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瓦版よもやま便り
2007.12-2008.12
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話は
なんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  よもやまセミナー Q&A
      交野市私市4-39-2   平田 政信

☆交野を縦断する「第二京阪国道」が2010年3月20日、開通いたしました。
これまでにも増して、交野を歩いて見て大いに語りましょう。
今年もこれまで同様、ご愛読いただけますようよろしくお願いいたします。
                
バックナンバー 1〜14号 15〜27号 28〜35号  36〜76号
よもやまセミナー Q&A 2010年4月 〜 2011年 
2011年
142 10/19 里の秋・パート3(私部西の墓付近)
141 10/16 獅子窟寺のお薬師さん、お帰りになりましたか?
140 10/13 里の秋・パート2(徳川家康の泊まった平井家と旗掛けの松)
139 10/7 里の秋
138 9/9 荘園とは
137 9/7 戦後の日本考古学における、最大の発掘は?
136 9/5 地蔵菩薩は「悲の菩薩」といわれるのは?
135 9/2 古墳の中には一体何がある?
134 8/31 埴輪につきまとう悲劇的な話とは
133 8/29 六道に堕ちるとは
132 8/26 眠りから醒めた銅鐸(No38・39関連)
131 8/24 古代史ブームのはじまりは
130 8/22 祭器としての青銅器?
129 8/19 無関心が孤立を生む?
128 8/17 通い合う心とは?
127 8/15 人生は一歩一歩の積み重ね?
126 8/12 ストレスの原因はなに
125 8/10 縄文土器の型式と編年について
124 8/7 縄文土器の年代はどうしてわかるのか?
123 8/5 伊邪那岐と三貴子の誕生とは?
122 8/3 死の国で伊邪那岐(イザナキ)が見た、変わり果てた妻の姿とは
121 8/1 島々を生み終えた伊邪那美神は、さらにどの様な神を生んでいったのか
教えて欲しい。
120 7/29 イザナキ、イザナミの国生みと神生み
119 7/27 私市・若宮神社のラジオ体操の状況は
118 7/25 古事記に登場する主な神様の系譜は
117 7/20 風土記とは?
116 2/16 梵字 アビラウンケン碑とは?
115 2/15 前方後円墳とは
114 2/9 ふるさとウォークって?
113 2/7 私市健康・維持・増進プロジェクトのその後の活動状況は
112 1/23 河内(西)と大和(東)の境、傍示。
スマイル(微笑み)地蔵さんと、その前におられる阿弥陀さん、どちらが先輩?
111 1/22 傍示の「スマイル(微笑み)地蔵」さん、いつ頃から笑っておられるんですか?
110 1/19 かんじょう縄って?
109 1/14 地蔵さんは何処に住んで居られるのだろう
108 1/11 上の山で山根街道と東高野街道が一つになるところに、地蔵さんが立っておられますがいつ頃の造立かわかりますか?
107 1/7 墓地入口には六体地蔵さんがおられますが、いったいいつごろから
お立ちになられているのか?
106 1/6 磐船神社の不動明王は何歳?
105 1/1 明けましておめでとうございます
2010年
104 12/31 除夜の鐘はなぜ百八つくのか?
103 12/30 正月に訪れる歳神と注連飾りについて
102 12/28 昨日の柳生街道は?
101 12/27 私市の若宮神社が賑わっているそうですね
100 12/24 2010年の[世界の10大ニュース]は
99 12/23 2010年の[日本10大ニュース]は
98 12/21 磐船神社の祭神について
97 12/20 地蔵菩薩の願いとは、どんな願いを立てたのか
96 12/18 神宮寺の塞ノ神の一つ、村の出入口にあったのがなくなっている
95 12/17 2010年の世相を表す「今年の漢字」は
94 12/16 明日香村 牽牛子塚前で発見された「大田姫皇子の墓?」について
93 12/14 交野郷土史かるたについて
92 5/19 新緑の笠置山(笠置寺)を「ふるさと講座」の皆さんと昨日、歩いてきました。
91 5/17 笠置山の磨崖仏について
90 5/10 「郷土史かるた」の読み札での内容について信憑性が疑われているらしいが。
89 5/7 わしらも首からうえがないんじゃ、いつのころから?
88 4/30 みんな、どこへいかはってん〜、以前は5体もいやはったのに
今はわたい(私)だけ。
87 4/28 どないしゃはりましてん
86 4/26 ゆっくりできまへんなぁ〜
85 4/23 野の仏・・・ふるさと交野にある石仏は?
84 4/21 「ふるさとウォーク」の話を聞きましたが・・・教えて欲しい
83 4/19 市町村合併と地名について
82 4/16 生活になじみの深い神々・その2 荒神さん とは
81 4/14 生活になじみの深い神々・その1 水の神さん とは
80 4/12 交野関連地名パート2
79 4/9 日本地名語源辞典のなかに交野関連地名はいくつ?
78 4/7 「ふるさと交野を歩く・里の巻」山添家の項目にある、扠首組(さすぐみ)・からうす・牛の監視をかねた窓・へっつい(かまど)、そして、はんど壺とは?
77 4/5 ポストをトイレと勘違い!?

No142(2011.10.19)
Q:里の秋・パート3(私部西の墓付近)
A: ハイカラ「かかし」さん、そっと前をのぞいて見てごらん・・・・。


   
  後ろ姿の「かかし」さん          前に廻って見てビックリ、中々のハイカラさん


No141(2011.10.16)
Q:獅子窟寺のお薬師さん、お帰りになりましたか?
A: 「空海と密教美術展」(2011.7.20−9.25日)東京国立博物館 平成館(上野公園)に出展中の国宝・薬師如来坐像(私市・獅子窟寺)が14日、午前10時過ぎにお帰りになり収蔵庫に納められました。
事前に連絡を受けておりましたので立ち会うことが出来ました。

    

   

   


No140(2011.10.13)
Q:里の秋・パート2(徳川家康の泊まった平井家と旗掛けの松)
A: 元和元年(1615)5月5日、徳川家康(74歳)は大坂城攻めのため、午前9時に京都二条城を出て、東高野街道を進み、洞ヶ峠を越えて河内に入り、午後3時星田に着き、里正(村の長)平井三郎右衛門宅に入った。
 また、家康の旗印は、平井家が代々別当職をつとめる標高60mの新宮山の八幡宮の社前の松の大木に高く掲げられた。後に、この松を旗掛松と称して有名であったが、明治初年に枯死した。


       
            妙見坂から望む  @平井三郎右衛門宅  A新宮山・旗掛松  B星田神社


No139(2011.10.07)
Q:里の秋
A:交野の里、交野三山をバックに寺・今井の秋。

      
                 


No138(2011.9.9)
Q:荘園とは
A:平安時代から室町時代の頃まで、貴族や社寺が私に領有した土地のことである。
大化の改新できめられた全国の公地公民制といっても、それには多くの抜け穴があった。

当時国民の負担は、人数と田地をもとにして、租(年貢)庸(一年に十日間の労役か、あるいはそれに代わる物納)調(布・絹・塩など)の税を納めたらよかったのだから、条里区画外の荒地を開墾しても、政府は税についての文句はいわないはずになっていた。
だから勝手に山麓や沢を拓いて、私墾田とするものがずいぶんあった。そこで天平時代の政府が、開墾後の年限を切って、そんなところにも税を取ろうとすると、農民は広大な土地を放棄してしまうようなことが起こった。やむを得ず天平十五年(743)墾田は私財としてよいこととした。これが公地公民制の崩れる一歩だった。

墾田が私有してもよいとなると、以前から私領地をゆるされていた財力の豊かな貴族や大きい社寺では、その農民を使って、どしどしと荒地を開かせ、租税のかからない私墾田、すなわち荘園をふやしはじめた。それは平安時代の初め九世紀からのことだった。農民の方でも、自分がせっかく開墾した土地を、他の強い男から奪われないようにと、それを権力ある貴族や社寺に寄進し、じぶんはその荘園の役人になって、現実の利権を確保しようとする。
全国いたるところにこのような荘園がふえてくるのであった。

