平成30年6月 定例勉強会 寺と仏像シリーズ・お寺について 高尾 秀司氏(交野古文化同好会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 25名(会員21名)の参加 |
2018.6.23(土)午前10時、6月定例勉強会に25名が参加されました。 立花会長の挨拶で始まり、講師の高尾秀司氏より「寺と仏像シリーズ」をテーマで、 「お寺」について詳しく解説いただきました。 (講演会の概要) 「寺と仏像シーズ・寺について」 1.お寺さんて何だろう 2.お釈迦さんについて(お寺の起源) 3.お寺の発生 4.日本の寺院の出現 5.お寺に何があるの 6.大きなお寺には(七堂伽藍) 7.仁王さん 8.門前の石柱には何がかかれているか 9.本堂と金堂に違いはあるか 10.日本の仏教の系譜 11.念仏やお経は何を言っているのか? 12.彼岸とお盆について ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の高尾先生のご厚意により 当日配布された「レジメ」及び史料集などを参考にさせていただきました。 記して感謝申し上げます。 参考文献: お寺さん入門、渋谷申博・仏像でわかる仏教入門・ひろさちや・知っておきたい日本の仏教、武光誠・日本の古寺を知る辞典、渋谷申博・仏教聖典、仏教伝道協会・飛鳥史跡辞典 |
講師 高尾 秀司氏(交野古文化同好会) |
立花会長の挨拶 |
交野古文化同好会勉強会 平成30年6月23日(土) 高尾 秀司氏(交野古文化同好会) |
明日香時代 仏教の公伝(538年或いは552年) 百済の聖明王が欽明天皇に経典・仏像を伝える 聖徳太子により仏教を柱とした国づくり 奈良時代 東大寺、法華寺、国分寺、国分尼寺など建立 南都六宗の成立 三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗 平安時代 天台宗、真言宗の登場 中国密教を日本流にアレンジ、平安貴族の支持を得る 鎌倉時代 浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗の登場 末法思想が広がるなか、念仏を唱えれば極楽浄土に行ける という浄土信仰が盛んになる。 時宗の登場 遊行と踊り念仏で信仰を広める。 臨済宗・曹洞宗の登場 武士からの支持で広がる 日蓮宗の登場、大衆信仰の独自路線を歩む 江戸時代 黄檗宗の登場 中国から黄檗宗が伝わる 念仏やお経は何を言っているか? 日本人なら誰でも知っているのに、改めてその意味を聞かれると言葉に窮してしまう。そもそもお経が分からないのは当たり前、釈迦の教え(サンスクリット語)を中国で漢字にしそれを日本に移入、しかも僧侶が音読で唱えるからである。 普通「ナマンダブツ」と唱える。「南無阿弥陀仏」「ナムアミダブツ」のことで「南無」とは梵語の「ナマス」からきている言葉で深く信心するという意味だそうです。アミダサマ・アミダサマあなたに心から信心しますと、誓いの言葉を口にしている。「南無・阿弥陀仏」となるという。 お経で一番ポピュラーなもの、「般若心経」や「仏説阿弥陀経」等 釈迦の教え |
当日、パワーポイントを上映しながら詳しくご講演くださいました! 高尾様のご厚意ですべての資料を頂戴しました。 |
お寺さんて何だろう お寺は、日本民俗信仰、つまり神道による神社と違い本来は外来のものであった。仏教はインドの釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)によって創始された教えである。釈迦が生まれたのは紀元前563年(4世紀頃の説もある)頃、インド(現在のネパール)と考えられている。 当然お寺の起源もインドにあるが、釈迦が教えを説いた頃は、我々が考えるようなお寺は未だ存在していなかった。その頃の教団は一種の合宿のようなもので釈迦と信者(修行者)が共同生活をして釈迦の教えも聞き、その指導に従って修行するものであった。 (こうした修行の場をサンガという) |
