[ホームページ]へ戻る
2001.9.21  京都市
京街道 東寺口周辺を訪ねる
 
世界遺産・東寺南大門、羅城門跡、西寺跡
六孫王神社、東寺
など
 平安京の二大寺(東寺・西寺跡)と羅城門跡を訪ねた。          東寺・五重塔
延暦13(794)年、桓武天皇の命により中国長安をモデルにして造られた平安京。
都では、藤原氏の摂関政治が権力を支配し、貴族たちが栄華を誇った。
 京都の道が、碁盤目状に走っているのは都城制で造られた平安京の名残である。そして街には、平安の香りを今に伝える建築物や仏像が多い。
今回訪ねたのは、平安京の表玄関に当る羅城門跡と東西に建設された東寺と西寺跡。
東寺は、毎月21日の縁日には弘法さんで賑わい、日本一高い五重塔は空高くそびえていた。羅城門と西寺は今はなく、平安京の歴史を伝える石碑が建てられているだけである。
1200年の歴史を、時の命運によって盛衰を分けた史跡を訪ね、史実を確かめることが出来た、とても良い歴史散策でした。


地上から消えた平安京

コース: 京阪枚方駅→丹波橋→近鉄東寺→東寺南大門→羅城門跡→
西寺跡(昼食)→六孫王神社→東寺(解散) (徒歩行程約.3km)

京街道 東寺口周辺を訪ねるMAP
東寺南大門→羅城門跡→西寺跡→六孫王神社→東寺
羅城門跡
桁行七間、梁行二間で屋根は瓦で葺かれ、朱色の柱、白い壁で構成された威風堂々とした二重楼閣であった。二階の部分には都を外的から守る神、兜跋毘沙門像(とばつびしゃもんてんぞう)が安置され、侵入者に睨みをきかせていた
西寺跡で説明を聞く
東寺が空海に下賜され、以後密教の拠点として維持されたのに対し、鎮護国家の寺としての西寺は、律令体制の衰退とともに衰え、990年(正暦元年)以後、数度の火災で荒廃し、1233年(天福元年)に五重塔が焼失して以後、廃絶した。
六孫王神社
祭神は、六孫王 源経基。清和源氏の始祖で、962年(応和2)その邸宅跡に嫡子源満仲が祠を建立したのが創祀と伝える。
 応仁、文明の乱で焼失したが、1700年(元禄13)徳川綱吉の命で再興した。
東寺・五重塔
弘法大師の創建着手にはじまりますが、しばしば災火をうけ、現在の塔は徳川家光の寄進によって再建された総高57mの現存する日本の古塔中最高の塔です
東寺・大師堂
弘法大師の住房で、大師の念持仏不動明王(秘仏)が安置され不動堂とも呼ばれている。堂内には不動明王と大師像が祀られ、弘法大師信仰の中心となっている御堂である
弘法さんで賑わう境内
空海入寂の日を命日として毎月21日、参詣者を目当てに露店が開かれてきたのが定着したといわれている。季節や天候にもよるが、「市」での出店数は1,000店といわれ、毎月25日に行われる北野天満宮の「天神さん」と並ぶ古都の代表的な縁日です。

 ※史跡・概略説明

 京の七口 
 中世、京に入る道筋の出入り口を言う。
厳密には7ヶ所ではない。「建内記」に「七道の口々」とあり、五畿七道、すなわち京から全国へ通じる出入り口の意と思われる。
京の七口が人々の話題にのぼるになったのは、豊臣秀吉が天下を制覇し、1591年(天正19)洛中四辺に御土居を築き、皇都の構えとして「七口」を開いてからだろう。
江戸時代に入ってからは、七口はほゞ次の通りである。
 三条口、東寺口、五条橋口、丹波口、長坂口、鞍馬口、大原口。
 

 
羅城門跡兜跋毘沙門天立像
 都城の朱雀大路南端に造られた南面正門。
桁行七間、梁行二間で屋根は瓦で葺かれ、朱色の柱、白い壁で構成された威風堂々とした二重楼閣であった。二階の部分には都を外敵から守る神、兜跋毘沙門像(とばつびしゃもんてんぞう)が安置され、侵入者に睨みをきかせていた。(平安京)
正面から見た幅は約30m外側に唐橋がかかる。都城の内と外を区切る境界の為、疫病の侵入を防ぐ祭祀なども行われた。
倒壊と再建を繰り返し、980年(天元3)の大風により倒壊を最後に放置され、「今昔物語」などでは、鬼の棲む場所として語られた。
 渡辺綱の羅城門説話です。
 『酒宴の最中に「羅城門には鬼が住み日暮れになると人が恐れて通らない」という話を聞いた渡辺綱は、真偽を確かめに羅城門に行った。印の金札を立てて帰ろうとすると背後から誰かが兜に手をかける。綱は刀を抜いて渡り合い、相手の腕を斬り落とした。すると鬼は空へ逃げ去り、綱は武勇の名を上げた、、』そうです。
 兜跋毘沙門高さ189.4cm)は、瓦礫の中から掘り出され現在は東寺の宝物館で春・秋の公開の時拝観する事が出来る。

