<第116回>  令和3年11月定例勉強会
郡津周辺〜東高野街道を歩く
京阪郡津駅→長渕の碑→弘法大師常夜灯→極楽寺→丸山古墳→
出鼻橋→東高野街道→廃瑞塔寺→古代条里→明遍寺→郡津神社

  青山 洋二氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時〜12時
 29名(会員23名)の参加
2021.11.27(土)午前10時、11月定例勉強会に29名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って10月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の司会で始まり、講師の青山洋二氏より「郡津周辺〜東高野街道を歩く」をテーマで詳しくご講演下さいました。今回の講演は、11月13日(土)の歴史健康ウォークで歩いた「郡津駅前から周辺史跡などを辿り東高野街道を歩いた」を振り返りながらパワーポイントで上映しながら詳細に説明頂きました。

 ※今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」とパワーポイントの画像を掲載させて頂きました。
 また、青山先生が研究された手書きの資料集も併せて掲載させて頂きました。
 記して感謝申し上げます。
 
講師 青山洋二氏
 お早うございます。2週間前の歴史健康ウォークで、京都から高野山へ向かう「東高野街道」の交野の北入口の郡津の周辺の史跡を巡りました。本日の勉強会でもう少し詳しく再度めぐります。よろしくお願いします。
 
 
青山洋二氏と山本秀雄氏
 
 
郡津周辺〜東高野街道を歩く レジメ



 
 
 下記の資料を参考にさせていただきました。記して感謝申し上げます。

  交野市史復刻版、交野市史民俗編、交野市史考古編 交野市史自然編、交野市公式HP
  ジュニア文化財ガイドブック、交野広報、奥野平次氏写真集、松塚30年史、
  交野ヶ原の古代寺院レジメ、黒田幸男氏作成レジメ他
 長渕付近
 長渕のお話
交野少将の話 (郡津)

都が平城京から長岡京・平安京に移った頃、(かん)()天皇(てんのう)頻繁(ひんぱん)に交野へ行幸(ぎょうこう)され鷹を放って遊猟(ゆうりょう)されている。その後も、嵯峨天皇も遊猟された記録が10回も記録されている。天皇の遊猟に伴って、皇族や宮廷人たちも続々と交野ヶ原へ来るようになった。その中でも、文徳天皇の皇子(これ)(たか)親王(しんのう)在原業平(ありはらのなりひら)などにまつわる伝説が有名である。

郡津にあったと思われる交野郡衙(かたのぐんが)(=役所)に交野郡の郡司(ぐんじ)(現在の交野市長のような人)で(みや)()弥益(びえき)という豪族(ごうぞく)がいました。郡津には、この郡司の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕(ながぶち)」に飛び込んでしまったと言うお話があります。

昔、交野少将(京都の貴族、姿は美しく文章も上手く好い男)が交野に鷹狩(たかがり)に来た時、交野郡司の家に泊まり、その娘と一夜を契ったことがある。その後、待てども少将はあらわれず、娘はいつまでも少将のことが忘れられない。こんなに待っても来てくれないのは、私を見捨てたからだろうと、大変絶望し、近くの水辺に出て身を投げようとしていた。そこに鵜飼(うかい)をする男がいた。娘は袴の腰を引き裂き、鵜飼のかがり火の松の炭で、その布に歌を書いて「これを少将様に」とその男に渡し、身を投げたと言う。

「 かつきゆる うき身の(あわ)と成りぬとも 誰かはとはん(あと)の白浪」
               「風葉和歌集」 巻一四・恋四

 長渕(ながぶち)は、申田川より東で山崎までの郡津では一番低い土地である。現在は京阪電車から東だけ残っている。一番低かった京阪より西が埋め立てられたため、昔の葦(あし・よし)の茂った湿田、酒沢池の景観は消滅してしまった。
 免除川、村野との境界を流れる北川とが合流する手前であるのと、天野川の水を最後にため込むのでいつまでも水が引かない。そのようなことから遊水池の役目をなしていた。埋め立てられる前は電車沿いに長渕の地名どおりの長い池があった。そこから今も電車沿いに川があるが、これが当時の排水路であった。
 大雨が降れば線路だけかろうじて見えるが、架線を支える電柱だけが見えているといった―面湖と化してしまう場所であった。