寺の起源(お釈迦さんについて) お釈迦さんはシャーキヤ国の王子として現在のネパールのパタン(ルンビニ)で生まれる。母のマーヤは産褥熱で亡くなる。釈迦は生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」と唱えたという伝説がある。16歳又は19歳で結婚し一子をもうけたといわれる。しかしこの身には老いも死もあると生の苦しみを感じ出家の意思を持つようになる。 釈迦は王族としての安易な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようとして、29歳で出家した。非常な修行を試みるが悟りをうる事は出来なかった。35才になった釈迦はガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で淋浴した後、村娘のスジャータから乳摩(ちちかゆ)の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹(インドボダイジュ)の下に正座して瞑想に入り悟りに達して仏陀となった。 |
ブッダとスジャータ。菩提樹の後ろに描かれている5人の修行者はブッダが苦行をやめたことを誹るも、 後にサールナートでブッダから最初の説法を授かり(初転法輪)、弟子になったといわれています。 |
あるとき、シャカは激しい修業をしていた。 断食、呼吸の制御、不眠などさまざまなことをして体を痛めつけていた。 その修行でシャカは、生きるか死ぬかというところまで自分を追い込んでしまう。 このまま修行を続けていたら、シャカ悟りを開く前に死んでいただろう。 どれだけ過酷な修行をしても、シャカは心の平安をえられない。 シャカは修行を断念して、里におりた。 そこでスジャータという少女と出会う。 そのとき、たまたまスジャータという娘がブッダと出会った。これは一篇の美しい物語であるが、娘はやせこけて樹下に坐るブッダを精霊だと思いこみ、乳粥を捧げたという。乳粥というのは、米をミルクで炊いて甘く味つけしたもので、当時のインドでは大変贅沢な食べものだったらしい。 「21世紀 仏教への旅 五木寛之」 でもシャカは、この乳粥を食べるべきかことわるべきか考える。 その理由は、この乳粥を食べると修行者仲間から「堕落した」と軽蔑されてしまうからだったという。 でもシャカは、この乳粥を食べることにする。 そして、ブッダは乳粥を食べた。衰弱しきっていた彼は、それを口にしたおかげで生気を取り戻し、菩提樹の下で瞑想に専念することができた。 「21世紀 仏教への旅 (五木寛之)」 そしてこの菩提樹(ぼだいじゅ)の下で、ついにシャカは悟りを開くことができた。 そしてシャカは、ブッダ(真理に目覚めた人、悟った者)となる。 |
お寺の発生 釈迦の死後約500年後仏教が広まるにつれ開祖の釈迦は次第に神格化されていき、その遺骨を納めた仏塔(ストウパー)への崇拝も盛んになっていった。 そうすると修行の場(サンガ)への崇拝も盛んになっていった。 そしてサンガにも仏塔(釈迦を象徴するもの)が造られる様になり、修行の一部の仏塔礼拝が組み込まれるようになる。やがて「ギリシャ」や「オリエント」文化の影響で仏像が造られだすとこれを礼拝することが修行の要素となった。 さらに王や富裕層の人々が信者となったことにより立派な建物や仏像がサンガに造られるようになり堂内の飾りや仏具のたぐいも豪華なものになっていったのである。 又中国や日本では権力者の信仰として受け入れたことが豪華なものに拍車をかけ、仏殿は宮殿みたいになり塔は天を突くような高さになり、僧の住む建物も立派に造られ、経典や宝物を納める建物も造られるようになった。こうして修行者の共同生活場であったサンガは法隆寺や東大寺の様な寺院に変貌していった。 |
日本の寺院の出現 日本最古の寺院 538年百済王から日本に仏像が送られ欽明天皇からすすめられた蘇我稲目が向原(むくはら)の自宅を寺院に改造して、そこに仏像を安置した。後、桜井寺と名を変えて拡大,更に聖徳大師の時代に豊浦寺の名を持つ有力寺院となった。平安時代に廃寺になった明日香村豊浦寺跡の発掘調査によって明日香時代にそこが大寺院であったことが明らかになった。 蘇我稲目の子、馬子と聖徳太子が物部守屋を滅ぼした後、二人は法興寺という大寺院を建てた。この法興寺はのち元興寺となり、奈良に移って現在まで続いている。後、四天王寺や法隆寺など大寺院が建てられた。法興寺のあった場所には現在の飛鳥寺があり、そこには法興寺の本尊であった釈迦三尊像が伝わっている。 |