東寺(京王護国寺)世界遺産登録東寺境内案内図
 真言宗東寺派の総本山。本尊の薬師三尊像
本尊は薬師如来(金堂内)。794年(延暦13)平安遷都の際、羅城門をはさんで、西寺と一対の寺として建立された。
823年(弘仁14)嵯峨天皇の命により空海の与えられた。真言道場となる。(金堂完成、寺域は方2町)
平安時代は国家的な修法を修する護国の寺として知られた。中世には、源頼朝や後宇多上皇らの庇護を得て伽藍や寺内組織の整備に努める一方、積極的な荘園支配を展開。
 15世紀には、土一揆によってしばしば占拠され、兵火をあびている。
近世に入り豊臣、徳川両氏の保護のもと復興。
 多数の文化財をもち、僧形八幡神像、五大明王像、など多数の国宝や「東寺百合文書」とよばれる膨大な文書群も所蔵している。

◇五重塔(国宝)◇
弘法大師の創建着手にはじまりますが、しばしば災火をうけ、現在の塔は徳川家光の寄進によって再建された総高57mの現存する日本の古塔中最高の塔です

◇金堂(国宝)◇
今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたものです。天竺様の構造法を用いた桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐・和風の技術も巧みにとり入れられています。

◇講堂(重文)◇
堂内の白亜の壇上には大日如来を中心に五仏、向って右に五菩薩、左に五明王が並び、その周囲に四天王・梵天・帝釈天の二十一体の仏像が安置されています。これは空海の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密教浄土の世界)です。


 空海
  弘法大師、遍照金剛とも呼ぶ。
 774年(宝亀5)〜835年(承和2、3月21日(没)
 平安時代前期の高僧、真言宗開祖。讃岐国多度郡の佐伯氏の出身。得度受戒後、804年(延暦23)遣唐使に従い入唐(秘書兼通訳)。
密教を受法し、806年(大同元年)帰朝。以後、おもに高雄山寺(現神護寺)に住し、最澄とも交流したが、のち決別した。
816年(弘仁7)高野山開創に着手。823年(弘仁14)官寺、東寺を賜り、真言密教専修の寺とした。

 「弘法市」
 空海入寂の日を命日として毎月21日、参詣者を目当てに露店が開かれてきたのが定着したといわれている。季節や天候にもよるが、「市」での出店数は1,000店といわれ、殆どが車で商品を積んで売りに来ている。1日間の駐車料1000円を寺に払えば、必ずどこかに駐車させてくれる。売りに来ている人は、大阪、京都、和歌山、奈良、兵庫、岡山、静岡、滋賀、福井等の各県からである。境内に所せましと露店が並び、骨董品・古着・古本・陶器・植木・古道具・日用雑貨、はては使いものにならないがらくたまでないものはないくらい多種、多彩な品物が売られています。毎月25日に行われる北野天満宮の「天神さん」と並ぶ古都の代表的な縁日です。

 西寺跡
 平安京の官寺。西寺の礎石
朱雀大路を挟んで、東寺と相対し、右大寺とも呼ばれた。
797年(延暦16)造寺長官が任命され、9世紀初頭までに主要堂宇が建立された。
東寺と西寺は一体で造営され、西寺の別当は東寺より上位におかれた。
しかし、東寺が空海に下賜され、以後密教の拠点として維持されたのに対し、鎮護国家の寺としての西寺は、律令体制の衰退とともに衰え、990年(正暦元年)以後、数度の火災で荒廃し、1233年(天福元年)に五重塔が焼失して以後、廃絶した。

 六孫王神社
六宮ともよぶ。(南区八条町に鎮座)
祭神は、六孫王 源経基。清和源氏の始祖で、962年(応和2)その邸宅跡に嫡子源満仲が祠を建立したのが創祀と伝える。
 応仁、文明の乱で焼失したが、1700年(元禄13)徳川綱吉の命で再興した。
【ご 本 尊】六孫王大神、天照大神、八幡大神
【ご 利 益】健康長寿・無病息災・勝運祈願・厄除など
【由来・由緒】
永暦15年、国家鎮護のために建てられた東寺を後に、嵯峨天皇より空海に下賜され真言宗の根本道場とされた。また、境内にお祀りされる八幡大菩薩は、足利尊氏が祈願し幕府を開いたところから、勝運の神様として信仰されている。
【見どころ】 五重塔は京都玄関を象徴。
【祭  り】 毎月21日は御影供。弘法大師様を信仰する人々で埋め尽くされる。

六孫王 源経基(みなもとのつねもと)
 清和天皇(850〜880)第6皇子貞純親王の子。そのため六孫王と称する。
941年警固使、太宰権少弐に任ぜられ正四位上に昇進して内昇殿を許され961年(応和元年)源朝臣の姓を与えられ、臣籍降下。
 経基の嫡男満仲は摂津国多田荘に土着して清和源氏発展の基礎を作り、その子、三男頼信は河内国石川荘を本拠とする河内源氏の祖となり、清和源氏を一層発展させた。
武田、佐竹、新田、足利の各氏も清和源氏。

                                (東寺パンフレットを参照)

戻る