<第132回>  令和5年11月定例勉強会
真夏の夜の大捜査
近藤の苦悩と決断

  講師 : 吉岡 一秋氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時〜12時
 36名(会員33名)の参加
2023.11.25(土)午前10時、11月定例勉強会に36名が参加されました。
 村田会長の挨拶で始まり、講演会は、京都をフィールドワークにご活躍されている「吉岡一秋氏」より、「真夏の夜の大捜査 =近藤の苦悩と決断=」をテーマで、約2時間、熱く語って頂きました。 
 「幕末の流れ〜江戸〜京都への情勢」、池田屋事件を新選組の目線より、周辺を取り巻く状況等、特に、「悔いを千載に残すな」と局長・近藤勇の苦悩と決断、事件は防ぐことが出来なかったのか否か?など、多方面に亘って深層に迫って頂きました。
 参加された皆さんより、「従来の池田屋事件とは違った面を知ることが出来て大変面白かった、楽しく拝聴出来ました」と大好評でした。

講演概要
 第1部 幕末の流れ
   @動乱のすべては黒船来航から始まった
   A開国で生活が厳しくなり、加熱する外国への敵対応
   B安政の大獄と桜田門外の変を経て、舞台は江戸から京へ
   C爆走の末には長州は都落ちし、京では新選組が大活躍
 第2部 時局は京の都へ
   @新選組の誕生
   A新選組活躍の影に目明しあり
   B鉄の規律「局中法度」
 第3部 元治元年6月5日は新選組にとって最も長い1日
   @奇襲  桝屋喜右衛門宅
   A連行  古高俊太郎を拷問
   B局長近藤の苦悩と決断 集合日の判明・出動
   C捜索 当日の捜索は2隊でなく、3隊であった
   D切り込み 池田屋へ2時間余の壮絶な斬り合い
   E結末 双方相当な犠牲者
   F影響 禁門の変から明治維新への影響
   G新選組隊士への褒章
   H池田屋事件は防げたか否や

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を
 掲載させて頂きました。 記して感謝申し上げます。

 
村田会長のご挨拶
 真夏の夜の大捜査
近藤の苦悩と決断

講師 吉岡一秋氏
 
 
 
 
 

 当日配布されたレジメに画像等編集
「真夏の夜の大捜査
=近藤の苦悩と決断=」
第1部 幕末の流れ
  @ 動乱のすべては黒船来航から始まった。
   
 
 朝廷から政治を任されていた徳川幕府が崩壊の道をたどり始めたのは、 1853年のペリー来航がきっかけであつた。
 黒船の脅威を背景に開国を迫られた幕府は、翌年日米和親条約を結んで下田と函館を開港、長年の鎖国体制は終わりを迎える。
 次にアメリカは、さらなる開港と自由貿易を目的とした通商条約の締結を要求。
幕府は内心では仕方あるまいと思いつつも、「事が重大ゆえに勅許を頂いてくる」と時間稼ぎをし、老中堀田正睦が上京。勅許によって条約締結を正当化するもくろみがあつた。

A開国で生活が厳しくなり、加熱する外国への敵対応
 しかし、外国嫌いの孝明天皇は勅許を拒否した。思わぬ事態に幕府は慌てるが、1858年大老に就任した井伊直弼が独断で日米修好通商条約に調印。
 その後も相次いで他国と通商条約を結んだ。天皇の意思をないがしろにされた朝廷は、当然幕府に不満を膨らませることとなったのである。加えてその時期、突然始まった対外貿易の影響で品不足やインフレが発生し、生活が厳しくなったこともあって、武士を中心に外国への敵対心が高まっていったのである。
 やがて、天皇と朝廷の権威を高めようとする尊王論と、外国人を打ち払おうとする攘夷論が結びつき、尊王攘夷熱が急速に加熱していった。

B安政の大獄と桜田門外の変を経て、舞台は江戸から京ヘ
 尊王攘夷運動は結果的に幕政批判につながるため、その動きを危険視した大老井伊直弼は、尊皇派や反体制勢力の公卿・大名・浪士ら百余名を弾圧・処刑した。いわゆる「安政の大獄」である。
 しかし、多くの恨みを買った井伊は、のちに尊攘派の水戸浪士らに桜田門外で斬殺され、幕府の権威は大きく傷ついた。井伊暗殺で尊攘派が息を吹き返す中、特に勢力を拡大したのが長州藩であった。急進派の公家と手を結んで朝廷を操り、京都市中では「天誅」と叫びながら開国派の暗殺を繰り返し、江戸から上洛した将軍家茂に無理やり攘夷決行を迫る。ついには下関海峡を通る外国船にいきなり砲撃をカロえる過激ぶりであった。
  