メモ・・・公地公民制のもとでは、男子のほうが女子より租が重かったので、女子と戸籍を偽り、脱税しようとする知恵者もかなりいたらしい。

最近のニュースで、税を扱うプロの税理士協会が脱税行為で追徴金を支払っていたし、元日本国の総理にもそんな人がおりましたなぁ〜。

        右図は早わかり日本史より 



No137(2011.9.7)
Q:戦後の日本考古学における、最大の発掘は?
A:弥生時代後期の代表的な集落である登呂遺跡(静岡県静岡市)があげられる。 
 わが国で初めて水田跡が発見された遺跡でもある。歴史教科書には必ず載っている(現在の教科書は書き換えられたか)。遺跡の発見は第二次世界大戦中の1943年(昭和18)軍需工場がつくられる計画だったが、そこから古い水田跡が出たため「これは大遺跡だ」と大騒ぎになった。しかし、戦争の真っ只中で本格調査する余裕もなく、現地を訪ねた考古学者がカメラからフィルムを抜き取られるなど、軍部の監視も厳しかったという。
そして戦争も終わり、その直後の昭和22年(1947)7月から発掘調査がはじまった。
当時は敗戦によって打ちのめされ、復興もままならず、多くの国民が路頭に迷い、住む家も満足な食ベ物さえなかったころである。この遺跡の発掘は、戦後の日本人を勇気づけ、夢と希望を与えた。

 
  
  

    
  

      参考文献:国史大辞典・考古学から見た日本人・朝日百科日本の歴史より

*1947年(昭和22)、私の生まれた年が登呂遺跡発掘調査が始まった年と重なったのでとりあげました。



No136(2011.9.5)

Q:地蔵菩薩は「悲の菩薩」といわれるのは? 
A: 慈悲の「悲」の原語である「カルナー」は、古代のインド語で「呻き(うめき)」を意味している。
どうしょうもない苦しみや、悲しみに思わず呻いたことのある人でなければ、万人に対する友情、つまり「慈」を持つことはできない。という仏教の考え方をあらわすことばである。


「かぜ」   北原白秋
   かぜふく  きえしかがやきを
   ふきそよがして  ひかりゆく
   のはらいちめん  かがやかに
   てりかがやかし  わすれゆく


仏教の「慈悲」は「無縁の大悲」にきわまるといわれるが、
無縁とはひっかかりがないということ、「私が、誰に、何を」と
いう三つのひっかかりがまったくない慈悲心のことである。
そういう大悲の人は風のごとく飄々(ひょうひょう)と行く。
この世に生きて行く力を失った人、輝きをなくしてしまった
人たちの心を吹きそよがし再び輝きをとり戻させ、強く生き
させようとする。
その人のまわりには一面の輝きがある。
その人がそこにいるだけで、その周りが明るくなる。
しかし、その人は、人びとを照り輝かしたことなど忘れてしまって、
また風のように行ってしまう。

本当に泣いたことのある者でなければ、ほんとうに笑うことはできないというが、地獄を通ってきた者でなければ、こんなに爽やかに吹きすぎて行くことはできない。



No135(2011.9.2)
Q:古墳の中には一体何がある? 
A: 古墳のことは高塚ともいう。土盛りや石積みのある墳墓のことで、3世紀後半から7世紀にかけて、おもに有力者の墓として作られた。前方後円墳、前方後方墳、円墳、帆立貝式古墳、双方中円墳、八角墳などさまざまな形があり、地域や時代によって異なる。
埋葬品などから、当時を知る手がかりがつかめるが、盗掘されてしまったものもあれば、宮内庁が発掘を許可しないなどの理由で、古墳の内部に対する研究はあまり進んでいない。古墳の周囲に並べられたものが、埴輪である。「土製の造形物」はみな、埴輪といい、人間のかたちをしていなくなくてもいい。
古墳の上には、建物や人物、あるいは、馬や牛、鹿、猪、魚、鳥などの動物の形の埴輪が置かれ、外側には、円筒の埴輪が置かれていることが多い。人間のかたちの埴輪は、かなり写実的で、正座して頭をたれている武人や、琴を弾いている女性の像などもある。

   

   
   

  

埴輪については、死者の魂を慰めるためのもの、死者があの世で不便にならないようにするためのものなど、諸説ある。

(参考)日本史が100倍面白くなる本・図解 日本史・大和の考古学



No134(2011.8.31)
Q:埴輪につきまとう悲劇的な話とは
A: ヤマトヒコと殉死、和銅五年(712)にできた『古事記』の崇神天皇(第十代)水垣宮の段を見ると、ヤマトヒコノミコトの陵にはじめて人垣を立てた、といったことが記されている。

倭日子命。この王(みこ)のとき、はじめて陵に人垣を立てたりき。

この話は、『日本書記』によるといっそう詳しくなる。『書紀』は『古事記』より時代のややくだる養老四年(720)に編まれたものであるが、それによると垂仁天皇(第十一代)二十八年十月のこととして。

つまり、垂仁天皇の叔父、ヤマトヒコノミコトが亡くなられたので、いままでの風習にしたがい、ミコトの従者たちを陵の近くに生き埋めにした。ところが、彼らは数日ものあいだ死にきれず、その泣く声が昼夜聞こえたが、ついに死にはて、朽ちた彼らの死体に犬や鳥がむらがり食い散らした。天皇はこの惨状を聞かれて、たいへん悲しまれ、いかに伝統的な風習だとはいえ、これはあまりにむごいことだとして、この悪習を改める決心をなされた、というのである。
それから四年をへた三十二年七月の記事には埴輪誕生の経過を具体的に説明した記事として、あまりに有名な話となっている。この埴輪起原伝説というのは、こうなのである。垂仁天皇の皇后、ヒバスヒメノミコトが昇天なされたについて、天皇は悲しみのうちにも、ひときわ心を痛められたことがあった。それは四年前の、ヤマトヒコノミコトの葬儀に、殉死の悲惨なさまを実感されていたからであった。そこで、群臣を集めて相談なされた。
ときに、野見宿禰という人物が進みでて、こう申しあげた。君主の陵墓に生人を埋めることは感心できないことで、どうして後世に伝える必要がありましょう。わたくしには名案がございます。と申しますのは、出雲国から多くの土師部(土部)を召しよせ自分が監督して人馬や種々なものの形を土でつくらせ、これを生人に代えるようお決めになっては、というのである。この宿禰の提案は、いたく天皇の御意にむかえられて、宿禰のいうように、土物を皇后の御墓に立てることとなった。
これを埴輪とか立物とかいうのである。
こうした功績によって宿禰は土地を与えられ、土師職(土部)に任命されたうえ、土師臣(土部臣)の姓をたまわった。

  はにわ誕生 =日本古代史の周辺= 金谷克己著



No133(2011.8.29)
Q:六道に堕ちるとは
A: 人は、人を愛するがために六道に堕ちる。
男は女を愛することから、女は男を愛することから六道に堕ちる。
「六道」とは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つの境界のことである。

【地 獄】・・・怒りや憎しみにとらわれてそこから出られない人間の行くところ。
人間は人を愛することによって甘美なよろこびを与えられるが、同時にそれらよって、嫉妬や、怒りや、憎しみのとりこになる。

【餓 鬼】・・・欲求不満のことで、それも、ほしいものが与えられないからではなく、与えられても、与えられても、さらにいいものを、さらにすぐれたものをと、際限りなく求めつづけ、与えられないので欲求不満に陥る。

【畜 生】・・・現代風にいえば、なんのためにこの世に人間に生まれてきたかということがまるっきりわかっていない人間のことである。また、「念の深きは畜生」といわれるように、執念の深すぎる人間の行くところである。

【阿修羅】・・・略して「修羅」といわれるが、原語が「ア・シュラ」(天でないもの、悪魔の意)なのだから、阿修羅といわなくてはならない。これは、いいことをしようと思っているのに、ついつい悪いことをしてしまうとか、やさしいことばをかけようと思うのにつけんどうになってしまうとか、自分の考えとは逆の行動をとってしまう人間の行くところである。

【人 間】・・・「念のうすきは人間」といわれるように、何事にも無関心で、自分のことしか考えない人間の行くところである。

【天 上】・・・天人のことで、天人は喜悦を食とするというが、世の中には苦しんでいる人間がいっぱいいるというのに、自分だけはいつでも喜んでいるという人間の行くところである。

       