日本最初の寺・桜井寺(豊浦寺・とゆらでら) 豊浦寺は現向原寺一帯に所在する最古の尼寺跡・奈良県史跡 甘橿丘から西北に派生する支丘と飛鳥川とに挟まれた狭い川岸段丘上に立地する。 |
千三百年前のまま埋まっていた山田寺 発掘前はこの寺の伽藍は四天王寺式といわれていた。それは南北に塔・金堂・講堂の基壇高まりが一直線に並んでいたからである。ところが塔と金堂が回廊で囲まれていて、講堂はその後側に独立して建てられていることが判り、山田寺式という新しい伽藍配置が考へられることになった。 写真は当時話題になった、金堂の東回廊が倒壊した状況で掘り出された。 |
大きなお寺(七堂伽藍) 門 結界の意味がある。国宝や重文もある 参道 門を潜ると本堂に続く参道がある。門・参道は七堂伽藍に含めない 塔 三重あるいは五重の塔がある。本来は釈迦の遺骨を納める所であった 鐘堂 時刻を知らせる 金堂 本尊を祀る・大寺院では仏殿とも呼ばれる 講堂 僧侶が読経したり講義を受けるところ 経蔵 お経を納めておく所 僧坊 僧侶が寝起きする所 食堂(じきどう) 僧侶が食事をするところ |
大きなお寺には門に仁王さんがおられる お寺の正門には何故仁王像がある? 仁王像(金剛力士)には名前が無い あえて二体を区別すれば、口を開いている方を「阿形」(あぎょう)口を閉じている方を「吽形」(うんぎょう)という。もともと仁王さんは持金剛、密迹金剛という一体の守護神である。持金剛は、雷電の武器や怪力をもって仏やお寺、仏教を信じる者を護るとされている。こうした事からお寺の守護のために門に安置されるようになったのだが、門におくのに一体では都合が悪い。そこで二体に分けられたというわけである。またこの「阿吽」とはサンスクリット語の初めから終り、すべての事象が象徴されている。 「あうんの呼吸」もここからきている。 |
門前の石柱には何が書かれているか 普通、寺の名前、まれに「不許葷酒入山門」 ここには普通寺院の名前が刻まれている。山号や派、大本山や総本山(宗派により異なる)そのほか「不許葷酒入山門」(ニラ、ネギといった臭い物とお酒)のようなものもある。 |
本堂と金堂に違いはあるか 法隆寺の金堂を本堂とは言わない。東大寺の大仏殿も平等院の鳳凰堂も本堂とは言わない。逆に一般のお寺の本堂を金堂とは言わない。一般に本堂と金堂は使い分けられているが、実は厳密な定義はなく、習慣的なものであるという。 |
本堂の中はどうなっているか、 本堂の中は宗派によってことなるがここでは各派に共通する点を中心に概略を説明します。 本堂の中は大きく内陣と外陣に分かれている。 内陣は本尊が安置されている部分 外陣は在家の参列者などが着席する部分である 内陣は聖なる空間であるから、在家の人は立ち入らないというのが原則である。内陣の奥まった所には黒や朱の漆塗りにされた須弥壇が置かれ、その上に本尊となる仏像が安置されている。また厨子に入れられて安置されることもある。本尊の上には天蓋という金色のシャンデリヤのような飾りがさげられる。 |
仏具あれこれ ひとくちに仏具といっても、色々な種類がある。堂内を飾り付けるために用いる荘厳具、仏様を供養するお花や供物(供養具),讀経の伴奏などに使われる梵音具(ぼんのんぐ)、僧の衣類や持ち物などの僧具、密教独特の仏具である密教法具などがある。 供養具・・香炉、花瓶(華瓶)燭台・・三具足と呼ばれる。 お寺独特の供養具に柄香炉というのがある。これは携帯用の香炉で行道や屋外で法要したりする時に使われる。 華は生花だがすぐ枯れてしまうので木彫や蓮華が多い。 花びらをまいて仏様を供養する散華という儀礼もインドから伝わったものだが、日本では蓮の花びらを模した紙片を使う。 |
