<第119回>  令和4年7月定例勉強会
幕末の京都事件簿
近江屋事件の深層


  講師 : 吉岡 一秋氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・201号 午前10時〜12時
 29名(会員27名)の参加
2022.7.9(土)午前10時、7月定例勉強会に29名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って4月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の挨拶で始まり、「交野古文化同好会50周年記念事業」について、最終編集も終わり「50周年記念誌」「資料編」と「令和版・ふるさと交野を歩く(改訂版)」の発行に向けて進められていることなどが話され、最終校正が終わった「3冊の原稿」が回覧された。
 今回の勉強会は、京都をフィールドワークにご活躍されている「吉岡一秋氏」より、「幕末の京都事件簿-近江屋事件の深層-」をテーマで、約2時間、熱く語って頂きました。 

 「幕末の京都の情勢、龍馬はなぜ暗殺されなければならなかったのか?
  犯人は誰なのか?黒幕説は?」など近江事件の深層に迫って頂きました。

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を掲載させて頂きました。 記して感謝申し上げます。
 
村田会長のご挨拶
 幕末の京都事件簿
近江屋事件の深層


講師 吉岡一秋氏
 
 
 
 
 
 
 当日配布されたレジメ
「幕末の京都事件簿-近江屋事件の深層-」
 はじめに
 幕末とは、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握つていた時代の末期を指す。



 また、幕末の期間に関する厳密な定義はないが、 1853年(嘉永6年)6月3日の黒船、即ちペリーが率いるアメリカ海軍艦隊の来航がその始期とする見方が一般的である。
終期については1868年(慶応3年)10月14日に徳川慶喜が大政奉還を行つた時点、翌1868年4月11日の江戸開城の時点や、1869年(明治2年)の戊辰戦争の終結など様々な見方がありえる。


(1)幕末の京都情勢

○幕末・京都は歴史の表舞台に

 京都は長らく政治の表舞台から遠ざけられていた。それは、江戸で政権を握つていた徳川幕府による統制が見事なまでに機能していた証だと見ることができる。黒船が来航し、幕府が屋台骨ごと揺さぶられるという事件が起こるまでは、文化や産業の面でも停滞していた。
 それでも京都の人々のあいだでは、天子がおわす場所、すなわち御所の存在はおおきな誇りとなっていて、黒船が来航した直後も人々の多くは過剰に反応することはなかった。どちらかと言えば対岸の火事的な認識だったかも知れない。
 ところが、事態は1858年(安政5年)6月、幕府が日米修好通商条約を結んだことで一変する。その年は7月にオランダ、ロシア、イギリス、9月にはフランスとも同様の条約を締結している。
この通商条約が天皇からの勅許をもらわず、幕府の独断で締結したことも京都の情勢を大きく変化させる要因となった。
 つまり、勅許問題で幕府が天皇をないがしろにしたと見る諸藩の志士たちが、大挙して上洛してきたのである。もちろん、幕府も対抗して多くの人々が上洛。
 黒船来航という外圧から始まった混乱は、諸国の有力大名が朝廷に接近する現象を生んだのである。それは朝廷に接近することで、政治の主導権を手にしようという思惑があったからである。
 やがてそれが、尊王攘夷派と佐幕派による血生臭い構想へと発展する。特に尊王攘夷派から大きな恨みを買つていたのが、大老井伊直弼であつた。
 井伊が断行した通商条約の締結とそれに続く「安政の大獄」が様々な不満を生んでいたのである。
 そしてそれが、1860年(安政7年)3月3日の「桜田門外の変」での井伊直弼暗殺ヘとつながっていく。

 
          「桜田門外の変」での井伊直弼暗殺

 幕閣の最高権力者が暗殺されたことは、京都の治安に大きな影響を与えた。こうした危機を乗り切るため幕府は孝明天皇の妹である「和宮内親王」を徳川家茂14代将軍の御台所として迎える公武合体策を打ち出す。
 これに対し、過激な尊王攘夷派は幕府の横暴だとみなし、文久年間(1861〜 64年)には、京の町では「天誅」を振りかざすテロが横行し、武士は言うに及ばず、公家から上人、目明し(岡っ引き)にいたるまで、まさに無差別に暗殺が行われたのである。

   

