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交野歴史健康ウォーク 153回
交野の石仏たち
=石仏の道を訪ねて=

 案内人:平田 政信氏(交野古文化同好会)

日時:平成28年6月9日(木)  午前10時集合
集合場所 いきいきランド
  18名(会員13名)参加
 行程 : いきいきランド(交野ドーム) → 私部惣墓 → 石仏の道 → 私部共同墓地(ふうちゃんの墓)
    → いきいきランド  12時過ぎ解散  約 4km徒歩
 6月9日当日は、前日の天気予報では朝から昼過ぎまで雨模様とのことで開催が危ぶまれましたが、石仏の道付近でパラパラとした程度でその後日差しも見えて、幸いにも天候に恵まれ、18名の元気な皆さんと石仏の道を歩いて、2000年9月に始まって以来今回で154回を数える交野歴史健康ウォークを充分に楽しんで来ました。

 5月18日の勉強会で、講師の平田政信氏より「交野の仏たち」のテーマで、「交野の歴史・風土記・仏たちの概要」をお話しいただきました。今回は、従来の第2土曜日開催の歴史健康ウォークに加えて、平日開催の第1回目として、「石仏の道を訪ねる」をテーマで交野歴史健康ウォークとして実施されました。

 いきいきランドを出発、第2京阪国道の側道を少しばかり歩いてすぐに右折して、田んぼの畔の「水守り地蔵」に案内された。次いで私部の墓への野辺送りの参道(南郷)を通り、昔の北川の名残りと言われる「長池」を右に見て、広大な広さの私部共同墓地に到着。JR学研都市線を渡り、綺麗に石敷きがされた北川の源流沿いに、神宮寺のブドウ畑を両側に眺めながら歩くと、石仏の道への入り口の賽ノ神さんに出会います。


 ここからいよいよ石仏の道へと進みます。
 神宮寺の村から、天平時代:開元寺跡、神宮寺縄文遺跡、石仏の道を訪ね、岩倉開元寺跡をしのびながら交野山(▲ 344m)へ通ずる道である。こんな素晴らしい道は他にはない。弥勒菩薩さんの対面からはじまり、小さな二尊仏、傷ついた阿弥陀如来立像、阿弥陀三尊など交野の代表石仏に出会える道。
(レジメより)

 鬱蒼と木々が茂り鶯などのさえずりをバックに、じっくりと5体の石仏たちとの出会いを楽しみ、帰りは、私部共同墓地に立ち寄り、つづり方兄妹のふうちゃんのお墓に参拝していきいきランドで解散しました。
 天候も回復少し蒸し暑さを感じる程度で、今日のウォークは歩いてよかったですなぁ!との感想でした。

※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメなどを参考にさせて頂きましたこと、
記して感謝申し上げます。
その他、交野広報に掲載されました、諸々の資料を参考にさせて頂きました。

石仏の道を訪ねてのMAP
いきいきランド交野
交野の石仏たち  案内レジメ
交野の石仏たち レジメ PDF
石仏の道に向けて出発
最初に案内されたのは、第二京阪国道の傍の田んぼのあぜ道で
静かに見守っている石仏さん。それは、水守りの石仏。


この仏さんは何を思うか、きつと交通安全も見守つて下さつていると思います。
第2京阪国道よりわずかにはずれた田圃の畦道に、「水守り地蔵」はおられた。

左側の双体仏は少し右に傾き、右の阿弥陀さんとともに長い風雪に耐えながら田畑の水を良くお守りいただきました。
 すぐ東の森からこんこんと清水が湧き出し私部の田圃を潤している。
いつまでもお守りください。
私部の墓地
 北川は関西創価学園の南の竜王山の下あたりを源流とするものと、郡南街道の谷から流れる谷川と、一つ北の石仏の道から交野山への登リ口となっている谷に流れる川が倉治の墓の中央付近で合流している。そして大きな扇状地を形成して片町線(学研都市線)を越えて私部の墓地まで続いている。

