<第118回>  令和4年6月定例勉強会
飛鳥・奈良時代の疫病
(天然痘と水俣病)の謎に挑む


  講師 : 寺田 政信氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時〜12時
 29名(会員28名)の参加
2022.6.25(土)午前10時、6月定例勉強会に29名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って4月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の挨拶で始まり、「交野古文化同好会50周年記念事業」について、お礼と経過説明がなされ、最後の追い込みで「50周年記念誌」「資料編」の発刊準備をしているところであり、「令和版・ふるさと交野を歩く」は、再版に向けて校正・編集が進められていることなどが話されました。

 今回の勉強会は、50周年記念誌の原稿として、寺田政信氏よりご投稿いただきました原稿を基にご講演をいただきました。
 10年前の2012年2月25日の勉強会で、「奈良東大寺2月堂のお水取りの謎に迫る」をテーマで、平城遷都からその後の政情を検証し、大仏建立の発願と開眼に至る経過を詳細にたどり、そもそも、東大寺二月堂のお水取りの行事がどのような内容で行われ、なぜ若狭がお水送りの場所に選ばれ、修二会の行法が繰り返し繰り返し行われてきたかを見事に解き明かしていただきました。
 今回は、コロナ禍の中、飛鳥・奈良時代の疫病(天然痘と水俣病)に的を当てて、その謎に挑んでいただきました。

 なお、レジメでは、「いたいいたい病」と書かれていましたが、会員からの指摘もあり、「いたいいたい病」ではなく、水銀毒による「水俣病」であることが判明しましたので、HPへ掲載するに当たり、訂正させていただきます。

(注)いたいいたい病の原因は、神岡鉱山(岐阜県飛騨市)から排出されたカドミウムが神通川の水や流域を汚染し、この川水や汚染された農地に実った米などを通じて体内に入ることで引き起こされました。

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ(訂正文)」を掲載させて頂きました。
 記して感謝申し上げます。
 
講師 寺田 政信氏
 
 
 
