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<第129回> 令和5年6月定例勉強会

東海道五十七次を知り尽くそう!

  講師: 村田 健一氏(古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 46名(会員38名)の参加
 2023.6.24(土)午前10時、6月定例勉強会に46名の沢山の方々が参加された。先月の勉強会は47名、50名に近い参加者が2カ月続いた。狭い会場は超満員、最近では新記録である。

 村田会長より、「本日は、村田健一さんの講演会(東海道五十七次を知り尽くそう)に早朝から沢山の方に参加いただき誠に有難うございます。ご講演を頂戴します村田さんは1936年生まれで、もう直ぐ米寿をお迎えになる大変お元気な方です。東海道五十三次や中山道も歩かれ、本日の東海道五十七次も8年前に歩かれたコースを今回、最新情報をお伝えしようと今年また歩かれたそうです。
 さて、令和5年度の古文化同好会の活動として、本日の勉強会を始め、9月まで勉強会・歴史ウォークなどが予定されておりますので、どうぞ引き続きの参加をお願いします。
 7月11日には、フェノロジーカレンダーを作成・提携している日本インシーク(株)主催の「日々のくらしと文化財」の講演会などが開催予定です、どうぞ沢山の皆さんの参加をお待ち申しております。・・・など」と挨拶があり、早速、村田健一氏による「講演」が始まりました。
 
 村田さんは、著書やWEBの資料を活用して街道を歩かれ沢山の写真を撮影された。レジメを作り画像も整理するために多くの時間を費やして準備して頂きました。街道歩きの画像が70枚余。約2時間の講演時間に合わせるように手際よく分かりやすくお話しいただきました。

 参加された皆さんからは、「村田さんから街道歩きの苦労話や道案内までして貰った嬉しい話などを聞き、興味深い話がたくさんあり、本当は一緒に歩きたいと思った、一緒に歩いているみたいに感じたなど、楽しい勉強会で感動しました!良かったです!」と大変な好評をいただきました。

「東海道五十七次を知り尽くそう!」講演概要
  1.
はじめに  ウォーキングのきっかけは?
  2.東海道五十七次について
  3.東海道五十七次のルートは?
  4.写真と説明で辿る東海道五十七次の最新情報
     ① 髭茶屋~京阪墨染駅
     ② 伏見宿(第五十四宿)京阪墨染駅~淀駅
     ③ 淀宿(第五十五宿)淀駅~枚方駅
     ④ 枚方宿(第五十六宿)枚方駅~守口駅
     ⑤ 守口宿(第五十七宿)守口駅~高麗橋

 ※ホームページに掲載するにあたり、講師の村田健一氏が研究・作成された
   膨大な資料・画像・レジメ等を頂戴しましたこと、また、WEBの各種資料など
   参照させていただきました。記して感謝申し上げます。
 村田健一氏のホームぺージ  kendad3636.sakura.ne.jp

  1.東海道五十七次 追分から高麗橋
        
http://www.kendad3636.sakura.ne.jp/270311.html
東海道五十七次を知り尽くそう!

  講師: 村田 健一氏(古文化同好会)
 

村田会長の挨拶
 

レジメ 
東海道五十七次を知り尽くそう!

  講師: 村田 健一氏(古文化同好会)
 
 
 
 
 

東海道五十七次  講師  村田健一

(初めに)             
ウオーキングのきっかけ  Dawn the walking
 東海道53次  495㎞    東高野街道  
中山道    530㎞    中高野街道   河内長野→高野山
伊勢街道   170km 西高野街道  「竹内街道」(堺大小路~当麻寺) 
       

1。東海道57次
 53次 江戸~京都    496㎞
 57次 髭茶屋~高麗橋   57㎞

   

2。東海道57次のルート
 京阪京津線「追分駅」から髭茶屋、髭茶屋から東海道53次と57次に分かれる。
 髭茶屋から左方向の道、京阪本線の墨染駅、墨染駅から京阪本線線路に沿うように、中書島駅(54次伏見宿)~淀駅(55次淀宿)~枚方駅(56次枚方宿)~守口駅(57次守口宿)~高麗橋
 京阪電車の本線に沿うがごとく。東海道57次に沿って京阪が鉄道を敷いた?
 
