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平成25年3月定例勉強会

田原の年中行事
「大和と河内の田原の民俗・年中行事を中心として」

  講師:太田 理氏 (わかくす文芸研究会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 30名の参加
 2013.3.9(土)午前10時、3月定例勉強会に30名(会員22名)の方々が参加されました。

 高尾副部長の司会で始まり中会長の挨拶の後、講師の太田理氏から「田原の年中行事」をテーマで、大和と河内の田原の民俗・年中行事を中心に詳しくお話しいただきました。詳細な資料とプロジェクターによる映像を駆使してたっぷりとお話し頂き、大変興味深く昔を懐かしく思い出したりして感動いたしました。

  田原(たわら) 大阪府四條畷市上田原・下田原(河内)と奈良県生駒市南田原・北田原(大和)府県境は天野川。土地の人々はこの4つの田原を「よたわら(四たわら)」と言い共通の文化圏を有し、互いに繋がり合う部分も多い。

 貝原益軒は元禄2年(1689年)当地を訪れ、田原のことを「南遊紀行」に次のように記しています。
 「岩舟より入りて、おくの谷中七八町東に行けば、谷の中頗(すこぶ)る広し。其(その)中に天川(あまのがわ)流る。其里を田原と云(いう)。・・・・皆山潤(さんかん)の幽谷の中なる里なり。比田原も、其入日は岩舟のせばき山澗を過て、其おくは頗ひろき谷也。恰(あたかも)陶淵明が桃花源記にかけるがごとし」、桃源郷・理想郷・俗世間を離れた別天地のようだと述べている。

 今回の勉強会は、太田先生が地元の方から聞き取り調査されたことや実際に取材同行されたこと、生駒市・四条畷市の文献資料などを参考にされたことなど、田原地区の年中行事を中心に、1月の正月行事、雑煮から始まって12月の砂もち・家砂もち行事まで、いろいろな伝統行事や風習・風俗などを事細かくお話いただきました。

 最後に次のようにまとめられました。
1.特に下田原での間き取りは農業に関わる年中行事で、このような年中行事はいつごろまで行われていたのでしょうか。昔から連綿と受け継がれている生活の知恵や季節感がぎっしりと詰まっているように思います。また、季節の節目節日、自然環境の移ろいと農作業をうまく繋げて、時には過酷になる農作業の中で、体を癒し、心を癒していた様子がよく表れているように思います。

2.今、各学校では「子ども見守り隊」などを組織して、地域の人が子どもの安全確保に努めるなどをしています。昔は地域で人と人とのつながり、コミュニケーションがあったのだが、とも言われます。地域コミュニティが見直される時、このような年中行事を振り返つてみることも大切ではないでしょうか。

3.「砂もち」、新しい年を迎える年末の行事、呼び名はそれぞれに異なつているが、大阪府四條畷市上・下田原、奈良県生駒市南・北田原町、同高山町、大阪府枚方市、大阪府交野市、よく考えてみればこれらの地域はいずれも天野川流域で、果たしてそれらは関連があるのか、天野川流域の文化と言えるのであろうか、と思わずにはいられません。

4.年中行事が問いかけるもの、それは、季節感の薄らぎ、気候変動、地域コミュニティの再構築、そして、「民俗文化財の消失の要因は過疎化による伝承母体の衰退ではなく、人口過密化による伝統社会の破壊に起因している」(『生駒の年中行事』)と象徴的に述べられているように、地域社会の現状に対してのものではないだろうか。

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメなどを提供頂きましたこと、
記して感謝申し上げます。
 今回の勉強会を機に、奥野平次氏が中心になって纏められた「交野市史 民俗編」を読み直しました。
 第1節の正月の行事、「雑煮と煮しめ」、どの地区も、主人(男)が若水を汲み雑煮を炊く、雑煮の柴は大豆の軸木や樫の枝を用いた。これは「まめでかたく暮らせるように」と祈ってだろうと思われる。芋(とおのいも)・大根・人参・豆腐・こどふ(生の大豆を細かくはたき、細かい真鍮のとおしでとおした粉をお湯でこねてつくる)を入れ、味付けは味噌を使い、中に餅を入れた。若水(正月に初めて汲む水)・・・など、田原地区と共通するところが書かれている。

 この「交野の年中行事」は、奥野平次氏が各地区のお年寄りに集まってもらい、その聞き書きをまとめられたものだそうで、後世に伝えることが出来る素晴らしい業績であります。
 古文化同好会の40周年記念誌「石鏃」に奥野和夫氏が「古文化と伯父との想い出」で次のように記されている。
「身内から見ても、交野の文化財における伯父の功績は多々あると思いますが、私はその中でも交野の伝統行事や風習、民謡などを綴った「交野市史民俗編」の執筆に大きく貢献したことであったと思っています。・・・生涯をかけて村々の古老や知人などから見聞きしたことを、しっかりと記録に書き留めたことは本当に素晴らしい業績であると思います。
 」 
 次の機会には、是非とも「交野の年中行事」など、勉強会で取り上げていただければと期待しています。

