくは、こちらのHPで確認下さい。
第二京阪道路・京滋バイパスの開通について 

 北河内の歴史の本によると、交野山の北に標高285mの国見山があり、この国見山の天険を利用して山頂部に津田氏が城を築いてその城は国見山城と呼ばれていたと記されている。津田の地蔵池付近には城の玄関口にあたると考えられる門口(もぐち)という小字名が残されており、門口から国見山城に向かう城坂の右手(南)には、国見山城以前の館があったとされる古城(ふるじょう)と呼ばれる地域がある。また、国見山城落城後に新たに城が築かれたとされる本丸山(ほんまるやま)と呼ばれる地域が点在している。
 昭和47年以降、大規模開発に先立ち発掘調査が行われ、国見山城、本丸山など詳しいことが分ってきた。本丸山は標高113mの最高所を中心として、南北に細長い平坦地が、3〜4段にわたって堀などによって造成されていたことが明らかにされている。 
 4代目主水頭正時(もんどのかみまさとき)の時、天正3年(1575)に織田信長軍により国見山城は焼き払われ、後、正時は本丸山に居城を移したが、天正10年(1582)の山崎合戦時に、招提勢とともの明智光秀方に加勢した為、羽柴秀吉軍により本丸城も焼き払われてしまった。その後、正時は秀吉に赦(ゆ)るされ、子の新八郎正胤とともに仕えたという。 

  《津田周防守正信について》
 
 津田周防守正信は津田氏の初代城主で戦国時代に、国見山に居城を構え、活躍した人物である。しかし文亀三年(1503年)八七歳でこの地に没し津田城の搦手なる、いばら谷を下った谷間の芝生(しばお)に墓をつくり葬られた。
 以後墓は馬場谷に移され更にここ古城(ふるじよう)の地に移しまつられ幾星霜を経て今日に至る。以来津田氏は備後守正忠(二代目)・周防守正明(三代目)・主水頭守正時(四代目)と続き津田の地を統治したが。天正三年(1575)織田信長の軍勢により平定され津田氏は勢力を失うこととなった。

 《津田城(国見山城)について》
   1490年ころ津田周防守正信は周囲の地形を利用して国見城を築き、4代約100年間にわたり、戦国の世にこの地で勢力をふるった。二代目備後守正忠は天文年間(1532〜55)連如の子、連淳が招堤に敬応寺を創建したとき娘を側室におくり本願寺勢力と通じた。国見山からの絶景三代周防守正明に至り津田氏の勢力は最も強大となり、飯盛山城に拠って畿内に号令した三好長慶と結び交野・茨田・両郡で1万石を領した。

  天正3年(1575)4月、織田信長の河内平定のため、藤坂・津田・などは洞ヶ峠から攻められ国見山城も焼き払われた。このとき城主は4代津田主水頭正時であった。正時は天正10年山崎の合戦に明智光秀方に味方するため招堤寺内衆とともに出陣したが、秀吉方に敗れ津田・尊延寺などの領地は没収された。

  国見山城は、緊急時に使用する砦として役割をはたしていた。傾斜面を切り拓いて建物を建てた跡が数ヵ所あり、南方の狭い尾根からの攻撃に備えるため東面に土塁も築かれている。
   昭和31年に数回発掘調査が行われ、山頂東側において、地表下30センチから焼土層が確認され、天正3年の織田信長による焼打ちによる火災の跡、当時の陶磁器の破片も出土している。
                                                                 (枚方市教育委員会)

 生き物ふれあいセンターのベンチで昼食。冷たい風が強く食事もそこそこにして、暖かいセンター事務所に入り白旗池のオシドリのつがいやマガモなどの観察を楽しんだ。
 強風の中、交野山に登り、観音岩の梵字などを確認した後、里山保全で竹薮などが伐採され綺麗に整備された新しいハイキング道を真っ直ぐに下り、神宮寺の閑静な住宅街を通り抜け、午後2時20分頃交野ドームに帰りついた。
 がらと川の源流を確認できたこと、また、戦国時代のお城跡など廻り、楽しい歴史ウォークでした。案内は中角さんと村田でした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

交野山観音岩 大日如来の梵字
倉治公園への道を下る 交野市内が一望される

第45回 がらと川の源流を尋ねてシリーズ最終回行程地図

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