第13回京遊会


平城遷都1300年祭で賑わう古都奈良散策
2010.11.17 〜11.18
岩下利明さんより写真を投稿頂きました


4年前、長谷川崇明さんにご案内頂いた時のホームページ
第9回京遊会、猿沢の池・興福寺・ならまち散策もご覧ください!

奈良名産
柿寿賀総本店
夕べの夜食の前菜で話題なった「柿寿賀」を求めて


柿寿賀に到着、皆さん中良く
1本ずつ(1200円)お土産に購入しました

”柿寿賀” この優美な名前は愛和之道法祖古川白朝光先生による命名で 長寿を祝うという意味の「寿賀」と、古来には酔醒にも血圧にも良いと言われ「味は大和の鶴志柿」「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」などと詠われている「柿」から創作されたものです。
興福寺 十三鐘伝説 石子詰
「十三鐘の石子詰」の話…奈良の民話
 
興福寺に纏わる「十三鐘の石子詰」の事を話しておきましょう。
奈良のゆかしいシンボルの一つは優雅に群れ遊ぶ鹿の姿です。この鹿は神鹿、即ち春日明神の御遣いで、神聖不可侵のものとされて来ました。
公園内の興福寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、菩提院大御堂[三条通りを東に登って、一の鳥居の手前右側]は俗に「十三鐘」の名で知られていますが、ここにはこの神鹿と少年をめぐる悲話が伝えられています。

むかし、当院に寺子屋が設けられて、和尚が子供たちに読み書きを授けていました。その中の一人で、十三歳になる三作という少年が、ある日、開け放した部屋の端近に坐って、習字の稽古に励んでいました。その時ふと机に影がさして、脇に置いていた新しい半紙がズイッーと引かれたので、三作思わず顔を上げると鹿がすまし顔で、三作の大切な半紙を銜えこんで立っていました。
  「コラーッ、何すんのや―」
と叫ぶとともに、三作は「けさん(文鎮)」を鹿に投げつけました。「けさん」は鹿の鼻ずらに見事当って、追い払うつもりが鹿を殺す結果になってしまったのです。

神鹿の保護に当る興福寺では事の処理に頭を抱えてしまいました。三作はわずか十三歳の少年のことではあるし、鹿が死んだのも、ものの弾みと云うもので、人情としては助命したいのはやまやまでした。
しかし、神域の掟は余りにも明白で許されるものではありません。三作の「石子詰」の刑は決まりました。大御堂の境内に大きな穴が掘られ、既に泣く力も無くした三作と、鹿の死骸が抱き合わされて、穴の中に下ろされ、上から大小の石が無数に投げ込まれ、哀れ三作は自分の命で、神鹿を死なせた罪を贖(あがな)わせられました。

のちに、三作の母親が永代の供養木として、「モミジ」の木を三作塚のそばに植えたと謂いますが、今はそこに、「イチョウ」と「ケヤキ」の大きな木があり、これもその母親が三作のために植え、回向したものと伝えられています。

ところで、大御堂では、明けの七つ(午前4時)と暮れの六つ(午後6時)に、合わせて十三回鐘を撞いたので、十三鐘と呼ばれたと言われていますが、石子詰の処刑が、暮れ七つと六つの間であったからだとも謂います。因みに三作の行年もやはり十三歳でありました。[この悲劇を伝える鐘は、いま南円堂(興福寺境内の西端)の傍らにあります]。

    昨年亡くなった大工さんの雑学講座より引用させて頂きました。

春日大社の一の鳥居
大湯屋(大浴場)
〔浴衣、風呂敷はお寺の蒸し風呂が起源〕
 五重塔の裏(東)に大湯屋(大浴場)があります。当時の風呂は蒸し風呂で今にいうサウナでした。「サウナ」はわが国にも昔からあったんです。浴室で着るから「浴衣」。浴室を出て体を洗い、汚れた浴衣や着替えた衣服を、浴室で体の下に敷いていた布に包んで帰ったので「風呂敷」というんだそうです。「せめて、これ位は覚えて帰って欲しい」と長谷川さんから言われました。
   (4年前の文を引用) 4年経つと忘れていますね。
平城京 豆知識
和銅3年(710)、元明天皇は律令制に基づく新しい政治を行う都を飛鳥・藤原京から奈良盆地の北端に移し、「平城京」としました。唐の都、長安を模し、中央南北に幅約75bの朱雀大路を通し、碁盤の目のように整然と宅地を区画し、約10万人規模の壮大な都市を築きました。

