[ホームページ] へ戻る    交野歴史健康ウォーク  2009.5.9 第95回
=交野古道を歩く=

山根街道
郡津から村野を経て東高野街道へ

  行程;JR津田駅→籠池→機物神社→教育文化会館→堂の前の道標→
長福寺→市場橋→光通寺→想善寺→無量光寺→札の辻橋→北田家住宅→
砂子橋→逢合橋→上ん山の辻→本尊掛松  12時15分頃頃
                             徒歩 約 5Km

山根街道と東高野街道
昔、京都から高野山や大峰山へと向かうのに利用したという山根街道を歩きました。
この道は八幡の洞ヶ峠から東高野街道と分かれ、峠地区より家具団地、長尾、藤坂、
津田、倉治を通り、私部から「上ん山の辻」で東高野街道と合流します。




2009.5.9(土)午前9時、JR津田駅に集合。天候、晴れ。
いつもの元気なメンバー総勢17名の参加で、「津田」から「上ん山の辻」まで、山根街道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。
 出発地点のJR津田駅前で中会長の挨拶の後、当日の案内役の中角さんと高尾さんより、山根街道の概略とウォークの道程など簡単に説明を受けて、久御山線をゆっくりと南へ進み、先ずは籠池跡地に到着。以前は焼肉店フェストで現在、関西スーパーが建築中のため工事現場の器具に囲まれて見えにくくなっている石碑「石つき唄」の前で、唄の由来や元籠池だった時の写真などと今の様子を見比べながら次から次へと話が弾んだ。すぐ南のがらと川に架かる橋は庚申橋といい、この付近に立っていたという道標のこと、延命長寿にご利益があるといわれる庚申信仰のこと、この辺りに庚申塚があったのだろうか今は何も分からない。

 機物神社から山根街道を西へ、豪壮な門構えの邸宅や古い松の木などに昔の面影がうかがえる細い街道を歩き、交野市歴史民俗資料館を訪ねた。庭に保管されている沢山の石仏や道標などの中から、文字を読み合わせして庚申橋付近に立っていたと言われる道標を確認しました。
 堂の前の道標「すぐひらかた」「すぐたき」「右京八はた道」を過ぎて、本来の山根街道から外れて大仏坂を下り南町の小さな長福寺を訪ねた。長年、近所に住んでいたが、長福寺は初めて知ったと言われる方など、参加者の大半が初めての訪問に満足気であった。ふたたび山根街道へと出て、行殿橋の南に今も残る大きく迂回するクネクネ道を南に私部への入口、市場橋に着く。

 私部の三大寺、光通寺、想善寺、無量光寺にお参りした後、札の辻橋、北田家住宅を通って今も所々に風情が感じられる静かな住宅街の山根街道を西に進み、砂子坂、逢合橋を渡り、東高野街道との交点に当たる上ん山の辻に到着。最後に本尊掛松を見学後、12時過ぎ自由解散。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の中角さん、高尾さん有難う御座いました。

次回は、6月13日(土)、京阪河内森駅から磐船街道を通って168号線のお旅所まで歩きます。
 集合は、午前9時、京阪・河内森駅前。


出発地点のJR津田駅前で中会長の挨拶
当日の歴史ウォーク行程MAP


警察学校前交差点の東南に籠池跡がある
 津田駅から南に下がり、府道久御山線の左手にあり、以前は焼肉店フェストで現在、関西スーパーが建築中であるが、ここに大きな「籠池(かご池)」があった。
 近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のように水が漏れたためにこの名がついたという。そして直ぐ西の外池に流れ込んでいた。
 久御山線沿いにかご池跡石碑があり、「石つき唄」が彫られている。
 「わしの若いときゃ 津田までかよた 
    倉治かご池で夜が明けた
   おもしろや おもしろひょうたんや 
       おおあげおおあげ」