       「桜田門外の変」での井伊直弼暗殺
 
  C暴走の末には長州は都落ちし、京では新撰組が大活躍。
 しかし、長州の余りの過激な行動が国を誤らせることを恐れた孝明天皇の意を受け、会津藩と薩摩藩が中心となって、 1863(文久3)年8月18日クーデターを実行した。いわゆる「八月十八日の政変」。長州藩は三条実美ら7人の急進派公家と共に京から追放。七卿落ちである。
 京の治安維持のため、「新撰組」が発足したのも丁度この頃で、翌1864(元治元)年6月5日には尊攘派浪士たちを一網打尽にした「池田屋事件」で、新撰組の名は天下に轟きわたることとなつた。
 そして、この事件が呼び水となり、過激派に扇動された長州藩は名誉回復を期して京ヘと攻め上がったが、御所を守る会津藩・薩摩藩らの前に敗れ去ったのである。時に「池田屋事件」より僅か一月後の、7月19日の「禁門の変」である。
 
  長州藩は三条実美ら7人の急進派公家と共に京から追放。七卿落ちである。
 尊王攘夷運動の展開
 
  第2部 時局は京の都ヘ
@ 新撰組の誕生
 幕府の権威が失墜する中、朝廷と幕府は、公家と武士が共に力をあわせこの国難を乗り切ろうと画策。その実を上げるため14代将軍徳川家茂の上洛を決定させた。
 これに目を付けた出羽国庄内藩郷士の清河八郎の画策により、幕府に将軍の身辺警護と京の治安回復の名目で俄かに諸国から浪士を募集させた。
 近藤勇をはじめ上方歳三ら6名の多摩「試衛館」組も浪士組に参加。一行二百三十余名は京の郊外壬生に到着したのは、 1863年2月23日であった。しかし、清河八郎らは再び江戸へ帰ることに。清河と意が沿わなかった芹沢・近藤ら13名は、あくまでも京へ留まることに。
 その後、会津藩預かりとして「壬生浪士組」が結成され、「八月十八日の政変」時の功績が認められ、「松平肥後守御預 新撰組宿」の表札が出されることとなる。
 
     
      近藤勇                 上方歳三
 余談
 新撰組はもともと会津藩にあった剣客集団の名で、武芸に秀でた藩士で構成されていたとのこと。その名誉ある名を受け継ぐに相応しいと認められたのである。
 なお幕府を裏切った清河八郎は、4月15日をもって横浜で攘夷を決行しようとしていたが、 13日に麻布赤羽橋で京都見廻組の佐々木只三郎らに暗殺された。

A 新撰組活躍の影に日明しあり
 京に入つて地理不案内な隊士達にとってなくてはならないものは、京の町に精通した者「日明し、(江戸では岡っ引き)」の存在であった。特に新選組幹部の殆どは関東出身で京の町には不案内。
京の町に入ってくる地理不案内の浪士たちの行動を見張るには、京、大坂の内情に熟達した人々が必要であった。京だけではなく大坂からも多くの日明しが動員され、不逞浪士の動静を探っていたのである。これが後に「池田屋事件」に大きく役立つこととなったのである。

B鉄の規律「局中法度」
 正しくは「局中法度書」と言われている。色々な出自のメンバーがいた中で、食わせ物の多い浪人集団をまとめあげる為には必要であったと思われる。
 しかしこの局中法度、その存在自体が疑問視されていることがあまり知られていない。新撰組幹部の永倉新八が書いた「新撰組顛末記」には、永倉自身は「禁令」と名付けた法度と同等の隊規があったと記されている。
 そこには、士道に背かない事、局を抜けない事、金策をしない事、訴訟を扱わない事、が定められている。また、多くの隊士がこの規律で殺されていることは事実である。

