令和元年 9月 定例勉強会 京都千年 「水 物 語」 吉岡 一秋氏(交野古文化同好会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 32名(会員30名)の参加 |
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2019.9.28(土)午前10時、9月定例勉強会に32名が参加されました。 村田事務局長の挨拶の後、吉岡一秋氏より「京都千年 水物語」について、興味深いお話を2時間たっぷり、詳しく解説いただきました。 大変貴重なお話を有難うございました。記して感謝申し上げます。 (講演会の概要) レジメに従い 「京都千年 水物語」 はじめに (1)鴨川 ① 移住者の進出 ② 仲源寺の目疾地蔵と寺の由来 ③ 歌舞伎の発祥の地 ④ 六条河原 ⑤ 秀吉の京都大改造 御土居の建築 寺町通 ⑥ 三条大橋 ⑦ 山紫水明 ⑧ 河原町通りと石仏 (2) 京都の地下水(伏流水) ① 京の名水 ② 伏見の酒 (3) 高瀬川(濠川・・・角倉了以) (4) 琵琶湖疎水 経緯と意義 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の吉岡一秋先生のご厚意により 当日配布された「レジメ」などを参考にさせていただきました。 また、WEBより参考資料・写真などを参照しました。 記して感謝申し上げます。 |
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交野古文化同好会勉強会 2019年9月28日 吉岡 一秋氏 (交野古文化同好会) |
交野古文化同好会勉強会 「京都千年 水物語」 吉岡 一秋氏 (交野古文化同好会) |
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はじめに 水は生命の源である。水は大地を潤し、暮らしを支え、文化を育んできた。千年もの都を栄え続けてきた京都。その秘密は何かと言うと、それは「水」と言う人がいる。 |
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(1) 鴨川 鴨川は古都千年の歴史を見続けた川である。 当時平安京には、何十万人の人々が住んでおり、京都を囲んだ山々の木々が伐採され、多くの木造建築が造られたのである。おかげで山々はハゲ山の状態で、一旦雨が降れば一気に川に流れ込み、そのたびに氾濫したのが鴨川である。 当時の鴨川は右へ左へと蛇行しており、また川幅も非常に広かったようである。昔は洪水で橋も度々流されることもあり、きっちりした橋を架けるより、簡単に架ける橋を作り流されたらまた作るといった具合であった。 鴨川|は暴れ川の一方、田畑を潤し、京野菜など豊かな恵みをもってきた川でもある。 現在の橋に整備されたのは、昭和10年の大水害により、その時に護岸工事などの対策がなされ現在の鴨川の姿が出来たのである。 |
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高野川と加茂川の合流地点が「鴨川デルタ」 |
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「鴨川デルタ」 飛び石で遊ぶ |
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三条大橋の鴨川風景 |
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① 移住者の進出 五世紀になると京都盆地の桂川流域や鴨川流域には、多くの移住者が進出してきた。この移住者は列島内の人々だけではなく、多くの渡来人が含まれていたのである。鴨川流域の北域では賀茂氏・出雲氏の列島内移住者、また渡来系の小野氏・八坂氏・粟田氏などである。 |
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② 仲源寺の目疾地蔵(めやみじぞう)と寺の由来(中原氏) 元来「雨止み地蔵」。当初は四条橋の東北にあったとされる。 1228年鴨川が大雨で洪水となり、防鴨河使(ぼうおうかし)となった中原氏がこの地蔵尊に止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まったことから、朝廷から「仲源寺」の寺号を下賜されたという。1585年現在の寺地へ移された。 |
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にぎやかな祇園の中心に位置する「仲源寺(ちゅうげんじ)」。 ここに安置されているのが「目やみ地蔵」です。「目」と名のつくように、目の病気でお困りの方や健康にご利益があるといわれ、多くの方が参拝されます。 しかし、安置された当時は、全く違った目的のお地蔵様で、「目やみ地蔵」ではありませんでした。 |
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③ 歌舞伎の発祥の地 「出雲の阿国」(1572年頃~不詳) 色々な人々が地方から都をめざして上がってきた時代、阿国もそういう一座の中の一人。五条河原は当時多くの人々が集まる広場のような役割を果たしていた。出雲の巫女だったと伝えられる阿国は、この河原で子供たちが踊る「ややこ踊り」を披露し大評判となる。その後阿国は思考を凝らした鴨川ならではの人気を博するのである。 かつて鴨の河原とは「身を清める」場所であり、亡くなった人達を送る空間であった。それを芸能として消化(紹介)した阿国。人間の魂と共鳴する様なこの新しい芸能が京の町中の心をつかんだのである。 やがて、阿国を真似する者たちが次々現れ鴨川沿いに定着していく。現在では「南座」だけがあとを留める四条も、かつては多くの芝居小屋があった。鴨川を起点に芝居町は東へ伸びていき、東エリアは芝居ゾーンとして繁栄し、全部で7つの櫓が興行していた。そして、元禄時代より歌舞伎は飛躍的に発展。大スターが登場し民衆を熱狂させる。 |