 
 当日配布されたレジメ(訂正文)
飛鳥・奈良時代の疫病
(天然痘と水俣病)の謎に挑む
 はじめに
新型コロナウイルスは、2019年(今和元年)10月頃に発生し瞬く間に世界中に蔓延しました。日本でも令和2年1月頃から感染者が急増し、ロイヤルプリンセス号事件もあり、その後も規制の緩和と強化の繰り返しで今日(今和3年9月)に至っています。ワクチンの接種の普及でやや落ち着いてきていますが、まだまだ油断できない状況です。
 今回のコロナ禍で過去の歴史上の疫病が話題となりました。例えば、約5億年前に恐竜が突然絶滅しますが、その原因は宇宙からの巨大隕石が地球に衝突し地球が寒冷化して食べ物が無くなったとされますが、これまでも小さくささやかれていた疫病により恐竜の脚部が犯されて滅亡した説も少し光を浴びるようになったようです。南米のチリの大帝国が少数のポルトガル人に減ぼされますが、これもウイルスを持ち込んだのではと思われるようになったようです。
 日本では、飛烏・奈良時代に疫病が大流行し多くの人々が亡くなったという伝えがあります。疫病は天然痘ではと言われています。ただ、歴史書では疫病については書かれていませんので、歴史事象の分析から推理していくことになります。
 そこで私なりに、歴史書、いろいろな伝承からこの時代の疫病について推理してみたいと思っています。
持統天皇の野心と愁い
中大兄皇子(後の天智天皇)の皇女として生まれた鵜野讃良(後の持統天皇)は中大兄皇子の弟の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎます。大海人皇子は天智天皇から天皇譲位を示唆されますが、これを応諾すると陰謀の疑いで殺されると悟り、吉野に隠遁します。天智天皇が崩御すると大海人皇子は次期天皇とされる大友皇子に戦いを挑みます。天智天皇の突然の病死も疫病によると考えられます。
 いわゆる壬申の乱です。鵜野讃良皇女にとって大友皇子は異母弟となりますが夫に忠誠をつくします。壬申の乱に勝った大海人皇子は天武天皇として即位します。大海人皇子と鵜野讃良皇女の間には草壁皇子が生まれ次期天皇の親王として期待されますが、天武天皇崩御の前に亡くなります。草壁皇子も病死です。草壁皇子には天智天皇の皇女(後の元明女帝)を配し皇子(後の文武天皇)が生まれますが、文武天皇も早世します。文武天皇に藤原不比等の娘宮子を配し後の聖武天皇へと繋げますがずっと後程のことです。文武天皇は後述の新しい藤原宮で亡くなりますが病死ですから疫病によるものと考えられます。
 話は戻りますが、天武天皇が崩御したとき、天武天皇には天皇に相応しい皇子がいるにかかわらず、鵜野讃良皇女は推古女帝以来二人目の持統女帝として即位します。この時、夫の天武天皇から離脱し父親の天智天皇の意志に与したと考えられます。その証拠に、天智天皇の盟友の藤原鎌足の息子の不比等と組んでいろいろな事業を実施していきます。改めて、草壁の皇子と文武天皇の早世は疫病によるものと推察してみたいと思います。
藤原京の早期廃都の謎
  このように悩みの多い持統天皇でしたが亡き夫の天武天皇の意志を継いで藤原不比等と共に藤原京を造営します。もともと、藤原京は天武天皇が684年に創建しますが2年後に崩御しその後2年間中断し686年持統天皇即位後再造営となります。
 藤原京は大和三山(畝傍山、耳成山、香久山)の囲まれたところに造営されますがその中央に藤原宮(宮殿)が築かれます。694年に完成しますが、16年後の710年に平城京に遷都し16年間の都でした。なぜ、そんなに早く廃都になったのか。疫病に関係していると推察します。
 藤原京では、宮殿が都の中央やや南寄りに位置しここが低地になっています。そこで周り特に北の方の施設から汚水が宮殿に流れ込む構造になっています。
 汚水の流入が疫病の流行に最も影響しますから、大きな問題となります。遷都が検討されるのは700年頃だと思われますが、一気に加速するのは、702年に出発し703年に帰国した遣唐使でした。この時の遣唐使は栗田真人を執節使とした大掛かりなもので4隻で500人程度かと推察します。この使節が唐長安城の賑やかさに刺激を受け、長安城の構造をじっくり観察し、藤原京の構造と比較し、藤原京の欠陥に気付き、帰国後遷都の必要性を説きそこで平城京が長安城に近い地形だと推挙したと思われます。ただ持統天皇は702年に亡くなっていますので遣唐使の報告は聞くことができなかったと思われます。ついでに持統天皇は57歳でなくなっていますので、疫病に関係なく寿命を全うしたのかも知れません。
 遣唐使の報告を受けて動いたのは藤原不比等ですが、長年一緒に歩んできた持統天皇の死はショックだったと思われます。将来の天皇有力候補の首皇子は2歳で幼少ですから、天智天皇の皇女の元明女帝が選ばれ710年の平成京遷都の大事業を成し遂げました。715年には妹の元正女帝に引き継ざました。元正女帝は聖式天皇即位の724年まで務めました。平成京遷都という大事業をこなし聖武天皇に引き継いだ二人の女帝は素晴らしかったと思います。