      
勉強会 風景

中会長の挨拶

司会は、高尾氏
 
講師の太田 理先生

講演中、ずーっと立ちっぱなしでお話いただきました
 
 
 
 
 

当日配布されたレジメと画像集
当日の講演会会場で、パワーポイントを映しながら説明を受けました
資料の一部を紹介します。講師の太田理氏のご厚意で掲載を許可いただきました。
古文化同好会3月度勉強会 平成25年3月9日
「大和と河内の田原の民俗・年中行事を中心として」
わかくす文芸研究会 太田 理氏
 
 
 田原(たわら)
大阪府四條畷市上田原・下田原(河内)と奈良県生駒市南田原・北田原(大和)府県境は天野川。土地の人々はこの4つの田原を「よたわら(四たわら)」と言い共通の文化圏を有し、互いに繋がり合う部分も多い。

田原城跡  田原城主の菩提寺千光寺跡から日本最古のキリシタン墓碑(天正九年辛巳(1581)・礼幡)、完形品の中国渡来の青磁袴腰香炉等出土。

「南遊紀行」貝原益軒著 元禄2年(1689年)
 岩舟より入りて、おくの谷中七八町東に行けば、谷の中頗(すこぶ)る広し。其(その)中に天川(あまのがわ)流る。其里を田原と云(いう)。川の東を東田原と云、大和の国也。川の西を西田原と云、河内の国也。一潤(たに)の中にて両国にわかれ、川を境とし名を同くす。比(この)谷水南より北にながれ、又西に転じて、岩舟に出、ひきき所に流れ、天川となる。凡(およそ)田原と云所、此外に多し。宇治の南にも、奈良の東にもあり、皆山潤(さんかん)の幽谷の中なる里なり。比田原も、其入日は岩舟のせばき山澗を過て、其おくは頗ひろき谷也。恰(あたかも)陶淵明が桃花源記にかけるがごとし。 
 桃源郷・理想郷・俗世間を離れた別天地のようだと述べている。

 注:生駒市全ての町の年中行事については、植田啓司氏(前わかくす文芸研究会会長・故人)らの調査報告、『生駒の年中行事』生駒市文化財調査報告書<第6集>(1987.3 生駒市教育委員会)があり、その内の北田原町・南田原町を、大東市の行事については『大東市文化財ガイドブック』の「Ⅱ、大東の伝承文化 五穀豊饒を祈つた日々」を参考にしています。四條畷市側の田原については、後ろの参考資料共々、下田原在住の丸石完氏に主にお話をお聞きしています。
 以下、(下)、(大)、(北)、(南)はそれぞれ下田原、大東市、北興原、南田原を表す。

1月

雑煮  1日 どの地域でも。興味深いことに、雑煮を炊くのはどの地域も男(戸主)の仕事だということ。
ハツミズ (北)(南)(下)若水汲み(大): 1日 神仏供え 雑煮のさし水。家族の中で戸主が一番早く起きて初水を汲む。汲む時は橘をイドに投げ入れる。初水は雑煮をたく水に使い、家族の者は手水に使う(南)。(下)では照涌(てるわき)大井戸の水を使つた。

雑煮を豆殻(豆幹、豆木)で炊く(大)。豆本で炊く(南)。マメに働けるよう、暮らせるよう(暮らしの無事を祈る)。
雑煮の中味:自家製の赤味噌で、ゴボウ、ニンジン、ダイコン、サトイモ、コドウフなどを入れる(下)。大根、人参、豆腐、 ドロイモ、昆布をいれ味噌で味をととのえ、煮立ったところヘコドウフというモチ米と米の粉で練ったものと焼いた餅を入れて…。(南)。
「コドウフ」が共通  コドウフ=粉豆腐:大豆をすりつぶしてもち米を少し加える。今も作つている。地域の人が小学校に出前授業、食育体験学習として地域の伝統食を伝えている(下)。






初山 (下)(南)(大)ヤマイキ(北)(大)  1月2日~4曰 山の初仕事。下田原では今も何軒かの家で行っていると聞く。
鍬初め (下)(大)ハツシゴト(南) 野まわり(大): 1月2日か3日 田畑の初仕事。
絢い初め (ないぞめ)(大) 1月2日 野まわりの後、牛の共同仲間で牛の道具縄を絢う。終わると宴(大)だけの記述ですが、他の地域ではどうでしょうか。
カミトンド、子どものとんど(下)、神とんど(大): 寒の入りの1月6日 6日夜から7日早朝を神の年越しと呼び、氏神の境内で小さなとんどを作った(大)。子供たちだけで行う。垣内の最年長の子供(小学校6年生か高等科2年)が指揮をとり役割を決める。青竹、わら、しめ縄をもらいに回り、人数に合つた大きさを決め、力を合わせてとんど作りをする。直径1メートル高さ5~ 6メートルのとんどを立ち上げるのが大変。立ち上がった時の満足感。「しんぼう、協力、助け合い」のすばらしい伝統行事だつた(下)。(参考資料「大とんどに寄せて」下田原・丸石完氏 参照)