 その後、聖武天皇は740年から恭仁京〜難波京〜紫香楽宮と都を転々としますが、745年に再び平城京に戻ってから784年の長岡京遷都までの74年間は、奈良時代と称し、日本の政治・経済そして文化の中心地として栄えました。
朱 雀 門
朱雀門
 平城宮南面大垣中央の朱雀門は、平成10年、奈良市制100周年の記念事業の1つとして復元されました。当時、朱雀大路に面し、基壇の上には間口25b、奥行10b、高さ20bと、他の門より一際大きく、宮城の正門として堂々たる威容を誇っていたことでしょう。

 復元には平安宮朱雀門や法隆寺中門、薬師寺東塔、東大寺転害門、海龍王寺五重小塔ほか、当時を類推できる多くの現存建物や資料が参考にされました。

 当時、この門前広場では外国使節の送迎や、時には大勢の人が集まっての歌垣、新年には天皇による祝賀などが行われました。 入母屋二重門の上層に掲げる門額は、縦2b71a、横2b14a、畳3畳半もの超大型サイズで、文字は今井凌雪氏、彫刻は辻本干也氏と、奈良を代表する著名な書家、仏師の手になるのもです。
又、この朱雀門の南4q先には平城京の正面玄関、羅城門が同規模で聳え建っていたということです。
朱雀大路
710年平城京に都が移り 平城宮はその中心にありました。中央を幅約70mの朱雀大路が南北に通り その南端にあった門が「羅城門」そこから3,7キロ真っすぐ北に向かうと「朱雀門」に着きます。羅城門は 朱雀門とほぼ同じ規模の間口31.6m.高さ20m 両翼に高さ6mの羅城を築いたと記されています。
 朱雀大路の東は左京、西は右京と呼ばれ 家々や寺院、市などが建ち並んでいました。平城京の中心は宮殿と役所のある平城宮で 高い土塀の中には儀式を行う 大極殿、朝堂院、天皇の住まいである内裏がありました。東南隅の張り出した部分には池のある東院があり 北側には松林苑という自然をとり入れた広い庭園もありました。

 朱雀門は 南側中央に立つ正門で朱雀大路に面し 二階建て風にみえる建物で 他の門よりひときわ大きかったとされています。当時、この門の前では 外国使節の送迎、大勢の人が集まっての歌垣、天皇による新年のお祝いなどが行われました。復原された門は間口約25m 奥行約10m 高さ20mです 朱雀とは南を守る中国の伝説上の鳥(鳳凰=四神(白虎、玄武、青龍)の一つ)をいうそうです、羅城とは大きな城の城壁(築地)で そこに設けられた門を羅城門といい ここを出ると外界であるという意味で 大和郡山市の北端にあり 今は看板が一つあるだけで訪れる人も殆どありません。
 佐保川の底に 礎石らしきものが昭和10年に見つかり 昭和47年に発掘調査で基壇の西端が確認されたそうです。川を隔てた所に 羅城門公園があり石の碑があります 何時だったかTV中継がありましたが 夏は草が生い茂り台風が来ると木が倒れたり 人を殆ど見かけない公園です。
 この平城宮へ8000人という役人が毎日夜明けと共に出勤したという。また、現在以上に勤務評定も厳しく立ち働いていたとか。
 平城「京」の朝は早かった、という。 夜明けの太鼓とともに、、平城「宮」の七つの門がいっせいに開き「グリーン族」「ブルー族」が次々に門内に消えていく。勤務は昼までで当時の給料は米や衣類などで支給されたので、日常の生活物資を求めて市に出かけたといい、結構忙しい日常であった。
 大多数を占める下級「官人」の朝服(制服)は、緑系、あい系の色に決められていた。六位の役人は深緑、七位は浅緑、八位は深い縹色(はなだいろ)(あい)、初位は浅縹だった。
 ちなみに位が上にあがると、四位は深い緋色、二位,三位の参議、大臣クラスは赤紫の朝服が許されていた。その上の最高の色は黒紫である。これは皇族と一位の位を賜った官人しか着れれなかった。

 
 『天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも』という阿倍仲麻呂の歌をご存知でしょう。仲麻呂が遣唐使に従って中国に行き、折からの満月を異国の空から眺めて、望郷の想いに浸かって詠んだ歌です。

 旧い奈良の市街地に住んでいる人々は、月は高円山から上がるから仲麻呂の歌はおかしいと言っていますが、あれは本当なのです。

 中秋の名月の夜、ここの平城宮大極殿の跡に立つと、満月は三笠山の真上に上がるのです。私は日本一の眺めだと思います。
(坪井清足氏の話)