 この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌であったそうだ。
 

昭和50年頃の写真、籠池と久御山線で土手の向こうに黄金屋の看板が見える

黄金屋さん


倉治桜堤の交差点のすぐ南に庚申橋がある

1973年3月 庚申橋
がらと川に架かる橋は庚申橋といい、この付近にあったという道標のこと、
延命長寿にご利益があるといわれる庚申信仰、
この辺りに庚申塚があったのだろうか今は何も分からない。

庚申塚(こうしん塚)
かたの広報 「倉治のせきぶつ」より参照
 善通寺、光明院、長福寺だけで、100体以上の石仏さんがあります。これらは、元は庚申塚や牛の宮というところにあったと「善通寺由緒沿革」に記されています。
 牛の宮の場所は定かではありませんが、がらと川にかかる「庚申橋」という橋があり、その南側の坂を「庚申坂」と呼んでいます。この辺りに庚申塚があったのでしょう。
 余談ですが、歴史民俗資料展示室がある教育文化会館には「かうしん」と刻まれた石碑が保存されています。庚申塚にあったものと思われますが、元々どこに立っていたのか分かりません。もし、ご存じの方がいらっしゃれば、ご一報ください。

かうしんの石碑と中角さん

庚申橋
 この後、交野市歴史民俗資料館を訪ね、庭に保管されている沢山の石仏や道標などの中から、彫られている文字を読み合わせして庚申橋付近にあったと言われる上の道標を確認しました。この道標は、道路改修前は道の西側に傾いて立っていたが、改修後東側に移された。その後再度の改修時に掘り起こされて交野市歴史民俗資料館の庭に保管されたもの。

七夕祭り 機物神社
機物神社は、毎年、7/6、7は七夕祭りで10,000人を超す人出で賑わっている。例年、その賑わいは盛んになるようだ。鳥居の前に、八の字の形をした珍しい灯篭があるのを教えてもらった。延享年間と読めたが、250年前に立てられたものらしい。境内には、ほかにも沢山の自然石の珍しい灯篭や石造物があり、興味は尽きない。
 昔の人々は、機物神社の鳥居が現在の倉治小学校の場所に建っており、南から本殿に向かって拝んでいたそうだ。本殿の西側にある「多羅葉」の木の葉には、七夕の頃に書かれた願い事であろう「家内平和」「健康に」という文字が鮮やかに残っている。
 冬至の日に、機物神社の境内から交野山に重ね合わせて日の出が見られる。 気象条件さえ揃えば、冬至前後の数日間は、交野山の山頂に日輪が光り輝き、交野山が浮かび上がるように素晴らしい日の出が拝めるといわれる。
2007年7月7日  全国七夕サミット開催記念の碑


棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰か取り見む
たなばたの いほはたたてて おるぬのの あきさりころも たれかとりみむ
萬葉集 巻10 2034  作者不詳
(訳)織女星が沢山の機(はた)を建てて、織る布の秋の着物は誰が
手に取って着るのであろうか (沢潟 久考氏)




機物神社の中軸線に交野山の巨石を仰ぎ見ることができるのか?
A:以前は見ることが出来た。今は参道の両脇の木が生い茂り見えなくなった。

もともとは社殿もなく、交野山を御神体とする拝殿だけの神社であったのでしょう。
また、鳥居の延長線上、源氏の滝入口の東裾に「糸吉神社」がある。
今は拝殿だけでお稲荷さんがまつられているが、由来はほとんど分からない。
しかし、糸吉というからには「七夕姫」と関係があるのでは。機物神社と関係が・・・?
(平田政信さんのよもやまQ&Aより)


機物神社で記念撮影



機物神社から山根街道を西へ、豪壮な門構えの邸宅や古い松の木などに
昔の面影がうかがえる細い街道を歩き、交野市歴史民俗資料館を訪ねた。

交野市立歴史民俗資料室
国の登録有形文化財の交野市立教育文化会館
交野市立歴史民俗資料展示室(交野市立教育文化会館)
所在地 交野市倉治6丁目9番21号 電話(072)810−6667
交通機関 JR学研都市線「津田駅」下車 徒歩10分
京阪バス京阪交野市駅行き、 南倉治下車1分、又は香里園行き大仏町下車徒歩5分
開室日時 毎月水曜日〜日曜日 10時〜17時。ただし入室は16時30分まで。

