平成24年  9月定例勉強会

ちょっと京都を学びま専科
神社仏閣を中心に
<京都のこと、知っているようで知らないこと、いろいろと>

  講師: 吉岡 一秋氏 (古文化同好会)

青年の家 201号 午前10時〜12時
 44名の参加
 2012.9.22(土)午前10時、9月定例勉強会に44名の方々が参加されました。
参加された方の内訳は会員32名に加えて、「広報かたの」催しページなどを見られて参加された方が12名であった。

 高尾副部長の司会で始まり、中会長の挨拶の後、吉岡一秋氏から「ちょっと京都を学びま専科」をテーマに、神社仏閣の寺院から始まり、神社、祭りと行事、身も蓋もない話、気をつけなければならない話、その他、京都のこと、知っているようで知らないこと、いろいろと2時間にわたりたっぷりとお話し頂きました。

 講師の吉岡さんは年に10数回京都を案内されるとのこと、今回は頂いたレジメに加えて10倍面白くお話し頂き、100倍京都を楽しむことが出来ました。本当に有難うございました。
 次回は京都の隠れた魅力ある所を案内して頂ける事を楽しみにしております。
 
  HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメなどを提供頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
勉強会 風景

中会長の挨拶


吉岡 一秋氏 (古文化同好会)

当日配布されたレジメ
         「少し京都を学びま専科」    2012/9/22


○はじめに

 @京都の地名の変遷
  「山代」から「山背」そして「山城」に。

 A「京都」の地名はどうしてついたか?
  桓武天皇の長岡京遷都以来、「京」は一つという考え方が定着。それまではどうであったか。複数の京が存在した。聖武天皇を例に挙げると一度に三ヶ所も京が存在。しかし天皇がお住まいになられる「皇都」は一つしかなく、平安京遷都にも受け継がれた。即ち京都とは、「京の都」という同義語の重ね言葉になり、11世紀後半頃、固有名詞として地名になったと言われている。

1。神社仏閣
(1)寺院について
 @歴史
  平安時代を通じて京中には、国営寺院である東寺、西寺以外に寺院の建立は認められなかった。但し、町堂的なものなどは黙認されていた。        -
  鎌倉時代、特に室町時代に入ってからは、時宗、浄土宗、一向宗(浄土真宗)、禅宗、法華宗などの新仏教が京中に拠点をつくり始めた。

 A「永観堂」のように「堂」がつく寺は殆どが通称名。
  ・真如堂(真正極楽寺)  ・六角堂(頂法寺)  ・革堂(行願寺)
  ・三十三間堂(蓮華王院) ・千本ゑんま堂(引接寺)
  ・千本釈迦堂(大報恩寺) ・嵯峨釈迦堂(清涼寺)など

B年号が寺名になっている寺。
  ・延暦寺(延暦4年) ・仁和寺(仁和4年) ・建仁寺(建仁2年) 

 C「中風まじない」の寺
  ・安楽寺の鹿ヶ谷かぼちや供養
  ・千本釈迦堂、了徳寺の大根(だいこ)炊き

 D冥界への入り口があるといわれている寺。
 六道珍皇寺門前の辺りを「六道の辻」という。この地が葬地である「鳥辺野」の入り口にあたる。
 ここの撞く鐘は「迎え鐘」と呼び、精霊を冥界から呼び戻すという。
   ※風葬の地 「東の鳥辺野」 「西の化野」 「北の蓮台野」

 E京の七不思議の一つ、浄土宗総本山知恩院の七不思議。
  忘れ傘、抜け雀、白木の棺、三方正面真向きの猫等など。
  しかし番外が?

 F泉涌寺は「御寺(みてら)」と呼ばれ、全国で唯一皇室の菩提寺
 G平安時代の貴族の山荘・別荘が寺に変身。
  ・宇治平等院 → 藤原道長の別荘(宇治殿)
  ・日野法界寺 → 日野資業(すけなり)の山荘
  ・即成就院(泉涌寺塔頭) → 橘俊綱の山荘(伏見山荘)