      

郡   津 (こうづ)
郡津駅(昭和40年ごろ)交野市内で一番変わったのは、郡津駅付近である。昔、大雨が降ると郡津駅の北側は、水があふれて京阪電車がとまることがあった。
 駅のまわりには、何もなかった。松塚に大きな町ができ、梅が枝の町がその南にできた。
(昭和41年ごろから開発された)
 現在の郡津駅は、昭和47年に建設された
 松塚の町名になっている所の小字名は、申田と長淵である。
申田は、免除川が現在は交野幼稚園の裏から直接天野川に流入しているが、昔はここから再び東へ大きく湾曲し、また北へ折れて今の村野のぎんが保育所の辺りで北川と合流して天野川に流入していた。この川を申田川と呼んでいあ。この間に挟まれた地域が申田であった。この申田川より東が二ノ宮、長淵である。長淵の方が申田より土地は低く、湿地であった。

松塚30年誌 写真集より参照
交野は海だった!

駅前の松塚ユニライフマンションが建設中、地下33メートルの泥土から海の貝の化石が発見され、郡津のこの付近は、今から5万年から7万年前、海であったことがわかった。 

交野は海だった!
奥に見えるのが、ユニライフ
建設中、貝が出てきた!
今から5万年から7万年前、
海であったことがわかった!
郡津駅前の「交野の都 石碑」
 
 古代の郡津は郡衙の門前であったことから郡門と記されていましたが、江戸末期に今の郡津に改められました。東高野街道、磐船街道が通る交通の要衝で茶屋が立ち並んでいて大変賑わい奈良・平安時代は「交野の都」でした。 交野遊猟の宮人もしばしばこの地を訪れ詩歌を詠むなど風情を楽しみました。貝原益軒も「南遊紀行」で「香津の茶屋」を紹介しています。

 郡津の地は交野物部氏の祖先が天野川沿岸で稲作を始めた弥生時代の終わり頃から拓けたところでした。大化改新(645年)より交野の地にも条里制が敷かれその中心である五条通の郡津は交野の郡衙(郡の役所)が置かれました。 郡津神社境内は白鳳時代郡司が交野地方最初の寺院として建立した長宝寺跡で出土品から当時の壮観さがうかがえます。

          平成元年6月 管理者:フジサンケイグループ、寄贈:松下電器産業

うずらなく 交野のみ野の草枕 いく夜かり寝の数つもるらん
 藤原基氏「続後拾遺和歌集」より
 藤原基氏。権中納言・基家の三男。承元5年(建暦元年・1211)〜弘安5年(1282)。72歳。寛喜4年(貞永元年・1232)に22歳で検非違使別当となったが、24歳で辞任し出家。円空と号した。園流の料理の祖。
 庖丁者:庖丁人。庖丁師。基氏の生まれた家は四条流の庖丁の家柄で、基氏はその分派・園流を開き、子孫に受け継がれた。「庖丁者」は魚鳥を扱ったが、特に鯉の料理を職掌とした。
 
片山長三氏の描かれた交野の古代の想像図 
 市役所別館の壁に掲げられている片山長三氏の描かれた古代の交野が原。中央右手に流れる天野川、その右岸の台地には交野郡衙があり、長宝寺が建つ。南面して左右に塔が建ち、金堂、講堂と並ぶ姿は薬師寺式の寺院に描かれている。天の川の上流に天田宮に磐船神社がある。古代の交野が原の様子が浮かび上がってくる。

 淀川に流れ込む天の川の下流部に伊香郷がある。息長氏の一族である。息長氏は天皇家の皇后を多く輩出した豪族で、本拠は滋賀県米原から長浜にかけての地域である。その上に田宮郷があり、田宮の津である。これも息長氏の一族田宮姫の里である。付近に万年寺山古墳、禁野車塚古墳などがあり、大いに勢力を張っていた。その上に郡津があり、郡津の津である。台地には交野郡衙があり、長宝寺が建つ。またその上には船戸があって、船戸の津で天野川の最上流の津である。ここからかいがけの道を上がり傍示から富雄を経て大和に通じる最短路である。