       
  教育文化会館・・・交野無尽(近畿大阪銀行の前身)の昭和初期の建物

           昭和4年(1929)に建てられる
        昭和17年 交野町へ庁舎として寄贈される
        昭和45年(1970) 庁舎移動に伴い、交野市立教育文化会館
                   と改名し文化的な活動施設として利用される
        昭和16年(2004) 交野市歴史民俗資料展示室を開設する
        昭和19年(2007) 国・登録有形文化財に登録される


 交野無尽の沿革  
交野無盡創設者・金澤泰治さんの像
  金澤泰治・加地高貞・新庄武治郎・奥西源五郎と共に交野金融合資会社を大正三年八月に金沢泰治氏(当時27歳)の邸内に創立。同十二年一月株式組織に改め交野無盡金融株式会社と称し、金澤氏が取締役社長に推され、昭和十五年三月大阪産業無盡を合併し又府下枢要の地に八支店を設置し、一意庶民金融の使命達成に邁進す。
 創業以来、総契約高実に1億6千2百余萬円に社礎愈々強固内容益々充実今や全国無盡業界屈指の地位を占むるに至る。蓋し社長が30年に亘り終始一貫天賦の才略と不屈の信念とを以って日夜経営し而も徹底せる大家族主義に依り明朗、親和、渾然一体の活動を為せしに因る。
  今や時局下社長自ら率先府下優良四社と謀りて合併を敢行し光栄ある当社は茲に発展的解散を遂ぐ、乃ち、社長の発意に依り昭和17年11月3日、明治の佳節とし本店土地建物全部を其の発祥の地交野町に、金品を各種公共団体に寄付す、願う所は地方自治の向上と発展と銃後・士気の鼓舞に在り以て天業翼賛の微衷を表するのみ。解散に当り其沿革を略記す。  (南の端の碑文より)

                                創業者・金沢泰治氏の銅像 ↑

堂の前付近(山根街道)
 中角さんより由来の説明を受ける
《大仏坂・どうの前》
 倉治の教育文化会館前の道を南にとるとすぐ四辻に出る。下を倉治中川が流れている。この角を「どう前」と呼んでいる。ここを過ぎて、なお南へ行くと信号のついた四辻に出る。ここに京阪バスの「大仏町」のバス停がある。この交差点を南へ渡るとだらだらと下り坂になっている。この下り坂を「大仏坂」と呼んでいる。
 この地は、奈良の大仏建立に関わる歴史を伝えているのではないかと、故奥野平次氏は「ふるさと交野を歩く・ひろい話」の中で次のように書かれている。
 大仏様の大体の形が出来て、鋳型に銅を流し込もうとしたが、どうも上手くいかない。東大寺では困って、宇佐八幡宮の付近にいる技術者(渡来人)に来てもらった。その技術者のターミナルとなった所が、枚方市、中宮の百済寺と、私市の獅子窟寺である。
 どちらからも、交野市の傍示に上り、生駒市の傍示に通じる「大仏の道」を通って、東大寺に急いだのでした。奈良で大仏の仕事を終えた技術者がここの地区で鋳型に銅を流し込んだ仏様を作ったのでは、または、その技術者が住み着いたので大仏の地名がついたのではないかと。 