  こういう世界を転々とするのも、愛する者を持った人間の宿命かもしれない。
人と生まれて人を愛するようになれば、天性菩薩に近いような人でないかぎり、必ず欲が深くなり、嫉妬深くなり、意地悪くなり、盲目になり、争い、怒り、喜ぶという日々をくりかえして、安らかになるということがない。そのくりかえしの中で命をすりへらし、醜くなっていく。そういう者たちを救うために、自らその中に堕ちていく者がある。
願いを立てて自分から堕ちていくのである。
そういう人に出会うことによって、六道に沈んだ者はやっと救われる。
「あなたにこの世で会えて本当によかった」と、心底から感謝するようになる。感謝することによって六道をはなれていくのである。
過ぎ去った生活、これからの生活、何よりも今日からの生活の中でこの道に迷いこまないように気をつけねばなりません。



No132(2011.8.26)
Q:眠りから醒めた銅鐸(No38・39関連) 
A:  1996年10月14日、加茂岩倉遺跡から多量の銅鐸が発見された。
その後の調査により史上最多となる39個もの銅鐸が確認され、研究者のみならず多くの国民を驚嘆させた。
銅鐸は、弥生時代に日本列島で製作、使用され、古墳時代直前に忽然と消えてしまう謎に満ちた青銅器である。
なぜ出雲の地からこれほどまでに大量の青銅器が発見されるのか。
2000年の眠りから醒めた銅鐸は、古代出雲をどのように語ってくれるのか。
1. 加茂岩倉遺跡の調査
遺跡は、陰陽を結ぶ国道54号から西へ約1.7km、神庭荒神谷遺跡から南東約3.4kmの地点で発見された。
ここは、大原郡加茂町大字岩倉字南ケ廻にあたり、岩倉本郷の集落から西に伸びる狭い谷の最奥近く、人里離れた山中である。銅鐸は丘陵端部に近い南斜面に埋納されていた。標高は約138m、谷底からの比高差約18mと見上げるような急斜地であるが、遺跡からの眺望はよくない。


  

  





No131(2011.8.24)
Q:古代史ブームのはじまりは
A:奈良県明日香村の高松塚古墳から彩りあざやかな壁画古墳が発見されたのは、昭和47年3月下旬のことだった。新聞の第一面に大きな活字がおどり、鮮明なカラー写真に目が引きつけられる。
続報が連日のように掲載され、特集記事や座談会が組まれた。新聞やテレビでの報道合戦、その後の相次ぐ関係図書の出版。高松塚フィーバーである。当時のことが思いだされるのは府立交野高校建設用地内の東車塚古墳の試掘調査がはじまったのが同年11月からであった。
続いての大発見は、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文である。
鉄剣に記された金象眼の115字は、まことに内容豊かである。この鉄剣は、ヲワケ臣とその一族の功業を記念して、辛亥年(471)に製作されたもので、銘文にはオホヒコからヲワケ臣までの八代の系譜が記され、ワカタケル大王(雄略)や斯鬼宮(しきのみや)の名がみえている。
稲荷山古墳出土の鉄剣につぐものとしては、昭和59年8月、島根県の荒神谷遺跡から、358本もの銅剣(弥生時代中期後半〜後期初頭の中細形銅剣)が出土した。
60年の夏には、約7メートルほど離れたところから銅鐸6個と銅矛16本も出土している。出雲神話や出雲大社の成立、出雲国の服属過程など、古代出雲をめぐる諸問題について再考をせまる大発見であった。

  
  


No130(2011.8.22)
Q: 祭器としての青銅器?
A: 弥生時代、日本列島に稲作技術とともに金属製品である鉄器や青銅器が初めて伝わってきた。
鉄は硬く切れ味もよいため刃物や農工具などの実用品として使われたが、青銅器は次第に大形化して、鳴り物や武器といった当初の機能を失っていった。

「見て聞く銅鐸」から「仰ぎ見るだけの銅鐸」へ
「武器」から『祭器』へ

    
    

No129(2011.8.19)

Q: 無関心が孤立を生む? 
A:「人びとが心を通い合わせる社会」をつくるためにはどうしたらいいのでしょうか。

目に見えるものも、見えないものも、遠くに住むものも、近くに住むものも、すでに生まれたものも、これから生まれるものも、一切の生きとして生けるものに幸いあれ。  
                                  『スッタニパータ』147



 

お釈迦さまの言葉です。
「一切の生きとし生けるものに幸いあれ」という祈りは、お釈迦さまのあらゆる教えの根底に流れています。お釈迦さまはさまざまな体験を通して、人間は一人では生きられないことを実感されたのでしょう。
「すべてのいのちは大いなる宇宙の力によって生かされている。ということは、生きとし生けるものはすべて仲間なのだ」と気づかれた。これを仏教では「自他一如(じたいちにょ)」と言い表します。つまり、私という存在がかけがえのないものであるように、ほかの誰もがかけがえのない存在であるということです。そしてこの「生きとし生けるものは仲間だ」という真理こそが、つながりのある社会を築いていくうえで大切なのです。

近年、孤立する人々が増加しているのは、自分のまわりに目を向けられない人が増えているからではないでしょうか。インドで献身的に貧しい人々を救済したマザーテレサは「愛の反対語は憎しみではない。無関心だ」とおっしゃていました。どんなにたくさんの人がいても、お互いに関心をもつことがなければ、当然、心を通わせることはできない。
つまり、私たちが他人に対して無関心になってしまったことで、人と人とのつながりが絶たれ、孤立する人々がこんなにも増えてしまったのではないでしょうか。 
              (仏教講義・奈良康明氏)

毎日、毎日さまざまなことが身のまわりにおきています。
      自然災害をはじめ、凶悪な事件、悲しい出来事などなど、あとを絶ちません。
      これからの世、日本、私たち、子どもたちは、どの方向に向いていくのでしょうか?
      それとも、成るように成るさ、いや、そんなことではダメだ、明るい、明日、未来にむかって
ひとまず今日と言う日をがんばろう Oh!Oh!Oh!



No128(2011.8.17)

Q: 通い合う心とは?
A:「無縁社会」という言葉が話題になっています。これは、人と人とのつながりが希薄になり、孤独に追いやられる人が増えているという社会現象を示した言葉です。
反対に、そのつながりが保たれている社会を「有縁社会」といい、今、無縁社会から有縁社会への回帰がさかんに論じられております。しかし、「バラバラだから無縁」、「つながっているから有縁」というように単純に二つに分けて考えるだけでは、この問題を解決する糸口はつかめないと思います。
そもそも、無縁社会は「血縁」「地縁」「社縁」の三つが崩壊したために生じたといわれています。
つまり、「家族」「地域共同体」「会社」とのつながりが切れてしまったために引き起こされた現象だと考えられているのです。
戦後私たちは祖父母や舅・姑などと一緒に住む大家族制度にわずらわしさを感じ、核家族制度にわずらわしさを感じ、核家族にあこがれました。そして、さまざまな共同作業が必要となる村での生活から抜け出し、しがらみのない大都会で生きようとした。つまり、家族とのつながりを厭い、地域共同体から抜け出そうとしたのです。
これは、有縁社会を嫌がり、無縁社会にあこがれていたようなものではないでしょうか。
このように社会の価値観・倫理は時代によって変化します。そういった流動的なものではなく、いつの時代も変わらない普遍的な真理に目を向けなければ、根本的な問題は解決できないと思います。
やすらぎ通信 2011夏・秋号(仏教講義・奈良康明氏) より

   


No127(2011.8.15)

Q:人生は一歩一歩の積み重ね?
A:私たちは一生の中でさまざまなことに出会うでしょう。
人は得てして、気に入ったことがあれば追いかけ、気に入らないことからは逃げようとします。
また、物事がうまくいけばのぼせ上り、逆にうまくいかないと落ち込みます。そうやって伸び上がったり、うつむいたりと、姿勢を崩して生きております。そのような生き方は見直さねばなりません。
一生の中では、楽しいことも悲しいことも起こります。
しかし、いかなる出来事にも同じ姿勢で立ち向うのです。さらにいえば、どんなことも人生を彩る一つの景色であると考えて、積極的に受け止めようではありませんか。
それが人生を豊かにするための方法です。
いろいろなことがあってこそ、人生という旅路の景色はあざやかに彩られるのです。
                      やすらぎ通信 2011夏・秋号より

  

今日は何の日/終戦記念日= 1945(昭和20)年のこの日、日本のポツダム宣言受諾により、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終了しました。戦死者約212万人、空襲による死者約24万人でした。