 (交野古文化同好会40周年記念講演 水野正好先生 参照)


平安時代後期 交野地方の想像復元図  片山長三氏

●郡津とは・・・・郡津と書いて「こうづ」と読む。おこりは郡衙(ぐんが・役所)の門の前からおこったので郡門村。最初は「こうど村」といった。いつのまにか「づ」と呼ばれ、大坂奉行所の命により「郡津」と改めた。(1804年)
●交野ぐん郡が衙とは・・・・
古代律令社会で地方の民を統卒するのが郡司、年貢米を徴収する中心地が「郡衙」役所であって米倉が林立していた。
※高槻の「郡家」・茨木市の「郡山」、「郡家}・寝屋川の「茨田郡家」など同例
 
くらやま郡衙跡推定図
 奈良時代に入ると、郡津に交野郡(現在の交野市・枚方市)の郡衙(役所)が置かれたと考えられている。交野の中心が郡津に移ったために、沢山の土器がそこで使われました。長宝寺小学校の北側、郡津神社付近に役所やお寺の施設があったと思われます。
肩野津(かたのつ)(郡津)
 交野郡衙で働く役人は、農民たちから米を集め、平城京へ運びました。平城京の発掘調査で、肩野津(郡津付近にあったと思われる港)から米を運んだことが書かれた木簡が見つかっています。「交野」という人の名前も木簡に書かれていました。交野郡の出身で、平城京で働いた人であったと思われます。
まちの名に歴史あり
【郡津の名のおこり】
 古代、律令(りつりょう)体制(たいせい)時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(七世紀後半、約1300年前)郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。

 郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策(ぼうぎょさく)として溜池(ためいけ)、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮(かすがのみや)お出(おで)待ち(まち)大門(だいもん)、やぐら池、(とり)待ち田(まちだ)など、楽しい歴史的地名が残った土地である。
 交野には面白い・変わった地名が数多くあります。その由来については、はっきりと分かっていないところもありますが、いろいろな言い伝えが残されています。
 交野の昔に思いをはせながら地名にまつわるお話を紹介します。
 (交野広報)より
郡津(こうづ)
 今は郡津と書きますが、江戸時代の中ごろには「郡門」と書いて「こうづ」と読むことが一般的でした。「郡」とは8世紀に施行された国郡里制の郡を指しています。つまり交野郡の役所があった所を意味していると伝えられています。
その中心地であった郡津神社の付近からは、白鳳時代の瓦が出土しており、役所があったのではないかと考えられています。というのも、当時は瓦ぶきの建物は、大きな寺院や役所に限られていたためです。

長淵(ながぶち)
 今の府営交野松塚住宅あたりが「長淵」です。北川が天野川に流れ込む手前の低湿地で、団地が造成される前は、京阪電車交野線の西側にアシの生い茂った水路や池がたくさんありました。ちょっとした大雨が降ると、この付近は水がたまり、水面が広がっていました。現在は団地が立ち並び、当時の面影はなくなっています。ここに残されている言い伝えは、色好みで文才に長けた美男子として都で評判の交野の少将が、鷹狩をしたときに交野郡司の館に泊まると、その郡司の娘が交野の少将に一目ぼれしてしまいます。
 しかし、恋多き男である少将が郡司の館を再び訪れることはなく、ただ月日が過ぎていくことに絶望した娘は長淵へ身投げを決意します。娘は自分の着物の端を引きちぎり、淵のそばを通りかかった鵜飼の男が灯していたかがり火の墨で着物の端に辞世の歌を書きつけ、それを少将に渡すように鵜飼の男に言い残して長淵に身を投げました。