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阿国が小屋を建て「かぶき踊り」を披露した場所と伝わる京都の四条通に、出雲の阿国像があります。 顔見世でにぎわう南座のはす向かいに立つ出雲の阿国(京都市東山区四条大橋東詰) |
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④ 六条河原 六条河原は平安時代からあった処刑場。天皇や朝廷があってもそこは政治を行う場(政庁)であるから、当然のことに逆らう者を処刑する場所も必要だつた。保元・平治の乱の源為義・平忠正・源義平・藤原信頼ら時の権力に逆らう者が処刑されている。また関ヶ原の戦いにおける石田三成・小西行長・安国寺恵瑣、大坂の役における長宗我部盛親・豊臣国松らもここで処刑された。 処刑された者は三条大橋に晒され、時の権力に逆らえばこのようになるぞと言う見せしめだったのである。首都だったから処刑して晒す意味があった。その証拠に江戸に幕府が開かれて実質上の首都が江戸になってからは政治犯も江戸で処刑されている。 |
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六条河原 北方向に見える五条大橋と |
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南方向に見える正面橋の間が六条河原 昔の刑場あと |
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京の刑場跡として、後二つの場所があった。 ① 「西土手刑場」 R嵯峨野線・円町駅がある、西ノ京円町(えんまち)あたりには、平安時代「右獄」という牢屋がありました。丸太町通りの北側だそうです。 「円」という字は、もともと「圓」という字で、口(かこい)+員(多くの人)から、人々を囲っておくところ、つまり「牢屋」を表したということです。だから「円町」って呼ばれるようになったんですね。 円町付近には江戸時代に京都の西の死刑場(御仕置場)として「西土手刑場」と呼ばれる処刑場がありました。そのときの「牢屋」は千本六角近くにあり「六角獄舎」と呼ばれていました。 |
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② 「粟田口の刑場」 「粟田口」は東海道の山科から京都への入口にあたり,古くから街道の要所として発達したところです。現在の場所で言うと、東山三条白川橋から蹴上までの間です。京の七口においても交通量が多く軍事上、重要視されるところです。 その重要視される場所ということで、治安維持の見せしめのために刑場が置かれました。「粟田口刑場」と呼ばれたその刑場は、江戸時代前から存在し、江戸時代には毎年3回この地で処刑が公開され、明治維新までに約15,000人の人が処刑されたと言われます。 |
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「粟田口刑場名号碑」は「粟田口解剖場」時代に建てられたものです。 |
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⑤ 秀吉の京都大改造 ・御土居の建築 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、1591年に多くの経費と労力を費やして築いた土塁のことである。 その延長は22.5キロメートルに及び、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、南は九条あたりにそって築かれた。土塁の内側を洛中外側を洛外と呼び、要所には七口を設け、洛外との出入日とした。鞍馬口、丹波口などの地名はその名残である。 ・寺町通り お土居の造成に前後して寺院街の建設も行われた。各寺院を強制移転させ、市街地の東側には「寺町」を、北部には「寺之内」を形成したのである。 |
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紫竹 :北区紫竹上長目町・堀川町 盧山寺:上京区寺町広小路上る北之辺町 西ノ京 :中京区西ノ京原町 北野 :上京区馬喰町 平野 :北区平野鳥居前町 紫野 :北区紫野西土居町 鷹ヶ峯:北区旧土居町3 鷹ヶ峯:北区旧土居町2 大宮 :北区大宮土居町 A.長坂口 B.鞍馬口 C.大原口 D.粟田口 E.伏見口 F.鳥羽口 G.丹波口 |
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蘆山寺の御土居の石碑 |
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⑥ 三条大橋 橋が架けられた時期は明らかではないが、1590年、豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。 この三条河原こそ、京都の処刑場として、血なまぐさい匂いが絶えることがなかった場所であった。 死体をさらしたり捨てたりする所、つまり死者の怨霊や恨みつらみが集うスポツトだつた。 戦国時代、とくに織田信長と豊臣秀吉の時代は、鼻そぎの刑をはじめ、見せしめのための残忍な刑罰が行われた。 1594年、天下の大盗賊・石川五右衛門の釜茄での刑もここで行われた。また、東海道五十三次の西の起点で、橋の袂には弥次喜多像が建っている。 |