七草粥: 1月7日 どの地域でも。春の七草(せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ)を摘んで七草粥を炊いて祝う。これは万病に効くと云われている。(大)
唱え言葉  家によつては七草を料理する時、「七草ナズナ唐土(とうど)の鳥が、日本の国へ 渡らぬ先に…・トトンガトントン…・」と、歌いながら七草を料理していた(大)。同様唱え言葉(南)。
◆「七草の囃」:七草の祝に、前日の夜または当日の朝、俎になずなまたは七草を載せ、吉方(えほう)に向かい台所の七つ道具で「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先になずなななくさ」などと唱え囃しながら叩いた事。(「広辞苑」)

ホウジサシ(傍示さし) (下)(上田原): 1月11日 地区境の両側(上田原と下田原)から数名の代表が、傍示つぼ(過去にさした竹が残つているところ)に割竹をさして、土地の境界を確認する。今も行われているが、現在は決まった日の11日ではなく、日曜日に行うようになつた。「傍示さし」という漢字を当てているが、或いは違うかもしれない。※後述「傍示さし同行記」参照。



 生駒市鹿畑町ではボウジサシ(傍示さし)。 1月2日に仕事始めとして各家の主人や長老が息子や孫を連れて自分の家の土地の範囲を見て回つて教えるようにしていた。この行事は今では村の行事になり、村境を見て回る行事に変化した。見て回る時はスコップとカマを持ち境界に土を盛り上げて棒を立てるようにした。

◆膀示・膀爾(ほうじ):「杙(くい)または石などによつて領地・領田の境界の標示としたもの。②馬場のしきり ③庭の築垣(ついがき)榜示(ぼうじ)」(「広辞苑」)
大阪府交野市傍示(ほうじ)と奈良県生駒市高山町傍示(ぼうじ)にそれぞれ傍示の地名。傍示越道。峡崖(かいがけ)道。傍示は河内の国と大和の国の国境。


オヒマチ 夜寝ん講(大)日待ち講(北)オヒマッツァン(南)オヒマッタン(下): 1月14日 各垣内で、当屋(当番)の家主が集まり、床の間
に「天照皇大神」の掛け軸をかけて拝み、1年の決算や新しい年の計画の話し合いが朝方まで続く。夜明け前に散会して、用意しておいた青竹、わら、しめ縄を持ち寄り、日の出に合わせて大とんどを燃やす。(下)

オオトンド 
(北)(下) トンド(南)大とんど(大):(「広辞苑」などではどんど):
 小正月の1月15日 長い竹を円錐形などに組み立て、中に竹や藁を入れて縄で結ぶ。正月の門松や注連飾り、注連縄などと書初めを持ち寄って焼く。その火で焼いた餅を食えば年中の病を除く。火種を持って帰り家で小豆粥を炊く。15日に点火するまで燃やされないように夜通し番をしていたと云う。ムラ中に点火を知らせる合図は、「トントンにまいっとくれ、人参も大根もよく煮えた」、「トントン火ィつけまつせェ」、「トンドほっからかしまっせェ」等、ムラにより異なる。燃えさかる炎の中に書初めを入れ、燃える半紙が高く舞い上がるほど、字が上達すると云う。 トンドがいよいよ倒れそうになると、その年のアキのカタ(明の方=恵方)に倒すという地域もある。火が次第に下火になると、残り火をロウソクや燃え残りの竹に点火し、あるいは炭火でそれぞれ家に持ち帰り、それを火種として小豆粥を炊く。また、この灰を便所に入れておくと、蛇が来ないと云う。(大)
 下田原(四條畷市)の集落と競って大きなものを作つた。この火で餅を焼いて食べる。この餅をチカラモチという。(北)





旧暦1月15日は、中国から暦が伝わる以前の民間の正月であつたと言われています(『民間暦』宮本常一)。今も広い地域で行われるトンド(ドンド、左儀長)は、1年の厄災をはらう火祭りです。盆の精霊(しょうりょう)火も、火祭りによる悪霊の追放が元々のもので(精霊流しなど水に流す形式も)、祖先の霊の送り迎えは、仏教が入つてからの行事と言われている。日常という変わらぬ日々に、非日常の祭り(ハレ)を区切りの日として演出するには、満月と火焚きは劇的な舞台と言えます。このような行事(祭り)が無かつたとしたら、生活をリセットする日、生きる希望さえも失つてしまいそうです。」(大枝史郎・暦の会会員)
1月はこの外、各地共通で、山道づくり(1月14日)、薮入り(16日)、骨正月(20日)の行事。

2月、3月
節分、年越し(立春の前日)、桃の節句(3月3日)、マツノマイリ(初午)は各地共通。
成本責め(なりきぜめ): 小正月に行う地方が多いが、市域では年越し(節分)の日にする。これは、柿・ざくろ等、果樹の木を責め、豊作を約束させることである。(大)
(南)ではトンドの日(1月15日小正月)。 トンドの火を持ち帰り子供の兄弟が問答をする。兄が竹を持って「カキよカキよ なるかならぬか ならねばどつく」と声をかける。そうすると弟は柿の本に登つていて「なりましょ なりましょ 枝の折れるほど」と答える。そして二人で「おかしいてならん」と言つた。