◆検証 この規律により、殺害された主な新撰組幹部たち
 ・芹沢鳴、山南啓介、伊東甲子太郎、藤堂平助等々
 文久3年当時、(結成約1年未満)で、11名が規律で処分されている。なお、新撰組が殺害した討幕等の浪士26名に対し、隊士は40名にものぼる。
 第3部  元治元年6月5日は   新選組にとって最も長い一日
 
@奇襲
 幕末の京都は政局の中心として、尊王攘夷・勤王名等の各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し活動していた。会津藩・薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新撰組を用いて京都市内の警備や捜索を行つていた。
 5月下旬頃、新選組監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を営む桝屋喜右衛門という人物がどうも怪しい。すつかり商人に成り切っているが洗ってみれば意外な人物かもしれない、また雇われ人等も怪しい。沖田総司、永倉新八、原田左之助が組のもの二十余名隊を引き連れて一斉に裏と表から桝屋の寝込みを襲つたのが6月5日の早暁のこと。
 
四条小橋上ル 古高俊太郎邸跡
 
A連行
 かねて万一の用意があったものと見え、雇われ人は素早く逃れ、何か秘密書類に火をつけて少し逃げ遅れた主人喜右衛門だけが捕まった。家探しすると武器弾薬及び志士往復の書類も多数あったとのこと。
 壬生の屯所へ連れて拷間にかけると、討幕勤王の大物古高俊太郎ということが判明した。壬生の屯所へ引き立てた俊太郎を、土方歳三が取り調べるも一言半句も口を開かない。夕刻になって業を煮やした土方は、古高を縛ったまま逆さに梁に吊し上げ、足の甲から裏へ五寸釘を突き通し、それに百目蝋燭に火をつけ蝋を肌へと流すようにした。ひどい拷間である。その後は素直に尋間に答えるようになったとのこと。
 この古高の自白から驚愕すべきことは「祗園祭の前の強風の日を狙つて御所に火を放ち、中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去る」というものであった。
 
 「新撰組」ゆかりの「旧前川邸 東の蔵」古高俊太郎が拷問をうけた場所
 
◆検証 実は古高は自白していなかった。

 一説では凄まじい拷間に耐えかねて全てを自状し「池田屋斬りこみ」が行われたと伝えられているが、「何もしやべらなかつた」が真相。
 浪士たちが池田屋に集まったのは、古高が捕縛されたのを知って、その善後策を練るためで、古高自身がそれを知るはずがなかった。
 また、古高は新撰組の屯所から伏見奉行所の六角牢に移され7月25日に刑死するが、維新後明治25年、明治政府から正五位を追贈されている。もし古高がしゃべって「池田屋事件」が起きたなら、政府は「裏切者」として追贈はしなかったはず。

B局長近藤の苦悩と決断

(1)集合日の判明
 古高の自供がない限り集合日など判明しにくいはずである。考えられる事は、古高俊太郎自身が捕縛されたことにより、奪還に来るかもしれないとの憶測からの危機感。また古高捕縛は、既に討幕方にも知れ渡つていた筈。
 そうした中、新撰組には諜報網があった。市中には京大坂からの目明しや新撰組の探索方の目が光っている。特に討幕方の中心的な長州屋敷には方々への連絡の慌ただしい動きがあったとすれば、当然見逃さなかったと考えられる。
 更に今日は祗園祭の宵々山である。町の混乱に乗ずると判断したかもしれない。以上の事から、どこかで会合があるのではと出動を決断したのではないだろうか。いずれにしても、近藤にとつて大きな賭けではなかったか。

(2)出動
 夕方頃から壬生の屯所を隊士達が三々五々連れ立って祗園会所へ向かった。武装して隊を組んで出動したりすると、古高捕縛直後であることから討幕方浪士に察知されることにもなり、隊内にもスパイが入り込んでいる恐れ、さらには屯所周辺への目もあることを意識したと考えられる。
 当時、隊内には病人や逃亡者が多く出て出動隊士は近藤以下30余名しか集まらなかった。壬生の屯所から祗園会所までは四条通を真直ぐ東へ約3100メートル余り、徒歩でも約40分あれば到着できる。周囲の目を避けることがあったとしても半刻(約1時間)後には全員が揃ったと考えられる。
 
 
      新撰組の集合場所・祇園会所(現在はコンビニのローソン)
 