 この扇状地の地域が私部上河原とよばれ、江戸時代初期頃まで私部の部落があったところである。合流した川はぶどう畑の中を流れ、学研都市線の東側で南へと流れを変えて、寺村の北から流れ出た川と一つになり、交野小学校の南を、そして私部住吉神社の南を流れて落合橋で南川と合流して、前川と名前を変えて天野川に注いでいる。


石仏の道沿いを流れ下って、ブドウ畑の中を西流、川床は綺麗に石敷きされている。
JR学研都市線の手前で左に折れて、現在の北川に合流している。
昔は、まっすぐに私部の墓地の中を西へと流れていた。


江戸時代、万延元年(1860年)、この北川の源流を、
鳥居谷から取り出した大きな石を修羅に載せて私部の住吉神社まで運んだそうです。

 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。

 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。


  (住吉神社社誌より)
私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)




交野郷土史かるたの箱に大石を運んでいる絵が描かれています。
つくね飯 くらって運ぶ 大鳥居
神宮寺のブドウ畑
 神宮寺の集落を含む交野山麓の扇状地は一面のブドウ畑となっています。ここは明治の中ごろまでは官有地の松林でしたが、明治30 年代に交野村に払い下げられ、村から南へ開墾が始まりました。そして明治40 年代ごろから稲田桃が植えられるようになりました。この桃は高値で取引される甘く優れた品種だったので、明治時代の後半から太平洋戦争まで栽培されていました。
 しかし、桃の収穫量は台風や戦争中の人手不足などにより著しく低下していきました。また、戦争中の食糧難により枯れた桃畑の空き地に大豆やさつまいもなどを栽培し、より現実的な食糧増産に努め、ますます桃の栽培に適さない環境となっていきました。
 そこで戦後、桃に代わる新しい果樹を栽培することになり、昭和24年にブドウの試験栽培が始まりました。その試みは大成功し、「神宮寺ぶどう」としてその名を知られるようになりました。
賽ノ神
村や地域の境界、道の辻にあり、文字どおり他村からの禍をここで塞ぐ。
神宮寺の村に入り、石仏の道へと進む
神宮寺

 「神宮寺」とは一般的に宮寺とも言い、神社に付属して建てられたお寺のことです。日本に仏教が入って来た時に、それを日本の神々とどう共存させるかを考えた結果、日本の神々は、日本人に理解しやすいように仏が仮の姿を現したものであるという考え方が生まれました(本地垂迹説=ほんちすいじゃくせつ)。そこで神社の境内や周辺に寺が建てられ、神社と寺院の両方を管理して神社の祭祀を仏式で行う社僧が置かれるようになりました。このような考え方により、奈良時代にはすでに越前国(現在の福井県)気比神宮で神宮寺が建てられています。

 交野の「神宮寺」は郡南街道沿いの通称「宮山」と呼ばれる所にあったといわれています。宮ノ下とは、この神宮寺の下の地域という意味です。また、神宮寺と対をなしていた神社の名前は伝わっていませんが、素盞鳴尊(すさのおのみこと)を主神とし、末社に金比羅・稲荷・天神・春日・愛宕の神が祀られていて、明治8年に機物神社に合祀されました。
交野郷土史かるた
礎石にしのぶ 開元寺
 昭和29年に神宮寺で天平時代(7世紀の終わりから8世紀の中ごろ)の礎石が発見され、古代の交野に大きな寺が栄えていたことが確認できました。
 これまで、この礎石の見つかった寺については、嘉吉元年(1441年)に作成されたとする「興福寺官務牒疎」という書物に河内交野郡の開元寺の記述があることから、天平時代に開創された開元寺とされていました。
 しかし、この「興福寺官務牒疎」については、最近の研究で、江戸時代に作成された偽文書である可能性が高く、その内容についても信ぴょう性が疑われています。
 ただし、江戸時代には、開元寺という天台宗の寺院が源氏の滝の口にあり、明治時代に廃寺となったことは様々な資料で確認できます。
 もしかすると、「興福寺官務牒疎」は、この江戸時代の開元寺からさかのぼって天平時代の寺院を開元寺としたのかもしれません。

