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よもやま瓦版 (2004年) |
今日の話はなんでっか? バックナンバー |
平田語録100号 今日の一言 |
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瓦版 2008年 4月号 バックナンバー | ||
108 | 4/30 | =徐福伝説の謎・・・徐福は日本に何を伝えたのか?= |
107 | 4/28 | =稲の伝播は朝鮮半島経由ではなかった?= |
106 | 4/26 | =霧の「重み」を知る道元禅師は= |
105 | 4/25 | =輪廻(りんね)= |
104 | 4/24 | =健康なときこそ病気の苦しみを思い出すべし= |
103 | 4/23 | =星田旭縄文遺跡= |
102 | 4/22 | =縄文時代って= |
101 | 4/21 | =時代区分= 時代の「区切り」はどうやって決めた? |
100 | 4/19 | =黄泉国神話= |
99 | 4/18 | =三種の神器= |
98 | 4/17 | =市・町・村、そもそもどうやって決まった単位= |
97 | 4/16 | =琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)= |
96 | 4/15 | =備えあれば憂いなし= (益軒養生訓シリーズ:その2) |
95 | 4/14 | =健康は限りないチャンスを人生に与える= |
94 | 4/12 | =「末期(まつご)の水」を最期に飲むこんな理由= |
93 | 4/11 | =古事記・日本書記概要= |
92 | 4/10 | =「古事記」と「日本書紀」= |
91 | 4/9 | =前方後円墳の成立をめぐって(その4)= |
90 | 4/8 | =前方後円墳の成立をめぐって(その3)= |
89 | 4/6 | =前方後円墳の成立をめぐって(その2)= |
88 | 4/5 | =前方後円墳の成立をめぐって(その1)= |
87 | 4/4 | =三世紀の弥生墳墓=(その3) |
86 | 4/3 | =三世紀の弥生墳墓=(その2) |
85 | 4/2 | =三世紀の弥生墳墓=(その1) |
84 | 4/1 | =4月1日虚虚実実= |
2008.4.30 発行(108) =徐福伝説の謎・・・徐福は日本に何を伝えたのか?= 稲と稲作の技術が、中国大陸の揚子江下流から直接、舟で北九州にもたらされたと考え、その時期が紀元前三世紀ごろとみたとき、ひとつの伝説との奇妙な一致に目をみはらされる。その伝説とは、徐福伝説である。 Q:徐福というのは A:中国の秦の時代の人で、秦の始皇帝から不老不死の薬をさがすことを命ぜられ、日本 に渡ってきたといわれる人物である。 Q:日本各地に徐福を祀る神社や伝説地がありますが A:はい、それは北は青森県から南は鹿児島県にまで広がっています。 Q:分布の仕方は A:舟で渡ってきた人らしく、海岸部に圧倒的に多い。 しかも、それぞれの伝説地では、焼き物の技術をもたらした神として祀られたり(三 重県熊野市波田須の徐福神社)、捕鯨の技法を伝えた神として祀られてたり(和歌山 県新宮市の阿須賀神社)しているのである。その他、織物をもたらした神として祀られ ているところ(山梨県富士吉田市の太神社)も知られています。 *この徐福伝説のルーツは司馬遷の著した『史記』である。その「秦始皇帝本記」紀元前 219年にあたる部分のところに興味深い記述がみられます。 Q:その興味深い記述とは A:原漢文を読み下したものに「斉の人、徐市等書を奉りていう、海中に三神山あり。 名づけて蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)という。僊人これに居る。 請う、斉戒して、童の男女とともにこれを求むるを得ん。徐市を遣わして童の男女数千人 を発し、海に入りて僊人を求めしむ。」となる。 Q:ここでは、徐市といっているが A:徐市は中国音では「じょふつ」と読むので、徐福と同一人物をさすことはいうまでも ないこと。徐福は童の男女数千人を引き連れ、海中の蓬莱・方丈・瀛州の三つの 神山に住む仙人に会って不老不死の薬を得べく、出発したというわけである。 Q:これだけの文章では行き先を日本とすることは難しいのでは A:日本に広汎に分布する徐福伝説の存在は、徐福がめざした地が日本であったことを 推定させるに十分である。 もっとも『史記』「淮南衡山列伝」に、「皇帝おおいによろこび、童の男女三千人を遣し これに五穀の種と百工をおくりて行かしむ。徐福、平原広沢を得て、止まりて王となりて 来らざりき。」と記されているのである。 =編集後記= ここにある「五穀の種」に注目し、この五穀の種のひとつに稲も含まれていたのではなかろうか。次号に続く。 =了= 2008.4.28 発行(107) =稲の伝播は朝鮮半島経由ではなかった?= 上海説?ベトナム説?―ベトナム語で稲をイネップというが・・・。 稲作が縄文時代晩期の段階から北九州の一部の地域ではじめられた。 もちろん、その全面的展開は弥生時代に入ってからである。 弥生時代は、紀元前三世紀ごろから紀元三世紀までの期間をいい、土器形式の研究から前期・中期・後期の三つに区分して考えるのが普通である。 その文化を弥生文化というわけだが、縄文式土器とは異なる弥生式土器の出現に加え、稲作と鉄器とによって特徴づけられているが、今号では稲作からみていくことに。 Q:稲の日本への伝播については A:これまでは、中国の華北から朝鮮半島北部に伝わり、さらに朝鮮半島南部から北九州 に伝わったとされてきました。 Q:伝わったとされたということは A:ところが、中国における考古学・古代史研究がさかんになるにつれて、華北や朝鮮半 島北部は日本で栽培されているジャポニカタイプの稲作に適さない地域であることが 明らかにされ、従来の通説は否定された。 Q:では、稲はどこから、どういうルートで日本にもたらされたのだろうか。朝鮮半島経 由説を否定されると、考えられるルートは A:二つある。一つは、中国の揚子江下流域、すなわち上海付近から舟で直接北九州にも ちこまれたとする考え方である。 Q:では、もう一つは A:中国の南部、すなわち福州とか広州、さらにはもっと南のベトナムの方から、台湾・ 沖縄諸島・南西諸島を経て南九州に伝播したととらえる考え方である。 Q:ベトナム方面から比較的簡単に渡来できることを雄弁に物語っているものとしては ポートピープルもその一つですか A:そうですね。100人〜150人乗り小さな船で長崎列島付近に漂着し、社会問題化 したことがありました。 Q:ベトナム語で、稲のことをイネップというそうですね。 A:はい。ただこの中国南部、ベトナム説には難点が Q:難点とは稲作技術が南九州に上陸したとされていることですか A:仮にそうであれば、弥生時代の初期あるいは縄文晩期の稲作遺跡が南九州にあっても よさそうなものだがそれがない。 