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三条大橋 東から撮影 秀吉以後、16回の架け替えがされ、現在の橋は、 1950年に架けられ、この際、一部木製の橋となっている。 |
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大橋の西詰には、「天正十七年 津国御影」と彫られた石柱が立っている 鴨川には、2000坪の敷石が置かれ、63本の石柱の橋脚が建てられた木橋だった |
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三条大橋の東の端の擬宝珠(ぎぼし) この橋は、かつては東海道五十三次の西からの起点であり、重要な交通上の要衝でした |
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『洛陽三條 之橋至後 代化度往 還人磐石 之礎入地 五尋切石 之柱六十 三本蓋於 日城石柱 橋濫觴乎 天正十八年庚寅 正月日 豊臣初之 御代奉 増田右衛門尉長盛造之』 擬宝珠には、三条大橋は豊臣秀吉の命により 増田長盛が奉行となって、天正十八年(1590)正月に 日本で初めて石柱橋として架けられたと書かれている |
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橋の袂には弥次喜多像が建っている |
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⑦ 「山紫水明」 夕暮れのこの時間帯は、「山は紫に染まり、鴨川が一番美しく映える時」である。その時のことを「山紫水明」と詠んだのは、幕末の国学者「頼山陽」である。(山紫水明処・・頼山陽書斎) |
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国の史跡(「頼山陽書斎(山紫水明処)」として) 京都市上京区東三本木通丸太町上ル南町 |
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⑧ 河原町通りと石仏 平安京の域外にあり、豊臣秀吉の御土居の東の外をほぼ沿うように走っており、江戸時代初期に市街地が鴨川まで拡大された際に開通したと見られる。 河原町周辺はかつて鴨川の河原で、戦災や天災による死者や刑死者の屍が打ち捨てられる遺棄葬の場であつた。そうした死者を弔うための石仏群が、鴨川の氾濫によつて埋没していたものが京都市電河原町線の敷設工事によって掘り起こされ、現在京都市左京区の「蓮華寺」で約300体といわれる石仏群が供養されている。これらの石仏群はいずれも大日如来像で、中央には地蔵菩薩像が配されている。 |
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洛北 蓮華寺 京都バス「上橋」から徒歩1分、叡山電車三宅八幡駅から徒歩10分 |
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現在京都市左京区の「蓮華寺」で約300体といわれる石仏群が供養されている。 これらの石仏群はいずれも大日如来像で、中央には地蔵菩薩像が配されている。 |
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(2) 京の地下水(伏流水) 三方を山が囲む京都盆地は、山からの涌き水だけでなく、地下は大きな水甕のように地下水を豊富に貯めている。琵琶湖から宇治川を通じて流れ込んだ水は、深い砂れき層とその下の岩盤をつたい京都の地下で伏せ水となっている。 前関西大学学長の楠見晴重先生の報告(当時は工学部)では、その地下水量は211億トンで琵琶湖の70%~ 80%の水が蓄えられているとのこと。そして、京都の良質な地下水脈をたどると、下鴨神社→京都御所→神泉苑とつながり、北東から南西の方角に流れているとのこと。これは、水の出口が天王山(大山崎町)と男山(八幡市)を結ぶ約1km間にしかないということと方角的に一致している。出口あたりの岩盤の深さは50~ 60mだそうで、豊富な地下水を盆地にとどめる天然の地下ダムの役割を担つている。京都は飲み水に適した良質な地下水が豊富で、至るところに湧水や井戸が今も存在し、活躍している。 「伏水」や「山崎の水」に代表される酒・ビール造り、京料理に欠かせない京やさいの作付け・育成、豆腐・湯葉・生麩の製造、京菓子の製造、そして京料理そのものにも使われ、京の味わいにはなくてはならないものとなっている。また、友禅染をはじめとする伝統工芸にも活用され続けている。 近年の調査によると、都の地下水は▽東山▽鴨川西部▽桃山▽西山の4分類できたとのこと。例えば日本酒を育む伏見区の桃山の軟水は他地域よリマグネシウムやカルシウムなどのミネラル分を多く含んでいる等々。京都の洛中では枯れることのない豊富な地下水の恵を受けて、名水の涌き出る所がたくさんある。 なお余談ではあるが、「御所」の東への移動は、天皇が「名水」を貴族から取り上げるために、行ったのではないかとも。 |
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貴船神社 御神水 |
藤森神社の不二の水 |
鴨川の上流 ・ 賀茂川 |
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① 京の名水 ・貴船のご神水 ・音羽の滝 ・染井 ・錦の水 ・柳水町の柳の水 ▽伏見の名水 ・御香水・閼伽水 ・不二の水 ・月桂冠のさかみず ・キンシ正宗の常盤井水 ・黄桜の伏水 ・山本本家の白菊水 |
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月桂冠のさかみず |