 H鎌倉初期に二度の入宋を果たした栄西が伝えた「臨済宗」。当時8寺の大本山があった
  (現在万寿寺は廃寺で7寺)。それぞれが禅風を持っており、
 これの代名詞というべきものが「禅面(づら)」である。
   ・学問面(建仁寺) ・声明面(相国寺) ・武家面(南禅寺)
   ・茶面(大徳寺)  ・伽藍面(東福寺) ・算盤面(妙心寺)
 ※京都五山とは
  京都にある禅宗の五大官寺。(1)天竜寺、(2)相国寺、(3)建仁寺、(4)東福寺、(5)万寿寺の5か寺。
  時期により該当する寺院や位次に変更がある。また五山の上位として南禅寺が置かれた

 I京都市内には五重塔が4塔しかない、国宝が2塔、重文が2塔。
  ※京都府内にはもう1塔の国宝の五重塔が。
   因みに市内には三重塔は3塔のみ。

(2)神社について

@伏見稲荷大社
  ・狐は祭神か
   「稲荷」とは本来五穀をつかさどる神である。即ち「農業の神」であり、穀物を食べる野ネズミを狐が
    食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結びついた説が有力。
  ※伏見人形
    ・伏見人形のお店は「丹嘉」一軒だけ。「伏見人形面ばかり」とは?

A狛犬ならぬ他の生き物の神社を紹介。
  ・「狛猪」 → 護王神社  ・「狛兎」→ 岡崎神社
  ・「狛龍」→伏見神賓(ふしみかんだから)神社
  ・「狛鳩」 → 三宅八幡神社  ・「狛鼠」 → 大豊神社

B寺社ゆかりの菓子
  ・下鴨神社の加茂みたらし団子 ・上賀茂神社の神馬堂の焼き餅
  ・北野天満宮の長五郎餅 ・御霊神社の唐板 ・今宮神社のあぶり餅
  ・伏見稲荷神社のきつね煎餅 ・石清水八植宮の走り餅など
   ※下鴨神社参道に「さるや」が開業、140年ぶりに復活した「申餅(さるもち)」

 C珍しいお寺を紹介。
  ・御髪(みかみ)神社
  日本で唯一「髪」をお守りする神社。元々理容関孫の人々が信仰していたが、いつの間にか薄毛の人も
  多数お参りするようになったとの事。
 ・御金(みかね)神社
  金色の鳥居など黄金色に飾られた神社で、お金を祭る神社として、資産運用や証券取引等の成功を
  願ったり、競馬競輪などでの勝利や、宝くじ等の当選を願う絵馬が大量に奉納されている。
 Dその他
   神社仏閣の数は京都府は全国で何番目。

2。祭と行事

(1)祭

 @三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)
  ・葵祭
    賀茂別雷神社と賀茂御租神社の例祭。5月15日勅使を中心とした本列と斎王代を中心とした
    女人列が御所を出発。
  ・祇園祭
   古くは祗園御霊会と呼び八坂神社の例祭。7月17日の山鉾巡行が大きく取り上げられているが、
   実は1ヶ月に及ぶいろんな行事や祭儀をまとめて祗園祭と呼ぶ。また、1965年までは、前祭
   (さきのまつり)と後祭(あとのまつり)があった。
  ・時代祭
   京都の誕生祭として10月22日に行われる、幕末維新から平安創業までの時代風俗行列である。
   2007年より室町時代列が新たに加わった。

 A三大奇祭
   ・今宮神社のやすさい祭 ・鞍馬寺の火祭 ・広隆寺の牛祭(現在中止)

(2)主な行事
  @五山の送り火  A曲水の宴  B三船祭

3。身も蓋もない話

 @南禅寺の三門から石川五右衛門は「絶景かな」と言った?
  ・五右衛門は実在人物。でも‥・
 A牛若丸と弁慶が出会ったのは五条大橋?
  ・現在の五条大橋は豊臣秀吉が方広寺建立に伴うもの。では‥・
 B東林院の沙羅双樹は本物?
  ・インド北部原産でインドの高地などに生える高木。温室以外ではまず見かけない。
   別名沙羅の木。では東林院は何の木か。
 C竜安寺石庭の15個の石が一度に見えない?
  ・実は方丈のある場所で15個すべてが見えるという。しかし‥

4。気をつけなければならない話

 @「あんた御室の桜やなあ」と言われたら。
 A「オコシヤス」と「オイデヤス」の使い分け。
 B寺田屋の刀傷はにせもの?