No126(2011.8.12)

Q:ストレスの原因はなに
A:生きていると、いろいろな刺激や変化に遭うことがあります。そうした刺激や変化によって起こる、心や体の反応や変化をストレスという。
ストレスの原因には、いろいろあります。つらいことが原因で起こるストレスは、可能なかぎりその原因から離れることを考えましょう。そして食事と睡眠をしっかりとり、ストレスがたまらように上手に発散し、心の疲れが重くならないようにしましょう。


           

あなたの心は疲れていませんか?
疲れは早めに癒すのが肝心です。そのためには、小さいサインを見逃さないようにしましょう。
心の疲れは体に現れることもあります。
日々、心と体に目を向けて、自分を大切にしましょう。        JA家の光 9月号より

       


No125(2011.8.10)

Q:縄文土器の型式と編年について
A:縄文土器は約1万年近くにわたってつくられてきたが、その形と文様には、地域・時期によってさまざまな変化がある。そしてそれらの特徴は前の時期から次の時期へと連続して次第に変化していき、一挙にまったく違ったものに変わってしまうことはない。
また、隣りあった地域どうしのあいだでも、土器の形や文様には共通した特徴がみられる。
このような縄文土器の特徴はすでに明治時代から気づかれていたが、この特徴を縄文土器の型式としてまとめ、土器型式の変遷という形で時期の区分をつくろうとする研究は昭和のはじめ頃から本格化し、戦前から戦後の時期にかけて完成された。これが縄文土器型式による編年研究とよばれるものである。



縄文土器の型式は、現在一つの地域だけでもその始まりから終わりまで、実に多数の型式が設定されている。
それらは大きく草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に大別され、それぞれのなかに10型式前後の細かな土器型式による細別時期が設けられている。この土器型式の連続による編年の時間軸は、所々で遺跡における土層堆積の前後関係から導かれる層位関係によって確認が行われたり、放射性炭素や熱ルミネッセンスの測定といった物理・化学的な測定法の助けを借りて、約1万2000年もつづいた縄文時代の年代を、実際に今から何千年前かを直接測定することも行われている。
*交野市・神宮寺遺跡からは縄文早期(8000〜)の尖底土器の一部が出土。



o124(2011.8.7)

Q:縄文土器の年代はどうしてわかるのか?
A: 日本列島に展開した先史文化の歴史的変遷をたどるには、文献史学とはまったく異なる考古学的年代尺度を用いなければならない。考古学的年代尺度のことを「考古学的編年」ないし単に「編年」という。
これは暦の存在しない時代に、人びとがつくり出したさまざまな器物のなかから、時代の移り変わりを敏感に反映するものをとりあげて、その変化の連続を見ることから、時間の経過つまり編年をつくり出そうと考えるものである。
その際には、それぞれの時代で一番ポピュラーだった器物が用いられる。縄文時代では土器、土器の発明されていなかった先土器時代では石器が、それぞれ使われる。
では縄文土器を用いて、どのように年代を求めるのか?。博物館に陳列されている縄文土器をじっと見ていてもすぐ年代はわからないではないか、といわれるだろう。しかし、その原理は別にむずかしいものではない。
皆さんがテレビで映画を観たとしよう。画面に映る街角の風景や人物の服装を見ながら、これはずいぶん古い映画だなあと感じることがあれば、あなたも考古学的編年の基本を理解したことになる。どうしてかというと、町を走る自動車の型や人びとの髪形、着るものや履物、さらに街角の広告や建築物のようすなどから、皆さんはその映像が今とどのくらい「むかし」のことだったかを判断できるからである。これが考古学的編年の基礎となる事実なのである。

  


No123(2011.8.5)

Q:伊邪那岐と三貴子の誕生とは?
A: 黄泉の国から現世に戻った伊邪那岐神は、死者の国で体が穢れたと感じ、筑紫(九州)の日向で禊をした。この禊で身をゆすいだときには、住吉大社に祀られる海の神(表筒・中筒・底筒)など、多くの神が生まれた。
 
 

そうして穢れを祓った伊邪那岐神が左目を洗うと、天照大御神、右目を洗うと月読神、鼻を洗うと須佐
之男命が生まれた。
伊邪那岐神は貴い神を得たと大変喜び、天照大御神には高天原を、月読神には夜の国を、須佐之男命に
は海原を治めるよう命じた。
この天照大御神が天皇の祖先神とされ、伊勢神宮のご祭神となっている。



 No122 (2011.8.3)

Q:死の国で伊邪那岐(イザナキ)が見た、変わり果てた妻の姿とは
A: 伊邪那美神は黄泉戸喫をしたが、葦原中国に帰るため、姿を見ないように言い置いて、黄泉の国の神と相談をした。ところが伊邪那岐神は、妻の姿を見てしまう。

   

 
その姿とは、蛆が湧き、体中から雷を発生させた恐ろしいものだった。
一目見て伊邪那岐神は逃げ帰る。
伊邪那美神は「わたしに恥じをかかせた」と怒り、黄泉醜女(よもつしこめ)や雷神たちに追いかけさせた。伊邪那岐神は、髪飾りを投げてブドウにしたり、桃の実を投げたりと呪的な力を用いて逃げ、とうとう黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜けて出口を出て、そこに大きな岩でふさいだ。
最後に追いかけてきた伊邪那美神は、黄泉の国の側から夫に向かって「愛しいあなた。このようにひどいことをするなら、わたしは毎日人間を千人殺しましょう」と言う。それに対し伊邪那岐神は、「それならば私は一日千五百の産屋を建ててみせよう」、すなわち千五百人生み出そうと述べた。
こうして毎日千人が死に、千五百人が誕生することとなった。



No.121(2011.8.1)
Q:島々を生み終えた伊邪那美神は、さらにどの様な神を生んでいったのか教えて欲しい。
A:海の神や風の神、木の神、山の神など自然の神々を生んでいった。国土に豊かな自然が加わったのである。伊邪那美神が生んだ神々は下図のとおり、そして最後に火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)を生み、その際に大火傷を負って苦しみながら亡くなった。まさに命がけでこの世に火をもたらしたといえよう。



      地図とあらすじで読む 古事記と日本書記 坂本勝[監修]



No.120(2011.7.29)
Q: イザナキ、イザナミの国生みと神生み
A: 二柱の神は淤能碁呂島(オノゴロシマ)に天降りされて、天の御柱を見いだし、八尋殿(大きな御殿)で、伊耶那岐命(イザナキノミコト)が、妻の伊耶那美命(イザナミノミコト)に尋ねて「お前の身体はどのようにできているのか」と言うと、答えて「私の身体は成り整ってまだ合わないところが一か所あります」と申した。
さらに伊耶那岐命が「私の身体は成り整って余ったところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところでお前の身体の足りないところをさし塞いで国を生もうと思う。生むことはどうか」と仰せになると、伊耶那美命は「はい、それでよい」と答えて言った。



    古事記・日本書記の神々の物語 一個人2011 2月号より



No119(2011.7.27)
Q:私市・若宮神社のラジオ体操の状況は
A:昨年の7月1日より始めた私市健康・維持・増進プロゼクト、早くも一年が過ぎました。
 地元機関誌に投稿したものを掲載させて頂きます。

一日の始まりはラジオ体操から

よそ(他)の地区でラジオ体操やってはんのに、なんで私市はしやはらへんのや?
星田も松塚も天野が原でも・・・分かってまんがな、知ってる、見てるっちゅうねん。
あんた、やっていなぁ〜という言葉に発奮!やる限りには続けなアカン。
そこでスタッフ探し、一人、二人と協力者が出来、よっしゃ!。場所は若宮神社や。
早速、総代さんや区長さんにお願いにいったら、それはええことや、やってくれとの返事、ヤル気モード全開。
数日後、昨年の7月1日から実施。(名称:私市健康・維持・増進プロゼェクト 会長:冨田亨)
今年の6月末で丸1年「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑ニモマケヌ」の精神で、そしてこの6月13日には参加延べ人員1万人を達成した。
何月何日に1万人達成?を応募したところ2名の方が的中されました。
「一定のメドが立てば・・・」景品の授与も行いたい。(笑い)今年の流行語大賞候補?
第一・第二体操、ストレッチと流れた後、一言コメントを交えながら笑わせてくれる人・毎日の参加者をカウントしてくれる人・境内を清掃してくれる人・ラジオのスタート、ストップを操作してくれる適材適所の人、そんな人・人・人たちが毎朝集う若宮神社は今や私市の情報発信基地でもあり・パワースポットでもあります。(毎月会報誌の発行)


