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古道 鳥羽・伏見街道を訪ねる

鳥羽・伏見街道(京街道)この街道を一躍有名にしたのは、幕末の動乱期、「鳥羽・伏見の戦い」の主戦場となったためだろう。
 織豊時代、豊臣秀吉は伏見城築城にともない、京〜伏見〜大坂を結ぶ幹線道路として京街道を本格的に造成した。大土木工事として淀堤など淀川・宇治川・桂川の堤を完成した。
 江戸時代、京〜大坂を結ぶ主要幹線道路として大きな役割をもった。
 東海道の延長として宿場(淀、枚方、守口)も整い、西国大名の参勤交代道となった。
 
淀水運 京街道の通行と併せて、淀川水運も大きな比重を占めていた。中心は、淀船だった。

寺田屋、月桂冠大倉記念館、御香宮神社など
詳しくは、京都伏見の歴史、みどころなどを紹介する
「竜馬が駆けた町・京都伏見の紹介」ホームページへ

 11月21日(火)、午前9時30分京阪・枚方駅に集合、淀駅に向かう。 淀駅を下車、すぐ西側に淀城跡。 辻先生より淀城の歴史を詳しく説明を受ける。淀殿が居た淀城は、現在の淀城より北へ500mの妙教寺にあったこと、また江戸初期頃、淀藩主の永井尚政が交野の領地も治めていたこと、春日局の家系の稲葉家が歴代の藩主として幕末まで12代淀藩主を勤めた事などを聞いて改めて驚きました。

 商店街を通り抜け鳥羽街道(旧京街道)を北に進み、桂川の堤防の上で、淀の水運、淀堤の土木工事、鳥羽伏見の戦いなどの話を聞く。
 淀殿のお城の跡と言われる「妙教寺」では、87歳になられるご住職より、慶応4年(1868)正月3日から始まった鳥羽伏見の戦い」で不発弾がお寺に落ちたが、幸いお寺は燃えずその落ちた弾が釣鐘のようになったことなど、生々しい状況をお聞きする。また、ご自身が戦争に出征された時のことをお話になり、如何に戦争とは惨たらしい事で今後一切あってはならないものだと、切々と訴えられたことが強く記憶に残った。ご住職が、いつまでもお元気で世の人々にいろいろとお説教されることを願って止まない。

 再び、淀駅に戻り次の訪問地である、伏見を目指し京阪電車・中書島駅で下車、伏見港公園で昼食を摂る。午後は、綺麗に整備された濠川沿いを歩き、今も営業を続けている淀川の船宿・寺田屋、酒蔵の町、大倉記念館を尋ねた。十石船がゆっくりと柳がゆれる川を行く。なにか、江戸時代に戻ったような風情を楽しむ。御香宮神社では、香りがするという名水(御香水)をご馳走になる。
 幸い雨も降らず、気持ちの良い感動を覚えた歴史散歩でした。次回の講座が楽しみである。

 京阪枚方駅→淀駅→淀城跡→唐人雁木旧跡→
妙教寺→京阪淀駅→京阪中書島駅→伏見港公園(昼食)→
濠川
→寺田屋→大倉酒造記念館→御香宮神社
→京阪伏見桃山駅

鳥羽・淀城跡を歩くコースマップ

伏見街道を訪ねるコースマップ

淀城跡・天守閣 淀城跡公園 妙教寺
旧淀城跡・淀殿の城跡
伏見港公園
昼食を摂る
濠川を歩く
宇治川に続く
寺田屋、今も営業中
幕末の寺田屋騒動の舞台
大倉記念館の隣の
内蔵酒造場
酒蔵と大きな煙突
伏見の銘酒月桂冠
の酒蔵を改装して
造った資料館
月桂冠の酒蔵屋敷通り
資料館には、昔の帳場や
酒造用具、作業風景などの
写真が展示されている
御香宮神社
割拝殿形式の建物
境内から香りの良い水が
涌き出た出たので
清和天皇より
「御香宮の」名を賜った