5。その他

 @木屋町・河原町界隈は幕末維新の史跡の宝庫。
   ・池田屋騒動跡碑  ・酢屋(坂本龍馬寓居跡) ・中岡慎太郎寓居跡
   ・土佐藩邸跡(旧立誠小学校)  ・古高俊太郎邸跡(現「志る幸」)
   ・近江屋跡碑  ・長州藩邸跡(現ホテルオークラ)

 A難読地名
  ・不明門通  ・一口  ・雲母坂  ・直違橋  ・納所

 B難読駅名
  ・西院(嵐山本線・阪急京都線) ・帷子ノ辻 ・車折 ・蚕の社

 C京都の家庭料理「おばんざい」とは。
  漢字を当てはめると「お番采」と書く。番という字は、番茶、番傘などに使われるように、粗末なものに冠するときに使う。また、おばんざいには決められた日に食べるものがあったとのこと。朔日には「にしんこんぶ」 15日の「いもぼう」、月末には「おから」など。

 D水引について
  ・京都では法事に使用の水引は黄白。昭和30年代までは白黒の水引は全く販売されていなかった。
  ・自黒の水引は京都では祝い事に使用する。

 E振り売り
  姉さんかぶりに紺の半てん、手甲、もんぺ、白足袋というスタイルで、大八車に朝採れの野菜を積んで、「野菜とうどすえ、おいしおすえ」と馴染の家に声をかけて売り歩く。

 F京の七口
  洛中の四方に設けられた街道の出入り口。この言葉が登場するのは、鎌倉末期から室町初期と言われ、秀吉の京都大改造に伴って「御土居」が築かれた頃にはかなり整備された。実際には七口より多くの出入り口があったとされる。
  ※京の七野

 G京の六地蔵巡り
  京都では、夏も終わりに近づいた8月22日、23日の両日、都の出入り口(街道沿い)六ヶ所に祀られた地蔵菩薩を巡拝して、家内安全、無病息災、家運繁栄を祈願する「六地蔵巡り」がある。これは、800年もの京の伝統行事。

もう一度、講演内容を復習しましょう!
画像やイラストなどを参照下さい
「京都」の地名はどうしてついたか?

 延暦3年(784)に、桓武天皇が長岡京に都を移しました。これが機会となって、それまでの『京(みやこ)』が廃止され、『京はひとつ』という考えが定着していきます。それまで、『平城京』や『藤原京』、『難波京』などと、『京』は移り変わりました。したがって、この考えによって、都が794年に京都に移ったときも、あくまで『京(みやこ)』はひとつとなったのです。





 『京都』という言葉は、『京(みやこ)』と『都(みやこ)』が重なっています。そして、中心的な都市(現在の首都)という意味合いを持ったのです。これが11世紀の後半に、地名として固有名詞化したのです。この都は、唐の長安、洛陽などをモデルとして街づくりが行われました。朱雀大路を中央に置き、左京と右京に分かれて発展していきます。京都は、『山河襟帯(さんがきんたい)して、自然に城を作(な)す』といわれ、美しい都として都市の体裁を整えていきます。
 
(1)寺院について
 @歴史
  平安時代を通じて京中には、国営寺院である東寺、西寺以外に寺院の建立は認められなかった。但し、町堂的なものなどは黙認されていた。        -
  鎌倉時代、特に室町時代に入ってからは、時宗、浄土宗、一向宗(浄土真宗)、禅宗、法華宗などの新仏教が京中に拠点をつくり始めた。

 A「永観堂」のように「堂」がつく寺は殆どが通称名。
  ・真如堂(真正極楽寺)  ・六角堂(頂法寺)  ・革堂(行願寺)
  ・三十三間堂(蓮華王院) ・千本ゑんま堂(引接寺)
  ・千本釈迦堂(大報恩寺) ・嵯峨釈迦堂(清涼寺)など

真如堂(真正極楽寺)

千本釈迦堂(大報恩寺)
B年号が寺名になっている寺。
  ・延暦寺(延暦4年) ・仁和寺(仁和4年) ・建仁寺(建仁2年)
建仁寺と法堂の「天井絵《双龍図》
「中風まじない」の寺  
・安楽寺の鹿ヶ谷かぼちや供養    7月25日

 江戸末期に安楽寺を復興された真空益随(えきずい)上人というお徳の高い住職がおられました。

 街に出ると病魔で悩んでいる人々を見かね、何とかならないだろうかと本堂で修行中、ご本尊阿弥陀如来から「夏の土用のころに鹿ケ谷カボチャを振舞えば中風にならない」という霊告を受け、以後
725日に日を決め、今日にいたっているそうです。