    「かつきゆる うき身のあわと成りぬとも 誰かは間はん 跡の色波」
                        『風禁集』巻14・恋

遠坂(とうさか)
 文字通り遠い坂です。東高野街道が郡津の地を離れ、枚方市の村野、春日、四辻へ抜けていく道があります。出鼻橋を渡ると一段高い台地上に上がります。
 昭和30年代までは、道の東側はうっそうとした竹やぶで、西側は芋畑でした。昼でも薄気味悪く、おまけに坂の上り手に、郡津と村野の墓地があり、夜などは一人で歩けないほどで、大平洋戦争前までは山賊が出たという話も聞きます。今では村野浄水場ができ、竹やぶは取り払われて枚方工業団地に、墓地周辺も住宅地に変わり、昔の暗いイメージはすっかり無くなってしまいました。
鳥待ち田(とりまちだ)
 郡津神社から私部へ戻る道を、神社の南から南尾谷へだらだらと下り、直角に二度曲がると谷に出ます。その曲がり角に、田が一枚あり、この田のことを鳥待ち田といいました。その名前から昔ここから南尾谷の混地帯に舞い降りる鳥を、猟師がじつと待ちかまえていた様子が目に浮かぶようです。今では、その田や南尾谷には長宝寺小学校が建ち、その面影は消えてしまいました。

茶屋(ちゃや)
 京都から高野山へと続く東高野街道沿いには、旅人の疲れを癒してくれる休憩所がいくつもありました。なかでも郡津の茶屋は有名で、江戸時代の絵図にも記載されています。
 むかし、ある日のこと、茶屋の前に来た旅の僧侶が水を一杯ほしいといいましたが、あまりにみすぼらしい姿に誰も相手|こしませんでした。気の毒に思った上茶屋の人が水を差しだすと、実は、その僧侶とは弘法大師で、お礼に清水の湧き出る場所をその人に教えた、という言い伝えが残されています。

生野(いくの)
 今池を取り巻いて郡津の「生野」があります。その東と南には倉治と私部の幾野があります。どちらも同じ意味で荒野・原野のことで、開墾の進まない水の便の悪い土地のことです。しかし、逆に住宅地としては好適地といえるため、今ではたくさんの住宅地になりました。

西久保(にしくぼ)
 東高野街道の下茶屋から東の台地一帯、郡津神社までを西久保といいます。久保というのは窪地のことで、水たまり・水が良く沸くという意味で、多くはくぼんだ小さな水田適地のことを言います。郡津の場合は、窪地ではなく台地になっていますが、その周辺に水量の豊富な丼戸が多かったため、西久保の田のほとんどが一等地でした。

二ノ宮(にのみや)
 明治時代までは郡津には一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮の三つの神社がありました。現在の郡津神社は一ノ宮で、祭神は素戔嗚尊で、ニノ宮は住吉神を、三ノ宮は天照大神を祀っていました。
 ニノ宮は東高野街道にあった上茶屋の西の台地上にあり、三ノ宮は大塚にありました。明治6年にニノ宮・三ノ宮が一ノ宮に合祀されて、名前も郡津神社になりました。

2021年11月13日、郡津ウォークMAP


 
弘法大師の常夜灯
弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政13年、1830年の銘がある)
今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。
郡津の在所、極楽寺から閑静な町並みを歩く。
 (北面)に常夜燈(東面)大峰山(南面)弘法大師 (西面)文政13年(1830)建立。高さ2.1m、台石に大峰山六十登、惣他力等の文字あり、この燈籠から高野山へは南へ60km余、大峰山へは東南へ70km余の距離です。ここから40m程北を左に曲がり、道なりに北へ行けば、郡南街道を越えて村野の中心地をつなぎ、ここから100m程西の三叉路を東へ行くと府道18号線を越え、茶屋で東高野街道を越えて、幾野、倉治へ行く古くて重要な道です。
 