   

若宮神社境内にて(2011.6.28撮影)
若い頃は「得する」ことに目を向けがちだが、本当は陰ながら「徳」を積む人生こそが、年老いてからの生活も豊かで暖かにしてくれるのではないかと、毎日「健康積立貯金(利息:元気な長寿保障)」に汗を流す。
参加者の中で最年長は私市三千代さん。
昭和15年生まれ(自称)エエ。毎朝、色彩豊かな出で立ちで1日の始まりはラジオ体操からと元気一杯!颯爽とお見えになる姿にやる気、気迫を感じます。・・・大正15生まれと知って2度ビックリ!!。
参加者、平均年齢は60代後半から・・・歳くらいかなぁ(これは勘)。

  

神社関係者・行政区・近隣住民の皆様のご協力を得ながら「継続は力なり」をモットーに、健康・維持・増進のためにがんばって行こうと決意を新たにした。                 平田政信



No118(2011.7.25)
Q: 古事記に登場する主な神様の系譜は
A: 次の図、系譜(略)のとおり




・天の神が住む高天原と地上の国、葦原中国、すくすくと伸びる葦は、強い生命力を、葦原中国という呼称は、葦が豊かに生い茂る
生命力に溢れた国という意味。
・天の高天原と、自然豊かな葦原中国。『古事記』は、ほかにも死者が住む黄泉の国、須佐之男命が治める根の国、海神の住む
綿津見神の宮、そして海の彼方に常世の国があることを伝えている。
      古事記・日本書記の神々の物語 一個人2011 2月号より

No117(2011.7.20)
Q: 風土記とは 
A: 平城京に都が遷されて3年目の713年、諸国に対して『風土記』撰進の命がだされた。
その内容はというと、
 1. 郡や郷名に好い字をつけなさい。
 2. 地域でとれる物産名を記しなさい。
 3. 土地の状態をのべなさい。
 4. 山・川・原・野の地名の由来をのべなさい。
 5. 古老が伝聞していることを記録しなさい。
というものであった。

この命令にしたがって国々では『風土記』を提出したと思われるが完全な形で残されている国の『風土記』はない。かろうじて、常陸・出雲・播磨・豊後・備前の五風土記がまとまった形で現存している。
その中でも、『出雲国風土記』は唯一、内容的にほぼ完本の形で残っており、733年成立という完成度もわかっている。『出雲国風土記』には、いくつかの注目すべき特徴がみられるが、何といっても編集の最高責任者が出雲大社の宮司である出雲国造(くにのみやつこ)であることはみのがせない。
一般の『風土記』の場合、政府からの命を受けて各々の国の国司たちが中心になって編纂をおこなったと考えられるが、出雲の場合、国司の関与のあとがみられないのである。
そのかわり、出雲国造であった出雲臣広嶋が郡司たちを総動員して作成にあたっている。その結果、『出雲国風土記』には、出雲国造を頂点とする出雲的世界が展開されていて、他の国の『風土記』と比べて地元色が強く反映されている。
たとえば、神話を例にしても出雲国造が祀るオオクニヌシが圧倒的な存在感をみせているし、『出雲国風土記』にしかみられない神話もある。





No116(2011.2.16)
Q:梵字 アビラウンケン碑とは?
A:獅子窟寺にあります。
 胎蔵界の大日如来の御真言で、この五つの文字は宇宙の要素(地・水・火・風・空)を表し、大日経には四座を降伏し、一切智智(すべての諸尊)を満足する金剛の文字であると釈している。
この五字をオン(帰依)・アビランケン・ソワカ(成就)と唱えると、すべての事が成就されるといわれている。
永禄六年(1563)三月十二日の記銘あり。
また、蓮華座の下に一結衆の十一名の名があり、逆修供養(死んで極楽に行ける様に生前に佛事を修める事)の為に建立したとある。
   
  

No115(2011.2.15)
Q:前方後円墳とは 
A:弥生時代の終末、現在の奈良盆地を中心に新たな墓制への動きが始まる。
前方後円墳に代表される新たな墓制は、それまでの地域ブロックごとの墓制の個性を打破する形で、墳丘・埋葬施設・副葬品などに共通の規格をもって全国一斉に出現する。現在では、こうした共通の規格にしたがって造られた前方後円墳出現以後の墳墓について、古墳という言葉を用いている。
こうして、畿内を中心にした新たな墓制の代表格が前方後円墳である。前方後円墳の各要素、例えば墳形・埋葬施設・副葬品・葺石などは、それ以前の各地域の弥生時代の墓制に求められる。現在ではこうした各地域の墓制の諸要素が飛躍する形で統合され、大和盆地に最古の大形前方後円墳が出現してくるとの説がしてくるとの説が一般的である。前方後円墳で行われた首長権継承の祭祀を列島各地の首長が採用することによって、各地の首長が畿内の首長と結びつき、同じ倭国の一員としての意識を強めていってものと考えられる。なぜ畿内が新たな政治的中心として台頭してきたのかは、まだよくわかっていないが、一説にはこの時期に畿内が朝鮮半島を中心とした対外的な交易ルートを独占しつつあったためであるとの考えがある。
特に必需物質である鉄素材を朝鮮半島から供給するルートを畿内が独占することによって、各地域の首長に対し優位な立場にたっていたとする説が有力である。新たに出現した古墳は、前方後円墳だけではない。前方後方墳や方墳も前方後円墳とほぼ同時期に出現している。とくに前方後方墳は、東海地方を中心として東日本の最古の前期古墳として多く認められる。こうした墳形のちでがいは何を意味するのだろうか。
大阪大学教授の都出比呂志氏は、墳形の差は各地の首長の身分や格式を定める表現方法としてのものであったと説く。具体的には前方後円墳が最も上位で、ついで前方後方墳、円墳・方墳の順で古墳がランクづけられたという説明である。しかし、小さな前方後円墳もあれば100mを超す前方後方墳もあり、こうした現象をどう説明すればよいかということが問題になる。この点について都出氏は、墳形のちがいについては、どちらかといえば畿内政権との関係の度合を反映したもの、つまり畿内とより近い関係にあった首長が前方後円墳を造り、畿内との関係がやや薄い、いわば外様的な立場の首長が前方後方墳を造ったと説明する。
そして、各地の首長の本来の実力は、古墳の規模に反映されると説く。


  


No114(2011.2.9)
Q:ふるさとウォークって?





No113(2011.2.7)
Q:私市健康・維持・増進プロジェクトのその後の活動状況は
A:元旦よりやってまっせ!

 

 



 一月は一日も雨・中止日がなかった(1日平均28名)。穏やかなお正月、健やかな朝をラジオ体操で過ごすことが出来ました。2月も午前7時だ!若宮神社に全員集合!!!



No112号(2011.1.23)
Q:河内(西)と大和(東)の境、傍示。
スマイル(微笑み)地蔵さんと、その前におられる阿弥陀さん、どちらが先輩?
A:スマイルさんは、永禄四年(1561)生まれ、手前の阿弥陀さんは天正四年(1576)生まれですのでスマイルさんの方が15歳年上です。

   

  天正の年号から「天正地蔵」と呼ばれています。


No111号(2011.1.22)
Q:傍示の「スマイル(微笑み)地蔵」さん、いつ頃から笑っておられるんですか?
A:わたしは、永禄四年(1561)から笑みをたやすことなく、450年もここに立っています。
 これからも「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」・・・皆さんを笑顔で迎えます。

       
                     傍示:地蔵さん 

傍示共同墓地入口手前にある。
花崗岩で、舟形状に加工された石材内に地蔵菩薩立像が厚肉彫りされている。
総高:119cm 像高:81cm。


No110号(2011.1.19)
A:かんじょう縄って?
Q:昨日、柳生街道随一の名刹、忍辱山・円成寺を訪れ、桜門前のすぐ東に大きな松の木にかけられた太い注連縄が「かんじょう縄」と呼ばれています。
 縄の中央に陰陽を表わす飾りものが垂れさがっている。ここは忍辱山の集落の入口にあたるところで、村の人たちの手でかけられる(毎年1月10日)。こうして村に悪霊や汚れの入らないよう、また五穀豊穣、村内安穏をも乞い願うものです。