 今話題なっている女帝、女系天皇に何か示唆を与えるかもしれません。ただし、女帝と女系天皇とは全く違いますので難しいところです。歴史上女帝は、推古女帝、持統女帝、元明女帝、元正女帝、称徳女帝などおりますが、全員独身です。この辺りも、女系天皇の難しいところです。
 元明女帝712年には、「古事記」が上奏されています。元正女帝720年には「日本書紀」が上奏されています。「古事記」の編集責任者の大安万侶の父は天武天皇の功臣であり、「日本書紀」編集責任者の舎人親王は天武天皇の皇子ですから「古事記」「日本書紀」の記述が天武天皇を讃えているのは止むを得ないでしょう。一説によれば、藤原不光等が「古事記」「日本書紀」を改竄したとありますが私は書かれている歴史的事象の整合性をチェックしただけで、事象を改鼠したことは無いと思っています。
話が横道に逸れましたが、疫病に戻していきます。
 聖武天皇即位と大仏建立そして疫病(天然痘)との闘い
 724年期待のもとに天武天皇以来の大物天皇が登場します。しかし即位後次から次と事件が発生します。まずは、長屋王の事件です。聖武天皇が首親王のとき何人かの女性を妻とします。その一人が藤原不比等の娘光明子でした。
 天皇に即位したとき妃を一人選ぶ必要があります、これまでの掟として天皇の血統の娘を選ぶ必要があります。ところが、不比等の圧力で天皇の血統でない民間の光明子が后となります。光明皇后です。これに異を称えたのが長屋王でしたが、不比等が長屋王を謀反人として自害に追い込みます。その後、737年に藤原一族の4兄弟が同時に亡くなる事件がおきます。4人が同時に亡くなるのは、疫病(天然痘)のクラスターと見て間違いないでしょう。人々は長屋王の崇りだと噂します。
 聖式天皇はこのような疫病(天然痘)を嫌ってか、宮を次々変える旅にでかけます。平城京の人口の25%が亡くなったとも言われています。恭仁の宮、紫香楽の宮、難波の宮などです。旅の間も疫病から国家を鎮護したいとの願いで741年には全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を、743年には廬舎那仏(大仏)造営の詔を発します。745年に平城京に戻り大仏造営に集中ます。
 大仏建立には、銅、金、金箔を塗るための水銀が必要になりその調達に苦労します。いろいろ幸運もありました。行基が寺院や仏像をつくり、いろいろな物資や人足を集めました。光明皇后が高く評価し行基菩薩とまで言われました。
 一番苦労したのは金粉と金粉を銅に塗るための水銀でした。金粉は折しも陸奥国司として赴任していた百済王教福が陸奥の国から産出した金を大量に聖武天皇に献上し大変喜ばせました。敬福はその後枚方に住み百済寺を建立しました。
 水銀は福井県若狭の遠敷川(遠敷は水銀のこと)から密かに大量に運ばれたと推理しています。これが、毎年3月に行われる東大寺二月堂のお水取り、若狭 神宮寺のお水送りの行事に関係する大きなドラマですので後程紹介します。
 そして、いよいよ大仏開眼の準備に入ります。聖武天皇は大仏や東大寺の建物が未完成にかかわらず752年4月8日に大仏開眼を実行すべく準備にはいります。一つは、病弱な天皇が亡くなる前にやりたいことと752年が釈迦入滅後1200年目の節目の年であったことからだと思っています。1200年目の節目の年というのは、私独自の説です。
 大仏建立に尽くした行基は大仏開眼の前749年に亡くなっています。
 これも理由不明ですが、大仏開眼の3年前に天皇の位を皇女に譲位します。
 聖武天皇と光明皇后の間に男子の某王が生まれますが幼少にして病死します。多分疫病天然痘だと思われます。焦ったのか皇女を立太子(天皇を約束)します。皇女の立太子は歴代初めてです。孝謙天皇として即位します。後に道鏡問題で有名となった称徳天皇になります。
 したがって、大仏開眼は聖武天皇でなく聖武上皇と光明上后も参加し行われます。孝謙天皇が天皇として参加します。大仏開眼を総合的に取り仕切ったのは、東大寺創建、大仏建立に責任者として関わった良弁(ろうべん)法師で間違いないと思われます。
 続日本記によれば、孝謙天皇 751年4月22日に詔して菩薩法師(インド僧)を僧正に、良弁法師を僧都に任命しています。大仏開眼には多くのインド僧が参加しているといわれ、良弁がインドに関わりがあるかも知れません。良弁法師がインドのサンスクリット語に堪能との情報もあります。良弁法師は大仏開眼後、東大寺の初代別当に任命されます。歴史上確かな人物です。ところが、良弁法師には不思議な逸話があります。