 約230年間途絶えていた徳川将軍の上洛が行われることになると、京での将軍警護の為浪士が募集され、後に「新撰組」が結成され、テロの鎮静化に向かうようになるのである。
 公武合体派の猛烈な巻き返しが始まる。1863年8月18日に攘夷派の公家と長州藩が京都から排除されるという、いわゆる「八・一八の政変」勃発。
 これによって、攘夷派勢力は京都から駆逐されたかに見えた。しかし、翌元治元年(1864年)になると、巻き返しを図る攘夷派が京に再び終結し、良からぬ計画を立てていた。
 同6月5日早暁、新選組がその準備のため暗躍していた四条小橋の薪炭商の枡屋喜右衛門(古高俊太郎)を捕縛したことで、「池田屋事件」へと発展していくのである。
 この事件によって、多くの志士が殺されたり捕縛された。激昂した長州藩は武装した3000の兵士を送り、7月19日御所を攻撃。(禁門の変)
 このように幕末では江戸ではなく、京都が政治の中心となっていたと言つても過言ではない。

(2)坂本龍馬は明治維新の立役者か?

1.龍馬像

 歴史人物の人気投票が行われると、必ず上位にランキングされるのが、幕末の「志士」坂本龍馬である。
 龍馬は1835年土佐・高知で、郷士・坂本八平の次男として出生。やがて脱藩し勝海舟の弟子となり、亀山社中を結成、薩長同盟を仲介、船中八策を考え、大政奉還を献策するなど、幕末の政治に大きな影響を与えたとされる。
 その龍馬が京都において暗殺されたのは慶応3(1867)年11月15日のこと。享年33歳。その翌月には、王政復古の大号令が発せられて徳川政権が消滅し、翌年の9月には「明治」と改元された。
 かつて、幕府を倒す運動に参加し、生命を落とした者たちは「逆賊」だつた。ところが明治維新の政権交代が行われるや、一転して「志士」として崇められるようになったのである。

 だが、こうした龍馬像に対して近年、異論が相次いでいる。
明治の初めころ、「志士」に対する世間の関心が高まるや、幾通りもの「志士」の列伝が出版されている。『志士 100人列伝』、『報国者絵入伝記』(明治7年)、『近世正義人名像伝』(同)、『義烈回天百首』(同)、『近世遺勲高名像伝』(明治12年)等。これら多くは国立国会図書館蔵。
ところが、である。これらの列伝の中に、龍馬は一度たりとも登場していない。
安政の大獄で弾圧された吉田松陰や梅田雲浜、桜田門外で大老井伊直弼を討つた水戸浪士などは、どの列伝にも紹介されている。だが龍馬は「志士」のベスト100にも入っていない。どうやら当時龍馬はほとんど無名に近い存在であった。
 にもかかわらず一躍有名になったのは、明治16年1月より高知の地方紙「土陽新聞」に龍馬を主人公にした「汗血千里駒」という講談小説が連載。作者は自由民権運動の論客「坂崎紫蘭(しらん)」。本名は坂崎斌(さかん)。そのころ坂崎は、薩長を中心とした明治政府を激しく非難したため、官憲から政治演説を禁じられていた人物であった。
「汗血千里駒」は連載完結後、単行本として出版されるや大ベストセラーとなる。これにより龍馬の名は、一躍全国版となっていくのである。



  「汗血千里駒」は連載完結後、単行本として出版されるや大ベストセラーとなる

 そして、作家の司馬遼太郎により、竜馬物語は現在風にアレンジされ、長編時代小説「龍馬がいく」が誕生する。また、竜馬の実像を伝える資料としては。なんと言つても本人が書いた百数十通の手紙。解読された専門家によれば、大胆な発想や、ずば抜けた行動力を備えているのは確かなようだが、はったり屋で、ずる賢い面も見え隠れするという。
確かに当時龍馬が活躍したことは間違いなかろうが、そこまでやったか?といえば、史実とかけ離れている部分が多分にあると思われる。


2.龍馬が関わったとされる事案

@薩長同盟
薩長同盟については、西郷と桂が主で龍馬は彼らの指示により動いていたに過ぎない。ところがフィクションではなぜか全ての出来事が龍馬の発案であるとされていることが
とても多い。


