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交野歴史健康ウォーク  2008.6.14 第88回
=交野古道を歩く=


郡津から村野を経て東高野街道へ

  行程; 交野歴史民俗資料館→山根街道→二平の洗濯場→機物神社→倉治公園→
旧交野中学校→プール跡→神宮寺の塞の神→宮ノ下の阿弥陀さん→天平時代開元寺跡→
塞の神(私部への出入り口)→倉治・寺共同墓地→京の山の石仏→かさま池→山添家→
正行寺→灯篭の辻→大畑古墳→須弥寺→城戸→蛙石→京阪河内森駅(解散) 12時頃
                             徒歩 約 5Km

当日の歴史ウォーク行程MAP


 2008.6.14(土)午前9時、倉治の交野市立歴史民俗資料室に集合。天候、晴れ。
いつもの元気なメンバー総勢16名の参加で、倉治から京阪電車・河内森駅まで、山の根の道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。

 集合地点の交野市立歴史民俗資料室のある、交野市立教育文化会館は、昨年(2007年)12月に国の登録有形文化財に登録されました。会館前で、本日の案内役の中角さんと村田の二人で挨拶のあと早速、資料館を出発。
 私部から続く山根街道を堂前から機物神社へと進み、倉治公園グランドの旧交野中学校・プールを見学後、山の根の道を神宮寺へと下り、賽の神・宮ノ下の阿弥陀さんにお参りした後、倉治の共同墓地を通り、尾上から創価学園に出る。京の山の石仏、かさま池から寺の山添家・正行寺から森神宮路線へ出て、須弥寺、森へと進み、蛙石を見学後、城戸付近で自由解散の後、丁度午前12時頃京阪河内森駅にて解散しました。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の中角さん有難う御座いました。

次回は、7月12日(土)、山の根の道を河内森駅から妙見口まで歩きます。
 集合は、午前9時、京阪・河内森駅前。

交野市立歴史民俗資料室


国の登録有形文化財の交野市立教育文化会館
(歴史民俗資料室)前で記念写真

交野市立歴史民俗資料展示室(交野市立教育文化会館)
所在地 交野市倉治6丁目9番21号 電話(072)810−6667
交通機関 JR学研都市線「津田駅」下車 徒歩10分
京阪バス京阪交野市駅行き、 南倉治下車1分、又は香里園行き大仏町下車徒歩5分
開室日時 毎月水曜日〜日曜日 10時〜17時。ただし入室は16時30分まで。

       
       教育文化会館・・・交野無尽(近畿大阪銀行の前身)の昭和初期の建物

                       昭和4年(1929)に建てられる
                   昭和17年 交野町へ庁舎として寄贈される
                   昭和45年(1970) 庁舎移動に伴い、交野市立教育文化会館と改名し
                          文化的な活動施設として利用される
                   平成16年(2004) 交野市歴史民俗資料展示室を開設する
                   平成19年(2007) 国・登録有形文化財に登録される

 交野無尽の沿革  
交野無盡創設者・金澤泰治さんの像
  金澤泰治・加地高貞・新庄武治郎・奥西源五郎と共に交野金融合資会社を大正三年八月に金沢泰治氏(当時27歳)の邸内に創立。同十二年一月株式組織に改め交野無盡金融株式会社と称し、金澤氏が取締役社長に推され、昭和十五年三月大阪産業無盡を合併し又府下枢要の地に八支店を設置し、一意庶民金融の使命達成に邁進す。
 創業以来、総契約高実に1億6千2百余萬円に社礎愈々強固内容益々充実今や全国無盡業界屈指の地位を占むるに至る。蓋し社長が30年に亘り終始一貫天賦の才略と不屈の信念とを以って日夜経営し而も徹底せる大家族主義に依り明朗、親和、渾然一体の活動を為せしに因る。
今や時局下社長自ら率先府下優良四社と謀りて合併を敢行し光栄ある当社は茲に発展的解散を遂ぐ、乃ち、社長の発意に依り昭和17年11月3日、明治の佳節とし本店土地建物全部を其の発祥の地交野町に、金品を各種公共団体に寄付す、願う所は地方自治の向上と発展と銃後・士気の鼓舞に在り以て天業翼賛の微衷を表するのみ。解散に当り其沿革を略記す。  (南の端の碑文より)