東海道五十七次の概要
 旧東海道は5街道の一つとして、1601年(慶長6)に徳川幕府により江戸から京都までの53の宿駅・伝馬制度(東海道53次)が整備された。
 一方豊臣秀吉は、それ以前に大阪と城のある伏見の間の交通を円滑にするために淀川沿いの堤防と道路を兼ねた「文禄堤」を築いていたが、当時大阪城には豊臣家が健在であったため、徳川幕府は京都から大阪への街道の延伸をしなかった。
 その後、1615年(慶長20)に大阪城が落城すると東海道を大阪まで延長し、伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場を作り、大津宿から大阪(高麗橋)の東海道57次が成立した。
 東海道57次は、参勤交代の西国大名が入洛し朝廷に接触するのを防ぐため、伏見を通る洛中を迂回する経路とした大津宿から髭茶屋追分間は、53次と同じ道。

 京街道: 東海道57次が成立しても、豊臣ゆかりの関西では「京街道」あるいは「大阪街道」と呼んで、あえて東海道という表現を使わなかったという。

 東海道五十七次を歩く
 ◎髭茶屋~京阪墨染駅
 
 東海道57次のスタート地点。 髭茶屋、右京都三条大橋・左57次の高麗橋へ
 牛尾山道から 洛和会「音羽病院」を過ぎれば国道1号線に出て「鶴喜そば」を左折、国道1号線を1㎞ほど歩き左の道に入る。
 大塚南溝公園 伏見宮 宝迎寺 マツヤスーパー 岩屋神社(この辺りは奈良街道らしい) このあたり地名は「大宅」 右手に山科警察の建物、右折 愛宕常夜灯 勸修寺(庭園拝観)、この辺りは歩いていて楽しい道 大岩神社 ピアノ専門学校(この看板なくなっていた) 
 浄土宗「寶迎寺」、大きな「マツヤスーパー」「岩屋神社」「奈良街道」「勸修寺」「勸修寺観光農園」「大岩堂神社自動車道」このあたりで大きく目印にしていた「ピアノ教室」の大広告看板はなくなっていた。
 寿司屋の手前を左に回った筈がこの寿司屋もなくなっていた。「西福寺」を過ぎれば京都教育大学の正門前、藤森小学校を過ぎれば京阪墨染駅に到着。 
 天理教教会 西福寺 京都教育大学 藤森小学校 →京阪墨染駅 京都教育大学 藤森小学校 

 
 東海道五十七次は、髭茶屋から左方向へと行く
 
 
   
東海道五十七次は、髭茶屋から左方向へと行く。 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 京都教育大学 京阪墨染駅 
 ◎伏見宿(第54宿) 京阪墨染駅~淀駅
 
 坂本龍馬の常宿寺田屋 伏見の酒蔵月桂冠 大倉記念館 かっぱカントリー 日本初めての市電 
 墨染駅を過ぎた辺りから伏見宿に入る。
 宿場と言ってもその範囲や境界は、はっきりしたけじめがある訳ではない。中山道は山間部や田舎道を通るところが多いため,なんとなく宿場のけじめがついていることが多い。
 東海道は平地でけじめがつき難い。
 57次は墨染駅から西方に向かって歩く。やや行くと京都市立伏見板橋幼稚園 小学校。京都御駕篭郵便局、その先に「金礼宮」きんさつぐう。お金がたまるおみやさんとの事。「浅山眼科」を右に(今度行った時は無くなっていた)を通り過ぎると清水崑で有名な「かっぱカントリー」レストラン。黄桜酒造が経営している。そして「駿河屋本店」1781年創業。本店前より日本では初めての電気鉄道が走った。明治28年京都駅に向かって走った市電。57次の中でこの辺りは話題に事欠かず楽しい界隈。かっぱカントリーなど。史跡寺田屋。十石船。伏見長州藩跡。
 このあたりから57次は宇治川の堤防道になる。

 
   
 京都市立伏見板橋幼稚園 
   
   
   
   
   
   
 
 ◎淀宿(第55宿) 淀駅~枚方駅
 
 淀の競馬場 淀城跡 二宮忠八飛行器(機ではない)工作所 飛行神社
 橋本の遊郭    背割堤(1,4㎞) 
淀宿の東見附の位置が定かではないが、なんといっても淀競馬場が目立つ。
≪八幡市駅近くに「二宮忠八飛行器工作所跡」「飛行神社」
橋本の旧遊郭街を通り抜けると樟葉ニュータウン。
枚方市は57次のような歴史的な道路についての理解度が深いようで宿場の東西出入口には石碑が建っている。東見附は「かささぎ橋」の近く、西見附は鍵屋の西の方。
各宿場とも「本陣跡」は大抵きっちりした形で残っているところが多いようです。

三川合流(桂川 宇治川 木津川→淀川) 
(東見附 高札場  問屋場 本陣跡など…)
 
   
 淀競馬場  京阪淀駅
   
   
   
   
   
   
   