 
西方山 極楽寺
極楽寺(融通念仏宗、平野大念仏寺の末寺)1345年(貞和元年)頃に創建され、大阪冬の陣(1614)で全焼、1688(元禄元)年に仮本堂が出来、1700年代は隆盛したが、その後老朽化が進み、明治35年に再建された。
 山号は西方山、融通念仏宗(平野大念寺)の末寺で、本尊は阿弥陀三尊像、室町期の始め頃創建で、大坂の陣で全焼。1700年代隆盛したが、その後老朽化により、明治35年に再建された。郡津に古代交野郡の郡衙(役所)が置かれたので、郡門村(こうど村)であったが、いつしか(こうづ)と呼ばれ江戸期の1804年、大坂町奉行の命で、発音通り「郡津」となった。境内の石仏に、昔の「郡門」の銘が明確に彫られている。
融通念仏宗
 融通念仏宗の開祖、良忍上人(聖応大師)は平安時代後期の人で、比叡山に入つて修行し、円仁(慈覚大師)がもたらした修行の一環に念仏を取り入れる浄土思想に領注し、自己の唱える念仏の功徳が自他ともに融合し、一人の念仏往生が衆人の念仏往生を約束するという教えで、

   一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切―行

 良忍は摂津平野の大念仏寺で法を説き、元享年間(1321〜 23)には良尊(法名上人:上の山の本尊掛け松)が全国へ融通念仏を勧め、その後門弟たちは京都嵯峨野の清涼寺を中心に活躍。戦国時代以降集団として固定化し、元禄年間(1688〜 1703)に大通融観が大念仏寺の第46世となり、一宗の規定を定め学寮を設けて宗学の研究、学僧の養成を計つた。
 

最近、綺麗に修復されました。
境内の江戸時代の地蔵尊に「郡門」の文字が彫られている

 古代律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(7世紀後半、約1300年前)。郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。
 
郡津丸山古墳
 郡津山崎の地に築かれ、現在では円墳のような形から丸山古墳と呼ばれている。が、実際は南北方向の前方後円墳ではなかつたかと推測されている。
 墳丘の最頂部は31.3m、周囲より8mほど高い。仮に前方後円墳とすると、100mにも及ぶ規模になる。古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路がつけられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えている。
 丸山古墳の東と南に小さな池がかつてあった。これが古墳の周濠であつたと推定されている。築造年代・墳形・埋葬施設などは不明である。

 2014年、同志社大学の研究室により測量調査がなされた。
 古い地名は、大塚である。円墳のような形で丸山古墳と呼ばれ、天野川中流沿岸の一雄族の4世紀頃の墳墓と推定。西半分は昭和33年頃、辺りの道路整備に土取りされ、封土は人工盛土で、横穴らしい石材見ず。2013年から2015年に同志社大学の測量調査で、墳丘高は8m余り(標高31.2m)で「前方後円墳」と考える根拠自体が現況地形でも確認しにくい。かつて東に(鏡池)、南に(よな池)があって、周溝と推定される。
 




 
郡津丸山古墳測量図

丸山古墳の全景(南から撮影)
 交野女子学院付近より遠ノ坂・出鼻橋
 
出鼻橋付近の説明図
< 遠ノ坂の郡津共同墓地>
 古い地名は遠ノ坂、交野の北西端で隣は枚方の村野東町で、文字通り一段高い坂上に郡津共同墓地がある。写真正面の奥の突き当りです。どこの村の共同墓地も大概村の端にあって街道に接している。うどん楽々の店前は、府道18号で、このお店の前が古代東高野街道の交野の北の口です。現在は拡幅された府道に被せられていますが、ここから郡津集落内の現存の東高野街道へと少し東へ振って行きます。

 <出鼻橋と東高野街道>
 出鼻橋は府道18号が北川に架かる橋です。その北川は橋の少し上流で倉治の北部からの「がらと川」と津田からの野々田川が合流して北川と名を変える。そして出鼻橋を潜って、格上の一級河川となる。古代の東高野街道の北川に架かっていた橋は現在の出鼻橋より東側に架かっていたのでしょう。写真の橋の左の引込み道が、左へ曲点が、往時の面影を残す現存の東高野街道が、郡津集落の中を往く出発点です。
 <東高野街道沿いの伝説>
(ものきき)出鼻橋から南200m余、両側台地に大松繁茂。心配、迷み起こったら、松の樹に潜んで早朝の旅人の会話から解決の情報を得た。
(茶屋の清水)ものききから南へ350m(上茶屋・写真)で、水を求め難儀の僧に水を差し上げた。その僧は弘法大師で、お礼の清水が湧き出る井戸は、現在残っている。
(蚊封じの池)上茶屋南の辻を越し東の池の傍で、大師が休息され「蚊が地上3尺迄来るな」と祈念で、蚊は来なくなった。
 
