12/9(日)、 無縁墓・清水谷古墳の清掃と
周辺の石仏、湧水(水源)を求めて歩く
交野古文化同好会
12/9、 朝早くから、会員の皆様(倉治地区)が次から次へと顔を出されて、手際よく古墳の清掃を済まされました。 会員の皆様、清水谷古墳(東倉治5丁目)の清掃作業、本当にお疲れ様でした。 お墓に綺麗なお花が供えられ、蝋燭とお線香を立てられ、静かにお参りされる姿に感動を覚えました。 短時間の内に本当に綺麗になりましたね。 きっと、ご先祖様もお喜びの事と思います。 会員の皆様が、毎年お盆と暮れに清水谷古墳の清掃作業を、ずっとこれまで自主的に続けてこられた。 平田さんが言われていたように、故奥野平次さんの交野古文化に対するご功績の高さを改めて感じる集いとなりました。 その後、かに川水源→鐘撞どん地蔵→なしがだに水源→水守地蔵と尋ねて、交野の人々が今まで大事に守られてきたものが、道路や宅地開発のためにまさに失われようとしている寂しさと、それを守って行こうとされる人々の情熱を直に感じる一日でした。 清水谷古墳、鐘撞堂池、地蔵、かに川水源MAPはこちら また、珍しい食べ物も教えて頂きました。 清掃後、会員の方が作られた「石かけ団子」を美味しく頂いた。 ※「石かけ団子」は小さく四角に切ったサツマイモを、ホットケーキミックスや小麦粉と混ぜて蒸かして作ったお菓子。「石垣団子」がなまったものか? ※お米を蒸して干したあと、カチカチになったものを鍋で炒ったものが、「ほっしん」。 「ほっしん」は現在のおかき・あられの前進。 |
平田さん、先日の無縁墓清掃にお誘い下さり、皆さんとの大変貴重な出会いを与えて頂きましてありがとうございました。 12/9(日曜日)は、本当に素晴らしい、さわやかな休日となりました。 休日とは、自ら進んで行動することですね。 その1:清水谷古墳の清掃 どうですか?自ら進んで活動されている姿。 その2:地元の人、先輩に教えられること。 これも自ら進んで参加した結果、得られるものです。 (平田さんよりメールを頂きました) |
清水谷古墳 覆屋が掛けられ 大事に保存されている 標高70Mの地点 |
清水谷古墳内部(玄室) 横穴式石室を備えている 基底部から天井石 上部まで1.97m |
清水谷古墳 左側基底部に箱式棺と 見られる石組みがあり 南側に羨道がある |
手を合わせて供養 古墳の周りと内部を清掃後 ろうそくとお線香が供えられた |
清水谷古墳の墓 綺麗にお花が供えられた きっと、ご先祖様も喜んで おられることでしょう |
かに川水源 交野山からの湧水 以前は地酒の源泉 として利用されていた |
鐘撞どん地蔵 いつも綺麗にお花が生けられ 道行く人がお辞儀をして 通り過ぎる |
鐘撞どん地蔵 鐘撞堂池に面して 交野山も見守っておられる 鐘撞堂があった |
松塚下池 関西電力枚方変電所の 直ぐ下にあり 下池、上池がある |
なしがたに水源 倉治7丁目、交野山が見える 扇状地からの湧水 |
水守地蔵 青山2丁目の田圃の畦道に 静かに見守っておられる 第2京阪道路予定地より 南へ150mばかり |
青山2丁目 第二京阪道路計画地 府道久御山線との交差地点 |
清水谷古墳 交野市東倉治5丁目にある横穴式石室を具えた古墳である。 東倉治の大阪府警察学校の南、北両脇の道が山裾で交差する、その交差点の東に位置している。標高70m、西への眺望が開け東に交野山系がある。 この清水谷古墳は、昭和42年3月末、当時この土地の所有者であった中野氏が蜜柑の苗木を植えようとして地面を50cmほど掘り下げた際、横穴式石室の天井石が偶然見つかり、存在が確認された古墳である。 墳丘は9m、墳径は12m前後。主体部は、南北にやや長い楕円形の墳丘の中央に、南に開口する横穴式石室が設けられている。現在、横穴式石室の上は、覆屋が造られ石室を保護している。この横穴式石室は、「無袖式の横穴式石室」である。 この山麓地方は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が南から北へと続いて、はたやま(交野市寺)、はたもの(交野市倉治現在の倉治より山寄り)、はただ(枚方市津田、当時の集落は清水谷の口)の3機織業集落が、それぞれ山麓扇状地の上に繁栄していた。そして、夫々その集落の附近に横穴式古墳群を築造している。 それは、はたやま集落では竜王山古墳群、はたもの集落では関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群である。はただ集落では清水谷古墳が発見されたのみであるが、附近にも古墳らしきものがあるようで、はただ古墳群中の一部と思われる。 また山麓3集落とも、7世紀の築造と推察されている。 |
《ふるさと交野の野仏との出会い》 鐘撞堂池(かねつきどんいけ)(東倉治2丁目3) 関西電力枚方変電所の下に松塚上池、下池があり、その下の池である。面積は約20アール。標高は50m。第2京阪国道予定地の側にある。 この池の堤防に鎮座する阿弥陀様を「鐘撞どん地蔵」という。 この堤防の下に昔、小さなお堂(鐘撞堂)があって鐘が吊るしてあった。 鐘は下の田んぼが、日照りで水がなくなったとき、池の水をださなければならない。そんなとき、この鐘をついて池の水を出すことを村人に知らせたのである。 村の人は鐘が鳴ると自分の田の水口を開いて水が入るようにして待ったのであろう。 その鐘撞堂があった事から、鐘撞堂池と名がついた。 「水守(みずまもり)地蔵」 青山2丁目、第2京阪国道予定地より約150m南の畦に鎮座されている。 「二十数年前に撮った、一枚の写真をたよりに在ることを信じていた。(事実あきらめかけていた所) 前々回のサタディーウォーク(第2京阪国道予定地を往く)の際、現地付近で写真をみてもらった。 参加者の村田様からあの畦のあたりじゃないですかとおっしゃった。そのときはそのまま次の地へ足を運んだ。 何か心に残るものがあったので、古墳清掃の帰り道、寄って見ようということになり、現地へ、 在った!おられた!二十数年振りの再会となった。 何か心を動かすものがあったのでしょう。」 (平田さんのお話) 《二つの水源(湧水)》 倉治地区 交野山の山麓、扇状地による湧水。 1.かに川水源(東倉治4丁目) 以前は地酒の水源として利用されていた。 2.なしがだに水源(倉治7丁目) 倉治の村へ引かれ、飲み水などに利用されている。 ※「無ヶ谷」と書くのか?地名ではこのあたりを「東浦」という。 源氏橋を渡った右側(北)がかなり落ち込んでいて、その落ち込が桜道から津田方面まで続く。V字になった落ち込みを谷と言うのであって、地形的に見て落ち込みだけなので、ついた名前ではないか? |