A大政奉還
 また大政奉還についても、竜馬と後藤象二郎が藩主を通して将軍慶喜に大政奉還を勧めたとある。史実は違う。
 芸州広島藩家老の辻将曹と薩摩藩家老小松帯刀が推し進めている。そのため薩長芸は軍事同盟を結び3藩の軍隊を京都へ挙げ軍事圧力をもつて、将軍慶喜に大政奉還を迫る、という倒幕の作戦を推し進めていたのである。
 土佐の後藤象二郎は慶応3年(1867年)7月から、これを知り、京都藩邸に滞在する、辻、小松に土佐もこの倒幕に加わらせてほしいと言つてきた。二人は後藤に、土佐も倒幕に加わりたかったら、土佐から1000人の兵を京都に挙げてこいと指示している。
 後藤は「山内容堂を口説き軍隊を連れてくるから、倒幕に加わらせて欲しい」と辻に約束している。ところが、8月、9月になってもいつこうに土佐は動かない。保守派の山内容堂は徳川幕府温存の考えで、軍隊など出さないと。政変には時期が大切なのである。
 よって、あてにならない土佐ならば、と「薩長土同盟」を9月7日に解消してしまったのである。つまり、大政奉還の話には土佐は加わらなくてもよいと。
 その後後藤は、一人勝手に将軍慶喜に拝謁し、大政奉還の建白書を提出してしまった。怒った辻と小松はその三日後にそれぞれの藩からの用意の建白書を提出した。
 もとより、慶喜は後藤を信用しておらず、二条城にあらためて辻、小松を呼び寄せ三者から建白書を提出した根拠を聞き出している。
 後藤とは違い、二人はこれまで練りに練った考えがあった。なぜ大政奉還なのか、理路整然とした思慮があったのである。それは「幕府が戦いをせず朝廷に政権を返上すれば、欧米列強にスキを与えず、国家の平和解決の道になる」と進言したのであった。
 そして、慶喜は国内戦争を望まず、それを受け入れた。
 後藤象二郎が、広島と薩摩から話をもらいながらの抜け駆けはあまりにもぶざまである。そこで、竜馬の発案で後藤が大政奉還を進めたと、虚構を加えてしまった。
つまり、辻や小松の着想が消されて、龍馬にすり替えてしまったのである。


B船中八策
龍馬が大政奉還を唱えたという根拠になっていた「船中八策」は、最近では後世に創作されたとの説が有力。龍馬が提唱したことを示す証拠が出ていない。
更に、龍馬は大政奉還が実現した後、新政府綱領八策という文書を書いているが、当時の知識人たちが他にも何人もいっている内容で、これも新政府に影響を及ぼしたという証拠は見つかっていない。


C 日本をせんたく
福井藩主・松平春嶽の政治顧間を務め、竜馬と何度も面会した横井小南の口癖であり、それを手紙に書く際に借用したようである。

(3)近江屋事件
1.概要
 1867年(慶応3年)11月15日、京都河原町の醤油屋近江屋新助邸において、坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉の二人が暗殺された事件である。 龍馬が近江屋へ移ったのは、慶応3年10月頃。それまでは三条河原町近くの材木商酢屋を京都での拠点にしていた。薩摩の吉井幸輔は土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸に入るよう勧めているが、近江屋に留まっている。
 11月15日、夕刻に中岡が近江屋を尋ね、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後から斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな|(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は胸など数ヵ所を斬られついに即死か、ほとんど即死。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気をもようおした後に死亡した。

2.実行犯

この事件では、事件当初は新選組が実行犯だとの噂が流れて、それに関連して天満屋事件などが起こったが、実行犯は見つからなかった。しかし、1870年(明治3年)に見廻組隊士だった今井信郎の供述が転換点になり、見廻組が実行犯であることが有力となった。現在の歴史学上では見廻組の佐々木只三郎らを実行犯とする説が通説として扱われている。

当日の実行犯は7名で近江屋の二階に上がったのは佐々木只三郎他3名とあるが、この4名のうち2名は既に死亡していたのを恣意的に使った疑いもある。
ただ、渡辺篤という人物は当時生存しており、この襲撃に加わっているのは確かである。
では見廻組の誰が龍馬を斬つたのか。