彼岸とお盆(Ⅰ) 彼岸とは お彼岸といえばお墓まいり。普段は忘れている先祖のお墓参りと先祖に思ひをはせる大切な仏教行事の一つである。 彼岸とはすなわち「彼岸に至る」という意味である。彼岸すなわち川の向こう岸のこと。ここでは解脱(煩悩に束縛されない安らかな境地に達すること・・悟りをひらくこと)した悟りの世界のことを表している。川のこちら側は煩悩と苦しみに満ちた世界であるが、あちら側は平穏で安らぎに包まれた世界がひろがっているというところから彼岸は死後の世界をさすようになった。 そしてその死後の世界、つまり極楽浄土には自分達の先祖がいるというのでお彼岸に先祖供養する習わしができたのであろう。 |
彼岸とお盆(Ⅱ) お彼岸が年に二度あるのはなぜ 春と秋の二回、それも一年のうちで昼と夜の時間が丁度同じ長さになる時期にきまったのだろうか。 ひとつには阿弥陀様のいる極楽浄土は人間界から見て西方の彼方に有るとされているが、春分と秋分の日はちょうど真西に太陽が沈む。その真西にたなびく光景があたかも極楽浄土をうつしだしているかの様であり、年に二度の時期に先祖を供養するようになったという説だ。 もう一つは古来からの農耕サイクルとの関連だ。つまり春分の頃はそろそろ農作業を始めようという時期で、一方秋分の頃は収穫期であり、どちらも農業の節目に当たる。日本では稲作の始まる春 に豊饒を祈り,秋の収穫期に感謝を捧げる「田の神」信仰がふるくからあった。この田の神は先祖霊だともいわれる。そのためもともと日本にあったj稲作信仰に仏教の先祖供養が相乗りして彼岸の習わしができたという説である。 |
お盆(Ⅰ) ただしくは盂蘭盆会(うらぼんえ)という。これは梵語の「ウランバナ」を音訳。問題はそのウランバナの意味で実は餓鬼道であたえられる「逆さ吊りの苦痛」という意味である。釈迦の十大弟子の目連の話からきている。 母が餓鬼道に落ち逆さ吊りにされて、もがき苦しんでいるのを夏の日の籠り修行が終わる日に僧侶たちに食事をふるまえばその功徳により母親は救われるだろうと助言された。目連がそのとうりにすると母親は無事餓鬼道から救われたという。これがお盆の由来である。 これが日本流にアレンジされたという。 |
お盆(Ⅱ) 日本ではお盆には先祖の霊が帰ってくるという。お盆になると先祖の霊を迎えいれる為の迎え火や盆提灯をすえ、仏壇の前にわざわざ精霊棚を設けて、そこに御先祖が行き来しやすくするために夏野菜のナス、キュウリで牛や馬の形をつくって供える。 先祖の霊にしばし滞在してもらったら、こんどは無事にお帰りくださいと送り火を焚いて送りだし、地方によっては小さな燈籠をつくって火をともし川や海に流して魂送りをする。8月16日の夜におこなわれる京都の大文字焼きはいわば霊を送る壮大な儀式である。 |
お寺とお墓 お寺は本来僧(出家者)が修行をする場であった。修行生活によって得た智得を在家の人々に広めるための拠点でもあった。ともすれば日本人はお寺をお墓の管理者のように思いがちだが、お墓はむしろお寺にとって異質な存在と言える。法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺といった飛鳥、奈良時代に創建されたお寺には今も墓場は造らない。 お寺と墓が結びつくのは平安時代になってから、浄土信仰の流行が挙げられる。死者供養を教えの実践ととらえ、供養の法要を布教の場とする道を日本の仏教は選んだのである。一般に平安以降の宗派の寺院には(一部をのぞいて)墓地がある。 |
どうしてお寺には山の名前がついているか 山号が日本に伝えられたのは平安時代から鎌倉時代にかけてのこと、奈良時代には大体、平地に造られていたので山号はつけられていない。 比叡山延暦寺・高野山の金剛峰寺は正確な意味での山号ではない。 日本で山号が普及するのは禅宗を通してのことだと云われている。禅宗寺院では中国の五山寺院などを真似て寺号の上に山号をつけるようにしたのである。例・・東山建仁寺、巨福山(こふくさん)建長寺、浄土宗では紫雲山金戒光明寺、浄土真宗・長栄山本門寺(池上本門寺)。黄檗宗万福寺など 終り |
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