          
                忍辱山・円成寺の「かんじょう縄」

このような古いしきたりがいまもこの高原の村に生きています。

No109号(2011.1.14)
A:地蔵さんは何処に住んで居られるのだろう。
Q:それは羅提(きゃらだ)山という山で南方にある。
北向地蔵の有難いのは南の羅提山を拝むことが出来るからである。

       
                私部:輿部屋地蔵

 ここの地蔵も北向きに祀られていて有難いとされています。


No108号(2011.1.111)
Q:上の山で山根街道と東高野街道が一つになるところに、地蔵さんが立っておられますがいつ頃の
   造立かわかりますか?
A:石仏に記銘があります。
「私部地蔵講中 享保十乙巳年三月廿四日」とあり、享保十乙巳年といえば西暦1725年となりますので、今から286年前に私部地蔵講の人達によって建てられました。

    

◎現在の上の山付近は住宅地となっており写真当時(昭和48年頃)の面影は残っておりません。 
   
       

  ※昨年3月、第二京阪国道が開通し、周囲の風景は一変しています。


No107号(2011.1.7)
Q:墓地入口には六体地蔵さんがおられますが、いったいいつごろからお立ちになられているのか?
A:市内各地区の墓地入口には必ず立っておられます。
 調べてみた所、寺村の共同墓地の六体地蔵さんに元禄十六年癸未七月二四日との記銘があった。
 元禄十六年は西暦1703年ですから308年前に造立されました。市内での造立年代の分かる六体地蔵さんは、ここ寺墓地のみです。この頃から六体地蔵さんが墓地入口に造立されるようになったのか?

  

          

No106号(2011.1.6)
Q:磐船神社の不動明王は何歳?
A:天文十四年乙巳十二月生まれの466歳です。



天文拾四年(1545)法印清忍というお坊さんがここ磐船神社の不動明王を刻んだことが、左右の記銘からわかる。


No105号(2011.1.1)

  
2011年 卯年
よもやまセミナーQ&Aの読者の皆様へ、明けましておめでとうございます。
世の中に山とあるような話し、自分自身のメモ帳に書き記したことをQ&Aに編集し掲載させていただいております。年とともに物忘れが進み、いい話し・いい記事・聞いたいい話etc思いだそうとしても中々、思い出せなくなった今日この頃。
くだらない話しですが、話さなければ、くだらないことがわかりません。
いつか、くだらない話しが何かの役に立つ場合があるかも知れません。
「継続は力成り」をモットーに続けてまいりますのでよろしくお願いいたします。
また、昨年7月より初めました朝のラジオ体操、別称「健康積立貯金」に力を入れております。
健康で明るく・楽しく・元気よくウサギ年にあやかって飛んで・跳ねて、健康をつかもうではありませんか?
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
      平成23年1月1日
         よもやまセミナーQ&A 編集人 平田政信


No104号(2010.12.31)
Q:除夜の鐘はなぜ百八つくのか? 
A:大晦日の夜を年越しとも除夜ともいうが、すすはらいしてさっぱりしたところで年越しそばをいただき、しばらくするとどこからともなく除夜の鐘が響いてくる。

 あの鐘の音は、一年の最後を飾るにふさわしく胸の底にしみわたる。テレビでも全国の有名寺院の鐘の音を中継放送して久しく、百八つくのは我々の煩悩が百八あり、それを一つ一つ打ち消して新しい年を迎えるとされている。この風習はインドではなく、中国では鐘をたたき爆竹をならして厄をはらい、三跪九叩(さんききゅうこ)の礼をして新年を迎えるところからはじまったのであろう。

 鐘はもともと朝夕に18回あるいは36回、108回つくものとされるが、除夜の鐘は108つき、この数は人間の煩悩である身心を苦しめ悩ます精神作用のすべてをさす。108の煩悩の数え方には多くの説があり一定していないが、一般には貪(むそぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)、慢(あなどり)、疑(うたがい)、見(悪い考え)の六つの心が眼や鼻や舌や身や意の六つの感覚につきまとい、それが過去・現在・未来にわたるからだとされている。

 釈迦はこの煩悩のすべてにうちかち、悟りを開いたというが、中国の傅大士(ふだいし)は生前に習ったお経をあの世で忘れ、閻魔さまの裁きによって正に地獄に落ちようとしたとき、静かに響く鐘の音を聞き、たちまち記憶がよみがえって許されたという。除夜の鐘の音は、われわれに過ぎ去った一年の行ないを反省させ、来る年の希望を新たにさせる警鐘といえる。
             仏教のわかる本 松涛弘道著

  
この石段、もともとは108段につくられていたのでしょう。現在は104段になっている。


No103号(2010.12.30)
Q:正月に訪れる歳神と注連飾りについて
A:古来、日本では正月に歳(年)神を迎えるのが習慣だった。
歳神を「広辞苑」で探すと、@五穀の豊年を祈る神。年殻の神。A歳徳神のこと、とある。
別名、「正月さま」「歳徳さま」「若年さま」とも呼ばれるというが、この歳神は新年のはじめに訪れ、年内の幸福と五穀の豊穣をもたらす神だとされ、その年の縁起のいい方角(恵方)からやってくるといわれる。
この歳神からは古代の農耕社会のイメージが浮かぶ。
当時の人々には米・麦・粟・豆・キビ(ヒエ)という五穀の豊作が切実な願いだったし、そのために五穀を守り、豊作を祈ってくれる神々は大事だったにちがいない。
その歳神が新年のはじめに訪れるとすれば、人びとは十分な用意をして神さまを迎えただろう。そのために年の暮れに大掃除をし、玄関に注連飾りを飾ったというわけである。

その注連飾りは歳神が家に訪れるときの目印であり、その家が清浄な場だという証だったともいわれる。あるいは、外から災危が忍びこむのを防ぐとも伝えられている。
正月に欠かせない門松も注連飾りの役割に通じ、これは歳神を招くために必要な依代だとされる。依代とは神霊が乗り移るものをいうが、松のほかにも楢・柳・栗・樫・榊・竹などが使われている。このうち、松・楢・柳・栗・樫・榊は常緑樹だが、古来、緑が豊かなそれらの木々には神々が宿ると信じられていたからである。
そこにも農耕に生きた古代の人々の切実な願いがこめられている。

ほかにも、歳神にまつわるものに正月の床の間を飾る鏡餅がある。門松は歳神を招くための依代だったが、鏡餅にも歳神が宿るとされ、その丸い形の原型は神鏡だと伝えられている。さらに、正月をすぎると各地で鏡開きの行事がおこなわれるが、これは歳神が宿った鏡餅を手か槌で割り、縁起をかついで「開く」ことにちなむという。鏡餅もお汁粉やぜんざいのために用意された餅ではなかったのである。

正月といえばおせち料理が定番だが、これも神々とは無縁ではなさそうだ。
おせち料理の「おせち」は「御節」と書くが、それは正月や節句といった節目に神々に供えられた馳走を意味している。それだけに、おせち料理には神々の霊が宿っていると考えられている。その料理をごった煮にしたのが雑煮のはじまりとされる。

私たちは注連飾りや鏡餅やおせち料理に信仰の匂いを感じることはない。それは新しい年の玄関を飾り、正月にしか食べられない料理だと考えている。しかし、すべての天変地異が神々の怒りだと考えられたはるか昔、それらは人びとの素朴な信仰と結びついていた。
それが今日なお、正月の風習として受け継がれているのである。
ちなみに、神社で正月の元旦におこなわれる祭儀は歳旦祭、あるいは元旦祭と呼ばれ、五穀豊穣や国民の幸福が祈願される。これは宮中でもおこなわれている。
             神さまと神社 井上宏生著より

  
               倉治の歳神さん(2008.1.4瓦版・よもやま話より)


No102号(2010.12.28)
Q:昨日の柳生街道は?
A:1月実施する講座の下見、一人で行って来ました。JR奈良駅から柳生行の路線バスに乗り円成寺へ。 途中路面が凍り、立ち往生、そこからバスを降りて徒歩で向かった。
 円成寺から柳生街道を滝坂の道へと下る途中の峠の茶屋で休憩、今日はお客様が初めてだと。
 一人での柳生街道、石畳みの雪道も味なものでした。
 