平城宮跡保存活動に心血を注いだ棚田嘉十郎

 平城宮跡に関心が持たれ始めたのは、明治二十八年、京都で平安遷都千百年祭が行なわれた時、前の平城京は奈良のどの辺にあったのだろうと疑問を持たれたからだという。
 明治三十年になって古社寺法が制定されて、初代の奈良県技師として赴任してこられた関野貞氏は、佐紀の田んぼの中にある「大黒芝」という土壇は、「大極殿」がなまったものであることを発見した。

 その新聞発表を読んで喜んだのは植木職の棚田嘉十郎氏であった。奈良公園の植木の管理をまかされていた棚田氏は、公園で仕事をしていると、「昔の御所の跡はどの辺ですか。」と観光客から何度となく聞かれるのに答えることが出来ず、何とか知りたいものだと思っていたからである。棚田氏は私財を投じてこの重要な史跡の保存運動をすすめた。
 平城宮の保存は明治39年(1906)、地元棚田嘉十郎や溝辺文四郎の努力により「平城宮趾保存会」が発足、嘉十郎は貧窮の中、上京を重ね国への働きかけを行い、漸く大正11年、内務省から「史跡平城宮」の指定を受けるに至りました。
国史跡・平城宮跡内を近鉄電車が
西北から東南へ通っている!? 何故か?
近鉄電車の前身・関西急行鉄道は1910年奈良軌道として設立され、翌年大阪電気軌道に改称、生駒トンネルが完成して、1914年(大正3年)上本町〜奈良間が開業された。

棚田嘉十郎や溝辺文四郎の努力により「平城宮趾保存会」が1906年発足したが、内務省から平城宮跡が史跡として指定を受けたのは、1922年(大正11年)のことであった。
いよいよ 平城宮跡へ


池の向こうに、復元された朱雀門が見えてきました
 当時、この門前広場では外国使節の送迎や、時には大勢の人が集まっての歌垣、新年には天皇による祝賀などが行われました。 入母屋二重門の上層に掲げる門額は、縦2b71a、横2b14a、畳3畳半もの超大型サイズで、文字は今井凌雪氏、彫刻は辻本干也氏と、奈良を代表する著名な書家、仏師の手になるのもです。
又、この朱雀門の南4q先には平城京の正面玄関、羅城門が同規模で聳え建っていたということです。

「朱雀門」の題字は奈良の書家・今井陵雪氏が揮毫

入母屋二重門の上層に掲げる門額は、縦2b71a、横2b14a、
畳3畳半もの超大型サイズで、文字は今井凌雪氏、彫刻は辻本干也氏と、
奈良を代表する著名な書家、仏師の手になるのもです。



当時、この門前広場では外国使節の送迎や、
時には大勢の人が集まっての歌垣、
新年には天皇による祝賀などが行われました。



先ずは朱雀門から北方約800メートル先に復元された
壮麗なる大極殿を遠望。それから右に若草山、
左に生駒山を眺めつつ大極殿へ向かってゆっくり散策。

実物大に復元された「遣唐使船」
実物大に復元された「遣唐使船」、吉備真備や阿倍仲麻呂、鑑真たちが
どのような思いでこの船に乗り込んでいたのかと、遠く1300年前に思いを馳せた。


復元された遣唐使船

全長30m 全幅9.6m 排水量300トン 積載荷重150トン

奈良時代の資料に、約600人を4隻の船で派遣したと記録があります。
1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしょうから、
約100人が寝るために必要な面積を考えると、船の長さは20m〜30m
幅は長さの1/3〜1/4程度で7〜10mとなります。
初期の遣唐使船はともかく、奈良時代の遣唐使船は2本の帆柱に
網代帆を上げていたのは間違いないでしょう。



近鉄線がどうして遺跡を縦断しているのだろうか?

近鉄電車の前身・関西急行鉄道は1910年奈良軌道として設立され、
翌年大阪電気軌道に改称、生駒トンネルが完成して、
1914年(大正3年)上本町〜奈良間が開業された。

棚田嘉十郎や溝辺文四郎の努力により「平城宮趾保存会」が
1906年発足したが、内務省から平城宮跡が史跡として
指定を受けたのは、1922年(大正11年)のことであった。

県民や県外の観光客らを対象にアンケートを実施
平城宮跡を東西に横切る近鉄奈良線の移設をめぐって、県が初めて、県民や県外の観光客らを対象にアンケートを実施している。移設は長年の検討課題だが、ハードルは高いまま。県は県民らの生の声を参考材料にしたい考えだ。

 近鉄によると、奈良線は1914年に上本町―奈良間で開通した。80年代に奈良市や県、当時の建設省、近鉄の4者が大和西大寺駅周辺の「開かずの踏切」解消を目指し、駅の高架化や宮跡内の線路の地下化などを構想した。しかし、膨大な事業費や文化財保護がネックとなって実現しなかった。