交野郷土史かるた
  縄文の遺跡 豊かに神宮寺
 神宮寺地区は交野で非常に古い時代から、人間が住んでいたことが確認されている地区です。
 神宮寺遺跡からは昭和29年から30年にかけて、縄文時代の石の矢じり破片が発見されました。
 その後、この遺跡からは、後期旧石器時代を代表する石器を含む石器が発見されていますが、主に地表から確認できる範囲での調査であったことや、この時代に関連する物が今のところ見つかっていないため、具体的な遺跡の性格はわかっていません。
 神宮寺遺跡のイメージがつかめるのは、縄文時代に入ってからです。建物跡は発見されていないものの、木炭や灰のつまった炉跡が5つ、多数の小石が詰め込まれた穴が1つ見つかっています。炉の中には、3つの石が組まれ、円すいを逆さにした形の土器を据えて煮炊きものをしたと考えられるような遺構もあります。
縄文式土器(神宮寺遺跡)
 この遺跡の発掘は昭和32年3月交野考古学会の発掘調査により今から約9000年前という畿内でも最も早い時期の縄文式遺跡として注目を浴びました。
 




かるたに登場する土器は尖底土器といい、神宮寺遺跡からも破片がたくさん見つかっています。

 また遺跡からは、表面に楕円形・斜格子目文・特殊菱形文・市松文などの模様がつけられている土器が出てきました。

 この模様が入った土器は、発見当時は全国に同様のものが発見されていなかったため、初めて発見された地名をとって、「神宮寺式土器」と名付けられました

 現在は縄文時代早期を代表する土器のひとつとして、全国的に有名です。


 縄文時代は、河内平野の大部分が海であったころであり、標高60〜70・の高台の神宮寺から眺める景色は現在の風景とは全く異なるものであったでしょう。
廃岩倉開元寺石仏群・石仏の道
交野市指定文化財 平成14年9月1日指定

言い伝えによると岩倉開元寺は神宮寺にあった開元寺を移したと
いわれているが、最近ではその開元寺の存在が疑われております。
しかし岩倉開元寺が存在したことは発掘調査の結果、
その実在が確認されております。この山道に石仏は五体祀られております。
石仏の道へようこそ!
岩倉開元寺
 かつて28の堂塔伽藍がこの山に偉容を誇り、その間、長刀をかついだ僧兵たちがのし歩いた岩倉開元寺も南北朝時代足利軍の兵火にあい、そして天正3年(1575)織田軍の一撃にあい、全山焼土と化した事実をこの石の仏たちだけが知つている?
 神宮寺の村から、天平時代:開元寺跡、神宮寺縄文遺跡、石仏の道を訪ね、岩倉開元寺跡をしのびながら交野山(▲ 344m)へ通ずる道である。こんな素晴らしい道は他にはない。弥勒菩薩さんの対面からはじまり、小さな二尊仏、傷ついた阿弥陀如来立像、阿弥陀三尊など交野の代表石仏に出会える道はここから始まる。
1. 石造弥勒菩薩坐像