  
  
◎このコース、登りか、下りか迷っているが安全面からいって、登りがいいか。
 石畳道の下りは危険と判断。


No101号(2010.12.27)
Q:私市の若宮神社が賑わっているそうですね。
A:はい、今年の7月から若宮神社境内でラジオ体操をはじめました。
 多くの区民の方々が毎日参加されています。名称は「私市健康維持増進プロジェクト」です。

    
  
  
  


No100号(2010.12.24)
Q:2010年の[世界の10大ニュース]は
A:読売新聞社は1989年以来、激動する国際情勢を国民の視線でとらえるため、海外ニュースを読者の皆さんの投票によって選んできました。今年も国内外から応募、集計の結果次のとおりとなりました。そして12月22日(朝刊)に掲載されました。
   
  
  
  

No99号(2010.12.23)
Q:2010年の[日本10大ニュース]は
A:読売新聞社は1947年から、毎年の10大ニュースを読者の皆さんの投票によって選んできました。集計の結果次のとおり決まり12月21日(朝刊)に掲載されました。

  
  
  
  



No98号(2010.12.21)
Q:磐船神社の祭神について
A:御祭神は饒速日命であったが・・・・

 御祭神は饒速日命で、神代の時代、饒速日命が哮ヶ峰に「天の磐船」に乗って天降ったという神話があり、この乗ってきた「天の磐船」が当磐船神社の船形をした巨石であると言い伝えられている。
磐船神社にあるこの巨石は当社の御神体とされており、古来より天孫降臨の聖地として崇敬されている。
饒速日命は物部氏の祖とされており、しばらく物部氏の一族・肩野物部氏によって祭祀が行われてきたが、その後蘇我氏との崇仏・排仏論争によって物部氏は滅亡したため祭祀は衰退することとなる。
平安時代になり、諸説あるが、交野地方が京都の皇族や宮廷人の遊狩場・歌所となったことから、歌の神でありまた航海の神でもある住吉四社明神を祈る住吉信仰が広まった。
このような流れの中で磐船神社は「天の磐船」とされる船形の巨石が「船」=「海・航海」と結びつけられ、いつの頃からか住吉四社明神を祀る神社となった。
対岸の四尊磨崖石仏は、これまで住吉四社明神(第一本宮:底筒男命・第二本宮:中筒男命・第三本宮:表筒男命・第四本宮:息長帯姫命<神功皇后>を総称して言う)の本地仏とされてきた。
しかし住吉四社明神の本地仏は「薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音」であるが当四尊石仏は「地蔵菩薩・阿弥陀如来・十一面観音・勢至菩薩?」となっていて合わない。
当石仏果たして本当に住吉四社明神の本地仏なのか、また向かって一番左端に彫られた尊像が勢至菩薩なのかなど、まだまだ調査を進め解明していかねばならない。
なお、磐船神社の御神体である巨石の頂部には銘文が彫られている。
加藤肥後守
石 アイリ□□……







No97号(2010.12.20)
Q:地蔵菩薩の願いとは、どんな願いを立てたのか。
A:「大乗大集地蔵十輪経」には次のように説かれる。







No96号(2010.12.18)
Q:神宮寺の塞ノ神の一つ、村の出入口にあったのがなくなっている。
A:以前、厚主工務店さんの敷地内に祀られていたが、一昨年に転居され、その後分譲住宅が建ち
  行方不明となった。


       

            垣根の中で祀られていた阿弥陀さん


No95号(2010.12.17)
Q:2010年の世相を表す「今年の漢字」は
A: 「暑」記録的な夏でした。 

    

2010年の「今年の漢字」は「暑」に決まりました  ← クリックください!↓




No94号(2010.12.16)
Q: 明日香村 牽牛子塚前で発見された「大田姫皇子の墓?」について
A:12/10読売新聞記事より

















女帝・斉明天皇(594−661年)の墓と確実視されていた奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の南東隣接地から、孫で、中大兄皇子(後の天智天皇)の娘・大田姫皇子の墓とみられる同時期の古墳が見つかった。

1. 飛鳥時代、斉明天皇陵の前に大田姫皇子を葬ったとする「日本書紀」の記述と出土状況が一致する。
2. 周辺の字名から、発見した古墳を「越塚御門(ことつかごもん)」と命名した。
3.大田姫皇子は、大化改新の前年の644年に生まれたとみられ、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)の妻になったが、幼子2人を残して20歳代前半で亡くなり、皇后になれなかった。天武天皇の皇后になった持統天皇は妹。
4.宮内庁・陵墓指定見直し否定的。斉明天皇陵として車木ケンノウ古墳(奈良県高取町)を陵墓に指定。


No93号(2010.12.14)
Q:交野郷土史かるたについて
A:交野郷土史かるたの刊行については、交野の歴史を知って頂くようにと昭和53年3月1日に発刊いたしました。ご家族で楽しく、故郷の歴史をかるた遊びを通して学んでいただければと。なお、読み札の裏面には簡単な取材地の歴史が書いてあります。又、略地図を添えていますので、歴史散歩などにご利用ください。

  
   

毎年、1月に市内小学生を対象に「かるた大会」を行っております。
平成23年は第31回のかるた大会を1月15日(土)PM13.30分より武道館2Fにて開催いたします。
ふるって参加いただけますようご案内いたします。また、お正月が近づいてまいりました、ご家族に一つ郷土史かるたを備えつけられては・・・販売は文化財事業団・歴史民俗資料展示室・古文化同好会まで。
発行:交野古文化同好会   販売価格は 一箱1000円。
連絡番号 072−891−5386(留守番伝話に電話番号・お名前を、後ほどおかけいたします。)


No92号(2010.5.19)
Q:新緑の笠置山(笠置寺)を「ふるさと講座」の皆さんと昨日、歩いてきました。
A:週間天気予報では雨模様でしたが、快晴の五月晴れの中、全員が完歩することが出来ました。

   

 寺伝では弘仁期(810−824)弘法大師がこの石にのぼり、求聞持法を修し一夜にして彫刻せしといわれています。彫刻様式から中国山西省の磨崖仏に相通じるものがあるところから本尊弥勒磨崖仏(前号:91号)と同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。           寺:説明板より

  

  


No91号(2010.5.17) 
Q:笠置山の磨崖仏について
A:  ここは天智天皇の開祖を伝え、木津川に臨む三面絶壁の山頂に線刻磨崖仏があった。
『笠置寺縁起』では天智天皇がこの山で、遊猟の間の危難を救われたお礼に、弥勒仏を刻む願いを立て、天人来ってこれを彫ったとある。そしてその左右に二比丘形の脇侍があったことがわかる。しかしこの白鳳の磨崖仏は後醍醐天皇の元弘の兵火で焼け損じて、原形をとどめていない。この笠置山の弥勒磨崖仏はもちろん天人が造ったものではない。その彫像法は下から足場を組んだか、または籠に乗って上から吊り下げられたか、とにかく人間が彫ったにちがいないが、それが山岳修行者の一団であったことには疑いないであろう。
そのような修行者の存在をこの山の龍穴が暗示してくれる。すなわち龍穴とよばれる石窟に
窟籠(いわやごも)りする修行者が、この巨厳を弥勒仏の磐境(いわさか)として礼拝し、その尊容を彫り出したのが弥勒石の如来像であった。前奈良期の山岳宗教の遺跡である。

   

 高さ15.7b、幅12.7bもある前傾した切り立つ岩で、その表面に日本最大最古の彫刻像と伝えられる笠置寺本尊の仏である。しかし元弘の変(1331年)で戦火にあい、今は巨大な石面に彫り窪められた仏像の光背の形だけを残している。

No90号(2010.5.10)
Q:「郷土史かるた」の読み札での内容について信憑性が疑われているらしいが。
A:広報かたの(4月1日号)のかるた郷土史めくり(神宮寺地区編)で紹介されています。

  

  

・興福寺官務牒疏については、最近の研究で江戸時代作成された偽文書である可能性が高く、その内容についても信憑性が疑われている。それじゃ、天平時代の開元寺はないのか?お寺はあったが、開元寺という寺号ではなかったと言われている。今後のさらなる研究に期待。