 
交野女子学院付近から出鼻橋方向を望む
郡津の共同墓地内の石標・道標
 
 
谷 古光の墓標


東高野街道を歩く
だら池
 郡津3丁目の北尾の集落の東高野街道沿いに四角い池がある。この池を「だら池」と呼んでいる。「だら」とは交野の方では下肥のことである。この池は下肥の捨て場になっていたとはいえない。北尾の集落の家庭の使った水が集まってこの池に流れ込んでいたので、いつも濁った池で悪水を貯めていたから自然とこのような呼ばれ方になったと思われる。夏はハスの花が咲いて綺麗です。
 
 
日蓮宗  瑞塔寺
東高野街道の上茶屋の中程東側に日露戦争のころまで瑞塔寺はあった
 廃瑞塔寺
 古い地名の水塔寺は、東高野街道の東側で、中小路の集落を含む広い地域である。瑞塔寺は日露戦争頃まであって、街道からの参道の石垣も残っていたが、今はその姿はない。(前写真左側が、かつての参道入口)廃寺となって寺の石塔は、郡津共同墓地に移されている。石塔には享保8年(1723)と刻まれており、瑞塔寺が江戸時代の中頃(八代将軍吉宗)のころ、日蓮宗の寺院として上茶屋に建っていた。

廃瑞塔寺跡

郡津の瑞塔寺の石塔
享保8年(1723)9月28日と刻まれている
 東高野街道 茶屋の清水
 
 

 
安永5年10月(1776年)  交野郡と讃良郡 大地図
御茶屋・郡門の文字あり
 
中伝次郎宅の「弘法の井戸」
 昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。茶屋町の瑞塔寺跡の向いに「中 伝次郎さん宅」がある。屋敷玄関の右側に「弘法の井戸」が現存。

東高野街道
 
 東高野街道の地蔵の辻
古代交野地方条里区画五条通遺跡 碑
 古代天野川地方、條里区画(五條通)遺跡の碑
 大化改新で、班田収授法により、国民に口分田する。稲作に適した天野川付近に条里制区画が出来る。田を6町間隔(654m)で縦横に区切り、一区画を里と呼ぶ。里をさらに一町間隔で縦横に合計36の坪が出来る。さらに坪を10等分したのが1段(360歩)。公民6才以上の男子は田2段、女子はその3分の2、奴婢は3分の1を収受。私市天田の宮(一条通)から枚方市禁野(7条通)で、ここは中程の五条通(東西方向)です。

条里制  6町 約600m  6町毎に大路が東西に 
天の川沿岸54町を9条で区割り 中間が郡津 5条通り

 
 
 
 
明遍寺
浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた
 明遍寺は摂取山と号し、源平時代、白河上皇の側近で、学者であった藤原信西が平治の乱(1159年)で源義朝に殺されたが、このとき信西には26人の子があったが、内男子13人は出家して僧になったという。
 明遍はそのうちの1人で兄弟の中でも最も優れていたとのことで、治承年間(1177〜81年)高野山蓮華三昧院で修行したが、浄土宗の開祖法然に帰依し、京都と高野山を度々往復するうち当地(交野郡郡門村)に休息のため庵を作り、近在の百姓に念仏信仰を解いたのに始まるという。寺号はこの明遍より起こるが、その年代は明らかでなく、当初は阿弥陀寺と号したとも伝わる。
 山号は摂取山、浄土宗知恩院末、本尊は阿弥陀仏で寺の名は、源平時代の僧明遍による。明遍の父は、少納言藤原信西で、父の栄達と悲惨をみて、明遍は高野山で修行中、都の法然の教えに深く帰依して、高野山から法然のもとへ往復。東高野街道沿いの郡津に休憩所を設け、近在民に念仏を教えたのが始まり。境内の九重の層塔と観音堂は、廃長宝寺から移された。他に鎌倉地蔵や数十体の石仏等がある。
 