堂の前の道標「すぐひらかた」「すぐたき」「右京八はた道」を過ぎて、
本来の山根街道から外れて大仏坂を下り南町の小さな長福寺を訪ねた。



大仏坂を下る

長福寺の石仏
南町の長福寺には、昔、お堂の北側に藁屋があってそこが産所であった。
江戸時代の終わりまで、京都から偉い方がお越しになってお産をされた所だそうだ。



高尾さんより、長福寺の詳しい説明を受ける
光明院の末寺で融通念仏宗である。本尊は阿弥陀如来であったが、
現在は紙製で彩色されている地蔵菩薩像、ヒノキの寄木造りの地蔵菩薩像、
掌善、掌悪童子像、33観音が安置されている。


光明院と関係の深かった長福寺というお寺が、倉治2丁目にあります。
現在このお寺には住職がおらず、倉治の南町集会所が併設されています。
 ここには、阿弥陀如来石仏12体、地蔵菩薩4体、二尊仏2体が集められています。
毎月23日には欠かさずお祭りがあり、特に8月の地蔵盆は盛大です。


長福寺の石仏

ふたたび山根街道へと出て、行殿橋の南に今も残る
迂回したクネクネ道を南に私部への入口、市場橋に着く。
百々川に架かる市場橋

市場橋付近の様子
私部の三大寺、光通寺、想善寺、無量光寺にお参り
 私部の三大寺、光通寺、想善寺、無量光寺にお参りした後、札の辻橋、北田家住宅を訪ねた。
  私部では、想善寺、光通寺、無量光寺がかたまっている。
光通寺の石垣は最近整備されたが、山門への上がり口と庫裏への上がり口との間の石垣の中央に、2つの石仏がおられる。これが「石垣地蔵」である。東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。いずれも見つかりにくいが、朝方の太陽を受ける頃西側から眺めると、投影が素晴らしいと言う。

 光通寺から想善寺、無量光寺と訪ねた後、静かな佇まいを歩くと、自然と心が静まる。遠見遮断(とおみしゃだん)と言われる町角を通り、札場の辻(札場橋)から北田家住宅へと歩く。
光通寺 
臨済宗、室町時代初めの創建

光通寺の石垣地蔵
東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。


光通寺 本堂 
開祖は後村上天皇に法話をされた別峰和尚である。
室町時代の終わりから戦国時代にかけて
朝廷にお茶を献上するなど極めて力のある寺であった。


本堂の東側に、「こばか地蔵」が沢山祀られている
昭和4年、信貴生駒電鉄(今の京阪電鉄交野線)の工事中、交野駅の南踏切付近、
「こばか」から出土したものが主に集められている。
想善寺
 西山浄土宗、京都長岡市栗生 光明寺末
天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て
念仏生活をしたのが始まり、後に想善寺と称した。
無量光寺 浄土真宗本願寺派
本尊の阿弥陀佛は室町時代の木造立像で高さ三尺(約90cm)、
本堂前には巨大な銀杏の木が立っている。
無量光寺の指定樹木

ボダイジュ

カイヅカ

イチョウの木(高さ 25m)
交野郷土史かるた

       軍 
      人 書 
      の 読 
    無 集 み 
    量 ま    
    光 る    
    寺 
軍書読みとは保元(ほうげん)物語や平家物語等を琵琶法師がふしをつけてきかせるものです。
19世紀のはじめ頃、私部の無量光寺の軍書読みは有名で、多くの人々が集まったといいます。
当寺の最初はいつかはっきりしません。よほど古い歴史をもつ天台宗の尼寺でありました。現在は浄土宗の寺になっています。

        別 
        峯 
        ∧ 
      ひ べ 
   光 ら っ 
   通 く ぽ 
   寺   う 
         ∨ 
私部の光通寺は正平の頃に赤松則村が建てましたが、応永9年(1402)僧別峯(こくっさん)が寺に入り、開山となりました。後に足利将軍から寺領をもらい、朝廷の祈祷所となり、毎年境内にできたお茶を朝廷に献上したといわれています。
 ☆札辻(ふだのつじ)
   城の南側に当たる。
 想善寺、光通寺、無量光寺と私部のすべてのお寺が集まっている地域である。
 東の市場からの道、西の出屋敷からの道が合流して代官屋敷のある北田家の方へ抜ける道もここに来る。
 三つの寺に集まる人々や市場の方に買い物に集まる人々と村人が一点に集まるのであるから、高札場としてうってつけである。
       