Q:中国南部、ベトナム説には無理があるとするなら次に考えられるルートは A:揚子江の下流付近から直接、北九州へ伝播したと考えるのが一番確かなのではないか。 日本の歴史がわかる本 小和田哲男著より =編集後記= では、最初に交野で稲作が行われたところは、いつごろ、どこだったのでしょう。 寺村(今井)・私部城遺跡・星田坊領遺跡・・・なの? 続く。 =了= 2008.4.26(106) 発行 =霧の「重み」を知る道元禅師は 「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」という一言を残している= 人生もまたそれと同じだと言うのは霧の中を歩いていると、濡れるともなく濡れぬともなく、知らず知らずのうちに、衣服が湿ってしまい重くなってくる。 どんな仕事をしているか、どんなことに日頃触れているか、日頃どんな人と付き合っているか・・・。それが、いつしかその人の身にしみついてしまうのです。 美しいもの、清らかなことに触れていると、だんだんと自分も、ほんの少しずつですが心豊かになっていきます。逆もまたしかりです。 いつからそうなったのかわかりません。急に、そうなったものでもありません。 いつの間にか、知らず知らずのうちに身につけていくから、実は最も恐いといえます。 そして、本当の霧とは私どもの心の内にあると思います。 日頃、何を思い続けているか、何を善しとして物事を判断しているか。 それこそが、私たちをしっとりと湿らせ続ける霧ではないでしょうか? =編集後記= 道元(1200〜1253)「観月の御影」と呼ばれる有名な肖像画が残っている。 眼差しを上に向け、月を眺めている姿をうつしたものだ。道元は坐禅の厳しい指導者であったが、自然を愛し、和歌に月を詠みこむことも多かった。澄んだ月の光は、悟りの境地の比喩でもある。宗から曹洞宗を伝える。道元は権力者を避け、修業と弟子の指導に生涯を捧げた。 =了= 2008.4.25(105) 発行 =輪廻(りんね)= 古代インドをはじめ、多くの国で「輪廻=生命の循環」は信じられてきた。 ブッダは、苦しみの輪廻の循環から抜けることが救いだと説いた。 「輪廻転生(りんねてんしょう)」という考え方 輪廻はサンスクリット語で「流れ」「循環」を意味する「サンサーラ」の漢訳だ。 古代インドでは人にはアートマン(我)と呼ばれる魂があり、その魂が死後の世界に生まれ変わるといわれた。このことを「輪廻転生」という。 これは特殊な考え方のような印象を受けるが、魂が死後の世界に転生するという観念自体は世界の多くの民族にもあるもので、今も死後の世界があると感じている人は多い。 釈迦はアートマンが固定的な実体をもつものとしては存在しないと説いた。 また、死後の世界について異教徒から論争を挑まれたとき、沈黙をもって答えとした。そのことを「無記」という。死後の世界は不可地の領域にあり、いたずらに論議すれば人を惑わすからだ。しかし、輪廻を否定したわけではない。生存のありようは、その人自身の行い「カルマン(業)」の蓄積によるが、それはこの世にとどまらず、過去・現在・未来の三世にわたって流れつづけていくからだ。ただし、釈迦はその最後の旅の途上で、「聖なる流れに踏み入った人ならば、だれであっても悪いところに生まれるはずはない」と繰り返し、ブッダとともにある者の幸を告げたという。仏教では輪廻の世界を地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六道に分ける。そこは苦の世界だといい、抜け出すことを目指す。 日本の死生観 『古事記』で語られる古い日本の死後の世界(黄泉)は地下の暗いところだった。そこに仏教は輝かしい仏の国(浄土)のイメージをもたらしたが、同時に地獄の恐怖も教えた。ただし、地獄とはいえ苦は永遠ではなく、地蔵菩薩などの救い主が現れるところがキリスト教・イスラム教の地獄とは異なる。 =編集後記= 今では礼場がなくなり駐車場となっている。これで市内墓地の礼場は姿を消した。 2008.4.24 発行(104) =健康なときこそ病気の苦しみを思い出すべし= 「病気がなく健康なときに、かねてから慎み予防すると病気にはならない。病気になってから薬を服用しても、病気はそう簡単に治らないのである。小欲を慎み自制しないと大病となる。小病を慎むことは大変なことではない。大病となったら、苦痛や苦しみは多い。健康なときにこそ、病苦の状態を思いやって、病後の災いを恐れることである」 益軒は、平時の心掛けとして、常に「病想を作す」という古語を引用し、病気がなく健康なときに病気になったときの苦痛を想い、外邪を防ぎ、酒食・好色などの内欲を自制して、身体の動静に心をくばることが肝心だと考えている。また「安閑の時、常に病苦の時を思え」という古詩を引用しているが、これも同じ意味であろう。 「病を慎む」―――病気に気をつける。 病気は生死にかかわるもので、身体にとって非常な事態である。聖人が、かつて言った「病を慎む」ことを忘れるなと、益軒は教える。 =編集後記= バックNo95号に続く貝原益軒の養生訓・人間は誰でも避けて通れない「生・老・病・死」健康なときこそ慎みと感謝の気持ちをもって明るく・楽しく・元気よく暮らすこと。 貝原益軒60歳の春、元緑二年(1689)二月十日、私市仁左衛門の家に泊まった。 25代目当主はH7年にこの地を離れた。現在、建物は取り壊されて駐車場となっている。 2008.4.23 発行(103) =星田旭縄文遺跡= 交野において、神宮寺遺跡に続く縄文時代の遺跡が星田旭遺跡であるが、この二つの遺跡の間には、5000年もの長い年月の隔たりがある。 この間、交野が原に人がいたことは十分に考えられるが、これまでその期間を埋める遺物や遺構は全く発見されないので、両方の遺跡の結びつきについては今のところ不明である。 星田傍示川に架かる大谷橋から上流へ1`ほど行くと右手に、きんもくせい特別養護老人ホームの建物があり、その行く手に星田新池の堤防が見える。(最近この付近一帯も住宅地と移り変わってしまいました。) 大正三年に星田新池が出来るまでは、この付近は沸底や地獄谷から湧き出た清水が合流するところであった。遺跡の存在する位置は、この二つの谷に挟まれて、少々高くなった三角形に突き出た花崗岩崩石層の台地で、標高100bほどである。 遺跡発見当時は畑であった。遺跡は明治41年4月に(故)片山長三氏によって発見された。 遺跡周辺図 大阪府下の遺跡では、この星田旭遺跡以外に、高槻市の柱本遺跡、大阪市の森の宮遺跡東大阪市の馬場川遺跡や縄手遺跡など当時の河内湾に近接した地点の遺跡からこの種類の船元式土器が出土しており、船を利用した交易路が縄文中期に存在していたことを物語っている。 星田旭遺跡碑 (現)きんもくせい養護老人ホーム 新池へ 住宅地 =編集後記= この調査地の他にも、新池の中にある南からの突出部より多くの土器が出土したことが聞き書き記されている。 明治の末から大正の初めにかけて新池が築造されたとき、現在は池の底となっているが、南の山林から北の谷に延びている尾根の所から、土器に入れられた和同開珎を発掘し、旭の山の西の麓で発見された竪穴住居跡からは貝殻に入れた中国古銅銭の貨泉を発掘した。 