@桂隼之助
その時使用されたとされる桂隼之助所用の「脇差」が霊山歴史館に展示されている。

 
  桂隼之助所用の「脇差」が霊山歴史館に展示されている

A渡辺篤
本人の証言によるもの。
自分は、伝来の備前国光の一刀を手挟んで、首尾よく一刀の下に目指す坂本龍馬を討取って使命を果たしたと、『渡辺家由緒歴代系図履歴書』に記述している。
 また、刀の鞘を忘れ残してきたのは、世良敏郎というもので書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし歩くこともできない始末であつた。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れたまま連れ帰つた。河原町を四条に出て、四条通りを千本通りまで、千本通りを下立売、下立売通りを知恵光院まで、知恵光院を北へ入り、西側の寺院(名前を忘れる)にたどり着いたとある。


◎佐々木只三郎と松林寺
 龍馬暗殺の時はリーダー格ではあったが、直接には手を下してはいない様である。その佐々木が宿舎としていたのが松林寺。(上京区知恵光院通出水下ル)
 この寺は会津藩が本陣としていた金戒光明寺(黒谷)の末寺であり、その縁から佐々木が借り受ける事になつた様。見廻組は新選組とは違って、家族を京都に住まわせる事が隊士の条件になっており。佐々木もまた、ここで妻と暮らしていたとのこと。
 事件当夜、龍馬を討った一行は、この寺に集まって祝杯を上げている。彼等は当時の警察組織であり、彼等から見れば龍馬は伏見・寺田屋で捕り方を射殺した犯人。
 この日も殺人犯の捕縛の為に出動したのであり、龍馬を斬ったのは相手が抵抗して手に余った場合は殺しても良いという特権を行使したのだと言う。
 その一方で、龍馬程の達人を斬ったと自慢している様な証言もあり、最初から斬る気だったとも受け取れる。
彼等にすれば龍馬は幕府を追い詰めた憎むべき相手であり、単純な正義感の発露から事に及んだとも考えられるが、実際の所はどうだったのだろうか。

3.龍馬はなぜ暗殺されなければならなかったのか。

@龍馬は幕府を追い詰めた憎むべき相手。
 当時ほとんど無名に近い存在で、幕府から狙われるだけの人物であったのかが疑問。

A龍馬は伏見・寺田屋でピストルにて捕り方2名を射殺、
   数名に手傷を負わせた犯人。
 射殺されたのは伏見奉行所の捕り方であり、本来は京都町奉行所が捕縛にあたるのが筋で暗殺が目的ではない。
 また、河原町一帯は「新撰組」の巡回地域であり、いわば身内同然の「見廻組」が新選組を出し抜いての犯行には疑間が残る。


B第三者からの暗殺依頼。(土佐藩黒幕説)
 武家社会における脱藩行為は、臣下の身で主を見限るものとして、許されない風潮が高まり、追手が放たれることもあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動などが表沙汰になり、藩にとっては致命的な改易が頻繁に生じたことも一因。
 龍馬は下士に属し、土佐藩士の中では身分的には決して高くない。この様な状況下で、龍馬は生涯において二度脱藩している。
 また、捕り方二名を射殺、数名に手傷を負わせた指名手配犯でもある。
 保守派で徳川幕府温存の考え方の土佐藩にとって、龍馬との間には確執もあり、目障りな存在でなかったか。
 暗殺現場となった近江屋であるが、仲間内から勧められていたように土佐藩邸で暮らしてれば、暗殺されることはなかったかもしれない。
 ただ藩邸は、24時間体制で非常時に備えておく必要があるので、外泊は禁止。午後6時には帰宅が決められていた。自由奔放な龍馬にとって、規則に厳しい藩邸より、町屋を望むのは当然のこと。
 確かに土佐藩邸とは目と鼻の先、刺客に襲われても直ぐに逃げ込めるにしても、命の危険にさらされている龍馬を無理やりにも藩邸に留めることはできたはずである。その近江屋を紹介したのは、土佐藩邸である。
 その様な中、事件は起こった。京都見廻組による襲撃で、当初より殺害を目的としていた。後に元京都見廻組の今井信郎が、新政府の取り調べに対し、龍馬殺害理由として慶応2年1月伏見奉行所の手勢が寺田屋の龍馬を襲撃した時、ピストルで捕り方2名を殺害したことをあげている。 ´