 ☆市場(いちば)
  無量光寺に集まる人々に対する門前町としての性格を持ち、また他村からの買い物客を吸収する商業的色彩も色濃く持っていたようである。札辻や市場においては防御的性格を持ったT字路や遠見遮断の道もあって城下町としての性格も持ち合わせている。

北田家住宅



重要文化財 北田家住宅  (江戸時代)
 昭和54年指定  交野市私部1丁目25−5

   
 地元では代官屋敷と呼ばれているこの住宅は、宝永から享保年間(1708〜1734)にかけて主屋が建てられている。建てられた当初は茅葺き屋根であったが、寛政8・9年(1796・7)に本瓦葺きに葺き替えられ、昭和59年からの保存修理工事で茅葺形銅板葺となった。
 間取りの最大の特色は上手の前面に突出した角屋をもつことで、その遺例は最古である。
 中でも立派な長屋門は、天保14年(1843)に建てられたもので、長さ55.9mもあり民家では日本一の長さである。
 そのほか、乾蔵(1722に建築)、北蔵(1785に建築)があり、北側と西側は土塀で囲われている。北方土塀が裏門を除いて59m、屋敷西方の土塀が33mあり合計92mである。
一般公開日が春と秋の2季制に変わりました!
 「広報かたの」などでお知らせします。
 見学は事前に予約が必要です。先着30名
 下記の文化財事業団に申し込み下さい。
  交野市文化財事業団    TEL 072−893−8111    

北田家住宅長屋門

北田家 門長屋 大きな構えは 代官屋敷) (交野カルタ)

私部(きさべ)1丁目に(交野市役所より南に5分) 江戸時代の代官屋敷といわれる北田家がある。
約4000平方メートルの広い敷地に、長さ56メートルの白壁作りで大きな構えの門長屋が続くおもむきは豪壮である。

母屋の玄関が上手に突き出た形式は全国にも数少なく、約300年前の貴重な建物として国指定重要文化財になっている。
北田家所蔵の系譜をたどると、南北朝時代の南朝方に仕えていた武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)につながり、 南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の白を除き、「北田」と称したといわれる。

その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見氏の重臣となるが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢により攻められ遂に開城となった。この時なお残って最後まで奮戦し、下仕9人と共に壮烈な戦死を遂げたのが北田好忠であった。

 その後、20年程経って、京都の叔父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り現在の所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが現在の北田家の最初で、そのため好孝が中祖の第1世とされている。

関ケ原の戦いの後、徳川家康が天下を統一し、幕藩体制をしいたのに伴い、元和5年(1619)、畠山の子孫・旗本畠山修理太夫が、私部の3分の2を所領するに及んで、北田家は、この地の庄屋を勤めることになる。そして18世紀前半、第6世佳隆の代には代官職を担うようになった。

代官職就任の時期と主屋建築年代が相前後することとなり、なんらかの関連を想像させる。以後第10世好剛の代まで続くが、元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。
                       (重要文化財・北田家住宅説明文書を参照)

  
 北田家住宅を通って今も所々に風情が感じられる静かな住宅街の山根街道を西に進み、砂子坂、逢合橋を渡り、東高野街道との交点に当たる上ん山の辻に到着。本尊掛松を見学後、12時過ぎ自由解散。

北田家住宅の塀と車除けの石


丁度我々が通りかかったところ、車除けの石に座って山根街道沿いの風景を
写生されている方に出会った。声をかけると、気安くどうぞ見てください。
東京から来ていますとのことで、地元の画家・岸本さんのこともご存じの様でした。


凄い!なんという姿でしょうか!樹木はカイヅカ?