                  創業者・金沢泰治氏の銅像 ⇒

堂の前付近(山根街道)
 中角さんより由来の説明を受ける
《大仏坂・どうの前》
 倉治の教育文化会館前の道を南にとるとすぐ四辻に出る。下を倉治中川が流れている。この角を「どう前」と呼んでいる。ここを過ぎて、なお南へ行くと信号のついた四辻に出る。ここに京阪バスの「大仏町」のバス停がある。この交差点を南へ渡るとだらだらと下り坂になっている。この下り坂を「大仏坂」と呼んでいる。
 この地は、奈良の大仏建立に関わる歴史を伝えているのではないかと、故奥野平次氏は「ふるさと交野を歩く・ひろい話」の中で次のように書かれている。
 大仏様の大体の形が出来て、鋳型に銅を流し込もうとしたが、どうも上手くいかない。東大寺では困って、宇佐八幡宮の付近にいる技術者(渡来人)に来てもらった。その技術者のターミナルとなった所が、枚方市、中宮の百済寺と、私市の獅子窟寺である。
 どちらからも、交野市の傍示に上り、生駒市の傍示に通じる「大仏の道」を通って、東大寺に急いだのでした。奈良で大仏の仕事を終えた技術者がここの地区で鋳型に銅を流し込んだ仏様を作ったのでは、または、その技術者が住み着いたので大仏の地名がついたのではないかと。 
《二平川の洗場》
 機物神社へと続く山根街道を東に進み、信号より50m手前の道を左へ、北へしばらく歩くと小川が流れていて石橋があり、その東側に「二平川の洗場」がある。この洗場の西側にある家の屋号が「二平」といい、流れる小川が二平川という。
 この洗場は、村の人々の語らいの場であり、コミュニケーションの場であった。家で親夫婦、年寄りが昼寝をしている間にそっと洗濯にくるのが二平川の洗場だった。
七夕祭り 機物神社
7月6日〜7日は七夕祭り
七夕の笹飾りや夜店が出て、沢山の子供たちで賑わいます。
年に一度の七夕伝説の夢を馳せましょう。

境内一杯の笹飾り 機物神社の本殿前
2007年7月7日  全国七夕サミット開催記念の碑
寺田政信さんより、記念碑が建てられた経緯について説明戴きました!


棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰か取り見む
たなばたの いほはたたてて おるぬのの あきさりころも たれかとりみむ
萬葉集 巻10 2034  作者不詳


機物神社本殿前で記念撮影 (撮影:綱分清美さん)
第二京阪国道工事現場  JR踏切付近
JR学研都市線・倉治橋から私部方面
JRを跨ぐ橋脚工事も順調に進んでいる
その手前の橋脚道路は工事用の車の高架道路
 第二京阪国道工事が進められている、JR学研都市線をわたり、しんすけ坂をを上ると免除川に突き当り、東へまっすぐ倉治公園を抜けると新しい住宅地に出ます。ここが、昔、交野中学があった場所である。入った所に職員室があり、木造の校舎に運動場があった。

中角さんより、交野中学校の土地と歴史について
詳しくご説明いただきました
<戦後の六・三制の学校>
 昭和22年3月、これまでの交野国民学校及び星田国民学校を廃して、戦時中の軍国的色彩を一掃し、新たに六・三制教育制度が発足、交野小学校・星田小学校・交野中学校を創立し、交野地方に民主的新教育が施されました。