No89(2010.5.7)
Q:わしらも首からうえがないんじゃ、いつのころから?
A:多分、明治初年頃の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のときと違うかなぁ〜

 
 墓の入口には地蔵(特に六地蔵)石仏が多いが、それは地蔵が六道済度(六道輪廻から衆生を救済する)菩薩であることをもって、死者の安住(死後の迷いからの救い)の期待がこめられている。地蔵は仏教諸尊の中で、最も死者との結びつきの強い尊像である。

  

No88(2010.4.30)
Q:みんな、どこへいかはってん〜、以前は5体もいやはったのに今はわたい(私)だけ。
A:お盆16日の夜明けには新仏さんをここまでお送りした所。このあたりも住宅が建ち並んでしもうて、 
  今はその行事もなくなってしもうた。

  

  

このあたりの土地の小字を「東森の木」といい、「森の木」がなまって「門の木」となり、地蔵の名前も
「門の木地蔵」と呼ばれるようになった。残りの仏さん・・・どこに行ったのやら。


No87(2010.4.28)
Q:どないしゃはりましてん
A:どうもこうもありまへんがなぁ

  
  

 かろうじて生きてます。
こんなことをする時代がありましてんなぁ〜、でもこのままではいかんと村人たちが
ここへ連れてきて祀ってくれはりましてん。
 最近はようお参りして大事にしてくれます。

No86(2010.4.26)
Q:ゆっくりできまへんなぁ〜
A:何で・・・でんねん。最近えらい街道が、いやハイウェヘ(第二京阪国道)が出来ましてなぁ、時代とともにこの辺も賑やかになりました。でも、田んぼがある限り、水を守りまっせ!。

             

  

No85(2010.4.23)
Q:野の仏・・・ふるさと交野にある石仏は?
A:あたりまえのことだが石に彫られていることと、野に立っていることにつきる。
  順次案内申し上げます。

    
          倉治:浜の池地蔵(愛称:交通安全地蔵)

倉治小学校ができる前、中央を流れていた中川の辺りに祀られていた。
現在は久御山線東側の畔に移され、道行く人々の安全を見守っていて下さっている。
この阿弥陀さんのお顔を見つめれば見つめるほど険しいお顔に見えてくるのは私だけでしょうか?今年、第二京阪国道(3/20)が開通し、周辺部の交通量がさらに増えたので気を引き締めよとのことかも・・・。後方の建物は倉治小学校と交野山の遠望。

*交野地方にある石仏は広義で地蔵さんと呼んでいます。

No84(2010.4.21)
Q:「ふるさとウォーク」の話を聞きましたが・・・教えて欲しい
A:文化財パトロール隊(市文化財事業団関連ボランティア)の自主活動の一環で、今年度4月より開講しました。交野には遺跡・文化財etcがいたる所にあります。そんなスポットを巡り歩こうと、交野に住んで暮らしていても、まだまだ知らないところがあるという方々の少しでもお手伝いが出来ればとパトロール隊(現在12名)立ち上がりました。
市民の皆さまと一緒に歩き、文化財を知って、守って行こうではありませんか。

[ふるさとウォーク要綱]
1.日 時  毎月 第二水曜日  午前10時〜12時まで
      5月12日  6月9日  7月14日  8月は休み 
2.集 合  交野ドーム噴水広場(7月まで)
      9月から集合場所が変わり、あなたのまちへ、別途連絡します。
3.その他  事前申込等はなし、当日集合場所へ(参加自由)
      連絡先はなし、雨天等での中止の判断は自身で(健康ウォークなので)
*尚、ウォーク中の事故等については一切の責任は負えません。

            第1回(4/14)ふるさとウォーク模様

  
  
  

No83(2010.4.19)
Q: 市町村合併と地名について
A:近代に入って、地方行政の効率化をめざして市町村合併がなされるようになった。
  過去に、二回の大規模な市町村合併がみられる。
  明治22年(1889)に近代的地方自治制度を確立するための「市制・町村制」が
  実施されたときと、昭和28年(1953)に「町村合併促進法」が施行されたときである。
  そして、現在三度目の大がかりな地方行政区画の再編が行われつつある。
  それによって、いくつかの耳なれない新たな都市名があらわれた。
  香川県の津田町など5ヵ所の町が合併して「さぬき市」に、埼玉県の浦和、大宮、与野の三市が
  合併して「さいたま市」となっている。
  行政区画の再編によって、いくつもの伝統的地名が消えていく。

☆交野市の沿革
 1889年(明治22年)に市町村制が施行されて交野郡は12ヶ村に分割されました。
 このとき倉治、郡津、私部は交野山(こうのさん)の麓の村として交野村(こうのむら)に、私市、森、
 寺は昔から有名な磐船の地として磐船村に、星田は広い地域全域を星田村と定められました。

 1939年(昭和14年)に交野村と磐船村が合併して交野町
 1955年(昭和30年)に星田村が交野町に合併されました。
 1971年(昭和46年)大阪府内31番目の「市」として交野市誕生(人口36.952人)

   
             昭和46年当時のJR星田駅

  
             昭和46年当時のJR河内磐船駅


No82(2010.4.16)
Q:生活になじみの深い神々・その2 荒神さん とは 
A:荒神信仰は複雑であるが、大きく二つに分けられる。
 
 

No81(2010.4.14)
Q:生活になじみの深い神々・その1 水の神さん とは
A:水に関わる神の総称である。
『古事記』には、天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)が水の神として見える。
水に関わる信仰は古くから多く、また多岐にわたっている。
水神が祀られる場所は、水源、井戸、泉、川、田の水口などで、山中の水源に祀られるのは、山の神と関係が深い。稲作は、水の供給状況によって豊凶が左右されるため、水の神への信仰は特別であり、水口や水田のほとりに水の神を祀ることが多い。
この場合は、田の神と結びついている。泉や川の水を生活に用いる場合は、水場に水神が祀られる。また、妖怪の河童は人々に水を与え、あるいは水の危害をもたらす存在であったので、水神様として祀られ、あるいは水神の使いともされた。
交野には傍示の山里の中に水神さんが祀られています。
かいがけの道をのぼり→西傍示(現在5軒)に入り→廃蓮華寺の裏道を→北浦(きとら)の辻に出る少し手前、右斜面で祀られています。

 


No80(2010.4.12)
Q:交野関連地名パート2
A:「地名小辞典」丹羽基ニ著より抜粋
  
  
  
  

No79(2010.4.9)
Q:日本地名語源辞典のなかに交野関連地名はいくつ?
A:次のとおり
  
  
  


No78(2010.4.7)
Q:「ふるさと交野を歩く・里の巻」山添家の項目にある、扠首組(さすぐみ)・からうす・牛の監視をかねた窓・へっつい(かまど)、そして、はんど壺とは?
A:昔「一粒食い」に使用した赤白黒の歯がため石をここに沈めたというが、山裾の村の古い民俗をしてくれているようで・・・あると書かれています。

  

  

  

NO.77(2010.4.5)
Q:ポストをトイレと勘違い!?
A:わが国初の郵政事業が、1871年(明治4年)3月よりスタート。

 「郵便の父」といわれる前島密の発案で、まず東京―京都―大阪間で開始された。
 とはいえ、まだ交通機関が発達していない当時、輸送手段は江戸時代そのままの「飛脚」。距離に応じて変わる料金体制にともない、4種類の切手が発行された。
 が、切手を貼ることを知らず、書状に銭を結びつける人や、住所氏氏名を書かず「東京にておば様」と書いて投函してしまう人などが続出。1度使用された切手の再使用も相次ぎ、苦肉の策として前島が「消印」=スタンプを考案したという。町には郵便箱が設置されたが、「垂便箱」と読み間違え、その中に小便をするというそそっかしい人も出現。
そそっかしいのは逓信省も同じで、当初、郵便の正章を「T」発表したが、それは万国共通で決まっている不足税の印と判明し、あわてて棒を1本足して「〒」にしたのであった。



交野市の郵便創業
・明治9年(1885年)3月20日
星田村大谷の南多治郎氏が郵便取扱役に 
 任ぜられ自宅で郵便の受付業務を開始。
・明治41年(1911年)3月1日
 交野村の要望に応えて、私部に交野郵便局 
 が無集配三等郵便局として開設。
・明治44年(1913年)3月には両郵便局に公衆  
 電話が開通し近代化が進んでいった。




   

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