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古道 竹内街道を訪ねる(バスツアー
叡福寺、二上山、当麻寺


当麻寺、二上山、当麻の里など
詳しくは、当麻の里、みどころなどを紹介する
「当麻の里にようこそ」のホームページへアクセス下さい

 10月12日、午前8時30分青年の家に集合、前田観光のバス2台に分乗して元気に出発。交野を抜け、外環状線を南にひた走り、ガイドさんから用明天皇の若かりし頃のことや聖徳太子にまつわる楽しいお話を聞いているうちに羽曳野市、富田林を過ぎ太子町の叡福寺に到着。
 聖徳太子の御廟の前で辻先生より、聖徳太子信仰の起こり、庶民の中に今も根強く生き続けていることなど、詳しくお話して頂いた。境内を30分ばかり散策。
 二上山万葉の森でバスを降り、いよいよ本日のメイン行程である「二上山」を目指してスタートした。
 参加者の殆どが、体力に自信のあるA、Bコースを選ばれ、先ず二上山雌岳を目指す。事前に、二上山の登りは傾斜がきつく足元がアスファルト舗装されて、かなり疲労を伴うとの紹介があり、それぞれ登るのに心配しておられたが、皆さん共々一緒に比較的ゆっくりと登ることが出来、予定通り12時頃「雌岳」山頂に到着。二上山
 頂上は、爽やかな秋風が吹き心地いい。少しガスがかかってはいるが、奈良盆地が綺麗に見える。
 ここで昼食をとる。野外でわいわい言いながら食べる握り飯は格別だ。
 疲れを取りエネルギーを蓄えたところで、午後は雄岳に登る。雌岳より少し下って、岩や石がごつごつした山道を汗を拭き拭き登る。息を弾ませ、雄岳頂上に着く。ここで入山料200円を払う。頂上の葛城二上神社にお参りして、少し下ったところに大津皇子の墓。皇子の無念の死に至った経緯など詳しく説明を受ける。二上山に沈む夕日は格別美しいと言われる。そうだろうな―となんとなく納得。
 サヌカイトの原石を探しながら石でごろごろした山道をゆっくりと下り、途中高松塚などの古墳の石棺に使われたという凝灰岩の石切場跡で、鹿谷寺の十三重塔など凝灰岩で彫刻したことなどを詳しく聞く。
 車中、ガイドさんより中将姫の話を聞きながら、166号線の竹内峠を越し、本日最後の行程である中将姫と曼荼羅で知られる「當麻寺」に到着。
 本堂(曼荼羅堂)には、當麻曼荼羅(室町時代・重文)が全国最大最古の厨子(天平時代・国宝)に収められ、金堂(こんどう)に日本最古の塑像・弥勒仏(白鳳時代・国宝)を本尊に、日本最古の乾漆・四天王(白鳳時代・重文)が四方を守護する姿をゆっくりとありがたく拝観。
 大変楽しいバスツアーの一日でした。幸い天気も良く、気持ちの良い爽やかな歴史散歩でした。次回の講座が楽しみである。


中将姫さまのおはなし

中将姫

 天平時代、藤原家の娘中将姫(ちゅうじょうひめ)は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、あえて恨むことなく、万民の安らぎを願い、現世の浄土を求めて都を離れ、16才の時に當麻寺を訪れます。当時の住職・實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧となり、法如(ほうにょ)という名を授かります。その後、仏菩薩の加護を得て蓮の糸による織物を感得します。これが當麻曼荼羅(たいままんだら・国宝)です。その輝きに心を救われた法如は、人々に現世浄土の教えを説き続け、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。


古道 竹内街道を訪ねるコースマップ

 交野市青年の家(午前8:40出発)→太子町・叡福寺→
二上山雄岳・雌岳→奈良県当麻寺→青年の家解散(午後5:10)