 上の写真は、昭和32年当時の航空写真です。新しく出来上がった運動場一杯に、全校生徒が「交の中」と人文字を描きました。「このなかに私も写っているいるはずだ」と、参加者の一人が懐かしがっておられました。また、野球の練習中には、前の畑の中で守っていて、外野へ球が飛んでくるのを受けていたそうです。当時の学校正門沿いに植えられていた桜は、今も数本が健在で春には見事な花を咲かせている。

この中学校の土地の歴史を考察してみますと、先ず天平時代に栄えた開元寺が、鎌倉時代には岩倉開元寺として交野山上で桃山時代までその寺観を誇ったが、織田勢の一撃であえなく全山灰燼となってしまい、遂に山上から下って、滝の入り口即ち交野中学校の位置にささやかな堂宇を再建することとなった。加地家所蔵・明治4年倉治村寺院調べには、「中興は正保4年(16479)宝伝住職云々・・・」と記されており、当時の住職宝伝によって再建されたことが分かります。
 河内名所図絵の「源氏の滝」の絵の中には、小堂と庫裡があってそれを生垣で取り囲み、瀧本坊と記している。



 これによって江戸時代の寺観を窺うことができるが、それは明治時代になってもあまり変化がなかったようで、同加地家寺院調では、天台宗・京猪熊・千蔵院末 開元寺、住職観教(77歳)外に弟子2人と記され、その後、住職が続かず無住のまま自然廃寺となった模様です。
 その後、戦時中、倉治の金沢さんにより修養道場がこの土地と現在の警察学校の射撃場の二か所に開かれ、公園の上のプールは、当時の禊の場所だったそうで、寒中、水に入り、「流汗鍛練 同胞相愛」と唱えながら修養されたそうです。
 戦後の六・三制の学校として交野中学校は、当初この修養道場の建物を利用して建てられた。学校としては室の大小・配置・採光・運動場の面積などに難点があった。また、星田方面からの生徒にとっては通学が極めて不便であった。
 昭和35年、現在の第一中学校の位置に用地を買収し、翌36年、鉄筋3階建て校舎など全館が完成、講堂・プールも備えた近代様式建物が竣工した。
 その後、この中学校用地は、大宝工業(株)の中央研究所を経て、住宅地と変わった。
旧交野中学のプール
旧交野中学校のプールへ

 50年前には交野中学校の職員室があり、木造の校舎と運動場があった。「懐かしいなぁ」という声があちこちから聞こえる。

  ヒマラヤ杉の植えられた公園には、当時、国旗掲揚に使われたと思われる杭の残骸が立っており、更に上に登ると、旧交野中学校のプール(修養道場の禊場)があった。山からの自然の湧き水を取り入れたのか、自然石を刳りぬいて造られた立派な樋がそのまま残っている。

 

旧交野中学校のプール(撮影:綱分清美さん)
神宮寺の賽の神
 続いて、神宮寺の一番古い道、山の根の道を下ると、辻のお地蔵さん(賽の神)に出会えます。村落へ悪霊が入って来ないように村の辻にお祀りされています。いつも綺麗なお花が供えられ村の人々から大切にされています。
しばらく歩くと、道の左側の山すそは開元寺(奈良時代)の跡である。
 6月11日、歴史ウォークの下見に神宮寺を訪れ、下記の「平田さんの瓦版」に書かれているように、宮ノ下の阿弥陀さんが見つかりました。皆さんと一緒にご案内いたしました。
「神宮寺、宮の下の阿弥陀石仏が村中へ」
 =何らかの理由で移座された仏たち=    <平田政信さんの瓦版、2008.6.12(142号)より>
 「神宮寺、宮の下の阿弥陀石仏が村中へ」
 石仏調査を始めた頃(昭和53年)、ここ神宮寺の宮の下にある阿弥陀さんに連れて行ってもらい写真を撮っている。
それから数年後、何度となく訪れたが見つけることが出来ず、あきらめ半分、今日に至った。
昨日、古文化同好会の仲間とともに「山の根の道を歩く」の下調べを行った。
メンバーは中角・村田・高尾・大野・平田の5名で倉治グランド(旧交野中学校)から出発し、神宮寺の村へ入った「塞の神」のところで、宮の下の阿弥陀さんはどの辺りなのかと聞かれ、皆で行ってみたが見つけることができませんでした。下草がほこり、見つけにくいため冬季に再度調査しようということで現地を後にした。私は一足先にその場を離れていた。
帰る途中、農作業しておられた女性の方に聞くと、このあたりにあった石仏なら村中の厚主宅の前におられるとのこと。(一同集結)
 