明遍寺(摂取山蓮華三昧院)
 交野郷土史かるたには次のように記されている。
      
「ね」念仏を 教え伝えて 明遍寺
 明遍寺は平安時代の僧、明遍の名をとったものといわれている。平治の乱(1159)で、源義朝に捕らえられ殺された藤原信西の子である。高野山蓮華三味院に入つて真言宗を究める。その後、京都黒谷に住
む法然に帰依する。高野山と京を往復するうち、河内交野郡の郡門村にその休憩所として小庵を造り、付近の百姓を集めて念仏を教化したのが当寺の始まりという。

・浪華大福寺了吟輯「新撲往生伝」巻五の中に「明遍僧都従高野山出京之時憩息此所、後為一寺」とある。しかし、現在では明遍が法然に帰依して専修念仏に入つたということは史実性に乏しいとされている。

現在境内には本堂・庫裏・門・鐘楼・地蔵堂・観音堂・庭前に九重石層塔が立つ。
・観音堂、九重石層塔は明治初年に廃寺となつた長宝寺から移されたものである。
・本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。
  脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。
・観音堂・本尊:十一面観音坐像、塑像、75.0cm。江戸時代。
・西国三十三所観音像:33体、木造、漆箔。像高は立像で24.8cm。観音堂安置
  この三十三体の観音像は村人が寄進したものである。明遍寺のみならず、他の北河内の寺院でもお祭りする所があり、そうした寺院が巡礼の組合をつくつていた。明治初年頃に須弥寺の第26世住職豊原大賢が発起人となり「河州交野茨田讃良三郡之霊場須礼道中案内表」という北河内の寺院と宿泊を記した木版の絵図を発刊した。この中に、第八番札所として、明遍寺も記されている。現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」と書かれた看板が掲げられている。


本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。
  脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。
古式豊かな鎌倉地蔵
花崗岩の自然石に船形状に彫りくぼめをし
その中に、肉彫りで阿弥陀如来坐像が彫られている
九重の層塔(四方仏)  元は長宝寺にあったもの
南北朝時代から室町時代前期ころのもの

石仏群 板碑・唐臼地蔵・双体仏・一石五輪塔など

明遍僧都腰掛石
交野郡衙跡推定図


付近の電柱にクラヤマの地名が残っている
「北河内史蹟史話」に「旧茨田郡友呂岐の郡が郡衙所在地」という。郡津も旧交野郡の郡衙のあった所ではないかといっている。明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。
 此付近交野郡衙遺跡の石碑(明遍寺南東角)
 「明遍寺南で西から東に上る道は古い」と地元の方から教わり、初代奥野会長は、「この上の上りつめたあたりに郡衙があったのでは」と記しています。地名(倉山)で台地上にあって、交通の要衝であり、条里(五条通)、郡津は古くは郡門で郡衙の入り口の門。以上の根拠から【郡衙】があったと推定される。肩野津〜平城京へ米運搬と記した木簡が、平城京で発掘。肩野津は何処?どんな行程で往復?しばし想像を巡らします。
 
 
郡津神社
京阪電車・郡津駅より東へ徒歩15分。
祭神は、本殿が素盞嗚命(すさのおのみこと)・住吉明神・天照大神、
末社には金刀比羅大神・天神地祀・稲荷大神・貴船明神が祭られている。
 祭神は、本殿が素盞嗚命(すさのおのみこと)・住吉明神・天照大神、末社には金刀比羅大神・天神地祀・稲荷大神・貴船明神が祭られている。今の郡津神社は、郡津神社として現在の地に祭られているが、明治以前は、一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮と、別々の土地に祭られていた。今の郡津神社が一ノ宮で、祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)、二ノ宮は住吉明神で東高野街道の上茶屋の西の台地にあった。
 また、三ノ宮は天照大神で大塚の地に祭られていた。明治6年3月、神社の統合がなされ、二ノ宮・三ノ宮が一ノ宮に合祀されて名前も郡津神社となった。 よく言う「牛頭(ごおず)天王」とは素盞嗚命のことであり、疫病除けの神であり、農業の神でもある。
 神社の裏手には明治の初めまで官寺の長宝寺(奈良時代創建)があったと伝えられ、白鳳時代の瓦が出土している。
 郡津の氏神で、郡津村の南端を背にして建っている。もとこの宮を郡津一の宮(祭神、素戔嗚尊)。二の宮は、東高野街道の西に(祭神、住吉明神)。三の宮は、丸山古墳の近くに(祭神、天照大神)を明治6年、現在の宮に一つにまとまった。昭和35年境内のあちこちで古瓦を発見して、調査で境内すべて古代長宝寺の遺跡と判明。素戔嗚尊の化身の牛頭天皇は、京都八坂神社の祭神とおなじで除疫病・農業の神。