◆検証 新撰組の集合場所がなぜ祗園会所だったか。
 元来新撰組の巡回地域は、祗園、木屋町、河原町であり、祗園祭の宵山で多くの人々がいることにより、目立つことなく集合できる場所。

◆検証 当日の出動隊士が近藤・土方を含めて、わずか34名だった。
 夏の暑い季節のため病人が多かったとされていたが、実際は脱走があいついで隊士が減少していたのである。

C捜索
 ここで身支度を整え、捜索と捕縛についての打ち合わせを行い会津藩と合同で出動する予定であったが、午後8時を過ぎても会津は現れず。時期を逸すると判断した近藤は隊を2隊に別け、近藤隊10名は木屋町通を北上、土方隊24名は祗園界隈から縄手通を北上。周辺の旅籠や料亭の御用改めを開始。
 8時半頃には祗園界隈を調べる土方隊の目撃が記録されているそうである。永倉が「片つ端から」探索した旨を述べており、また事件直前に祗園の井筒屋に新撰組が捜索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、約2時間もかけて、多くの場所を探索していたと考えられる。
    
   近藤隊・土方隊の捜索ルート(祇園会所〜池田屋)
 
 
◆検証 当日の捜索は2隊ではなく、3隊であった
 近藤の書簡や永倉新八の手記によると、当日は近藤隊10名は木屋町筋を、土方隊12名は祗園界隈から縄手通、三条大橋へと、井上源三郎(松原忠司)隊は先斗町筋をそれぞれ捜索を行っており、応援に駆け付けたのは井上隊である。

●余談
 子母澤寛の「新選組始末記」などでは、探索方の山崎丞が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入、突入前に戸の錠を開けたことになつている。しかし、山崎の情報があったならば最初から主力を池田屋に差し向けたはずで、2時間近く捜索する必要はなかったのである。
 
   
 「新選組始末記」は、大正から昭和にかけて、元隊士をはじめ壬生周辺の古老や子孫に取材を重ねた子母澤寛が、収集した史料や聞き書きをもとにし、全身全霊をこめて最初に書き上げた歴史ノンフィクションである。史実と巷談を現地踏査によって再構成した不朽の実録。新選組研究の古典として定評のある、子母澤寛作品の原点となった記念作。
 
D切り込み
 近藤隊は木屋町筋を北上。三条小橋まで出て池田屋に注目したのが四ツ(午後10時半頃)ごろだと言われている。近藤は隊士たちに裏表を固めさせると、表口から沖田総司、永倉新八、藤堂平助のわずか3人を率いて進入し、御用改めであることを告げる。 永倉と藤堂は一階に立たせ、近藤と沖田は二階へと駆け上がって行った(まさか二階に二十数名もいるとは思っていなかったので、二人だけで二階へ行ったのか)
 ここに薄暗い中、抜刀して構えた二十数名の浪士たちと、「池田屋事件」として有名な2時間余の壮絶な斬り合いが始まったのである。
 鎖を着て、籠手脛当てで完全武装の新撰組だったが、多勢に無勢。近藤隊は苦戦を強いたげられるが、先斗町筋北上の井上隊が応援に駆け付け、さらに土方隊も駆け付け一気に形勢は逆転となった。.幕府援軍会津藩兵700名が池田屋に到着し会津・桑名・彦根の兵と共に池田屋を囲んだのは、日が変わり6月6日の午前1時になっていた。全てが終わっていたのである。

◆検証 方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。
 新撰組は一時近藤・永倉の二人になるが(沖田・藤堂は負傷にて離脱)、応援隊の到着にて戦局が有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。

E結末
 この事件で新撰組は激派浪士7名(宮部鼎蔵、吉田稔麿、石川潤次郎、大高又次郎、広岡波秀、福岡佑次、望月亀弥太)を討ち取り、23名を捕縛(松田重助、山田虎之助など)とある。
 これは新撰組の刃にかかった人数では事件全体では死者16名、20数名、脱出者10名との記録がある。なお、池田屋惣兵衛も捕縛され後日獄中で死亡。池田屋も閉業となり再開業したのはこの年の暮であった。
 新選組の死亡者は、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門。その他各藩からも多数の死亡者があったとされる。
 その後も、会津や桑名の藩兵とともに残党狩りを行い、翌日正午ごろ、壬生の屯所に帰還した。隊士たちは皆、返り血を浴び凄惨な姿だったといわれており、また沿道は野次馬であふれていたという。
 
