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 三条小橋から新選組ゆかりの史跡を歩く
 
 此処からタクシーで三条小橋へ。有名な池田屋騒動の跡地には石碑のみ。坂本龍馬寓居の酢屋は現在も材木商として健在。高瀬川沿いに佐久間象山・大村益次郎遭難碑等を見ながら長閑な散策。又、京都ホテルオークラ沿いに長州藩邸跡の石碑や桂小五郎像を見て、ようやく高瀬川源流庭園のある「がんこ高瀬川二条苑」に辿り着いた。

 此処は慶長年間に豪商「角倉了以」の別邸として建てられたもので、その後、明治の元勲山形有朋や第三代日銀総裁川田小一郎、安部信行首相の別邸等を経て現在「がんこフードサービス梶vの店舗となった。建物の佇まいもさることながら、鴨川の流れを取り込んだ庭園は、豊富な水流を中心に据え実に見事なものだ。

 賑やかな夕食となった。山田さんがゴルフ友達の人脈から「がんこ」の副社長にコネをつけ、その甲斐あって、冷酒「大吟醸」の差し入れがあり、更に副社長が態々挨拶に来る始末。
 余り酔わない中にと、村田さんから、資料と明日訪問先の説明。---幹事さん本当にご苦労様です。
話題は先ず、芦谷さんから原田さんについて米国の大学に勤めているという娘さんの話。以前何度も結婚話があったが、全て破談になった。理由は、彼女曰く(いわく)「日本の男性は、結婚したら女は家庭に入れという。どうして女性が働いてはいけないのか。家事だってフィフティ・フィフティで負担すべきもの。日本の男性では話にならない」。ということで、結局アメリカ人と結婚。アメリカに居住し、スタンフォード大学事務局次長として活躍中とか。それも子育てをしながら。---既に彼女が「太平洋の架け橋」となって活躍している。大したもんです。
 又、仕事の話として、新製品、新技術開発は会社ぐるみ買い取るのが一番との裏話、又、赤ワインは血液サラサラ効果があり血栓予防の妙薬と、赤ワインのグラスを片手にニコニコと・・・。

がんこ 高瀬川源流庭苑
赤ワインで乾杯!赤ワインは血液サラサラ効果があり、血栓予防の妙薬と
鴨川から取り入れられた豊富な水が高瀬川へと流れてゆく

 山田さんからは、東京にある「龍力」(たつりき)(網干の本田酒造)」直営店で龍高4回の先輩との交流や、石野福弥さんとの交流。最近会ったばかりの臓器移植で脚光を浴びた開発さんは、一見随分顔が変わったと思ったが、笑うと正しく高校時代の彼であったと。この人は一番の消息通ではないか。
 冨田さんから、先ず昭和33年頃、ある人に島原へ連れて行ってもらったとの発言があり、さてはそれが筆下ろしだったかとすかさず突っ込みが入ったり、島原は花街ではあったが遊郭ではなかったとの反論が飛び出したりで暫し騒然。
 更に、四国八十八ヶ所巡礼の話。山門を入ると先ず手を洗い、口を漱ぎ、本堂ではローソクを供え、線香3本を立て、般若心経を唱える。次いで、大師堂(弘法大師が祀られていて、境内には必ずある)でもう一度般若心経を唱えて終わる。八十八ヶ所巡礼はもう少しで終わるが、般若心教はとっくに空で覚えてしまった。又、お賽銭はお寺では下に滑らせて納めるもの。抛り投げるのは神社のこと。尚、お寺の鐘(梵鐘)を鳴らす場合は、お参りした初めに鳴らすもので、決して帰りに鳴らすものではない。
 寺田さん、三木さんから、先の原田さんの講演について、彼は盛岡地検検事正以来新渡戸稲造に心酔し、龍野高校に「新渡戸稲造全集」を寄贈した。「我、太平洋の架け橋とならん」と言った新渡戸稲造のことを紹介し、日本にはこんな素晴らしい人がいたんだ。日本人としての誇りを持つようにと説いていた。又ルイ・アームストロングの歌「この素晴らしい世界」を是非原語で歌ってみるようにと勧めていた。
 岩下から、同じく原田さんの講演について、彼は山上憶良の歌「瓜食めば子供思ほゆ、栗食めばまして偲ばゆ---」を紹介して、8世紀初めにこんな素晴らしい歌を読んだ日本人がいたのだと高校生に訴えていた。ところで、歴代沢山の歌人名歌がある中で、こんなふうに子供のことを読んだのは極めて少ないのではないか。

 次回幹事の菊谷さんから、次回は来年の5月。名古屋万博に合わせてとの報告。 5時から制限時間の8時まで延々3時間、まだまだ話題が尽きないが、タクシーでホテルへ。

 宿舎「ペアーレ京都」(政府管掌健康保険施設)は部屋も綺麗で広くいいところであった。
引き続いての二次会は、和室の相部屋に全員集合。話題が野菜作りのことになるや三木さんと富田さんの独壇場。肥料の作り方から、施肥や農薬の施し方、連作対策に至るまで微にいり細に亘っての説明はまるで園芸教室。
 上田さんからは、農地が荒廃の危機に瀕している。自治会長として県と折衝しながらその対策に取り組んでいると。終には日本の農業はどうなるのかと国策問題にまで発展してようやく散会。
9時前から11時頃まで約2時間。ほっとけば何時まで続くか判らない。