 
     近江屋事件の跡の史跡碑             近江屋と土佐藩邸地図

 命令を出したのは間違いなく京都守護職の松平容保であるが、果たして、この事だけでわざわざ京都守護職配下の見廻組が犯行に及ぶだろうか。ましてや当時としては全く無名の龍馬に対してである。
 実行犯の見廻組隊士は命令されるがまま犯行に及んだとしても、上層部(会津藩)の真意(動機)は別にあってもおかしくない。
 なお犯行後、暗殺現場に土佐藩邸から何の救援の手も差し伸べられなかった。

 以上のことから、封建社会の下、下士に過ぎない龍馬が好き勝手な行動をとり、更には伏見奉行所同心2名を殺害し指名手配までされている龍馬を、土佐藩士たちからは、非常に目障りな存在であり、決して快く思つていなかったのではなかろうか。
 そんな龍馬を、土佐藩としては直接手を下せなくても、親幕府同士の会津藩に暗殺を依頼することは十分可能である。

 土佐藩士の身分について  上士と下士

 土佐藩士の身分は,家老,中老,馬廻(うままわり),小姓組,留守居組,郷士,用人,徒士(かち),足軽,武家奉公人等に分かれ,留守居組以上を上士(じようし),郷士以下を下士(かし)と称したが,のちその中間に白札身分が派生した。 上士のほとんどは,藩祖一豊に従って来国した家系を誇り,高知の郭中に集住した。
  幕末の思想について概観
 幕末の思想について概観していきましょう。
 黒船来航によって始まった幕末期の思想は主に以下のようなものがあります。

  尊王(そんのう)論:拠り所を天皇に求め、崇拝する考え方。
  攘夷(じょうい)論:外敵を撃ちはらう。つまり諸外国の排斥を目指す考え方。
  佐幕(さばく)論:江戸幕府を支持して、難局を乗り切る考え方。
  開国(かいこく)論:鎖国をやめて、諸外国との外交で富国強兵を目指す考え方。
  尊王攘夷(そんのうじょうい)論:尊王論と攘夷論を併せ持った考え方。
  公武合体(こうぶがったい)論:朝廷と幕府が協力し、難局に対処しようという考え方。
  公議政体(こうぎせいたい)論:合議制による政治決定を目指す考え方。
  倒幕(とうばく)論:江戸幕府を倒し、新政府を樹立しようという考え方。
 
   
幕末関連年表
 1853年(嘉永6)6月4日 ペリー来航
                                   舞台は関東
 1858年(安政5)6月     日米修好通商条約
                   安政の大獄        ※外交と独裁政治

 1860年(安政7)3月3日   桜田門外の変       ※幕府の権威失墜
 1862年(文久2)1月15日   坂下門外の変  

 1862年(文久2)4月17日  嶋津久光、薩摩藩兵と入京
 1862年(文久2)4月23日  寺田屋事件(殉難九烈士之墓・大黒寺)

 1863年(文久3)2月8日   浪士隊(234名)江戸小石川伝通院出発
 1863年(文久3)3月15日  浪士組結成(会津藩預)
 1863年(文久3)8月18日  
禁門の大政変(8月18日の政変)

 1864年(元治元年)6月5日  〇池田屋事件
 1864年(元治元年)7月19日  
禁門(蛤御門)の変
 1864年(元治元年)11月18日  
第一次長州征伐

 1866年(慶応2)1月21日   
薩長同盟締結
 1866年(慶応2)1月23日   〇寺田屋事件

 1867年(慶応3)4月23日   〇いろは丸事件
 1867年(慶応3)10月14日  
大政奉還
 1867年(慶応3)11月15日   〇近江屋事件(龍馬暗殺)
 1867年(慶応3)12月7日    〇天満屋事件
 1867年(慶応3)12月9日   
王政復古令発令
 1868年(慶応4)1月3日〜5日  鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争勃発)
 1868年(明治元年)9月8日  東京遷都(明治維新)
 1869年(明治2)5月18日    戊辰戦争終結(五稜郭の戦い)

      土佐藩邸周辺地図                      坂本龍馬と中岡慎太郎像

最後までご覧いただき有難うございました

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