    
                村中の阿弥陀さん
    つきあたりの道が「山の根の道」、宮の下は山裾の右側、祠の家が厚主宅
 

     

    

 現在、神宮寺の村中の祠内で祀られている、同一阿弥陀さんであることがわかった。

=編集後記=
 石仏を愛するということと、石仏を研究するということは、そんなに違うものではない。
ただ石仏という存在に対して、やや受で接する場合は「愛好的」といえるし、やや攻撃的に接する場合を「研究的」といって分けることはできるかもしれない。今日の場合は「愛好的」・「研究的」の両方とも言え、接し方が深いか浅いかであって、皆の今日の思いが深かったことにつきる。
こうして仏の意志とは関係なく何かの理由で場所を移され今もなお人びとの暮らしの中で生き私たちを見守って下さる仏様。
まだ、まだ行方不明になっておられる仏様が市内にはおられます。接し方が深いか、浅いかによって再び私たちの前に、お姿をあらわして下さることを念じ・・・。  =了=

天平時代開元寺跡


廃開元寺跡(はいかいげんじあと)
 開元寺は中世の記録である『興福寺官務牒疎』によると尊延寺・百済寺とともに興福寺僧宣教の開いた寺で天平時代の頃の創建とされます。神宮寺集落からは天平時代の礎石や瓦片が出土しています。この寺は『興福寺官務牒疎』の記事に「坊舎八舎宛在之」とあり、大阪府が発掘調査した百済寺や、文献資料にみられる津田寺の伽藍配置を参考にすると、開元寺は薬師寺式の伽藍配置で、南から南大門・中門・左右の東西両塔・金堂・講堂・食堂および左右の僧坊があったのだろうと考えられています。
 「興福寺由来記」や「興福寺社縁起」など、平安時代からこの名前がみられます。この後、開元寺は鎌倉時代になってから山岳仏教の影響を受けて交野山頂へ移動し、岩倉開元寺と名前を変えました。

神宮寺遺跡
神宮寺式土器
 昭和31年、交野考古学会(現在の交野古文化同好会)が岩倉開元寺跡調査の時に、石仏の道の弥勒仏坐像石仏から下へ、2枚目の畑の南よりのミカン畑から2点の石器が採集されました。この2点の石器はハンドアックスと呼ばれる握斧とナイフ形石器でした。ハンドアックスは長さ9センチ・幅6センチ・厚さ2センチで、ナイフ形石器は長さ6センテ・幅2センチ・厚さ1センチで石材は共に二上山から採取される讃岐石(サヌカイト)です。

 また交野考古学会による神宮寺地区の調査で縄文時代の石鏃や石器の原石材が発見され、神宮寺付近に縄文時代の集落があることが確実となり、神宮寺遺跡と名付けられました。昭和32年の調査で採集された土器片は縄文時代早期の押型文土器で、遺跡名をとって「神宮寺式土器」⇒と呼ばれています。神宮寺遺跡
では縄文時代の住居は発見されていませんが、炉が5基出土しています。