時代:鎌倉時代 全高:180cm
仏像総高:101cm 二重輪光式光背
 弥勒菩薩はお釈迦さまがなくなつてから56億7千万年後(現在は兜率天におられる)にこの世に現われ、釈迦にかわる仏となつて人々を救う「未来仏」(当来仏ともいいます)として信仰を集めてきました。首の三道は仏教では「見」・「修」・「無学」を言う。
石造二尊立像
時代:不明 総高:40cm
比丘形(向かつて右)仏高:12cm
阿弥陀(向かつて左)仏高:11.4cm
両仏とも膝から下位の部分は摩滅しています。
もともと、ここにおられたのか?それとも人の手によつて移坐されてきたのでしょうか?
いずれにせよ野の仏、長い年月風雪に耐え、何も言わずに佇んで見守って下さつている仏さま。
石造阿弥陀如来立像
時代:室町時代 像高:76cm
 舟形光背の阿弥陀さん、頭部右半分及び光背の上部が欠損しています。
像容は、首に三道を表し、衣は通肩にまとい、右手を胸前に挙げ、左手を下げた来迎印を結んでいます。
 この石仏の後は、鳩ケ谷と呼ばれているが
「墓ケ谷」がなまつたとも。そうするとこの阿弥陀さんは墓の入□に建てられたものかも知れない。岩倉開元寺の墓地の可能性はいかに?
磨崖三尊像
時代:室町時代 岩全高:3.4m
 花崗岩の巨石に高さ45cm下端幅56cmの半月形の繰り込みをつ<り、その中に三尊を半肉彫する。この仏はほとんどの人が見過ごしてい<。
 中尊は像高24cmの阿弥陀如来坐像、向かって右が像高24.5cmの勢至菩薩立像、向かつて左が
像高26.5cmの観音菩薩立像、中尊の左右側には「文明十一年(1479)銘が確認される。
石仏の外側に梵字「キリーク」が陰亥。
磨崖阿弥陀三尊像
時代:室町時代
 総高250cm、最大幅210cmの花崗岩の巨石に彫られており、巨石の上半分を大き<えぐつて平らな面を造り出し、阿弥陀三尊像を半肉彫りしている。中央の阿弥陀如来坐像は像高39.8cmは蓮華座に座し、定印を結ぶ。両脇には向かって右側に勢至菩薩立像、像高43cm合掌印を結ぶ。左側には観音菩薩立像、像高41.2cmを測る。「法界」の銘文は確認されず。
廃岩倉開元寺石仏群・石仏の道
交野市指定文化財 平成14年9月1日指定
言い伝えによると岩倉開元寺は神宮寺にあった開元寺を移したといわれている。
最近ではその開元寺の存在が疑われております。
しかし岩倉開元寺が存在したことは発掘調査の結果、その実在が確認されております。
この山道に石仏は五体祀られております。
石造弥勒菩薩坐像 鎌倉時代の作とされている
岩全高180p、像高101cm、花崗岩製


神宮寺の集落から交野山に向かう登山道は「石仏の道」と呼ばれ開元寺跡の石碑や縄文時代住居跡の石碑前を過ぎて、山手にさしかかる所に弥勒菩薩坐像が東向きに立っており、岩倉開元寺の境域を示す傍示石と考えられています。像は二重円光光背の内に薄肉彫りの坐像です。首に三道をあらわし衲衣を纏い右手は胸前に挙げて施無畏印を、左手は膝前に掌をふせて触地印をあらわし、蓮華座の上に座っています。顔の表情などにやや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆったりとしたすてがたい表情をしています。
二尊石仏 造られた時代は不明
総高40cm、阿弥陀立像11,4cm比丘形12,0cm

弥勒菩薩坐像石仏から更に登ると南に分かれる小道があり、その分岐点付近に西面して当石仏はあります。高さが40cm程の小さい石仏であるが向かって右側の像は比丘形(びくぎょう)向って左側は阿弥陀如来像とみられるが磨耗が激しいためその姿をよく知ることは出来ないが、比丘形像は両手を胸前に挙げて合掌印を結んでおり阿弥陀像は手を前にして定印を結んでいるよう。比丘とは托鉢する修行者や出家得度して修行した人をいう。


磨崖三尊像 室町時代の作・岩全高3.4m、石仏龕全高43cm

石造弥勒菩薩坐像からさらに山道を登ると川の懸崖石上方部に南面して半月形の繰り込みを造り、その中に三尊の石仏を半肉彫りしています。これは昔石仏の南側に参道があった為南面しているといわれている。中央の仏は衣を通肩にまとい、蓮華座の上に坐り、両手を膝前で組み弥陀の定印を結んだ阿弥陀如来と考えられます。両脇には合掌する比丘形の立像を彫りだしており、阿弥陀三尊とするにはやや無理があり三尊像と呼んでいる。中尊像向かって右側に「文明十一年己亥二月日」、左脇に「道満敬白」の刻銘があり、1479年の作と判ります。又石仏の外側の脇には阿弥陀如来の種字「キリーク」が刻まれています。