 

がんこ 高瀬川源流庭苑
 京の人々に古くから親しまれ、愛されてきた、高瀬川の流れは、豪商角倉了以の別邸跡、がんこ高瀬川二条苑を通り、木屋町通りをくぐって、再び姿を現します。
 おおよそ380年前の慶長16年、了以によってつくられた当庭苑は、角倉了以の後、明治の元勲山縣有朋の別荘・第二無隣庵となり、その後、第三代日本銀行総裁川田小太郎の別邸、阿部信行首相別邸などをへて、現在は大岩邸として伝わり、がんこ二条苑高瀬川源流庭苑となっております。                                                (がんこ 二条苑のパンフより)
 高瀬川の流れは、豪商角倉了以の別邸跡、がんこ高瀬川二条苑を通り、木屋町通りをくぐって、再び姿を現します。高瀬川は素晴らしい庭苑の中を滔々と流れている。

木屋町通り
 
(北は二条通から南は七条通に至る高瀬川東畔の通り。全長約2.2km。)
三条小橋の傍に、佐久間象山・大村益次郎遭難之地、明治の兵制の近代化に努めた大村益次郎(ますじろう)遭難の地、映画『月形半平太』のモデルにもなった土佐勤皇党の武市瑞山(たけちずいざん)の寓居跡や、天誅組を結成した土佐の吉村寅太郎の寓居跡、越後出身の急進派・本間精一郎遭難の地、などなど、木屋町通り周辺にはたくさんの史跡があり、石標・石碑を探しながら歩くと結構楽しい

 道行く人の大半は何もないようにさっさと歩いているが、注意して歩いていると、石碑や石標をあちこちで目にすることができる。実はこのあたり、今から130年ほど遡る幕末の頃には、20代や30代の青年たちがまったく違った思いをもって駆け回っていたところなのです。
 高瀬川は、豊臣秀吉が東山の方広寺の大仏殿と大仏建立のさい、建築に必要な資材を運ぶために角倉了以(すみのくらりょうい)につくらせた運河で、京都・伏見間の物資の輸送に利用されていた。高瀬川の名は、そのとき使われた高瀬舟という舟に由来しているそうだ。
 その後、この高瀬川の水運によって川岸一帯は発展することになり、炭や薪、材木などが運ばれ、周辺には材木、柴、薪、炭などを扱う商家が多く建ち並んでいた。いわゆる「木へん」の町である。ことから、東岸の道が「木屋町通り」と呼ばれるようになったという。



                坂本龍馬寓居跡
 三条通の一筋南の細い通りにある酢屋(すや)は、創業270年の材木商で2階出格子の奥に龍馬はかくまわれていた。1階入口には龍馬の写真が掲げられている。その奥は木工芸品のギャラリーになっており、工芸品はみなオリジナルの手製によるもので、贈り物に喜ばれている。
高瀬川一之船入(いちのふないり)跡(木屋町二条下ル)
高瀬川の途中には、舟の積荷下ろしをするための「舟入」(ふないり)という船溜まり所が何箇所か設けられていました。この舟入は、やがて高瀬舟の消滅とともに埋めたてられてしまい、京都の起点となった二条の「一之舟入」(いちのふないり)が唯一、史跡として残されています。
この舟入が大いに利用されていた幕末の頃、四条から二条にかけての木屋町通り周辺には、長州藩、土佐藩、加賀藩、彦根藩など各藩の京都屋敷があり、また多くの維新の志士が隠れ住んでいました。そのため、この界隈は全国から集まった志士たちの活動拠点となり、さまざまな事件の舞台ともなっていたのです。
桂小五郎幾松寓居跡
桂小五郎の恋人・幾松(いくまつ)が住んだ長州藩控屋敷跡

木屋町御池を北へ行くと、「幾松」という料理旅館の路地入口に「長州藩控屋敷跡」「桂小五郎・幾松寓居跡」と刻まれた石標が建っています。ここはかつて長州藩の控屋敷があったところ。控屋敷とはいっても、主に志士たちが密かに会合を行なう場所で、桂小五郎もたびたびここへ足を運び、幾松を呼んだりもしたようです。

京都ホテルオークラ沿いに長州藩邸跡の石碑や桂小五郎像
大村益次郎遭難の碑 佐久間象山遭難の碑
島津創業記念資料館
田中耕一さんのノーベル賞受賞ですっかり京都の観光ルートに
島津創業記念資料館は、島津製作所が昭和50年(1975)創業100年を契機に、創業者初代島津源蔵を偲び、開設したものです。ここ高瀬川の北端・木屋町二条は、島津製作所の創業の地であるとともに、京都府が明治の初め欧米の最新技術を導入した実験所や工場など多くの諸施設を設立した近代科学発祥の地でもあります。
 当館は、初代源蔵が居住し、店舗としていた創業当時のままの姿を残しています。館内には、創業以来、製造してきた理化学器械や医用エックス線装置、それらに関連する文献・資料を展示、我が国の近代科学技術の発達過程を見ることができます。ぜひ、お楽しみ下さい。(島津創業記念資料館・HPを参照)

続いて京都守護職会津陣跡から壬生・島原へをお楽しみ下さい