 荒井正吾知事は3年前の知事選で、駅と宮跡内の線路の地下化推進を公約に掲げて当選。国土交通省が2年前に策定した国営公園化の「基本計画」は、景観や来園者の安全確保に配慮して線路の移設を前提とし、具体的な移設計画は「県が主体となって検討を進める」とまとめた。

 ただ、移設には困難が伴う。県は近鉄と技術的に可能な移設方法を検討してきたが、宮跡地下に構造物を造る場合、地下水の変動で地中の木簡に悪影響が懸念され、高架にすると景観を損なう。「成案を見いだせずにいる状態」(都市計画室)だ。

 また、特別史跡内を電車が走る独特の光景は珍しく、「車窓から朱雀門と大極殿の両方が見られるのは魅力」(仲川元庸・奈良市長)との声も多い。

 アンケートの質問は、(1)移設する場合、何を優先的に配慮すべきか(2)近鉄線が通過していることをどう思うか――の2問。県の鳥居宏行・都市計画室長補佐は「結果を分析し、できるだけ早期に事業費を含めた幾つかの移設案を示したい」と話す。  (asahi.com 2010.11.23)
第一次大極殿


高さ27m、正面幅44m、側面幅20m、直径70cmの朱色の柱44本、
屋根瓦9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿
高さ27m、正面幅44m、側面幅20m、直径70cmの朱色の柱44本、
屋根瓦9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿


大極殿から朱雀門を遠望する


第二次大極殿
和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められました。元明天皇が律令制に基づいた政治を行う中心地として、飛鳥に近い藤原京から都を移したのです。中国・唐の長安城などを模範とした都をつくることは、当時の東アジアの中で国の威厳を示す意味もありました。

その後、聖武天皇は740年から745年まで、都を転々と移しますが、745年には再び平城京を都としました。そして長岡京に都が移る784年までのあいだ、奈良の地が都として栄えたのです。この時期を奈良時代といいます。
740年、聖武天皇は、平城京から恭仁宮(現在、京都府木津川市)へ都を移したため、一時期、恭仁宮は平城京の時代に都だった。745年、再び、聖武天皇が平城宮に戻ってからは、第二次大極殿で儀礼を行なった。

現在、基壇(東西46m、南北24m)部分だけが復元されている。東に若草山を背景に東大寺と二月堂の屋根が見える。西には遠くに生駒山がそびえている。遠くに緩やかな山々の稜線が見わたせる。
天平12年(740年)、聖武天皇が平城京を捨て恭仁京に遷都すると、現地の西北に建てられていた朝堂院の正殿である大極殿(第一次大極殿)も恭仁京へ移築され、平城宮から持ち出されます。もっとも、天平15年には紫賀楽宮へ、天平16年には難波京へ遷都、天平17年にはまた平城京へ都が戻っています。

恭仁京へ移築された平城宮大極殿はそのまま現地に置かれて山城国国分寺金堂とされたために、再び戻ってきた平城京には大極殿が不在でした。そのためにもとは朝堂院の一角であったこの場所にあった建物を建て替えて大極殿としたとされます。こちらが第二次大極殿跡と呼ばれる遺構で、現在は基壇と柱跡が復元されています。

内裏の南には第二次大極殿の基壇があります。上ってみるととっても眺めがいいです。かなり急な階段を上ります。段の上からは、第二次朝堂院があった草原が一望でき、遠くに朱雀門が見えます。近鉄の電車が時々通過していきます。

大極殿の周囲は築地回廊で囲まれていました。正月には大極殿前庭に七本の宝幢(ほうどう)が立てられて諸臣の朝賀が行われたのですが、第二次大極殿跡に立ってみると、正面に木の太い柱が並んでいます。これが七本の宝幢をあらわしています。
遺構館へのルートの左手に、宮内省の建物が復元されています。宮内省では天皇家のために仕事をしていました。瓦葺の正殿を中心に、桧皮葺の脇殿や倉庫など6つの建物があります。
遺構展示館
この平城宮跡は300年掛けて発掘調査が進められているという。
これからの調査で、またどんな新発見があるか楽しみとしておきましょう。
帰りは、奈良交通バスでJR奈良駅まで
駅に着いたら、12時30分を回り、
早速、昨日と同じすし屋で、豪華なすし定食を頂いた
京遊会の皆さん、2日間の奈良旅行、如何でしたか?
来年も元気にお会いしましょう!

最後までご覧いただき有難うございました。

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