星田写真史話(西井長和著)より =了= 2008.4.22 発行(102) =縄文時代って= Q:長い長い縄文時代って A:約1万年にも及ぶ時代、人々が定住しはじめ、食物を栽培し、動物を狩り始めたころ。 Q:縄文は土器でも6時代に分けられると言われていますね。 A:土器でみた縄文時代の流れは次表のとおり(早わかり日本史より) 交野では、今から約9.000年前、神宮寺の東南、交野山の谷の口に神宮寺式土器 及び石器をもった人々が住んだ。その土器は尖底土器で、石器には石鏃(せきぞく)と 掻器があり、炉跡および墳墓かと思われる環状い仕組みを残した。 Q:尖底土器って、どんなものですか? A:神宮寺遺跡からは壺の底が尖っている土器です。 Q:神宮寺以外からは縄文土器は出ていないのですか。 A:星田旭遺跡から縄文中、後期時代の土器が出土していますよ。 今から4〜5,000年前の頃、傍示川上流の山麓に縄文中期から後期ま での長期間にわたり人々が住み、暮らしその遺物を残した。 その遺物には石鏃もあり、土器は大きく「ヘラ」描き文様があって、縄文中、 後期の二期に分類することができる。 =編集後記= 星田旭縄文遺跡については次に紹介していきたい。 =了= 2008.4.21 発行(101) =時代区分= 時代の「区切り」はどうやって決めた? 古代、中世、近世、近代、現代というのが、歴史学における大きな時代区分である。 日本史、中国史、西洋史で、それぞれ何年から中世になるかといった時期は微妙に異なる。 最初の「古代」は、文明が始まってから、中世へ移行するまでの期間をいう。 古代の前が原始時代で、その違いは階級社会かどうか。 古代の始まりについては、ヤマト王権がいつ成立したかによって、諸説ある。 古代と中世の違いは、奴隷制度か封建制度かの違いという説が一般的。 日本史では、ヤマト王権ができたあたりから古代が始まり、鎌倉幕府の成立で終わるとする説が多いが、院政の時代ですでに中世に移行しているとの説もある。 「中世」は、鎌倉時代と室町時代をいうのが一般的。そして江戸時代を「近世」、明治以降を「近代」という。 旧石器時代から 最も続いた時代の「期間」はどのくらい? 日本史上、というよりも世界史においても、時間的に最も長く続いたのは、石器時代。 300万年から200万年前に始まり、数千年前に終わったとされている。 あまりに長いのでさらに、旧石器時代、新石器時代に分けられる。 これまでに日本で発見されたなかで、最も古い土器は1万6000年くらい前に作られたものと推定されている。 旧石器時代と縄文時代の違いは、土器があったかどうかと、竪穴住居や貝塚があったかどうかである。 Q:交野にも、旧石器時代に人が住んでいたのですか? A:今から13,000年ばかり前、交野山麓、神宮寺付近に、最初の人が住み、彼らが使用したであろうサヌカイト(讃岐石)製石器が残されている。 旧石器(神宮寺遺跡) 神宮寺集落の東南、石仏の道を登って行くと、第一の石仏・弥勒菩薩坐像が見られ、この石仏の下の畑より採集された。 現在「神宮寺先縄文時代遺跡」と刻んだ石標がたてられている。 昭和31年の発見である。 石仏の道:第一の石仏弥勒菩薩坐像付近 =編集後記= 人類の歴史のなかで、まだ金属を知らなかった時代を石器時代とよび、世界史ではたたいて割っただけの打製石器時代と磨いて仕上げた磨製石器を用いた新石器時代とに分けられる。日本では、縄文時代より前の時代を旧石器時代とよぶことが定着している。 がここ神宮寺では「先縄文時代」とあるが、縄文より先、前の時代だから? まぁええか。 間違っていたらゴメン =了= 2008.4.19 発行(100) =黄泉国神話= イザナキとイザナミの交わりが成功し、淡路島を初めとして日本の島々がつぎつぎと生まれ、さらに家屋、海、川、風、木、山、野などの神々がつぎつぎに生まれた。 イザナミが生んだ島の数は14、神々の数は35であった。最後に火の神カグツチを生んだとき、イザナミはその熱で焼け死んでしまう。「古事記」の話は黄泉(よみの)国(くに)神話へと移る。 イザナキは死者の国である黄泉の国へいき、二人で造った国はまだ完成していないのだから戻ってくれるようにと願うが、黄泉の国のカマドで炊いた食べ物を口にしてしまったイザナミは、もう戻ることができない。それでもイザナミは、神々と相談してくるといって姿を消す。「その間私をご覧になってはいけません」といわれたイザナキであったが、待ちかねて覗き見をしてみると、妻は恐ろしい死体と化していた。イザナキは肝をつぶして逃げだしたが、イザナミは「よくも恥をかかせた」と叫んで起ちあがり、悪鬼ヨモツシコメたちにそのあとを追わせた。 イザナキは妻が差し向ける追っ手から逃れるために、走りながら黒い髪飾りを投げつけた。 すると髪飾りが落ちたところに葡萄(ぐみの実)の実がなる。 イザナキは悪鬼がその葡萄(ぐみの実)を食べる間に逃げた。 さらにイザナミの体についていた雷神が鬼の軍勢を率いて追ってくると、イザナキは黄泉平坂(現世と黄泉国とを隔てる坂)に生えていた桃の木に助けを借りて撃退する。 命拾いしたイザナキは、その桃の木にオホカムヅチと名付けた。 悔しさに満ちたイザナミは夫に向かって言う。 「仕返しに、あなたの国の人を一日に千人殺してしまう」といったが、イザナキは「それなら私は一日に千五百人の子を生み、産屋を建てよう」と答えた。こんなわけで一日1000人の人が死に、1500人の子が生まれことになったのだという。 イザナキは禊をして黄泉の国の穢れを払うため、日向国(現在の宮崎県)の阿波岐原へ行った。そこで、彼は尊い三柱の神を産むにいたる。 左目を洗った時に生まれたアマテラス、右目から生まれたツクヨミ、鼻から生まれたスサノヲの三神である。 =編集後記= 2007.12.20「瓦版:よもやま便り」を発行、村田氏のホームページに掲載させていただき今日で100号を数え、そして新説:黄泉国神話を交野の「かいがけの道」に照らしあわせてみた。そんなアホな・・・とお思いでしょう。夢・歴史・ロマンを交野に求めて・・・。 世の中に山とあるような話、あんなこと、そんなこと・・・などを、思い立ったことを書くことで何か(自分)の参考になればと始めました。これからも慌てず・焦らず・ボチボチと続けて行きます。 編集・掲載にご協力いただいております村田氏に感謝いたします。 =了= 2008.4.18 発行(99) 三種の神器 「三種神器」とは、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称。天皇の地位を象徴するものである。 鏡・剣・玉を権威の象徴とする風習は、弥生時代から一般にあったとされている。 それが制度化したのが、ヤマト朝廷で、鏡と剣は護身の呪物として、いつも天皇の身辺に置き、皇位継承の際には代々伝わる鏡と剣を新天皇にささげる儀式となった。 平安初期までは、三種ではなく、神器は鏡と剣だけの二種だったという説もある。 「古事記」「日本書紀」によって、玉が加えられ三種になったらしい。 