 神宮寺2丁目の石仏の道から枚方・大和郡山線に出ると、道の西側にまた賽の神が祀られている
 ブドウ畑を南に少し歩いて左の道を行くと、倉治の墓である。暫く南東に歩くと郡山街道と十字に結ばれる。そこから下ると左の藪の中に「上河原旧私部村落遺跡」があり、ここは元禄4年(1691)傍示谷にほらが吹いて、旧私部の集落が流されたところで、そこで上河原という地名がついた。

神宮寺の賽の神


神宮寺のブドウ畑  7月にはブドウ狩りが開かれる

史標 「上河原旧私部村落遺跡」
 また、この辺りの扇状地域には、沢山の松の木が茂っていたが、明治34、35年の頃、関西鉄道(現JR学研都市線)の開通の時(明治31年)切られて四條畷中学(現府立四條畷高校)の校舎の材木に使われた。松を切ったあとに桃が植えられ、春には辺り一面ピンク色に染まり見事なものだったそうだ。
 関西鉄道の唱歌に「星田を跡に津田に来て 見渡す限り桃林 さぞや花時一帯の 紅雲天に焦がすらん」と歌われている。 その後、昭和35年から36年にかけてブドウ畑に変わった。

 史標のある所から少し下り左に折れる道を歩くと、尾上という地名のところに出る。そのまま創価学園に向かって南に歩き、森神宮寺線(昭和37年頃開通)に出て、学園前を通り過ぎると、京の山の石仏さんに出会えます。

史標から西へ下って、細い道を南へ創価学園に向かって歩く

高塚(たかつか)という地名  
 寺の北、現在は創価学園の校地にほとんど包含されている。言い伝えによると、平安時代、惟喬(これたか)親王と呼ばれる高貴な方がおいでになった所であるとか、あるいは鷹(たか)の首が埋めてあったところから「たかつか」と呼ばれたという
 しかし、実際には高塚からその南の飛尾(とびの)にかけて、横穴式の古墳が散在している。これらの古墳はだいたい6世紀ごろと推定されている。寺には交野でも著しく古墳の多い所である。やはり機織を中心とする渡来人がやってきて、勢力優勢であったことがうかがえる。南野の交野高等学校のそばにある車塚も同様の古墳である。高塚の場合は小型の横穴式で数も多く群集墳である。

 京の山の石仏の祠の中に、かさま池の石仏が移されていました。
  (平田さんの瓦版 2007.12.26 第6号を参照)
 

かさま池から寺の静かな住宅街に入り、山添家、正行寺の坂を下って灯篭の辻に出る。しばらく行くと、森神宮寺線と交わる四つ辻の北側が大畑古墳(車塚古墳第6号墳)である。

山添家は国の重要文化財に指定されている。
この住宅は江戸時代の庄屋の家で、11代前の九左衛門平精が宝永2年(1705)に建てたもの。

母屋は土間の面積が広く、雨の日などは農事を広い土間ですることが出来たそうです。現在では全国でも数少ない茅葺きの屋根がとても珍しいものになっています。

この地方の民家は家の中ほどで、棟木を支える大柱を中心に、その周りに部屋を作り、だいたい「田」の字の形を動かすことはできない。それにただいろいろの枝葉を付けるだけのことであるのが原則。それは棟木をもつ日本の家には、その後、どんなに変化をあたえても、屋根が落ちては住んでいられなくなるから、この法則から抜け出すわけにはいかない。