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② 伏見の酒 天下統一を果たした豊臣秀吉の伏見城築城とともに伏見の町は城下町として大きく栄え、京・大坂・堺に次ぐ人口6万人の大都市を形成。酒の需要も急激に高まるなかで、伏見の酒も一躍脚光を浴びるようになった。 1635年、参勤交代制度ができると、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、しばらく逗留して、あらためて大名行列を整え東海道を江戸へ下つていくようになり、このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、西国と東国を結ぶ重要な拠点となつたのである。 造り酒屋の数も急増し、酒株制度のできた明暦三年(1657年)には酒造家83軒、造石高15611石と記録。しかし幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護し、京の町へ伏見の酒が入ることを禁止したため、ますます伏見の造り酒屋は減り続け。明暦から幕末まで生きながらえ酒造業を続けてきたのは、たった二軒だった。 「鳥羽・伏見の戦い」の巻き添えで、酒蔵のほとんど消失したが、明治になって伏見の酒は昔の勢いを盛り返し、天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになったのである。 |
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伏見の新名所!伏水酒蔵小路 |
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(3) 高瀬川(濠川・・・角倉了以) 高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。1610年、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行つた。その後1614年に、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が開鑿された。これが高瀬川である。 高瀬川は京都市中と伏見間の物資輸送に利用された。それまでは,大坂方面からの物資は淀川を舟で運ばれ,鳥羽で陸あげされ,陸路を京都市中へ運ばれたが、高瀬川の完成により、市内中心部へ運ぶことが便利になったのである。 なお、高瀬とは川底の浅い所。即ち浅瀬。 ① 高瀬舟の活用 高瀬舟は基本的に物資を運搬したが、島流しの罪人や、稲荷の初午詣での人々も運んだとのこと。 ② 伏見との往来(幕末の勤王の志士) 幕末、討幕派の志士たちは、洛中と伏見の薩摩藩定宿の寺田屋などとの運行におそらく人知れず高瀬舟を使用していたと思われる。 |
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(4) 琵琶湖疏水 事実上の東京遷都によつて寂れた京都の復興策として実施された一大土木工事である。琵琶湖の水を発電や物資運搬・灌漑用水など多目的に活用するため、大津三保が崎から京都蹴上まで水路が開削された。工事は明治18年開始、同23年完了。明治天皇を迎えての竣工式が盛大に挙行。なお伏見までの鴨川運河が開削されたのは同27年のことである。疏水工事の責任者は工部大学校出身の若き技術者田邊朔郎、当時の京都府知事北垣国道であった。 蹴上のインクラインは、物資を載せた疏水船ごと車台に載せ、坂道に敷設されたレール上を上下する構造になっており、琵琶湖の湖水面と蹴上の標高差の解消に利用された。また南禅寺境内にはローマ帝国の水道を参考に建築された全長約93メートル、高さ約13メートル、幅約4メートルの「水路閣」がある。 桜や紅葉の頃に賑わう「哲学の道」。疏水建設当時は、この地に水路を通し、水車を廻し、動力を得てこの地域一帯を工業地帯にしようとした。しかしその計画が立てられた直後にアメリカで水力発電が出来、水車動力は古いと言うことに。工事は始まっており、結果水路だけが残ったのである。 <意義〉 明治2年京都の人々は、東京遷都に反対すべく、連日御所周辺に「お千度廻り」のデモを行つて反対運動をくり返した。「都下衰微(とかすいび)」の危機感からである。遷都が実施されると、同10年前後には「狐狸の棲家」と言われるような荒れようになっていたとのこと。 京都回復には、近代的な殖産興業が必要であった。明治4年には欧米の新技術の導入をはかり、「京都博覧会」を開催。そして「百年の計」として、交通・情報・通信・エネルギー・飲料水問題を解決する琵琶湖疏水事業に着手したのである。 この工事は設計施工のすべてが、自前の日本製の技術であり、しかも日本最初の事業用水力発電所がつくられた。日本の技術に与えた影響は計り知れないものがある。 |
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蹴上のインクライン |
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蹴上のインクライン |
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琵琶湖疎水 |
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南禅寺境内にはローマ帝国の水道を参考に建築された 全長約93メートル、高さ約13メートル、幅約4メートルの「水路閣」がある。 |
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最後までご覧いただきまして有難うございます。 |