八咫鏡は天岩屋にこもってしまったアマテラスを外に引き出すための祭の際に使われた、大きな鏡。それがそのまま現在まで伝わっているとするには、神話の記述そのものが実際にあった出来事だとしなければならない。 三種の神器と定められてからも、天徳四年(960)と寛弘二年(1005)、さらに長久元年(1040)の火災によって焼失しているのでわからない。 草薙剣も日本神話でおなじみである。スサノオがヤマタノオロチを退治したときにその尾から得た剣でもあり、ヤマトタケルが叔母の倭姫命からもらい、火攻めの難を逃れるために使ったとされている。この剣は、源平の争乱の最中の1185年に、安徳天皇とともに壇ノ浦の海に沈んだことは間違いない。 だが、回収されたという説と、沈んだのはダミーだったとか、諸説はある。八尺瓊勾玉はアマテラスが身につけていたとされる装身具。 八咫鏡と八尺瓊勾玉は伊勢神宮に、草薙剣(天叢雲剣・あめのむらまも)は熱田神宮に神体として奉られているが、それが本当に古代からのものなのかどうかについても諸説がある。 「日本史が100倍面白くなる本」より =編集後記= 歴史は小説より奇なり? =了= 2008.4.17 発行(98) =市・町・村、そもそもどうやって決まった単位= 現在の日本の法律では、基礎自治体として、「市町村」がある。 「市」は人口5万人以上で中心的市街地に全戸数の六割以上があるなど、いくつかの条件があって初めて「市」になれる。 「町」は、当該都道府県が条例で人口や産業別就業人口割合などを定めて、町の要件を定めることになっている。 それに対して「村」には何の取り決めもない。つまり、もっとも自然な状態で存在しているのが、「村」といえる。ようするに、昔は、すべて「村」だったのである。 学問的に「村」を定義すると、農業など、自然を対象とした生業に従事する複数の家族からなる社会単位となる。律令制度の行政単位としては「里」「郷」という名称だった。 「町」は、都市の小区画、あるいは小さな都市的な集落のことをいう。 つまり、都市ができて初めて町は誕生したのである。日本史において最初の「町」は、平安京にできたとされている。平安京は碁盤目状の都市として知られている。 東西南北に走る大路によって、平安京は区画されていたが、その南北の単位を「条」、東西を「坊(まち)」と呼んでいた。これを「条坊制」といった。 この制度のなかで、さらに小路によって、ひとつの坊が16の「坪(ちょう)」に区分され、その「坪」の集合体を「まち」と呼ぶことから、「町」が生まれてきた。 やがて、室町時代になると、道をはさんで両側に店を出す商工業者が、区画ごとに自治的な共同体を形成するようになり、これを「町(ちょう)」と呼ぶようになった。 つまり、「町」は最初は組織のことだったのである。 「市」は、最初は「いち」である。ようするに、物資の交換、売買が行われる場所のことをいった。必要に応じて「市」はできていたが、やがて常設化して、固定化したのである。 平安時代中期には、荘園や国衙領の領内に市ができるようになっていた。「市場」が制度として発達したのは江戸時代になってからである。 江戸時代になっても、「市」はあくまで市場のことで、行政単位の呼称ではなかった。 商工業者が住み人口が密集している「町」と、農民が住む集落である「村」しかなかったのである。 1878年(明治11年)に郡区町村編制法によって「区」が生まれ、1888年(明治21年)に「区」にかわって「市」となった。 最初に「市」なったのは、東京、京都、大阪など36の都市だった。 わがまちかたの「市」までの経緯について 明治維新以後、堺県、河内県と管轄が変転したが明治14年大阪府管下となり、同年22年市町村制が公布され、交野村(私部・倉治・郡津)、磐船村(傍示・森・寺・私市)、星田村ができ、昭和14年、交野村と磐船村が合併し交野町となり、その後、昭和30年町村合併促進法の施行により、交野町と星田村が合併し新しい交野町となり、昭和46年11月3日市制を施行した。 =編集後記= 当市は大阪府内31番目の「市」として交野市誕生(人口36.952人)。 2008.4.16 発行(97) =琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)= 石製品の名前には、用途や元になる形とは関係なく、直観的に付けられたものが多い。 琴柱形石製品もそのような形で名付けられた代表的なもので、和琴の弦を調律する琴柱に似ていることから付けられている。なかでも「ハ字形」のものは奈良時代の琴柱に非常によく似ている。さて琴柱形石製品はどのように用いられたのであろうか。 昭和63年8月、交野市寺の東車塚古墳から5個の琴柱形石製品が出土した。東車塚古墳は東西60b、南北15b〜20bの前方後方墳で、南北に存在した木棺(長さ8.1b)の中央部から出土した。 この木棺は長さが8bの大きなもので、剣や工具類、また棺の東端にも農工具類が置かれていたため、木棺の中央部から東にかけて遺体を安置していたのであろう。 そうすると、この琴柱形石製品の周辺には管玉などが多数ちらばっていたことから、管玉などと一連になった玉飾りであったと判断され勾玉と同じような使用方法であったのではないかと思われる。 =編集後記= ペンダントのように琴柱形石製品がたれ下がっていたことになる。 重大な儀式の時に首飾りのように身に付けたのか、あるいは護符のように魔よけの首飾りとして用いたのであろうか。 当時、どのような人が身につけていたのだろう。また、この古墳の墳丘に多くの人たちが集まり、衣服を装飾品で飾り競っていたのでしょうか? =了= 2008.4.15 発行(96) =備えあれば憂いなし= (益軒養生訓シリーズ:その2) 「千里の道も一歩から」ということわざがある。 遠い目的地に行くのも足もとの一歩から始まるように、どんな大事業でも一歩一歩着実に努めなければ成し遂げることはできない。そしてたとえ遠回りをしても、大きな頂きを目指して歩み続ければよいのである。 人生もまた大事業に似ている。若き日々に隆盛を誇っても、晩年、そして人生の最期によくなければ、一生は無駄になるといってもよいだろう。 一刻一刻を無駄にせずに生きることが大切である。「備えあれば憂いなし」人生という大事業を成し遂げるには、ふだんから健康に心がけていれば、万一のことが起こっても少しも心配することはない。『すべてのことに対して努力を傾け、持続すれば、必ず良い結果が得られる。春に種子をまき、夏によく手入れをして育てれば、秋の収穫は豊かになる。養生の方法をよく知り持続して行えば心身は壮健となり、病気になることなく天命を得、長生きし、人生を長く楽しむことができる。これは必然的なことであり、疑うべきでない』健康を持続し、病気をせず楽しく生きていくことが大切だと益軒はいう。健康を持続するということは、もちろん自分を病気から守るという消極的な意味ではない。積極的に生きていくための養生である。中国の書「潜夫論」に、「命を養うものは病の先に薬を求め、世を治むるものは乱れぬさきに賢をならう」という言葉がある。