阿弥陀如来立像 室町時代の作・全高43cm

磨崖三尊仏の直ぐ北側に、阿弥陀如来立像があります。船形光背の内側に阿弥陀如来立像が肉彫りされていますが、頭部右半分及び光背の上部を欠損しています。像容は首に三道を表し、衣は通肩にまとい、右手を胸前に挙げ、左手を下げた来迎印を結んでいる。この石仏さんの後ろの斜面は「鳩が谷」と呼ばれ、以前にここから骨壷が出土したと伝えられており、岩倉開元寺の墓地であった可能性もあります。その為、この石仏も墓地に伴う供養のためのものとも考えられます。「鳩が谷」という名前も「墓が谷」がなまったものではないかとも思われます。
磨崖阿弥陀三尊像(室町時代の作)

参道をさらに登り、標高160mほどのところに岩倉開元寺の寺域への登り口があります。この登り口の手前に阿弥陀三尊磨崖石仏がおられます。高さ2.5mの巨岩に彫られており、真ん中に阿弥陀如来坐像、右側に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像が半肉彫にしています。中尊の阿弥陀如来坐像は蓮華座上に坐り、衣を偏祖右肩にまとい両手は膝前に組んで弥陀の定印をむすんでいます。膝の衣文の表現は省略されています。向かって右側に合掌して蓮華座に立つ勢至菩薩は簡単に頭髪部と眉目を表し、衣文の表現もほとんど省略し、蓮華座も腕状の輪郭のみ表現されています。左側の観音菩薩立像は両手の上に蓮台らしきものを持っています。像の表現は勢至菩薩と同じで簡略化されています。この石仏さんは西に面していることから、西方極楽浄土への往生を願って作られたのでしょう。
私部のお墓
帰りに、私部の共同墓地内の「ふうちゃんのお墓」にお参りしました。


No42(2009.11.14)     平田政信さんのよもやま話より   

Q:映画「つづり方兄妹」物語について 

A:戦後台湾から引き揚げて校区東香里に住む野上丹治・洋子・房雄兄妹の作文は、昭和26年から32年頃までの学校や周囲のできごとなど、のびのびと書いた作文で、新聞・雑誌などに当選、なかでも房雄が2年生のとき作った『ぼくらの学校』はモスクワ国際児童つづり方コンクール1等賞を得た。そうしてこれらの文集が理論社から昭和33年4月に刊行。すぐれた作品集だったので、話題が呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学した。
  

【ロケ見学の感想】
 野上家の墓地は私部共同墓地内にある。
ふうちゃんの野辺の送りのシーンでは先生役の津島恵子・香川京子さん、そしてふうちゃんの女友達の二木てるみさんを身近でみることが出来ました。

女優、津島・香川さんの美しさに小5だった私はその時、思った。お嫁さんにするならこのような美しい女優さんと、そして私の嫁は、この二人をたして2で割ったような人である。
(笑・笑・大笑い)
ちょいちょい「ふうちゃん」のお墓にお参りさせていただいております。





(製作会社)東宝スコープ  監督:久松静司  脚本:八住利雄
(配役)房雄:頭師孝雄 まち子先生:津島恵子       
    房雄の女友達:二木てるみ

    
   平田政信さんのよもやま話
    http://murata35.chicappa.jp/yomoyamaqa/index0907.html#42
続きは、次のホームページをご覧ください
  つづり方兄妹のお墓にお参りしました。
私部の共同墓地に立ち寄り、私部の官田に祀られていた中筋地蔵さんを確認。
中筋地蔵(石仏)を移設
私部の官田内に祀られていた中筋地蔵が宅地開発によって取り除かれようとしていたのを平成24年8月に本会の会員である綱分清美氏が発見し、副会長の平田政信氏に連絡。さっそく移設について地元の私部区長さんにお願いし、私部区の共同墓地内にある無縁墓に移設して祀られることになりました。お2人の努力によって文化財の散失が未然に防ぐことが出来ました。


 次回は、第154回歴史ウォーク、7月9日(土)、「淀川大洪水跡探訪」。
 集合は京阪交野市駅午前9時30分〜12時まで。ガイドは高尾秀司氏。 
  お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

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