淀城跡を尋ねる:
淀城
近世の平城。宇治川と桂川の合流点に位置する水城でもある。
 淀は中世の一時期に山城の国の守護(郡代)所となる。
天正17年(1589)秀吉が築城し側室の淀殿が入った。城は現在地の北側(現在の妙教寺の地)にあった。淀古城で、文禄3年(1594)伏見城築城で廃城となる。淀城跡・石垣の右下に水車が展示されている
 新淀城の築城:元和9年(1623)伏見城廃城にともない、松平定綱が寛永2年(1625)現位置に再築城。1868年鳥羽・伏見の戦いで戦場となる。

 淀藩:山城の国淀を城域とする譜代中藩。寛永2年(1625)松平定綱が遠江国掛川から入封して立藩。3万5千石。寛永10年、2代目として下総国から永井尚政が10万石で入る。享保8年(1723)より、稲葉家が入り、12代続く。

 淀藩主
 永井尚政(1587〜1668)江戸初期の幕府年寄。下総守古河藩主から寛永10年淀に転封して10万石となり、以後上方支配の中心となる。(交野の郡津、寺、森、私市、星田の領主)
 幼少から秀忠に近侍し、近侍三臣と称された。小姓組番頭、老職を勤め秀忠引退後は西丸年寄として幕政に関与。

 稲葉家 
  三代将軍家光の乳母春日野局の家系。江戸時代初期の大名(正成)は、小田原藩主(8万5千石)家光政権の幕閣として活躍。
 享保8年(1723)稲葉正知が10万2千石の淀藩主として入り、以後12代幕末まで淀藩主を務める。
 幕末の稲葉正邦は、京都所司代や老中を歴任。鳥羽伏見戦後は新政府に協力して淀藩知事を勤めた。

伏見港を訪ねる水路として開かれた濠川
 伏見港:秀吉は文禄3年(1494)伏見城築城の建築資材を運ぶため伏見港を開き、大規模な土木工事で宇治川流路の付け替え、太閤堤や淀堤を築堤する。
 水運:水運は江戸時代になると一層比重を大きくした。三十石船、二十石船が数多く往来し伏見港は賑わった。
 高瀬川運河を開く:家康は御朱印船貿易で活躍していた京の豪商角倉了以に許可し、高瀬川運河が開かれ慶長19年(1614)以降、京〜伏見〜大坂が水運で結ばれさらに大きく発展した。
 船宿にぎわう
  船宿の一つ、寺田屋は寺田屋事件の記録をとどめ今も営業中。

伏見の町
 伏見城:秀吉は関白職引退後文禄3年(1594)より築城。伏見の酒蔵町を十石船が行く
 諸国の大名に25万人の人員動員を命じた。資材運搬のため巨椋池や宇治川で大土木工事を行い、慶長元年(1596)完成。
 伏見城跡はいま、伏見桃山陵(明治天皇陵)伏見桃山東陵となっている。

 伏見の酒:伏見の酒は灘と並んで名産地として知られる。
  名水「豊富で質の良い地下水=伏水(ふしみず)に恵まれ、伏見港に入る各地の酒米を利用して城下町として栄えた頃から酒造業が発展した。

 御香宮(ごこうのみや)神社:式内社。祭神は神宮皇后、仲哀天皇、応神天皇ほか6柱。
  社伝では、境内に香泉が涌き薬用にもなった。御香宮と名づけられた。
 拝殿:奥行き3間、柱勘7間で中央に馬道(通路)を設けて、二つの建物に分かれた割拝殿形式の建物である。建物は、旧伏見城の車寄せなどを用いて造られている。正面には伸びやかな曲線を描く軒唐破風を付けて、唐破風内には、鯉の滝登りや花鳥などの彫刻や虹梁、蟇股(かえるまた)でにぎやかに飾り立てている。華やかで豪壮な桃山時代の特徴が良く出ている。
 鳥羽伏見の戦い、ここ御香宮に陣取る薩摩藩「大山弥助」率いる軍勢と、大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所に陣取る「幕府軍」。土方歳三の率いる新撰組を初めとする軍勢の戦いの場所であった。
 慶応4年(1868)正月3日、午後鳥羽方面から砲声が聞こえ、これをきっかけに戦いが始まった。


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