これも、何事にも準備万端おこたりなく努力を持続すれば、人生を成功に導くことができるということである。日頃から健康に気をつけ、鋭気を養え、ということのたとえでもあろう。 新・養生訓より =編集後記= 文と写真、関係ないがサロマ湖100km、ランナーたちの長い一日・・・日頃の練習「備えあれば・・・」100`マラソンも、まずは一歩から。 =了= 2008.4.14 発行(95) =健康は限りないチャンスを人生に与える= 「世の中には、地位や財産のみを欲深く望み、人にへつらい神仏に頼んだりする人が多いが、そうした努力は無駄である。 無病長生を願って養生をし、健康を保とうとする人はまれである。地位や財産は自分自身よりも外的な条件に左右され、これを求めても運がなければ得られるものではない。 しかし、無病長生は自分自身に深くかかわるものであり、求めれば得られるだろう。得がたいものを求め、得やすいものを求めないというのはなぜなのだろう。 愚かなことといえる。たとえ莫大な財産を得たとしても、病多く短命ならばどうにもならない。」 貝原益軒は、財産・地位名声を人生に求めても、これは自分自身の努力の他に、社会的条件、天命・運が加味され、すべての人が一様に求められるものではないという。 これに対して健康長生は、一人の人間が努力しさえすれば獲得することができると語る。 健康長生によって地位名声・財産では求められない前向きな人生を得ることができるととも言っている。たとえ財を得ても、多病で短命なら人生を楽しむこともできない。求めても得がたい財を求めるのは愚かなことであるという。 神精を真剣に楽しむため、積極的で意義のある人生を過ごすためには、何といっても健康第一でなければならないと主張しているのである。 健康だからこそ、人は自然を味わい、読書にふけり、若さを保ち、恋をし、創造的に仕事を発見し、社会の中での役割を失わないでいられる。 すなわち活き活き生きることが可能になり、これが人生すべてに対して好い影響を及ぼしていくのだ。 「健康は限りないチャンスを人生に与えてくれる」 新・養生訓 斎藤茂太著より 貝原益軒(1630−1714) 江戸時代の儒学者であり、博物学者、教育家でもある。福岡藩士の子として生まれ、名を篤信という。生涯を通じ、長崎、江戸、京都などに遊学をし、さまざまな学問を学んだ。 「南遊紀行」から、元緑二年(1689)二月十日朝、京都東洞院の宿を出た益軒は、淀から八幡へ、洞が峠へと東高野街道を田口から郡津へと向かっている。獅子窟と岩船をみるために私市への道をたどり、この日は私市農長・仁左衛門の家に泊まっている。 旅する益軒 =編集後記= 益軒の「養生訓」、現代人のための健康の智恵を瓦版「よもやま便り」に取り入れながら健康で楽しい日々を過ごしていきましょう。 =了= 2008.4.12 発行(94) =「末期(まつご)の水」を最期に飲むこんな理由= 人が死ぬ最期の瞬間に、医師が臨終を告げると、家族はまっ先に死者に末期の水をとらせる。末期の水は、もとは仏教の儀式であったが、いまでは宗旨にかかわりなくおこなわれている。葬式において、水はさまざまな役割をうけもっている。 末期の水は、よく世間でいわれるように、清めの水でも、あの世とこの世を分ける水でもない。これは、あらゆる飲食物を象徴するものだ。 これから後、物が食べられない死者と、最後の食事をともにして送るのが末期の水である。死者は水が飲めないため、形式上、しきみの葉に水をつけて一滴落とすのである。 だから、死にたち合ったすべての者が末期の水をとる。本人と血のつながりが濃い肉親にはじまって、近親者、友人へとまわしていくのだ。これは、死者のあの世の魂が、この世に残る者たちの魂と通じ合うことを願って、食物をわけあうのである。 =編集後記= 倉治には「蟹川の泉」のほかに、新助坂の湧水があったが、平成元年頃に枯れた。 末期の水は新助坂の方であって「蟹川の泉」は白粉水とも言われている。 =了= 「蟹川の泉」は関西電力枚方変電所北側の住宅街にあります。 2008.4.11 発行(93) =古事記・日本書記概要= 日本の誕生から天皇による治世を描いた二大古典 「古事記」と「日本書紀」。この二つの書物はしばしば合わせて「記紀」と称されている。 二書はともに日本の誕生から書かれており、冒頭は八百万(やおよろず)の神々が神秘的なドラマを織り成す。やがて神の子孫である人間が登場し、次第に神話から歴史へと移行していくのである。 歴史といっても、事実をありままに記録したものではない。初代天皇の母は海神の娘だったという話一つをみてもそれがいわゆる史実ではありえないことは明らかだ。 しかし、ギリシア神話におけるトロイの街が実在したように、「記紀」の神話や物語の背景には、数世紀におよぶ古代王権誕生の歴史のドラマが存在していることも間違いない。 その上、古代人の世界観や精神、生活が如実に現われているのだから、興味は尽きない。 国内向けの「古事記」と海外向けの「日本書紀」 これら二書が編纂された背景には、7〜8世紀における日本国成立という歴史的事実がある。この際に、天皇家が自らの統治の正当性を説明しようとしたのだ。 ともに時の権力者・天武天皇の命によって編纂が開始されているのだが、この二書は重複する箇所や似通った箇所が非常に多い。なぜわざわざ内容の似た書を二つも作らせたのか。 ☆「記紀」以前にも、『帝記』、『旧辞』と呼ばれる書物があった。『帝記』、『旧辞』には、天皇の系譜や事績、神々や英雄の物語が描かれていたようである。だが、長い年月を経るに従って修正が加えられ、天武天皇の時代には本来の歴史が失われかけていた。 そこで内容を調べ直して再編集されたのが『古事記』なのである。 ☆まず、天武天皇が稗田阿礼(ひえだあれい)に『帝記』、『旧辞』を読み習わせた。阿礼は記憶力の優れた舎人(とねり)とも巫女ともいわれ、この人物が覚えた内容を、当時の優れた学者であった太安万侶が筆録して、和銅5(712)年正月、元明天皇に奉った。 ☆上・中・下巻からなる『古事記』は、物語の様相が強く、神話時代に重点を置きながら、天皇家の歴史を語る。そして、その由来がほぼ語り尽くされた第二五代武烈天皇以降は、系譜や事績のみの記述にとどまっている。日本語重視の文体で書かれており、天皇家の正当性を国内で誇示するために作られたものといえよう。 ☆一方、「日本書紀」は、天武天皇の治世、天武10(681)年に川島皇子・忍壁(刑部・おさかべ)皇子ら12名によって着手され、養老4(720)年5月に舎人親王が奏上したといわれている。漢文の記述や編年体の体裁から、海外、とくに中国王朝に対して自国の正史を伝える書物と位置付けることができる。資料は『帝記』、「旧辞」のみならず、中国・朝鮮の史書、諸誌や地方の伝承、政府の記録などあらゆる書物が用いられた。 ☆異伝についても注記があり、その量は30巻にもおよぶ。『日本書紀』には持統天皇が譲位した697年8月までが記載され、『古事記』同様、年紀や事柄もすべて事実とは言いがたいものの、完成直後から朝廷では初の正史として尊重された。 =編集後記= 年紀や事柄もすべて事実とは言いがたいものの、初の正史として尊重された「古事記」「日本書紀」から天地創造の世界を読んでみたい。 =了= 2008.4.10 発行(92) =「古事記」と「日本書紀」= 「古事記」と「日本書紀」が完成したのは今から約1300年前。 「古事記」は712年、「日本書紀」は720年。ただし、両書ともに本格的に編纂が始まったのは七世紀末、古代最大の内乱(壬申の乱、672年)に勝利した天武天皇の時代であった。天武朝は時代の大きな転換期であった。この列島に「日本」という国が誕生したのも、その国の支配者が「天皇」と名乗ったのも、天武天皇の時代だったと考えられている。天武天皇は実質的に最初の「日本天皇」だったことになる。 「古事記」 「日本書紀」 日本という国名は「太陽の根源」、あるいは「太陽に降り注ぐ良き所」を意味する。 その理念は、この国を治めるのは太陽神アマテラスの直系の子孫であるという「記紀神話」の考え方と重なる。 天武天皇を「高照らす日の御子」と称えた例も「万葉集」にはある。 「記紀神話」では、アマテラスの子孫はまた、豊かな稲の実りの象徴でもあった。 地上にはじめて天ふってきたのはホノニニギ、ニニギニの父の名はオシホミミ、降下したのはタカチホの峰、ここに共通する「ホ」という言葉は稲穂を意味する。 ニニギが降臨した地上世界は、「豊葦原の瑞穂の国」と称えられた。葦茂る湿地帯は実際に、最も稲作に適した生態系を持っているという。太陽が降り注ぐ葦茂る水辺に、稲穂の霊力を帯びた神が降臨する。そこに豊穣な世界の起源を幻想する。「日本」という国号の背景にはそうした世界観がある。 この世界観は、弥生時代以来の長い稲作文化の伝統の中で培われたものだろう。しかし、新たに誕生した「日本」は、中国渡来の法体系(律令)と官僚機構によって成り立つ新しい国家を標榜した。律令だけでなく、儒教や仏教など、新たな外来の先進文化が「日本」誕生を促す大きな契機となったと考えられる。 中でも文字文化の普及は時代の変化に拍車をかけた。律令も儒教も仏教も、文字に書かれたテキストを伴って伝わったからだ。「日本」という国号自体、文字(表意文字としての漢字)なくしては意味をなさない。「ニホン」や「にほん」と書いたのでは、その意味は表せない。無文字の時代から文字の時代へ。巨視的にいえば、「記紀」が編纂された時代は、そういう時代の転換期でもあった。村の歴史や国の歴史も古くは口誦の物語として伝えられていただろう。「古事記」や「日本書紀」が書き記す「歴史」の背後には、そういう長い時代の歩みが息づいている。 ただし、「古事記」が描く世界と「日本書紀」が描く世界とでは、その風景がかなり違っている。ともに古代王権の「歴史」を描いていても、「歴史」への眼差しは大きく異なっている。 図説「古事記と日本書記」坂本勝著 「はじめ」より =編集後記= 古事記と日本書記は何が違うのか、日本の神々と古代史の関わりとは、そして交野との関わりを探ってみたらおもしろいのではないか? =了= 2008.4.9 発行(91) =前方後円墳の成立をめぐって(その4)= 前方後円墳は、弥生墓に対して、墳丘を大型化し、葺石を多量化し、見せる側面を最大限重視して装いを整えた。前方後円墳の墳丘をさまざまな要素に分解してみると、ほとんどが各地の弥生墳墓のなかに源流をたどることができる。その要素は、前方後円墳の成立に向かって、段階的に発達したのではなく、各地から集められ、すべてが一気に飛躍をとげた。その結果、断絶を感じるまでの墳丘が創出されたように見える。 弥生墳墓から引き継がなかった要素に、方形周溝墓や纏向石塚などに見られる周濠がある。 最初の前方後円墳には周濠が造られず、間近に巨大さを体感させるために、周濠を排除したのであろうか。 さまざまな要素が弥生墳墓からたどれるのに対して、前方後円墳の段築成は、弥生墳墓のなかに源流を見出すことはできない。墳丘を巨大化するのにあたって、何段かに分割して積み上げる技術上の制約があったかもしれないが、やがて三段に定式化する。 同時に、方形が一般的で、円形が稀であった弥生時代の墳墓から、前方後円墳成立に際して、円形優位の墳丘を創造していった。 また、定式化された前方後円墳といった言い方で、平面形の類似や、相似形を各地の古墳から見ることができる。たとえば箸墓古墳の約1/2が浦間茶臼山古墳であったり、整数比で何例かの古墳を関連づけることができる。前方後円墳創出にあたって、設計図が造営の基本となったであろうことは、最古段階から各地に相似形の古墳が分布することから、充分考えられることである。 弥生時代の墳墓が類似形態の平面形を造れたにせよ、ここにも技術導入があったことをうかがわせる。規や矩(く)といった測量具を手にした渡来人が築造途中の前方後円墳の傍らで指揮している光景を想像してみたくなる。 弥生時代からの系譜だけでは追えないこれらの点を、中国大陸からの思想や技術導入があったと考えることはできないだろうか。 =編集後記= 箸墓古墳複元模型。右半分は現在の、左半分は築造当時の姿が複元されている。 2008.4.8 発行(90) =前方後円墳の成立をめぐって(その3)= 弥生の墳墓の平面形が方形を基調とし、円形が稀な点、しかも正円、正方形を意としたものが全くないことから考えて、巨大な後円部の正円形を基調とする前方後円墳が、単純にこのような弥生墳墓から発展したとは考えにくい。また弥生時代、円が方に対して特別視された証拠もない。前方後円墳の謎のひとつ、前方部の起源は、原初形態的な突出部を持つ墳墓が弥生時代のなかに求められる。それらは、いずれも主墳丘に対して低く、あたかも祭場から墳丘への通路的役割を担って造られているかのようである。 弥生墳墓の突出部が高さ50a内外なのに対して、前方後円墳の前方部は、後円部に対してやや低いもの、端部に高まりを造り、通路とは隔絶した役割を与えられたようだ。 墳丘の規模については、弥生墳墓が楯築遺跡の全長80bのものを最大級に対して、前方後円墳は、その成立時点から箸墓古墳の全長276bにもおよぶ巨大な墳丘を造り、それが平面的な大きさばかりでなく、側面観、地上に立って見上げたときの高さにも及び、見るものを圧倒する。ここに弥生時代の墳墓と前方後円墳のあいだに視覚的な断絶が存在する。また、例外的なものを除いて、前方後円墳の墳丘斜面部に葺石が葺かれ、完成時には石積みの山のように見えたであろう。土築の墳丘に石を置くといった技法から、四隅突出墓の貼石が、古墳の葺石の形態にもっとも類似している。巨大化した古墳に採用されたことから、単に盛り土が流出するのを防止しただけでなく、他の精神的意味をも考える必要があるのでは。 =編集後記= いくらミニといっても葺石の貼り付け、固めに苦労します。当時の工程が造ることによってわかってきます。アホなことですが、アホにならないと出来ないことも。 =了= 2008.4.7 発行(89) =前方後円墳の成立をめぐって(その2)= 弥生時代の墳丘墓の墳丘は、盛り土を持つものが通常である。10〜20b規模の方形墳が通常で、円形に造るものは稀である。方形の墳丘は、正方形あるいは不整な方形のものが大多数を占める。 弥生時代中期後半以降、方形の墳丘の四隅を発達させるものが現われ、やがて定式化して出雲に分布の中心を持つようになる。