こんな姿に出会えるのも、歴史ウォークの楽しみです。
砂子坂(スダコ坂)
逢合橋
(あいあいばし〉
 スタコ坂から西へ行くと天野川に架かる橘がある。この橋が「逢合橋」である。この橋にまつわる伝説は「伝説之河内」に詳しい。毎年7月7日の七夕に逢う織姫と牽牛〈けんぎゅう)との天の川の逢瀬となる話である。
 倉治の機物(はたもの)神社の御祭神が織姫に当たる天棚織比売大神(あめのたなばたひめのおおかみ)であり、牽牛は枚方市茄子作にある中山観音であるという。茄子作の中山観音と倉治の機物神社との中間を流れる川が天野川であり、そこに架かる橋でもって年に一度の逢瀬を楽しんだということで「逢合橋」の名が生まれた。

スダコ坂(砂子坂)
 
私部の西、いずみや交野店の西、天野川の堤防の交差点に「スタコ坂」の標識が揚がっている。
 この位置は私部西ノ口から出てきた道(交野市青年の家、武道館の北側の道)が天野川の堤防(前川の堤防)に上がった所になる。そして、この道は逢合橋を通って、上ノ山で東高野街道と交わる。スダコ坂
 「スタコ」の意味であるが、一つには、前川が天野川に合流する地点であるので、昔は、はん濫もあったであろうし、また、土砂のたい積も甚だしかったであろう。とすると、洲(す)が発達する。いわゆる中州である。この中州が大きくなって冠水する心配もなくなると村人はこの洲の開墾を始める。初めは畑、後には田んぼということになるが、砂地であるため水もちが悪い。いわゆる洲田(すだ)である。陸稲(おかぼ)であれば良かったかもしれない「スタコ」の「コ」は接尾語と思われる。例えば「銭(ぜに)」を「ぜにこ」とかいう言い方がある。これと同じである。その洲田のある高台へ上る坂という意味である。
 二つ目は、「洲坂(すさか)」である。中州に上る坂道という意味でこれも的を得ていると考えられる。(現在、交通の要衝「スタコ坂」)
 三つ目は、「守(す)」、防御の意味である。西ノロの出入口に当たる。西の防御の必要から東高野街道からの出入りの守りとして天野川や前川があることは好都合であった。その位置か中州であったので「守田(すだ)」となったというのである。
 いずれにしろ、前川と天野川の合流点に発達した中州が開墾され、その中州への連絡道路に対する坂道であったということである。


交南高等小学校跡
砂子坂を西へ、天野川に架かる逢合橋を渡らずに、川沿いの土手の道を200m北へ
明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建てられた。

明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建てられた。
 (星田、寝屋、打上、灯油、茄子作、山ノ上、村野、倉治、私部、森の10校を廃して、交南小学校を本校とし、第一分校星田、第二分校森、第三分校倉治、第四分校山ノ上、第五分校灯油、第一分教場を村野に設ける。)

 明治25年(1892)交野、磐船、星田、川越、水本、5ケ村組合で交南高等小学校創設。
 明治28年(1895)交野、磐船両村組合尋常小学校できる。
 昭和22年(1947)3月 教育基本法、学校教育法によって、六・三制義務教育となり、交野小学校、星田小学校、交野中学校できる。

天野川と逢合橋

上ん山の辻へ
逢合橋を渡り、逢合橋西交差点を南へいよいよ最後の行程
枚方富田林線(20号線)を渡り、上ん山の辻へ


この山根街道は、道路工事のため今後は通行できなくなる、左へ曲がれば上ん山の辻

大正天皇の「閲武駐蹕記念碑」

上ん山の辻
本尊掛松
上ん山の辻より、東高野街道沿いに南に300m下がった所に
最近、第二京阪国道の発掘調査に伴って発見された上の山遺跡があります。
上の山遺跡の発掘調査
 (枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目所在)