手水鉢のくぼみ石

川端さんが持たれている古文化同好会の会旗は、
「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」をモチーフにして作成されたもの
長宝寺跡
交野郷土史かるたには次のように書かれている。
  「ち」   長宝寺 瓦は語る その偉容
 現在その跡は全く無くなっている。
「河内名所図会」享和元年(1801)刊行に、長宝寺、郡門村にあり。本尊十一面観音、長二尺許。 「北河内史蹟史話」平尾兵庫著に、長宝寺、大字郡津にある。名所記及び図会には、大堂山長宝寺、十一面観音、長二尺とあるが、由緒は不明である。

 ・村人は明治初年まで郡津神社境内裏手に長宝寺という宮寺があって、そこで寺小屋が開かれていたという。
 ・明遍寺境内の観音堂と九重石塔は宮寺が廃寺となった時に現在の所に移されたという。
 ・昭和35年9月境内から粗目網形文の滑り止めのある瓦片が見つかっている。だんじり倉付近から鎌倉初期の瓦片が見つかる。
・その後の調査で自鳳時代(650〜 710)の寺跡であることがわかる。
・「北河内史蹟史話」に「旧茨田郡友呂岐の郡が郡衙所在地」という。郡津も旧交野郡の郡衙のあった所ではないかといっている。明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。
・白鳳時代の頃、交野郡司であった一豪族の居住地と推定される。この寺はその権力者が建立したものであろう。
 白鳳時代 長宝寺遺跡の碑
 郡津神社境内に大堂山・長宝寺という大寺が、白鳳時代(650〜710年)に建立された。鎌倉期焼失して、その後に現在の宮が出来た。宮の北に明治の初めまで宮寺の長宝寺があって、寺子屋が開かれていた。古代の長宝寺の建立者は、交野郡衙の郡司であって、豪族だったと思われます。昭和51年、神殿の東から白鳳時代の忍冬唐草文(にんどうからくさもん)の軒丸瓦が出土した。

昭和51年8月から9月にかけて郡津神社の発掘調査が行われて
神殿の東側から「忍冬唐草文軒丸瓦」が採集された。


左、「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」  右、「忍冬唐草文」の軒丸瓦
昭和51年12月、明遍寺の南へ二本目の道が台地より西に下がったところで、
奥野平次さんが「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」を採集された。
 
 
 
郡津環濠集落図
 郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策(ぼうぎょさく)として溜池(ためいけ)、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮(かすがのみや)お出(おで)待ち(まち)大門(だいもん)、やぐら池、(とり)待ち田(まちだ)など、楽しい歴史的地名が残った土地である。
 

昭和30年ごろの西久保あたりの風景   井戸が田んぼ毎に掘られていた
はねつるべ、ポンポン発動機で水をくみ上げる風景 
 私部街道と郡津神社の西の古い地名
 神社西の南北の古道(私部街道)は、少し北へ左折して、北西へ行くと倉治〜郡津の道路まで。そこから北西に進み、だら池で東高野街道に接続したのでは。南へは少し下がって右に折れ(A点)、また南へ私部から寺、かいがけ道から大和へつながります。(鳥まち田)は、A点角から、昔南側の低湿地に舞い降りる鳥を猟師が、じっと待ち構えた。(矢倉池)神社西の畦道の奥に二つの池。環濠集落の櫓が建っていた所であろう。
 
 
旧地名の春日の宮が駐車場の名前に使われている
 
 
 
 

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