 まず、生まれは福丼県小浜市の遠敷川の近くだとされます。遠敷川はまさにお水送りの場所です。今も遠敷川の畔に「良弁和尚生誕之地Jの立派な石碑が建っています。そして、伝承によれば、良弁が赤ちゃんの時、鷲にさらわれ奈良の二月堂の杉の木に下ろされたとされます。今の二月堂には何代目かの良弁杉がそびえています、幼少のころから寺に入り、厳しい修行に耐え東大寺別当にまで登りつめたことになります。
 もう一人重要な人物がいます、若狭 遠敷で生まれてとされる実忠です。早くから、良弁に師事し東大寺大仏建立に大きな仕事をしています。東大寺2月堂のお水送り・修二会の行事は、良弁が企画し実忠が実現したとされます。
 若狭からのお水送りも生まれたところでもあり実忠が全て取り仕切ったとされます。良弁は学問僧として、実忠は実務僧として両者協力し、大仏を創建し、お水取り、お水送りと修二会の行事を完成させたと言えます。
 お水送りと修二会の行事には深い意味があるのでこの謎に迫ってみたいと思います。
 お水取り、お水送りと修二会の謎
 ここが一番大事なのは、4月9日の大仏開眼直前の2月2日に東大寺二月堂で修二会・お水取りが良弁と実忠によって行われていることである。明らかにこの行事は大仏創建に関わるものと推察できる。そしてこの修二会・お水取りの行事は、752年2月以来毎年行われ今日まで一度も欠かしたことがないとのことである。東大寺が平家に焼き討ちにあった時も、落雷で火事になった時も粛々と行われ、昭和20年のアメリカの空襲激しき時にも行われたといわれます。
 新型ウイルスコロナ禍の今年の3月にもいろいろ工夫して行われました。参加した僧侶全員のPCR検査や観衆は入れないとか大変だったようです。
 お水取り、お水送りと修二会の行事が水銀が関わり、それが、水銀毒による病、水俣病に関わってくるというのが私が発見した真相です。
 そこで、まず、大仏の銅の胴体に金を塗るには水銀が必要なことから説明します。金は金粉か全箔の状態で存在し仏の銅の表面に塗ることはできません。
 そこで水銀が必要となります。金粉を水銀に溶かし込み液体ペイント状にします。これをアマルガムとも言います。これを仏の銅の表面に塗っていきます。
 あの大きな大仏ですから、いかに大量の金粉と水銀が必要だったかと思われます。幸い金は百済王敬福により陸奥の国から届けられましたが水銀はどうしたのでしょうか。
 大仏創建の進む中、大量の水銀が必要になった時、実忠は生まれ故郷の遠敷川上流に水銀濃度の高い辰砂が大量に産出することを思い出し、土地感のある良弁和尚の贅同も得て辰砂(実質水銀)を大量に東大寺に運んだのではないでしょうか。水銀は貴重なものですから密かに運びカモフラージュのためにお水送りを演出したのではないでしょうか。水銀で溶かしたアマルガム状の金を塗っていきますが、その後、水銀を蒸発させ飛ばす必要があります。どのような火を使ったか分かりませんが、水銀が蒸発すると水銀毒が発生しこれを吸うといわゆる水俣病になります。
 あの大きな大仏ですから、多くの人が水銀毒による病で亡くなったと推察できます。ただし、一般の人々は当時流行していた天然痘と混同していたのではないでしょうか。
 良弁と実忠は自分たちが運んだ水銀により多くの人々が亡くなったことを認知し愕然としたと思われます。そこで二人は亡くなった多くの人々に懺悔し悔い改めることして、修二会の荒行を二月堂で始めたのではないでしょうか。
 お祈りするのに十一面観音を選んだのも水俣病で亡くなったのは金を塗る職人だけでなく僧侶を含めいろいろな人に及んだので、いろいろな人をあらわす十一面観音としたのかもしれません。
 大仏に金を塗る作業は710年頃で天平文化が栄え多くの素晴らしい仏像が彫られた時代ですから人々の疫病から逃れたい想いがあったのかも知れません。
 さいごに
 コロナ禍で歴史勉強会や海の研究会など全て中止で暇を持て余していたところ、歴史勉強会の仲間から奈良時代に天然痘で多くの人が亡くなったらしいとの話があり、今まで歴史事象と疫病を結び付けて考えたことがなかったので、一度挑戦してみようと思い立ちました。
 最初にすっと思い浮かんだのが奈良中期時代の藤原4兄弟が同時に病死した事柄です。4兄弟が一度に病死するなんてこれはどう見てもクラスターに間違いないと思いました。
 続日本紀を改めてみても病で亡くなったとあっても病そのものにはなにも触れていません。そこで歴史事象と病をキーワードにいろいろな角度から見ていくと病の影が見えてきます。そこで初めての試みですが、いろいろな推理の結果をまとめてみました。
なんとなく自分では納得のいくところも多く発見できました。 (終)

最後までご覧いただき有難うございました

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