ひょうたんに似たおもしろい形の鹿ヶ谷南瓜は、約二百年近く京都で栽培されてきました。昔から京都では、「おかぼ」と呼び、人気のある京野菜です。
冥界への入り口があるといわれている寺。
 
六道珍皇寺門前の辺りを「六道の辻」という。この地が葬地である「鳥辺野」の入り口にあたる。 ここの撞く鐘は「迎え鐘」と呼び、精霊を冥界から呼び戻すという。
六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
 仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。

六波羅ってどんなとこ

 六波羅は,古くは鴨川東岸,五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地を指す地名。現在は東山区六原学区一帯の地名として用いられています。「六原」とも記され,古い地名である轆轤原(ろくろがはら)に由来するといわれますが,おそらく六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)「に因んだ名でしょう。「六波羅蜜」は仏教用語で六種類の修行を意味します。

 特に、修験道では菩薩道(仏への道)の実践を重んじるところから、次の六波羅密の実践を大切にします。
 六波羅密とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・精進(しょうじん)・忍辱(にんにく)・禅定(ぜんじょう)・智恵(ちえ)の六つを示しますが、いずれも心の浄化を顕わします。
 布施は、財施(ざいせ)・法施(ほうせ)・無畏施(むいせ)の三つに大別されますが、財施は人々に物やお金を惜しみなく分け与える心、法施は仏の教えなどを惜しみなく人々に施す心、無畏施は人々が悩み苦しみ、不安になっている時に相談にのってあげ、善導してあげる心です。

 六波羅は,古くは葬送地鳥辺野(とりべの)への入口に当たります。
珍皇寺(ちんのうじ)の前が賽河原(さいのかわら)と伝えられ,彼岸(ひがん,あの世)と此岸(しがん,この世)の境界の地とされていました。そのため,古くから信仰の場となり,空也(くうや)が創建した六波羅蜜寺や,小野篁(おののたかむら)の冥土(めいど)通い伝承をもつ珍皇寺などの寺院や御堂が建てられました。


六道の辻

西福寺

六道珍皇寺

「小野篁冥土通いの井戸」、井戸の傍に高野槙が生えている。
小野篁はその枝を伝って井戸内へ入り、冥界の閻魔庁に通ったという。
この井戸は入口で、出口は嵯峨野大覚寺門前六道町にあったという福生寺(現在の嵯峨薬師寺)、
こちらは「生(しょう)の六道」と呼ばれた。
勉強会当日、質問もありました。「黄泉(よみ)がえりの井戸」のこと。
私も、つい9月1日(土)、六波羅近辺散策の下見に出かけて、初めて知りました。

京都新聞 記事参照  2012年04月27日
小野篁ゆかりの井戸公開 東山・六道珍皇寺
  「黄泉(よみ)がえりの井戸」
    深さ35メートルで今も水が出ている

 境内にあった石材で枠を整えた「黄泉がえりの井戸」。深さ35メートルで今も水が出ている(京都市東山区・六道珍皇寺) →

 平安前期の高官小野篁(たかむら)ゆかりの「冥土通いの井戸」で知られる京都市東山区の六道珍皇寺で、昨夏に見つかった新たな井戸の整備工事が完了した。冥土からの出口の井戸として「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付け、28日から公開する。

 冥土通いの井戸は、篁が閻魔(えんま)大王のもとへ向かう入り口だったとの伝承がある。昨年、寺北側の民有地の開発に伴って別の井戸が見つかった。境内にあったと伝わる出口の井戸と推定し、寺が約23平方メートルの土地を購入して整備した。

 28日からの寺宝展で二つの井戸を間近に見られる。坂井田興道住職は「出口の井戸は化野(あだしの)(右京区)との説があるが、かつて葬送の地だった六道の辻にあってもおかしくない。井戸が見つかるのも篁の導きと感じる」と話している。

京都市内には五重塔が4塔しかない、国宝が2塔、重文が2塔。
  ※京都府内にはもう1塔の国宝の五重塔が。   因みに市内には三重塔は3塔のみ。
京都市には、東寺の他に右京区の仁和寺、伏見区の醍醐寺、東山区の法観寺(八坂の塔)と合計4つの五重塔があります。