4月
神武天皇祭(下)春ごと(大)ハルマツリ(北)ヤマガエリ(南):4月3日
名称はそれぞれに違つているが、ハルヤスミとして、野良仕事が本格的になる直前、仕事を休み、野山に酒食を携えて入り、一日遊ぶこと。全国的には四月三日(しがさん)と呼ぶ。市域では野休み・野遊び・山行きと呼び、弁当を携えて野山で一日楽しく過ごして来る。これは、山に座す農業神をムラ里に呼び迎える儀式と云う。(大)
  『民具歳時記』第7集より




◆東大阪市・往生院六萬寺住職・往生院民具供養館館長川口哲秀氏によれば「冬の農作業がひと段落して、忙しくなる田植え前の休息日が春事です。なんと温かでおだやかな言葉でしょう。暮らしの中で人々がはぐくんできた楽しみがそのまま伝わつてきます。春の色、春の香りのよもぎ餅。ずいき、干ぴょう、高野豆腐、漬物、三つ葉などを入れた巻き寿司を作ります。目を輝かして手をたたいて喜びをあらわしたご馳走です。お弁当にして親類、隣り近所を誘つて近くの山や河川敷、畦へ行つて春を満喫しながらゆっくりと一日を過ごします。」(『民具歳時記一道具とともに一』、第7集)(り||口氏は「春事」について第4集で東大阪市、第6集で柏原市・八尾市の聞き取り調査の報告をされている)

籾種洗い(下): 4月第2日曜日 苗代作りに使う籾を照涌大井戸の水を使つて洗った。

5~6月  いよいよ本格的な農作業に入る。
端午の節句: 各地共通。5月5日 コイノボリ・粽(ちまき)。ショウブを屋根にのせておく。ショウブ湯。
粽作り 川の中のヨシとイグサをまいて作る。10本束×2で1ぜん、20~ 30ぜん作る。親戚にも配る。作つた粽は日陰につるして乾かしておき、田植え仕事の体み時に茹で戻しておやつにする(下)。

柏餅作り 柏の葉の代わりにサンキライバラ(サルトリイバラ(別称サンキライ山帰来)のこと)の葉で作る。サンキラ餅(下)。
バラソ: 6月1日 言葉の意味は定かでないが、この日、固い炒り豆やあられ、または暮れにつくった餅花から餅をとり、それを炒つて食べた。これは歯固めと称し、それを食べると、歯が丈夫になるという。市域では、一名ボロソと云つた(大)。
ボローソ: 正月に飾ったモチバナは6月1日まで飾っておく(南)。しかし実際には、3月の節句の頃、ばらばらと落ちて来るので食べた、と聞いている。
ウエツケヤスミ ノヤスミ(北)(南): 6月20日頃 村じゅうでウエツケ(田植え)が済んだら区長が休みの日を決めて村内に伝達する。植え付け体みが済んだら昼寝ができるようになる(北)。この日からは釈迦の昼寝といつて人朔(ハッサク)9月1日まで昼寝ができるようにな
った(南)。
植え付け休み(大)(下):30日頃 田植えが済むと休みを取る。今も行っていて、日は土地改良区で決める(下)。

7月
ハゲッショ(半夏生)(北)(南) ハンゲショウ(下):七十二候の一つ。夏至から11日目に当る2日ごろ。ハゲッショモチをつくリヒンナカヤスミ(午後から半日休み)をとる(北)(南)。昔からこの日には山がはげるほど雨が降るといわれた(北)。「ハゲッショハンケ」といつてこの日までに田植えが終わらないと秋の収穫が半分に減るといわれた(南)。

天神祭(下):7月25日 下田原天満宮 昔は俄か舞台を作り、青年団が毎夜遅くまで練習した芝居を演じる(貫一。お宮など)。カツラや衣装は郡山まで借りに行く。裸電球を灯すので、雨が降ればよくショートした。






8月
墓まいり(田原地域): 3日 両墓制(埋め墓 (オバカ、ウメバカ、ウスミバカ)と立ち墓(タチバカ、詣り墓))下田原では照涌墓地、野田墓地。
タナタテ(南)アラタナサン(下)ボンノタナ(北):13日、14日
 アラタナサン(新仏)のある家では親類の者が寄つて仏壇とは別にアラタナを設ける。位牌の下に対になるようにソーメン、ラクガン、ミタラシダンゴなどを供える。タナタテの日には餅搗きをする。そのほか、アラタナサンを迎えるために庭先に青竹にタカドウロウを1つ立てる。縁先にはツリドウロウが2つさげられ、アラタナの前にはオキドウロウが2つ置かれる。このほかアラタナサンの水向けと称してカドグチに、ヒトダルに松の枝でおおいを付けて三界萬霊の札とアラタナサンの戒名を書いた塔婆を納めて、竹の先にシキビを付けたものでタナマイリをする人が、南無阿弥陀仏と唱えながら水向けをして供養する(南)(下)。タカドウロウやツリドウロウは生駒市の高山造花店で作ってもらつていた(下)。