この四隅突出墓は、独自の墳丘形態を発達させ、墓域を区画するための列石を置き、墳丘を表飾するかのように墳頂部端にまで貼石を葺きあげる。岡山県東部や兵庫県西部で円形の墳丘に一方あるいは二方向に列石を持つ突出部を設ける墳墓が現われる。 方形優位の弥生墳墓のなかで、特異な存在といえよう。この中で、岡山県宮山墳墓には、墳丘の一部や突出部との接合点に葺石が見られ、部分的ではあるが、この地域にも石を用いた墳丘表飾の一例が見られる。また、墳丘を土で造るのではなく、石を積み上げる積石塚は、香川や徳島の一部で弥生時代後期後半に出現する。 墳丘の形態は、墳丘を石で構築するといった点を除いて、前述の墳墓の変化と軌を一にしている。石築の結果として、外見上は四隅突出墓の貼石と同じ視覚的効果をもたらしている。近畿地方では、弥生時代後期後半から前方後円墳の成立までの墳墓の実態については不明な点が多いが、奈良県の纏向石塚のように不整な円形の主丘に短い撥形の突出部を設け、溝で区画した墳墓がその代表例になるものと考えておきたい。 このように、弥生時代後期後半以降、円形の墳丘に突出部を持つもの。方形の墳丘に突出部を持つもの。それに溝をめぐらすもの、めぐらさないものとがある。 突出部は主丘に対して低く、高さや形が定形化しておらず、あたかも通路状に付設された施設のようにも見える。この中からやがて古墳の前方部につながっていくものが現れる。 =編集後記= 交野からは、まだ弥生墳墓は見つかっていない。第二京阪国道建設用地内(私部南遺跡)から、弥生時代前期末から後期前半の遺構・遺物が各調査区で散見されているとの報告がありました。墳墓があっても不思議ではない。建設用地内を越えたところに墳墓が造られたのか?まだまだ、これからの調査に注目! =了= 2008.4.5 発行(88) =前方後円墳の成立をめぐって(その1)= 弥生時代以来、個人の死にあたり、土を盛り上げて造る墳墓の伝統があった。 前方後円墳もこの系譜のなかで造られたものである。前方後円墳の墳丘の平面形・立面形などの視覚的な側面がどのような系譜のもととに成立したのか、弥生時代の墓制からたどる作業が多くの先学たちによってなされている。 最古の前方後円墳の姿 前方後円形という形がどのようにして成立したのか、弥生時代の墓制との比較をするためにも、最古の前方後円墳の形がどのような特徴を持っていたのかを知る必要がある。 もっとも古い前方後円墳のひとつである箸墓古墳を参考にして、その形の特徴を抽出してみよう。 古墳を上から見た平面形は、正円に作ることに意を用いた後円部と、前面に向かって側面が開く形態の、つまり三味線の撥(ぱち)のような形をした前方部が造られる。 側面観は後円部が高く、前方部は後円部に較べて低いが、先端部に高まりを持つ。 墳丘は、一気に積み上げるのではなく、途中に平担面を設け、それが箸墓では四段認められ、墳頂部に円形の墳を設ける。前方部前面にも「段」が造られ、墳丘を盛り上げるにあたり、斜面途中に段を造ることが特徴のひとつとして認められる。箸墓より少し遅れて、前方部・後円部ともに三段に造る方法が大型古墳がでは定式化する。 また、墳丘斜面部を石で、すべておおい尽くすように、墓石が認められる。古墳は、現在見られる緑豊かな森とは違い、現代建築を思わすような、眩しく輝く石の丘だった。 規模は、箸墓で全長およそ276b、後円部高24b、前方部高15bと巨大な墳丘が造られた。 弥生墳墓の特徴 弥生時代の墳墓の墳丘は、盛り土を持つものが通常である。10〜20b規模の方形墳が通常で、円形に造るものは稀である。方形の墳丘は、正方形に造るものはなく、長方形あるいは不整な方形のものが大多数を占める。 弥生時代中期後半以降、方形の墳丘の四隅を発達させるものが現れ、やがて定式化して出雲に分布の中心を持つようになる。この四隅突出墓は、独自の墳丘形態を発達させ、墓域を区画するための列石を置き、墳丘を表装するかのように墳頂部端にまで貼石を葺きあげる。岡山県東部や兵庫県西部で円形の墳丘に一方あるいは二方向に列石を持つ突出部を設ける墳墓が現れる。方形優位の弥生墳墓のなかで、特異な存在といえよう。この中で、岡山県宮山墳墓には、墳丘の一部や突出部との接合点に葺石が見られ、部分的ではあるが、この地域にも石を用いた墳丘表装の一例が見られる。また、墳丘を土で造るのではなく、石を積み上げる積石塚は、香川や徳島の一部で弥生時代後期後半に出現する。墳丘の形態は、墳丘を石で構築するといった点を除いて、前途の墳墓の変化と軌を一にしている。石築の結果として、外見上は四隅突出墓の貼石と同じ視覚的効果をもたらしている。 近畿地方では、弥生時代後期後半から前方後円墳の成立までの墳墓の実態については不明な点が多いが、奈良県の纏向石塚のように不整な円形の主丘に短い撥形の突出部を設け、溝で区画した墳墓がその代表例になるものと考えておきたい。 このように、弥生時代後期後半以降、円形の墳丘に突出部を持つもの。方形の墳丘に突出部を持つもの。それに溝をめぐらすもの、めぐらさないものとがある。突出部は主丘に対して低く、高さや形が定形化しておらず、あたかも通路状に付設された施設のようにも見える。この中からやがて古墳の前方部につながっていくものが現れる。 =編集後記= 春休み中に孫と一緒に1/100のミニ古墳つくりに挑戦、ただいま奮闘中!完成を目指し現在、最終工程に入っており、完成写真乞うご期待。 築造当時の苦労がよくわかります。 =了= 2008.4.4 発行(87) =三世紀の弥生墳墓=(その3) 副装品にみる古墳への胎動 前方後円墳に見る、多量の中国鏡・鉄製武器・武具・鉄製農工具・玉類・石製品などに比較して、副葬品の種類と量に大きな格差がある。そして前方後円墳のように、墳丘の大きさが副葬品の多さにかならずしも結びつくことはない。 代表的な墳墓の副葬品を一覧から見てみよう。 ・弥生時代最大の楯築墳墓では、勾玉1、管玉28、ガラス小玉数百、鉄剣1。 これに対し全長21b少しの京都府芝ケ原墳墓では、青銅鏡1、腕輪形銅製品2、ガラス小玉約1300など、豊富な副葬品を持つ。 この差は時期差に置き換えられる反面、地域により副葬品の扱い方が多様であったことを教えている。 ・中国鏡は、北部九州では前1世紀以降、連綿と中国鏡の副葬が続いていた。しかし中国地方や近畿地方には、原則的に鏡の副葬はなく、鏡の副葬が始まるのは3世紀も中頃であった。ところが鏡の扱い方は多様で、宮山墳墓のように完形のまま副葬する場合もあれば、岡山県の鋳物師谷1号・萩原1号・西条52号墳墓などのように、意図的に鏡を割り副葬する例もある。完形鏡を重視する古墳時代との大きな差である。 ・古墳時代で増加する多種・多量の副葬品は、遺骸の側に置かれるというよりは竪穴式 石槨と木棺の間、木棺の中でも遺骸の両側に仕切られた小空間に置かれる場合が多い。 京都府椿井大塚山古墳でも弥生墳墓に見られない多量の鉄製品や鏡を副葬するが、大半は木棺の外であった。 ・3世紀の墳墓と比較すれば、楯築墳墓では、遺骸の頭部付近に勾玉やガラス小玉などの多数の玉類、そして鉄剣が1本が添えられていた。