定例勉強会  学びの館 午前10時  (20名の参加)
 交野歴史探訪シリーズ(広報18.10号)
 
「森古墳群と鍋塚古墳」 講師 村田 義朗氏

写真は、高尾秀司さんより投稿頂きました

中会長の挨拶 村田 義朗さん
 天野川流域の古墳ですが、この天野川は奈良と大阪の境にある生駒山に源があります。その中流域の交野市に入ったところ、JR学研都市線の河内磐船駅の東側の山地部に森古墳群が広がります。
 第1号古墳(雷塚古墳)は106mを測る前方後円墳、第2号古墳(向山古墳)は全長58mを測る前方後円墳、第3号古墳(山神古墳)は全長46mを測る前方後円墳、第4号古墳は全長50mを測る前方後円墳、第5号古墳は直径15mを測る円墳、第6号古墳(鍋塚古墳)全長67mを測る前方後方墳であります。そのほか、分布調査の結果多数の古墳が埋蔵されている可能性があります。
 左図は白石太一朗さんの図です。出現期の100mを越す古墳であります。天理から桜井市にかけてのオオヤマト古墳群がまず目に飛び込んできます。次に淀川の北にはまず京都府向日市の元稲荷山古墳、高槻市の弁天山古墳、そして対岸の北河内に森1号古墳がある。そして淀川は宇治川、木津川が合流するのですが、この木津川を遡った山城町に三角縁神獣鏡で有名な椿井大塚山古墳があります。

森古墳群(1号古墳〜5号古墳)と鍋塚古墳(6号古墳)概説

 森古墳群(1号古墳〜5号古墳) 
   昭和55年(1980)小学生が発見 壺形土器
   昭和56〜57年(1981〜2)奈良大学考古学研究室 測量調査
         1号墳(雷塚古墳・全長106m)前方後円墳ほか
         前方後円墳3基 円墳1基を確認
 鍋塚古墳(6号古墳)
   平成7年 阪神・淡路大震災後、府内各地の通信連絡網を確保するため
        防災無線基地建設に伴い試掘調査の結果、弥生時代の土器を確認
   平成10年 奈良大学の協力 墳丘の測量調査 全長67m 後円部 35m
   平成12年 前方後方墳 結晶片岩系の葺石・板石
        (吉野川流域、徳島県から運ばれたものか) 
        竪穴式石室の周囲に配置された板石 後方部に造り出し 確認
   ※南山弥生時代住居遺跡 昭和34年発見 弥生時代後期の高地性遺跡 


雷塚古墳と鍋塚古墳のビデオ

2008.2.24の雪の朝の訪問と
2000年の鍋塚古墳発掘調査の様子




 6号地点から小学生が写真の壺形土器を発見したことによって、古墳群が存在することが分かりました。この壺形土器は形式からいうと、箸墓古墳出土の土器とほぼ同じ時代に作られたと思われます。卑弥呼が亡くなる年は魏志倭人伝からみて247年とその直後と考えられます。記述によればその後、墓を作り出します。白石太一郎さんは箸墓古墳の年代を260年頃と考えらており、そこにみられる壺形土器と森6号地点の土器からみて森古墳群の成立も3世紀後半に遡るであろうと思われます。
 壺形土器だけを竪穴式石室の周囲に配置する例としては、ホケノ山古墳、桜井茶臼山古墳、椿井大塚山古墳などが上げられます。初期の古墳ではこのような例が多いようです。
 森古墳群の第1号古墳であります。雷塚とも呼ばれ、江戸時代の古文書にもその名前がみられます。形は前方部が撥形に開くことから、箸墓古墳の墳丘に似ているとされています。全長は106m、後円部径は56m、前方部長は50mを測る。後円部の低地との比高差は9.5m。箸墓古墳は全長が280m、後円部径155m、前方部長125mを測る。後円部の頂上と低地との比高差は25m、後円部が極めて高く、撥形に開くことが共通しています。これらのことは前期古墳でも古式の形を示すものとされています。箸墓と雷塚古墳を比較すると、恐らくは箸墓古墳の設計図の40%前後で大きさ、高さなど決められているようです。
 この古墳は、森古墳群でも最も高所にある古墳で、標高200mを測ります。晴れた日などは高槻市域なども見渡せる眺めのいい場所です。時期は確定できませんが、森古墳群中での最大規模の1号古墳(雷塚)より古くなる可能性があります。以前より南山という弥生時代の高地性遺跡として周知されていました。発掘調査の結果、@墳形は前方後方墳の可能性が強く、後方部側に造りだしが付く。A全長は65m。B竪穴式石室をもつ。C壷形や円筒埴輪破片の出土が一切なかった。古墳の盛土や周辺からは弥生時代後期の土器片が出土。などがわかっています。
 平成7年の発掘調査時に葺石が確認されました。古墳の前方部の山側にあたります。葺石には花崗岩を用いています。周辺には近世の石切場も存在し、この石材を採取することは容易であります。
 後方部の方の調査をした結果、こちらの葺石が山側に葺かれた石と異なった結晶片石系の石材を使っていることが分かりました。こちらは平野部から眺めることのできる部分であります。下から見ますとキラキラと光りを放ったものと思われます。竪穴式石室の石材として結晶片岩を用いる例は多いのですが、このように葺石にも結晶片岩を用いる例としては近隣の牧野車塚古墳と鍋塚古墳がありますが、珍しいといえましょう。
 後方部側の調査です。こちらも花崗岩を用いていました。基底部より少し離れた場所から階段状に地山が成形されていました。この階段状より出土した土器群は、弥生時代後期の土器で、弥生時代の高地性の集落遺跡をつぶして墳丘を積み上げたため、後世の削平によりこの階段状の上に埋まったものと思われます。この古墳の埋土には弥生時代の土器が多数埋まっています。
 後方部の中央付近を切り通しになり、その個所は盗掘を受けていたため、石室の石材が散乱していました。その攪乱を受けた石材を取り除きますと木棺の下に引いていた粘土も確認されました。その上には朱が塗られていたようで赤くなっていました。


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