 
 ◎枚方宿(第56宿) 枚方駅~守口駅

 東海道57次も枚方宿周辺が見どころも多く賑やか。
ルートとしては今の八幡市駅の北側の淀川ベリを西に向かって歩く。京阪葛葉駅辺りから堤防道に入る。右に葛葉ゴルフ場。マキノ、御殿山駅を通り枚方市駅に近づく。
枚方なぎさ高校を右に見てかささぎ橋を渡り左へ。
 この辺りから枚方宿。枚方宿入り口には「東見附」の石碑と説明ボード。「京街道」の始まり。真っすぐ西に歩くと皆さんおなじみの「惣左の辻」と「東海道」の石碑。信号を渡ると「ビオルネ」「岡本町公園の説明版」には「京街道と枚方宿」の説明が書かれている。
「枚方宿案内図」を見て京街道を進む。
「見宮常夜灯石灯籠」「高札場跡」「枚方宿本陣跡(現在三ツ矢公園)
「塩熊」このあたりの豪商だったという。
「浄念寺」の角を過ぎ右へ曲がると、かって港があったという。枚方宿の中心「鍵屋」、昔は「船乗り場」だったという。今は「市立枚方宿鍵屋資料館」。「京街道枚方宿」の石碑を過ぎ突き当たりの階段を降りると「水と歴史のふれあい広場」と言われる「水面回廊」という魅力的な公園。枚方界隈在住者も案外この所在を知らない人が多いのではないか。(私も初めて知った時は吃驚)
この「水面回廊」を抜け、前方にマンション群が見える辺りを左へ曲がる。やがて元府立西高校,伊加賀小学校を過ぎると「本願寺蓮如上人開祖の光善寺」の建物が見えてくる。
この場所は京阪光善寺駅とはずいぶん距離の隔たった場所だ。光善寺を南方向に「御田地」と刻まれた大きな石碑が見えてくる。
 注〉御田地:お上から預かった土地。ここでの意味は「説教する場所」
   蓮如上人が説法したという「仕掛け石」がある。
 ここを過ぎて左側の建物にもたれるように大きな柿の木。説明版によれば「樹齢は700年以上」らしい。柿の木を過ぎて道なりに右に進む。小さなお地蔵さんの前から堤防への登り坂になり淀川の堤に入る。東海道57次はここから鳥飼大橋まで長い堤防道を歩くことになる。
 右の広大な淀川、空き地では子供たちが野球をしている。季節と天候によっては実にのどかな光景を楽しめる。が何といっても距離が長い。大きな太間排水機場の建物、茨田堤の石碑。ちなみに堤が作られるときには、人柱までたたされたという現在では考えられない残酷な行いがあったとの事。
有料橋 淀川新橋、鳥飼大橋まで歩く。後半は実に退屈な道になった。


 
   
 宗佐の辻石碑  岡本町のビオルネ
   
 
東海道五十七次 枚方宿の説明板
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
守口宿     文禄堤 
 ◎守口宿(第57宿) 守口駅~高麗橋

 歴史的な道も市街地に入ると興味は半滅する。
 守口からは車の絶えない1号線に沿って歩く。
 守口駅北側の守居橋を西へ。右前方の白いビルの壁に大きく「義天寺」。左に「京街道」の大きな文字。道はその先で大きく右に曲がり下る。「日吉公園」を過ぎると「守口車庫前信号」から国道一号線。
古道を楽しもうという身には国道一号線は面白味がなくなる。
 旭通商店街 太子橋今市駅 今市商店街 歴史の径だということは時々出会う石碑によって認識させられる。今市辺りで道は二つに分かれ57次はまっすぐ(これが1号線)。
 「京街道」の立派な石碑から左の細い道に入る。やっと1号線から離れることが出来た。
 このあたり、下町風の住宅街が延々と続く。「福島病院」前に来たが、以前来た時はこの病院の名前は渡辺病院であった。前方に「千林商店街」のアーチが見えてきた。通り抜けると右手に「東洋学園高等専修学校」。このあたりから町並みは下町らしい落ち着いた佇まいになる。
 およそ旧軌道らしさは無くなった道だが、所々で「京街道」の石碑に出会うと、一応道は間違っていなかったのであろうと安心する。 
 「中三商店街」「ピリケン」突然広い通りに出た。なんとここは「京橋」だ。「京阪モール」のそばを通り西方向に向かう。片町を通り過ぎる頃左手に大阪城。「京橋川魚市場跡」の石碑と説明ボード。「京橋」という名の橋はここにあったのか。地名だけで橋はないのかと思っていた。
 ここまでくるともう旧道の雰囲気ではない。中の島や堂島に聳え立つ大きなビルが見える。大阪城の石垣の由来説明版。
 天満橋の信号を渡ると「熊野古道」の起点八軒屋。有名な昆布屋「永田屋」の前に石碑。「八軒屋船着場跡」は大阪市教育委員会の名で「大阪市顕彰史跡」。
 こんな所に「歴史の散歩道」の石碑があったとは…。
 「日刊工業新聞社」を過ぎ「まつやまち筋」の信号を渡り、大林組ビルを超えると左手に最終目的地「高麗橋」が見える。大阪に12ある「公儀橋」の一つ。
 江戸の日本橋と同じく高速道路に押しつぶされるように架かっている。 
 
 
 

文禄堤の説明板 
   
 京阪守口駅  文禄堤の説明板
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
最終目的地「高麗橋」 
 
 江戸の日本橋と同じく高速道路に押しつぶされるように架かっている。
 
 高麗橋説明板
 
 高麗橋
 

  江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。
 ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。

 現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。


最後までご覧いただきまして有難うございます。

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