叡福寺境内で辻先生より
聖徳太子信仰など
詳しく説明を受ける
聖徳太子廟
三骨一廟
二上山雌岳を目指して
全員が元気にスタート
岩屋峠・岩屋への分岐点で
辻先生より説明を受ける
二上山雌岳頂上の日時計
ここで昼食を摂る、12:30頃
二上山大津皇子廟前で
皇子の無念の歌などを聞く
二上山
高松塚石切り場跡
中将姫の銅像 当麻寺・西塔


竹内街道:竹内街道は、堺市から太子町を経て奈良県当麻町に至る約26kmの道筋である。
 推古天皇の時代、613年に難波と大和飛鳥を結ぶ「大道」として造られた日本最古の官道といわれてきた。
 往時、多くの官人や遣隋使・隋からの使節などが往来した大道である。
 現在は、国道166号として、大阪南部と奈良中部を結ぶ大道である。
【旧街道】竹内街道を越え、当麻町へ向かうため国道166号と並行して通る旧竹内街道を下っていくと、日本最古の官道という雰囲気である。竹内集落は伝統的な大和棟の農家や商家が続く、風情あふれる町並みである。

磯長山叡福寺(上ノ太子):叡福寺は聖徳太子(574〜622)の御廟を守る為に建てられた寺である。
 御廟は、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人太后、太子の妃・膳部大郎女(かしわべおおいらつめ)が合葬された三骨一廟である。

 往時、空海や親鸞など高僧も修業した聖徳太子信仰の霊場で豊臣秀頼が再建した聖霊殿をはじめ多くの堂塔が残されている。

二上山:二上山は、2000万年前に活動を休止した火山である。
 駱駝の背のように特徴のある山容で、大阪府と奈良県の境界線に聳え、古来より信仰の山として人々の心の中にすんできた。
 特に、大和国の人々は朝日を三輪山に迎え、夕日を二上山に送ってきた。
 二上山の高い峰は雄岳(517m)、低い峰が雌岳(474.2m)である。

 二上山が活発に火山活動をしていた結果、多種類の火山岩が残された。
 サヌカイト(讃岐石)
  石器時代、全国で石器の材料として活用されてきた。
  また、火山灰や火山礫などが積もってできた凝灰岩は、岩質が柔らかいので古墳の石棺や建築材に利用された。
 畿内の多くの古墳から出土している石棺は、二上山の石切場から切り出した凝灰岩である。
 二上山山中には、何ヶ所も凝灰岩を切り出した石切場跡が残されている。
 石を殆ど切り出した跡に古代寺院を建立した。
 鹿谷寺の十三重塔も凝灰岩を彫刻したものである。

大津皇子天武天皇の皇子である大津皇子の悲劇のものがたりが、一層人々の心を二上山に向ける要因となってきた。
 大津皇子 「万葉集」 巻三
  「ももつたふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」

 大伯皇女 おおくのひめみこ 大来皇女とも。斉明七〜大宝一(661〜701)
  天武天皇の皇女。大津皇子の同母姉。天武二年(673)伊勢斎宮に卜定され、翌年伊勢に下る。歌はすべて万葉集より。
  
大津皇子薨去の後、伊勢斎宮より上京する時よんだ歌
    神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
 
 大津皇子のしかばねを二上山に移葬する時、かなしんでよんだ歌 
    うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を吾兄と吾が見む
       


鹿谷寺(ろくたんじ)跡:二上山の西側の中腹に鹿谷寺跡がある。
 大陸文化の影響を受けた日本では珍しい奈良時代の石窟寺院である。
 寺域は地山の凝灰岩を開き削ったものである。

当麻寺:当麻寺は、612年用明天皇第3皇子麻呂子(まろこ)王(聖徳太子の弟=当麻氏の祖)が河内国山田郷に建てた万法蔵院がはじまりで、その後填武9年(680)に移築した当麻氏の氏寺である。
 685年金堂などが完成し、寺号を当麻寺と改めた。
 境内には、国宝の本堂、東塔、西塔。
 重文の金堂、講堂、仁王門などが独特の伽藍配置で建ち並んでいる。

詳しいことは、当麻寺中の坊のホームページでどうぞ

(当日頂いた資料を参照)

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