国宝 東寺 
高さの55mは木造の塔としては日本一

重文 仁和寺
高さは約36m。江戸時代前期の1644年(寛永21年)に建てられた(東寺の五重塔とほぼ同じ時期)。

国宝 醍醐寺
高さは約38m。屋根の上の相輪は約13mで

重文 八坂の塔(法観寺) 
東山地区のランドマークで高さは約46m
ちなみに、4基の高さ順は、@東寺 A法観寺 B醍醐寺 C仁和寺 で、
建設(再建)年代順は、古いものから@醍醐寺A法観寺 BC東寺・仁和寺
※京都府内にはもう1塔の国宝の五重塔が。
国宝 海住山寺 五重塔(かいじゅうせんじ ごじゅうのとう)
所在地 : 京都市相楽郡加茂町  高さ  :  17.7メートル  建築年 : 鎌倉前期 1214年 

2010.12月、古文化同好会のバス旅行「加茂・笠置」で訪問した
因みに市内には三重塔は3塔のみ金戒光明寺、真如堂、清水寺です。
(2)神社について

@伏見稲荷大社
  ・狐は祭神か
   「稲荷」とは本来五穀をつかさどる神である。即ち「農業の神」であり、穀物を食べる野ネズミを狐が
    食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結びついた説が有力。
  ※伏見人形
    ・伏見人形のお店は「丹嘉」一軒だけ。「伏見人形面ばかり」とは?

「伏見人形、面ばかり」と言う面白い戯れ歌があります。
土人形の始まりである京都伏見の「伏見人形」は、人形の裏は、下地の胡粉のままで、彩色はありません。
「人形は、持ち主に対して、決して裏を見せない」言い伝えとか。
狛犬ならぬ他の生き物の神社を紹介。
  ・「狛猪」 → 護王神社  ・「狛兎」→ 岡崎神社
  ・「狛龍」→伏見神賓(ふしみかんだから)神社
  ・「狛鳩」 → 三宅八幡神社  ・「狛鼠」 → 大豊神社


辰歳のパワースポット発見!  
 「狛龍」→伏見神賓(ふしみかんだから)神社

伏見稲荷大社の奥社を過ぎて鳥居の参道をすこし外れたところに神宝神社(かんだからじんじゃ)があります。
平安時代の創建で、元は稲荷山の山上にあったそうです。


狛犬の代わりに立派な狛龍が社殿両脇に置かれています。
右側が天竜、左側が地龍。

  伏見神賓(ふしみかんだから)神社のこと、
    詳しくは、こちらを参照下さい。
 

右側が天竜、左側が地龍。
寺社ゆかりの菓子
  ・下鴨神社の加茂みたらし団子 ・上賀茂神社の神馬堂の焼き餅
  ・北野天満宮の長五郎餅 ・御霊神社の唐板 ・今宮神社のあぶり餅
  ・伏見稲荷神社のきつね煎餅 ・石清水八植宮の走り餅など
    
※下鴨神社参道に「さるや」が開業、140年ぶりに復活した「申餅(さるもち)」

世界遺産下鴨神社の一の鳥居前の境内に、茶店が2011年5月15日の葵祭りの祭礼の日にオープンした。
 境内に休憩所がなかったことから神社が建てたもので、そこで提供されるのが昨年5月に140年ぶりに復活した申餅(さるもち)、と神職が祭礼の期間中、禊ぎに飲むという「まめ豆茶」という黒豆茶。これまでにない新名物の誕生となった。

京都新聞WEB 門前の名物をご参照ください
  http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/monzenmeibutsu/index.html
御髪(みかみ)神社 嵯峨嵐山 小倉山
  日本で唯一「髪」をお守りする神社。元々理容関孫の人々が信仰していたが、いつの間にか薄毛の人も多数お参りするようになったとの事。

    御髪神社は、政之公と最も由縁の深い亀山天皇御陵に程ちかい小倉山の麓に建立されました。「髪」すなわち「神」に通ずるものとして、主神の政之公を祀り、皆様からの献髪を納祭した髪塚があり、日々神職により祈拝をうけ毎年御大祭日には、業祖神零祭と髪供養をもって髪より享ける大きな恩恵に感謝しております。
   御髪神社のことは、こちらを参照
2。祭と行事