迎え火:ホウカイサン(南)14日、ガキダナ(北)13日、ホウカイサン(下)13日、14日
 一般の仏をソンジョサン(先祖さん)と呼び、朝に辻や大きな松の木のたもとまで、あるいは墓までムギフラの松明と鉦を持って迎えに行く。この時に帯を持って行き、ソンジョサンを背負って帰るまねをする家があつた。アラタナのある家でもホウカイサンをまつる。ホウカイサンとは餓餽のことで、ザルやトウシにドロイモの葉に中にキリの葉を敷いて塔婆を立てて水向けを供養する。このホウカイサンは庭先に設ける。

ナナハカマイリ:(北)(下)は23日、(南)は7日、七日盆(大)
 新仏のある家の者は朝から7カ所の墓をまいるようにする。これを七墓参りという。
順路は決まっており、焼き場のある墓→北大角の墓→下田原のカタダ墓地→下田原テルワキ墓地→上田原の墓地→上村墓地→南田原の岡村墓地ヘと回つていく。(北)
(下):各家によつて違うが村を越えて墓に参る。南の方向に行き、北に向かつては行かない。テルワキ野田・迎え地蔵→テルワキ南→上田原→南田原ノウジョウ→南田原のお寺→岡村墓地→シラタン(西白庭台・白谷)終わるとシンドンドン(これが何のことかわからなかったが、生駒の人から、法薬寺新塔堂のことではないかと教えてもらった。)で休憩。曼茶羅が掛っていてそれを拝む。みたらし団子や団子を売っている店(昔の何でも屋)イナヤスでブドウを土産に買って帰って配る。



上田原:昨年実際に初盆の家で行われた七墓参り
〔下田原〕田原台霊園→下田原墓地(照涌)→下田原墓地(滝寺)→ 〔北田原〕北大角墓地→
〔南田原〕南田原寺内墓地→野所(ノウジョ)墓地→上田原大墓
○新盆のある家の者が当日早朝より地蔵盆の始まるまでに、六地蔵のある墓地7つをお参りする習わし。
○お供え:シキビ1カ所7本(6体+1体)× 7カ所=49本、先を尖らせた竹に蝋燭を挿し、お地蔵さんに1本ずつを立てる。各お地蔵さんにお線香とお米少々をお供えした。
○最後の上田原大墓では、新仏さんの家の者と地域の方々で、住職のお経の間大数珠繰り(おおじゅずくり)をする。
○上国原大墓入口に麦わら帽子、杖、握り飯を置いてあの世への旅立ちの用意をする。
(南)や(大)では特に新仏に関係なく、これをすると1年間丈夫に暮らせる(南)、互いの先祖を介して旧交を温める場でもある(大)という。





送り火(南)タナコボチ(下)(北):16日  15日の夜遅くか16日の午前0時までにアラタナをこぼして(こわして)、1時か2時頃にはアラタナサンを送ってしまう。送る時にも縁から出してムギフラの松明をたいて鉦をたたきながら辻や松の木のたもとまで送つて行く。供物は川ヘ
捨てて流してしまう。アラタナサンを早く送らないと荷物を背負わされるので先を競つて早く送るようにする。その後ソンジョサンを同様に送る。送り終えたらスソワケとして供物を親類の者が分ける。(下)ではアラタナサンを川原で燃やす。供物は川に流していたが、川を汚すということから川原に置いていた。

地蔵盆:どの地域でも。23日 池の上などにまつってある地蔵を付近の信仰の厚い人がまいる。
この時の供え物は子どもたちに配られる。(北)
(上田原)今も正伝寺に老若男女が集まり大数珠繰りをする。終わると子どもたちにたくさんの供え物が配られる。

盆踊り:どの地域でも。23日 この日の夜には旧小学校で盆踊りが行われる。主催はかって青年団だったが今は子ども会が行つている。上田原・下田原・田原台子ども会は田原小学校で行っている。




照涌大井戸の水供養:25日 (下) 照涌大井戸保存会の人々や地域の各代表が集まって、法元寺住職が供養のお経をあげる。終わると歴史講話を皆で聞く。現在も行つている。
◆「その昔弘法大師がこの地に来られた折に、村人がこの井戸の水でおいしいお茶をさしあげたところ、大師は大変よろこばれました。その後は、どんなに日照りが続いても決して渇れることなく、涌き続けて今日に至っていると伝えられている井戸です」(『まんだ』79号「おじいちゃんの話 照涌大井戸」櫻井敬夫氏執筆)




9月
ハッサク(大)ハッサクボン(八朔盆)(北)(南): 9月1日
 この頃が稲にとって一番大事な時期。ところがよく暴風雨に見舞われる。そこで農民は、神に無事な収穫を祈念するのがこの日であつた。また、この日を境にヒノツリ(昼寝)を止め、ヨナベ仕事が始まる(大)。赤飯を炊いて神棚に供える。植え付け休み以後の昼寝はこの日で切り上げる(北)(南)。
◆「ヒノツリ」は「日の辻」のことだろう。「日の辻」とは真昼、正午。「日の辻休み」は午睡のこと。「日の辻休みの取上げ」は旧暦8月朔日(ついたち)の称。(「広辞苑」)