 
 
◆検証 落命した7名の浪士たちは三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。
 三縁寺は、元々京阪三条駅の東のバスターミナル付近にあったが、 1979年、左京区岩倉花園町に移転した。山門脇には、「池田屋事変殉難烈士の墓」の石碑が建っている。
 なお、三縁寺での遺体の確認は、池田屋の女中頭の清水うのとも「小川亭」の小川テイ女とも伝えられている。ただ遺体の損傷が激しく見分けるのに非常に苦労したとのこと。
 
   
     三縁寺の「池田屋事変殉難烈士の墓」

F影響
 長州は、この事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で、挙兵・上洛し、7月19日に禁門の変を引き起こした。
 この事件により、逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めたともいわれている。

G新撰組隊士たちへの褒賞
  ・松平容保より酒肴料として500両、負傷者に50両
  ・朝廷から100両の酒肴料
  ・幕府は松平容保を通じて、感謝状と報償金を近藤勇に30両、土方歳三に23両、
    切り込み参加者にそれぞれ20〜15両
  ・総合計 約1300両が新選組に入つた

H池田屋事件は防げたか否や。
 結果を前提として。浪士達が新撰組の襲撃を回避できた方法はなかったかどうか。
 確かに会合を開かねば新撰組と遭遇することはなく、事件は起こらなかっただろうが、重要人物の古高俊太郎の救出は討幕方にとって急務であり、善後策を話し合う事は必然であったと思われる。
  さらに池田屋事件を境に、新撰組は世間に恐怖心や危険性等を与えるようになっていくのであって、この時点での浪士たちの新選組に対する認識などは希薄であったことは否めず、よってこの事件を防ぐ術はなかったと思われる。 
(完)
 
  池田屋事件の跡地は、現在居酒屋となっている。
 【参考資料】
 【小松帯刀】(こまつたてわき)  維新の十傑
1835‐70(天保6‐明治3)
 江戸末期の薩摩藩家老。諱(いみな)は清廉。大久保利通ら誠忠組の指導者となり,島津久光に随従して上京,公武の間を周旋し,1864年(元治1)の禁門の変の処理,66年(慶応2)の薩長同盟の締結,翌年の将軍徳川慶喜の大政奉還の勧奨など,つねに藩の代表者として活躍した。ついで藩主忠義を説いて倒幕出軍を実現し,さらに版籍奉還・藩政改革に当たったが,大阪で病没。

 「西郷隆盛」、「大久保利通」、「坂本龍馬」、「桂小五郎」らと並び、明治維新の十傑のひとりでありながら、表には出てこない陰の存在、「小松帯刀」(こまつたてわき)。幕末動乱期において「英明の君主」(英明とは、優れて賢いこと)と称された「島津斉彬」(しまづなりあきら)の死後、小松帯刀は若干27歳にして薩摩藩を背負って立ちます。そして「薩摩の小松、小松の薩摩」と言われるほど活躍し、幕末から明治維新にかけて薩摩藩の躍進を支えました。しかし、小松帯刀は明治維新後わずか3年、病によりこの世を去ります。もし生きていれば、西郷隆盛、大久保利通らを超える歴史的知名度があったと言っても過言ではない、有能すぎるナンバー2。
  武士と浪人の違い

 武士とは武芸をおさめて主君に仕え、戦(現代でいう軍事)にたずさわった者のことをさし、武者、兵(つわもの)とも呼びます。武士は支配階級となりますが上級武士から下級武士まで様々な身分があり領地によっても地位が変わったりしたといわれます。

 浪人は仕官していない武士のこと。 「牢人」と呼ばれていたのが、家綱の代に「浪人」に変わった。 赤穂浪士や新撰組の前身である壬生浪士組、坂本竜馬ら脱藩した幕末の志士達などは仕官していないため浪人なのだが、「浪士」と呼ばれている。 浪人より浪士の方が特別扱いされる。
  幕末の思想について概観
 幕末の思想について概観していきましょう。
 黒船来航によって始まった幕末期の思想は主に以下のようなものがあります。