(1)祭   A三大奇祭     
今宮神社のやすさい祭
桜や椿などで飾られた花傘を中心に、赤毛・黒毛の鬼たちをはじめ約20名の行列が、お囃子に合わせて踊り歩きます。疫病を鎮め、健康を願う春のさきがけの祭として知られ、この花傘の下に入ると一年間健康に過ごせると云われています。

■日程   四月第二日曜日

 赤毛・黒毛の鬼たちが、笛や太鼓のお囃子(はやし)に合わせて、長い髪を振り乱しながら踊ります。「やすらい花や」の掛け声とともに、祭りの列が町を練り歩き人々の健康を祈る伝統のお祭です。


 桜の花が散る頃、疫神は花の精にあおられていたずらをして回ると云われます。疫病の源はここにあるのです。祭りの中心はたくさんの生花で飾られた大きな赤い花傘(はながさ)です。やすらい踊りで花傘に惹き寄せられた疫神は疫社へと鎮められ一年の無病息災が祈られるのです。


花傘(はながさ)の下に入るとその年は病気をせずに過ごせると言われています。

その由来は、古来よりこの辺りの地域に悪疫が流行すると風流の装いを凝らして疫社に詣で、流行病が鎮まり穏やかになることを祈願する習わしにあります。

「太(うず)秦(まさ)の牛祭」「鞍馬(くらま)の火祭」とともに京の三奇祭(さんきさい)の一つとされ毎年多くの参拝者で賑わいます。


  今宮神社のやすらい祭は、こちらを参照下さい。
4。気をつけなければならない話

 A「オコシヤス」と「オイデヤス」の使い分け
  
「お越しやす」と「おいでやす」の違いはどうだったんでしょう??
   京都は歴史的にも戦争と政権争いの絶えない土地柄で、本音と建前があり
   京言葉は、奥の深いものだそうです。
   「お越しやす」は、親しい方や心から歓迎する時に使い、
   「おいでやす」は、一見さんや余り長居をして欲しくない場合に使うんだそうです。

 B寺田屋の刀傷はにせもの?  Wikipedia 寺田屋事件より抜粋
   現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。[1]2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。

京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。
5。その他

  
A難読地名
  ・不明門通 (あけずのもんどおり) ・一口 (いもあらい) ・雲母坂(きららざか)
  ・直違橋 (すじかいばし) ・納所 (のうそ)


  
B難読駅名
  
・西院(嵐山本線・阪急京都線)(さい) ・帷子ノ辻(かたびらのつじ) 
   ・車折(くるまざき)  ・蚕の社
(かいこのやしろ)
京の七口


 室町期から江戸期にかけて、京都と諸国とを結ぶために設けられた街道の出入口。七という数は一定したものでなく時代によって変化した。七口とは五畿七道の七、七口も時代の要請に従って変わり六口の時や十口以上の場合もある。
 
 1591年(天正19)豊臣秀吉が洛中四辺に御土居を築造したため一応の固定化をみた。


 主な七口には粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・大原口・荒神口がある。これらの名称も場所も時代とともに変動した。中には粟田口・鞍馬口・荒神口のように現在の地名として残っている。

また駅名ではJR山陰線「丹波口」、近鉄「上鳥羽口」がある。




京の六地蔵巡り
  京都では、夏も終わりに近づいた8月22日、23日の両日、都の出入り口(街道沿い)六ヶ所に祀られた地蔵菩薩を巡拝して、家内安全、無病息災、家運繁栄を祈願する「六地蔵巡り」がある。これは、800年もの京の伝統行事。

さて、京の六ヶ所の出入り口(街道沿い)とは、
1.奈良街道・六地蔵の大善寺(伏見六地蔵)

2.西国街道・上鳥羽の浄禅寺(鳥羽地蔵)
3.丹波街道・桂の地蔵寺(桂地蔵)

4.周山街道・常盤の源光寺(常盤地蔵)

5.若狭街道・鞍馬口の上善寺(鞍馬口地蔵)

6.東海道・四ノ宮の徳林庵(山科地蔵)


 これら寺院に安置された木像地蔵菩薩立像(重文)は、平安時代の初め
小野篁(おのたかむら)が一度息絶え冥土へ行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後に、木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(大善寺)に祀ったもの。

※京の六地蔵めぐり、詳しくはこちらをご参照ください。


最後までご覧頂き有難うございました!


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