イモメイゲツ(北、大)イモのメイゲツ(南)お月見(下):9月15日(旧暦8月15日)
 中秋の名月を祝うのは、どの地域でも行われている。子供達は見つからないようにイモや団子を盗みにくる。この日はいくら供え物をとってもおこられなかつた。

お月見どろぼう(いもどろぼう)(下)とれたてのサトイモを供える。竹の先を尖らしてイモをたばる。「たばる」は「賜(たまわ)る」、「ちょうだいする」「いただく」、秋の恵みに感謝の心が表れているようだ。上・下田原だけでなく新興住宅地の田原台も含めて伝統行事を復活し、今でも行われている。子どもたちが大きな袋を持つて、隣近所を走り回り、今は袋菓子をたばって(賜って)いる。(参考資料「名月のいもどろぼう」下田原・丸石完氏 参照)




10月
秋祭り、収穫祭: それぞれの氏神に参り、秋の豊作を祈り、また感謝した。
(上)(下)の氏神は住吉神社、(北)(南)はお松の宮。
祭りは宵宮・本宮・ラクサクの三日間にわたる。当日はムラ総出で、重さ数トンのダンジリに神の遷座を乞い、神と共にムラ中をねり歩き、豊作に感謝した(大)。




11月
亥の子: 旧暦十月の最初の亥の日、亥の刻 猪の多産にあやかる(大)。
イノコ: 11月4日(北) イノコモチ ジゴクモチ ハラゴシライ。
イノコハンゲショウ: 12月1日(下) モチをついて配る行事。

12月
ニョライサン(御回在)(南)(上田原):
 12月初旬 大阪・平野(ひらの)の大念佛寺が御回在に回つて来る。この一行をニョライサンと呼び、この日をイノコとも呼んだ。イノコモチを搗き、クルミモチをつくった。(南)
2010年、2012年の12月9日、上田原の御回在に同行取材させてもらった。大阪平野にある融通念佛宗総本山の大念佛寺から僧が10数人壇信徒の家々を御本尊十一尊天得如来の掛け軸を担いで鉦を打ち鳴らしながら回り、先祖の追善回向、家々の祓い、家内安全、無病息災の祈祷をする。いわば出張形式をとる独特の行事。終わったら、正伝寺に寄り集まって説教を聞く。この日の案内は、寺の総代代表の人たち数名で行う。
 元々村には1カ寺があり、その宗派が村の人たちの宗派になる。今ではそんな縛りも無いが、70数軒回るという。隣の南田原町も同じで、同時期に平野から回つて来ているという。(北)は11月イノコの日、枚方佐田の極楽寺から上人さんが来て村内の各家を回つた。掛け軸を風呂敷につつんで背中にかけている。(下)は真言宗でそのような行事はない。




事始め: 13日どの地域も。この日から迎春準備。
住吉神社注連縄綯い(上田原):12月下旬 氏子が出て、神社の注連縄を綯い、新しいものと取り換える。縄は左綯いにする。




餅搗き: 28か30日(29日は苦餅といって嫌う)どの地域も。
モチバナ: 28日 どの地域も。

大晦日、オオツゴモリ : 31 日
砂絵(下)(上田原)、アタラシサン(南)、スナマキ(生駒市高山町他):
 12月31日(北)でも名称はないがオオツゴモリの行事になっている。31日の夕方には山から赤や白の砂をとってきてカドを清めるために撒く。庭にはお日さん(太陽)の文様のように撒いて村の道から家のいりぐちまでは梯子状に筋を付けてつないで行く(北)。山からとってきた砂で日・月。升(万石)、鯛や日の丸扇などの絵を描く。庭から道にかけて梯子(桟)を描く(下)(上田原)。
 庭は、秋の収穫後籾を乾す場、カドを清める意味があるのか、或いは五穀豊穣を願う意味もあるのかもしれないが、まだよく分かつていない。今はそんな絵が描ける庭でなくなったこともあり、村の伝統行事を後世に伝えようとして、下田原の天満宮の境内に天神祭実行委員会の人たちによって砂絵が毎年大晦日に描かれている。しかし、2010年に分かったが下田原で1軒、上田原で2軒のお家では今でも庭に砂絵が描かれている。「代々やっていることなので中々止められなくて…。」とご主人が描かれている。









生駒市では、高山町傍示や久保、鹿畑町、上町などの北部地域(旧北倭村)だけでなく、中部地域(旧生駒町)や南部地域(南生駒村)のいくつかの所でも、スナマキやツチマキなどとして行われているところがあったようです。
どのような意味合いがあるのでしょうか。