  尊王(そんのう)論:拠り所を天皇に求め、崇拝する考え方。
  攘夷(じょうい)論:外敵を撃ちはらう。つまり諸外国の排斥を目指す考え方。
  佐幕(さばく)論:江戸幕府を支持して、難局を乗り切る考え方。
  開国(かいこく)論:鎖国をやめて、諸外国との外交で富国強兵を目指す考え方。
  尊王攘夷(そんのうじょうい)論:尊王論と攘夷論を併せ持った考え方。
  公武合体(こうぶがったい)論:朝廷と幕府が協力し、難局に対処しようという考え方。
  公議政体(こうぎせいたい)論:合議制による政治決定を目指す考え方。
  倒幕(とうばく)論:江戸幕府を倒し、新政府を樹立しようという考え方。
 ※こんな池田屋事件を間一髪で逃れた
  2人をご紹介します!


1人は、長州の桂小五郎(木戸孝允)
「事件が起こった時に池田屋にいたものの、屋根をつたって、(池田屋の北側にあった)対馬屋敷に逃げた」とか、「一度は池田屋に行ったけれど、すぐに出て対馬屋敷に行った」説があるようです。いずれにしても、桂小五郎は対馬屋敷にいました。
 現在池田屋跡の北、高瀬川にかかる姉小路橋の西詰に「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」という石碑が立っています。これは2016年(最近!)京都歴史地理同考会が建立したもの。石碑の南面には「桂小五郎寓居跡」の文字も。案内看板によると、対馬宗氏は鎖国をしていた江戸時代にも朝鮮と貿易をしていた唯一の藩。長州の毛利氏とは遠戚にあたることから幕末には、長州藩をサポートしていました。
 それで、桂小五郎は対馬屋敷に逃げ込むことができたのです。長州藩邸もすぐ近くですが、そこまで行く必要がなかったのですね。

 さてさて、もう一人はというと、幕末の人気者、坂本龍馬です
 間一髪と言うほどではありませんが、龍馬は池田屋事件が起こる3日まで京都にいました。6月2日朝、勝海舟に会うために、江戸へ向かったのです。実は池田屋事件の余波は、その翌日も続いており、6月6日にも大規模な捜索が行われました。その際、龍馬が住んでいた「大仏」と呼ばれるエリア(妙法院のあたり)も捜索を受け、龍馬の妻・おりょうの母親が捕えられ、家財道具を没収されたとか。もし、ここに龍馬がいたら……と考えずにはいられません。それこそ明治維新はどうなってしまったか。何が偶然で、必然なのか。考えさせられますね。
幕末関連年表
 1853年(嘉永6)6月4日 ペリー来航
                                   舞台は関東
 1858年(安政5)6月     日米修好通商条約
                   安政の大獄        ※外交と独裁政治

 1860年(安政7)3月3日   桜田門外の変       ※幕府の権威失墜
 1862年(文久2)1月15日   坂下門外の変  


 1862年(文久2)4月17日  嶋津久光、薩摩藩兵と入京
 1862年(文久2)4月23日  寺田屋事件(殉難九烈士之墓・大黒寺)



 1863年(文久3)2月8日   浪士隊(234名)江戸小石川伝通院出発
 1863年(文久3)3月15日  浪士組結成(会津藩御預)
 1863年(文久3)8月18日  
禁門の大政変に参加(新選組名拝命))

 1864年(元治元年)6月5日  〇池田屋事件              舞台は京の都
 1864年(元治元年)7月19日  
禁門(蛤御門)の変
 1864年(元治元年)11月18日  
第一次長州征伐

 1865年(慶応元年)3月10日  壬生から西本願寺に屯所移す

 1866年(慶応2)1月21日   
薩長同盟締結
 1866年(慶応2)1月23日   〇寺田屋事件

 1867年(慶応3)4月23日   〇いろは丸事件
 1867年(慶応3)10月14日  
大政奉還
 1867年(慶応3)11月15日   〇近江屋事件(龍馬暗殺)
 1867年(慶応3)12月7日    〇天満屋事件
 1867年(慶応3)12月9日   
王政復古令発令

 1868年(慶応4)1月3日〜5日  鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争勃発)
 1868年(慶応4年)3月1日    新選組改名甲陽鎮撫隊結成
 1868年(明治元年)9月8日   東京遷都(明治維新)
 1869年(明治2)5月18日    戊辰戦争終結(五稜郭の戦い)


最後までご覧いただき有難うございました

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