 上の山遺跡(交野市私部西5丁目地先・枚方市茄子作南町地先)の発掘調査は、第二京阪道路(大阪北道路)の建設に伴い、国土交通省・日本道路公団の委託を受け、大阪府教育委員会の指導のもと、平成15年度から行っています。
 本遺跡は、天野川の西側にあたり、枚方丘陵から天野川に沿ってほぼ南北方向に細長く伸びる中位段丘(東西幅約100m)と、東西両側の谷に立地しており、これまでの調査で、旧石器時代から中世までの遺構や遺物が見つかっています。
                                
 今回の調査では、弥生時代中期前半(今から約2,200年前)の独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)をもつ大型掘立柱建物を1棟検出しました。建物は、遺跡が立地する段丘の最頂部(標高29.2m)にあたり、見晴らしがよく、周囲を一望できる高所に建てられています。



 建物の規模は、1間(4.45〜4.60m)×5間(8.60m)です。建物の柱穴(柱を立てるために掘られた穴)は、楕円形もしくは隅丸長方形で、建物の外側から内側に向かって斜めに掘られており、柱を滑り込ませて立てたものと考えられます。側柱(がわばしら)の柱穴の深さは約0.3mですが、棟持柱の柱穴の深さは約0.9mもあります。
 独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物が、一般的な掘立柱建物や大型掘立柱建物と違う点は、建物の妻部(つまぶ)から離れた位置にある棟持柱で、大きく張り出した屋根を支えることです。このような建物構造や当時一般的には竪穴住居に住んでいたことなどから、独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、特殊な建物として、「祭殿」「集会所」などであったとする意見もあります。
  上の山遺跡の大型掘立柱建物は、ながめのよい場所に立地すること、独立棟持柱が建物の妻部から大きく離れた位置にあり、柱穴が大きくて深いことなどから、かなり高くて、立派な屋根構造を持つ、シンボリックな建物であったと考えられます。

 参考:上の山遺跡現地公開資料  財団法人 大阪府文化財センター

    上の山遺跡現地説明会風景
2005.3.2 朝日新聞朝刊記事参照
朝日新聞記事
 神殿か 大型建物跡発見

 大阪上の山遺跡「池上曽根」に類似

大阪府交野市と枚方市の市境に広がる上の山遺跡で、弥生時代中期前半(紀元前2世紀初め)の大型建物跡が見つかった。大阪府文化財センターが1日、発表した。同府の池上曽根遺跡で見つかり、復元された「神殿」とされる建物より小さいが構造はそっくりで、同様の大型建物では最古級になるという。
 建物跡は標高約29mの丘の上にあった。長さ約8.6m、幅約4.5mで、両端に大きく張り出した屋根を支える為の「独立棟持柱」の跡が見つかった。独立棟持柱のある大型建物は、集落の中心地で一般の住居とは離れて見つかることから、神殿や首長の居宅などの特別な建物とみられる。
 近畿地方で多く発見され、最も古いのは唐古・鍵遺跡(奈良県)の弥生中期初めのもの。上の山遺跡の建物はそれと同時か、少し遅れて建てられたらしい。床面積は池上曽根遺跡の「神殿」
(紀元前1世紀中頃)の約3分の1だが、形や構造はよく似ていた。
同センターは「集落が統合されて『クニ』が生れる過程で、集落の中心のシンボル的な建物も大型化していった。池上曽根遺跡との比較で、その変化がうかがえる貴重な発見」としている。

上の山遺跡とその周辺地図
上の山遺跡4区前景(西から)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(北から撮影)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(南から撮影)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、特殊な建物として、「祭殿」「集会所」などであった?
 山根街道を西に進み、砂子坂、逢合橋を渡り、東高野街道との交点に当たる上ん山の辻に到着。本尊掛松を見学後、12時過ぎ自由解散。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の中角さん、高尾さん有難う御座いました。

次回は、6月13日(土)、京阪河内森駅から磐船街道を通って168号線のお旅所まで歩きます。
 集合は、午前9時、京阪・河内森駅前。
最後までご覧いただき有難うございました!

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