「砂もち」
 『大阪府の年迎え行事―網かけと予祝儀礼』に、枚方市や交野市でも砂持ちや家の砂持ちとして次のように述べられている。
 『枚方市史第3巻』昭和52年3月30日枚方市発行 第5編近世の枚方地方 第9章農村の生活と文化 第1節年中行事)
「29日から30日にかけては「砂持ち」が行われ、特色ある正月風景を演出した。春日村・村野村などでは、天の川から皿籠一荷の砂を氏神の境内に持ち込み、これをうずたかく盛って、榊の枝をさした。そして、白砂で各戸の庭に輪を描き、道にはそれを波型にまいた。樟葉村でも、山から取ってきた土で庭に輪を描くとともに、盛土をして、それに門松を立てた。」

『交野市史』民俗編 昭和56年11月3日 交野市発行
  第1章年中行事 第1節正月の行事


砂もち(12月31日) 昔から氏神さまはけちんぼでお宮さんにお参りしたら履物の裏に砂がくっつくので、その砂を返すのだといって砂もちした。また、これには、氏神さまの土を新しくするという信仰上のしきたりとしての意味もあったに違いない。 ・
<郡津>砂山か前川から清らかな砂を一荷、郡津神社の南に運んだ。しかし、川砂がきたなくなったため、今はやらなくなつた。
<私部>東方の方は住吉神社へ、西方の方はお旅所に砂を運んだ。

家の砂持ち(12月31日) 家の庭先に砂で丸型をかいて、綿の実がたくさんなるようにとか、家庭が丸くおさまるようにとか祈った。また、道に砂で桟を作るのは神様がお通りになるのできれいにしたのだろう。
<私部>北川の堤防から砂を運び、まいた砂は踏まれないように見張った。
<倉治>源氏の滝の北側から美しい砂を持ち帰り、はしごのように桟を作つた。家の庭の丸は、二重にも三重にも書いたり、中に「お正月」と書いたりした。
<寺>白本山から砂を運んで来て、道路に一の字をならべ、庭には丸を書いた。この丸は自然に消えるまで残した。
<星田>山から砂をとって来て、道や家の入口には石段のようにまいた。家の庭に丸をかき、「千両」と書き新しい年に夢を描いたようだ。

 呼び名はそれぞれに異なつているが、大阪府四條畷市上・下田原、奈良県生駒市南・北田原町、同高山町、大阪府枚方市、大阪府交野市、よく考えてみればこれらの地域はいずれも天野川流域で、果たしてそれらは関連があるのか、天野川流域の文化と言えるのであろうか、と思わずにはいられません。





<まとめ>
 特に下田原での間き取りは農業に関わる年中行事についてです。このような年中行事はいつごろまで行われていたのでしょうか。昔から連綿と受け継がれている生活の知恵や季節感がぎっしりと詰まっているように思います。また、季節の節目節日、自然環境の移ろいと農作業をうまく繋げて、時には過酷になる農作業の中で、体を癒し、心を癒していた様子がよく表れているように思います。
 下田原では春ごと(ハルヤスミ)の日、おとなたちは隣近所や親せきなどと誘い合わせ、ごちそうを食べながら話に花が咲いたことでしょう。子どもたちはいっしょ山(石尾山)に登り、岩登りなどを上級生に教えてもらうなど、縦のつながりがあり、子どものとんど(下田原)のときも、上級生が仕切つて、やらなければならない決意に満ちてみんなでやり遂げ、それが達成感や自信となり、やがて青年団に組織されて村の祭りを仕切り、さらには村の重要な仕事について行くという成長の道筋が作られていたように思います。
 今、各学校では「子ども見守り隊」などを組織して、地域の人が子どもの安全確保に努めるなどをしています。昔は地域で人と人とのつながり、コミュニケーションがあったのだが、とも言われます。地域コミュニティが見直される時、このような年中行事を振り返つてみることも大切ではないでしょうか。

 年中行事が問いかけるもの、それは、季節感の薄らぎ、気候変動、地域コミュニティの再構築、そして、「民俗文化財の消失の要因は過疎化による伝承母体の衰退ではなく、人口過密化による伝統社会の破壊に起因している」(『生駒の年中行事』)と象徴的に述べられているように、地域社会の現状に対してのものではないだろうか。
 まだまだお聞きしたり教えて頂くことがたくさんあると思います。今後ともよろしくお願いいたします。 〔了〕