このような根本的なところは、出雲大社の建物でもそれがみられて、以後日本家屋の不動の伝統となっている。

正行寺の地蔵団地
  正行寺の門を入って右隅に、石仏がきれいに並んで立っています。これは昭和50年、古文化同好会の人たちの手によって、お参りしやすいよう整頓され、一つひとつの石仏の姿が分かるようにしたもので、「地蔵団地」とも呼ばれています。
 その中で目を引くものの一つに、地蔵団地の5列目、右から2番目の阿弥陀如来坐像があります。船形状に粗く加工され、その中に仏さまが彫られています。しゃがんで拝まないと、表情がうかがい知れません。
 次に7列目、右から2番目の二尊仏があります。方形の石に向かって右側に阿弥陀如来立像、左側に地蔵菩薩立像が彫られています。
 この石仏さんは石の形態から、元は石龕仏であったと思われます。龕とは、仏像・舎利(仏や聖人の遺骨)・経巻(経文を記した巻物)などを安置する容器のことです。台座部分が土に埋もれて分かりにくいですが、2人の子どもが何か一心に拝んでいるようにも見え、微笑ましい石仏さんです。
 正行寺の前の辻には、「愛宕山」「二月堂」「柳谷」と刻まれたおおきな3基の灯ろうがあります。昔、それぞれの信仰する講があって、ここに集まってはお祈りやお祭りをしたものだと思われます。  (広報かたの 石仏より)
阿弥陀如来
二尊仏
地蔵団地


正行寺の「地蔵団地」



灯篭の辻 
正行寺の前の辻には、「愛宕山」「二月堂」「柳谷」と刻まれたおおきな3基の灯ろうがあります。
昔、それぞれの信仰する講があって、ここに集まってはお祈りやお祭りをしたものだと思われます。
 灯篭の辻からしばらく行くと、森神宮寺線と交わる四つ辻の北側が大畑古墳(車塚古墳第6号墳)である。
大畑古墳 弥生時代後期の遺物が出土した住宅地の上が最近の調査で、前方後円墳であることが確認された。墳長90〜95m、後円径50m高さ3m、前方部約50m高さ4mが確認された。これが大畑古墳である。

 森神宮寺線を南に、須弥寺に行く。
森の地名の由来
 交野地方には石清水八幡宮の荘園があった。新川からの眺望、手前が森村天暦3年(949)のことで三宅山一帯1400町歩にわたる広大なものである。津田山から交野山、竜王山、星田の山々まで入っていた。そのほかに山年貢を収納する倉庫、荘園の管理をする役人の住む住宅地などが6町歩、荘司(荘園の管理人)が荘園内の農民を使って耕作する田(佃、つくだ)が23町歩もあった。
 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。
 それによると延久年間(1069〜1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。
 円通山須弥寺須弥寺の古代人崇拝の陽石の建っている場所が「堂ノ前」で、須弥寺の観音堂の建っている岡が「堂山」である。観音堂の山という意味で堂山と呼ばれている。
 
 須弥寺は平安時代の初期に当たる淳和天皇の天長3年(826)僧空海が森の地にこられて、一草堂を結んだのが当寺の始まりと言われている。また、観音堂は清和天皇の貞観3年(861)大和国の大安寺の僧行教が天皇に奉じて、国家鎮護のために宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、八幡の男山に祭って、石清水八幡宮とした。
 この勧請のとき、行教は観音菩薩により宇佐八幡からの旅が警固されると信じたことから、この大任を果たすことができた。このことから、この観音を「石清水八幡警固観世音菩薩」と呼んだのである。そして、この観音が須弥寺の南の上の観音堂に祭られている。
 須弥寺から細い道を下って、森の北城戸の出ます。森の西の出入り口を城戸、東の出入り口を北城戸と言っている。城戸は木戸で、森を通過して山麓沿いに山の根の道が走る、この道路の東西の出入り口に木戸を設け、村に出入りする人々を見張っていたり、村への乱入者を取り締まったのであろうか。夜間は木戸を閉めて村を防備した。
 大門酒造の無垢根亭を過ぎてしばらく歩くと、灯篭の辻に出ます。そこに蛙石の伝説が伝わっています。


灯篭の辻の蛙石

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。伝説の石・蛙石
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。
 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 
 蛙石を見学後、城戸付近で自由解散の後、丁度午前12時頃、京阪河内森駅にて解散しました。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の中角さん有難う御座いました。
 参加された皆さん、梅雨の晴れ間蒸し暑い中、お疲れ様でした!
最後までご覧いただき有難うございました!

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