また3世紀の墳墓でも古墳でも、中国鏡は基本的に頭付近に置かれた例が多い。そうすると、遺骸の側に鏡+玉類+鉄製武 器を置くことが、3世紀の墳墓と古墳に共通した副葬品配置の原則といえよう。 ・副葬品のもつ意味はどうか。古墳時代に入っても多用されるガラス小玉で考えよう。 ガラス小玉の大量使用は1世紀に北部九州で始まり、3世紀に東日本まで広がる。 顎飾りとして遺骸に残る場合もあるが、楯築墳墓や芝ヶ原墳墓のように頭部付近にまと めて置かれたり、神門4号墳墓のように遺骸の衣服に取り付けられたと複元されている 例もある。遺骸を強く意識した玉の置き方で、共通した思想的背景がありそうだ。 ガラス小玉、すなわち玉を古代中国思想に照らせば、それは「死者の復活と再生」を願 うこと。 =編集後記= 三世紀墳墓にみる政治動向のキーワードは、特殊器台・特殊壺・前方後円の墳墓。 古墳の出現は、大和政権が各地の首長と政治的関係を結び、汎西日本的な政治連合体を創った結果であろう。古墳祭式の共有が各地の前方後円墳の出現として現われる。 次号から前方後円墳の成立をめぐってを掲載します。 =了= 2008.4.3 発行(86) =三世紀の弥生墳墓=(その2) 墳形にみる古墳への胎動 地域色ある墳墓が造られていたが、基本原理は円丘と方丘。突出部がどのような形なのか、突出部がどのような形なのか、これよりさまざまな墳形が生まれた。 まず3世紀初め前後の吉備地方から播磨地方を眺めてみよう。楯築墳墓は円丘の両側に突出部のつく墳形。兵庫県養久山5号墳墓は方丘の両側に突出部が伸びる。 また岡山県黒宮大塚墳墓のように長方形の墳丘もある。山陰地方には、西谷3号墳墓に代表される四隅突出形の墳丘が多い。方丘の四隅が細長く伸びる形で、富山県を東限とし日本海側に広く分布する。東海の愛知県では、方丘に短い突出部がつく、いわば前方後方形の廻間(はさま)SZ01号墳墓などが出現する。吉備・山陰地方のように丘陵上ではなく、平野部に立地し方形周溝墓のように墳形に沿い溝が巡る。さらに突出部先端は撥形(ばち)に開き、箸墓など最古の前方部に特徴的な形がすでに現われている。 3世紀も半ばを過ぎようとする頃、新しく前方後円形の墳丘をもつ墳墓が広範囲に出現する。突出部のなだらかな岡山県宮山墳墓・兵庫県横山墳墓、細長い積石の徳島県萩原1号墳墓、そして関東地方では突出部の短い千葉県神門4・5号墳墓などである。 奈良県纒向墳墓群の幾つかはこの候補になろう。 前方後円墳に比較して、突出部は低く古墳の前方部とは格差が大きい。しかし千葉県神門5号墳墓など、高さ約5bという、前方後円墳の後円部に遜色ないほどの高さを誇る円丘部が出現しているのも事実である。3世紀、古墳の墳形は出そろっていた。 激動の3世紀−古墳誕生の謎− より =編集後記= 3世紀後半でも、古墳誕生をまじかにひかえた頃の墳墓。方丘の木棺には、鏡・勾玉・ガラス小玉などの多量の玉類、腕輪形銅製品、そして少数の鉄製品がそえられている。 古墳にみる多様な副葬品が芽生え始めるのもこの頃である。 =了= 2008.4.2 発行(85) =三世紀の弥生墳墓=(その1) 三世紀墳墓の特質 三世紀は、各地で特定の個人や集団のため大きな墳丘の墳墓が造られた時代。 岡山県楯築墳墓は全長約80bの墳丘をもち、鳥取県桂見墳墓は一辺60b以上の四隅突出形の墳丘を誇る。ただし大きいな墳丘に目を奪われてはいけない。すでに前一世紀頃、佐賀県吉野ヶ里遺跡や大阪市加美遺跡には大形の墳墓が出現している。 吉野ヶ里遺跡の墳墓は、最大長40b、高さ約2.5b。加美遺跡の墳墓は、墳頂部で最大長22b、高さ約3b。さらに加美遺跡の盛土量は約560立方b、吉野ヶ里遺跡は軽くその倍を超える。これに匹敵する例は、3世紀の墳墓でもかなり少ない。 そうすると、墳丘の大きさだけで3世紀墳墓の特質を説明できそうにない。そこで吉野ヶ里遺跡の墳墓に一部を堀り残した墓道があり、楯築墳墓や桂見墳墓に墓道の変質した突出部があることに注意してみよう。 墓道は墳墓と外界を結ぶ通路。亡き首長とムラびとを観念的に結び、重要なマツリが執り行われた場所であった。しかし墓道が突出部に整備されると、通路の役目は失われてしまった。突出部の裾には列石が巡り、墳丘と外界が切り離された。 ムラびとと墓のマツリが別な次元で執行された結果だ。日常生活やムラのマツリで使われることがなく墓専用に限定された、特殊器台や特殊壺が出現する3世紀を前後する頃であった。このように考えると、突出部の成立した3世紀の墳墓はムラびとと隔絶した首長やその近親者のための墓であった、と評価できよう。突出部の成立はその象徴であった。 (激動の3世紀−古墳誕生の謎− より) =編集後記= 激動の3世紀、古墳の誕生の謎・・・弥生墳丘墓を1〜3で見て行きます。 =了= 2008.4.1 発行(84) =4月1日虚虚実実= 1月は行き、2月は逃げ、3月も去る。はや今年の1/4が過ぎようとしている。 この3月は何やら不可解なことの多い月だった。 ◆若者の巣立ち、進路とかかわりのある事件が重苦しく残った。土浦の連続殺傷事件とそれに続いた岡山の駅ホーム突き落とし事件、若者2人がキレたあげく、殺傷した相手を「誰でもよかった」とそろってそう言った。 ◆進路に悩んだにしても余りに身勝手ではないか。 それが悲しく恐ろしい。被害者にしてみれば何たる不条理、悪夢の3月。 「こんな子を育ててしまって・・・」とうなだれた加害者の父にもまた苦しい月であっただろう。 ◆政治の世界もまた、いかにねじれ国会とはいえ、首をかしげたくなる与野党のせめぎ合いが続いた。不毛にしか見えない。 ◆日銀総裁は空席のまま新年度を迎える。ガソリン税の暫定税率は進展のないまま、きょう期限切れ。このお粗末、与野党互いに責任をなすりつけ合うばかり ◆この情けなさ、花冷えよりもうそ寒い。さまざまの事おもひ出す桜かな。 よみうり新聞 2008.3.31(夕刊) 虚虚実実の駆け引き、なんて表現にぶつかったことが誰でもあるだろう。 4月馬鹿など連想して、虚はウソ、実はホント、と単純に解釈して、ウソとホントをまじえた複雑微妙な駆け引きと割り切ると、これは正しい解釈とはいえない。 虚は無で中身がからっぽの意味だからつまり備え、そこで虚虚実実は敵の弱いところを狙ってたがいにあらゆる計略や秘術をつくして戦うことをいい、これが転じて商売や交渉などで知恵をめぐらし駆け引きの限りをつくす、こういう時に使う。 その過程でウソやホントがいじまじることが大いにあるわけで、最近の使い方ではもっぱら、相手の虚(つまり不用意で不得意なところ)をつき、実(つまり得意で強い面)を避ける意味に重点があるようだ。 虚は元来、むなしいという意味で、老子の思想のキーワードの一つだが、虚無・虚名・虚弱体質・虚脱状態・虚数・虚根など学校で覚えた熟語がたくさんあるにちがいない。 知ったかぶりで虚勢をはることのないよう。 =編集後記= 今日はエイプリルフール、駆け引きのセオリーを熟知しながらの言葉で楽しんで下さい。 |
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