 <傍示さし同行取材記 平成25年1月27日 太田理・記>
 
 区(下田原区。上田原区)の業務としてやっているので、部外者はダメと何年も前からお願いしても許可されなかったが、今年やっとお許しが出て同行させてもらった。朝9時に田原支所のあるグリーンホール田原に集合。両区の区長や傍示さしに参加するメンバー数名ずつ、それに消防団の代表が挨拶を交わしすぐ出発した。消防団代表が案内役だった。田原中学校裏にあるのが第一号ツボ。青竹に「平成25年下田原区」「同上田原区」と墨書(昔はそうしていたと思うが今はマジック書き)した竹杭を打ち込む。それから山中を西へ、室池の東堤まで20カ所。そこで上・下田原は別れて、上田原は南野、大東市龍間、生駒市南田原町との境界、下田原は南野、逢阪、交野市星田などとの境界を全40カ所竹杭を打つて回る。
 尾根筋に境があるので、ツボを探しながら歩く。昔はそれでも人の行き来があつたのだろうが、昨近は人はめったに立ち入らないので、倒本があつたり、笹やぶになっていたりでまともに歩けない。案内役は地図を見ながら、時にはGPSを駆使して道を探す。ほとんどの人は初めての参加で、19歳から70台歳台と見られる人たち、区からの割り当てで1回参加すればもう滅多に回って来ないようだ。区から報酬も出る。
 大阪パブリックゴルフ場に出てしまった。どこかで間違えたみたいだ。しばらくゴルフ場を通らせてもらって、また山中に入った。堂尾池に注ぐ水路の上流まで来てそこで上田原と別れた。
 後で聞いた話だが、上・下田原、南野3つの境は小川の中の石に何か印がしてあるそうだ。それは確認しなかった。東堤は府道逢阪生駒回線沿いにあり、小高くなった所にツボがある。本来ならずっと歩いて挿して行くのだが、大阪府民の森緑の文化園整備でそれもできなくなり、車で四條畷カントリークラブに移動した。そこで昼食を食べ、またしばらくゴルフ場内を歩いて山中に入った。終点近くが木々の間から見え隠れしていたのでもうすぐと思っていたが、道を間違え、尾根を間違え、そのたびに急な斜面を下り、また急な崖を登るなどの難行だつた。午前中も何回かそんなことを繰り返していてだいぶん疲れが出て来ていたので、余計にしんどい思いだった。
 ゴルフ場との境、飯盛霊園との境を確かめ、最後に交野市星田との境を確かめ、やっと国道168号線の羽衣橋(交野市との境)にたどり着いた。
 現代社会では、山の中でも境界を示す石柱があり、或いは航空測量や最新の機器で境界は表示されるのだが、傍示さしで真新しい青竹を見ると鮮明に境界がはつきりし、それぞれのムラの上地に対する執着を感じたものだった。午後1時半に終了。


     
 

 レジメの参考資料
田原の大とんどに寄せて
          下田原 丸石 完
上田原、下田原では子供は1月6日の夕方に紙とんどを、大人は1月15日の早朝に大とんどをしてきた。場所はいずれも垣内(かいと=今のとなり組)に近い川べりのとんど場で行った。

〔子供たちの紙とんど〕
1月6日は、冬体み中だったので、子供たちだけで行った。垣内の最年長の子供(小学校6年生か高等科2年生)が指揮を取り、役割を決める。朝8時ごろから青竹10数本、わら10束(そく)ぐらいと、しめ縄などを2~ 3人がチームとなってもらいにまわり、竹の上にのせて引っ張ってとんど場に集まる。子供たちの人数に合ったとんどの大きさを決め、午後には力を合わせてとんど作りをする。
太い竹を芯にしてわらをまく。まわりに細い竹をつけて、藤つるでしめる.直径lmぐらぃ、高さ5~6mのとんどができる。立ち上げるのが大変だった。上級生が下にもぐり込んで肩を入れる。下級生はつっぱりの竹を持ってまわりから支える。息を合わせての共同作業である。何回もやり直す。夕方になって立ち上がった頃、おばあさんたちが孫の手を引いてもちと書初めをもつて集まってくる。
「みんな、ようやったな。今年のとんどはおっきいわ」とほめてくれる。上級生に怒られたり励まされたりして、しんどかった事がいっペんにふっとんで、自分ひとりで立てたような満足感がわく。
 暗くなりかけた頃に点火である。みんなが見守る中、おおやけに認められたマッチでの点火は最上級生の役目だつた。パチバチ、パーンと青竹の爆(は)ぜる音に励まされ、火の粉の中、熱いのをがまんして真っ赤な顔になつて勇気を出してとんどを倒さないように「ささえ竹」をにぎって持ち場を死守する気持ちでがんばる。八分どおり燃えおちたころ「たおすぞぉ―」の一声で決めておいた方のささえ竹を外してたおす。火の粉が舞い上がり壮観であった。
 後はみんなかいがいしくまめに働く。真っ赤な火を引き出してもちを焼く。ふくれたもち、黒こげのもちをかじる子供たちは幸せそのもののようだった。火のついた竹を持って帰り、神棚に灯りをそなえ、寒の入りのあぶらあげごはんを食べて大寒に向けての健康づくりをする。
 1月6日の紙とんどは大人のさしずはひとつももらわないで子供たちだけで成功させる「しんぼう、協力、助け合い」のすばらしい伝統行事であった。
開発が進み、田原台の住宅地ではとんどの条件がそろわないので、田原小学校の校庭をお借りして大人だけで大とんどの行事を行つているが、子供たちの発想で危険を伴わない大とんどを盛り上げる活動を一つでも見つけてやれない物かと思う。

〔小正月の大とんど〕
 1月14日は「お日待ちJの行事が各垣内で行われた。当屋(当番)の家主が集まり、床の間に「天照皇太神」の掛け軸をかけて拝み、 1年の決算や新しい年の計画の話し合いが朝方まで続く。夜明け前に散会して、用意しておいた青竹、わら、しめ縄を持ち寄り、日の出に合わせて大とんどを燃やす。火のついた竹を持ち帰って神棚に灯りを供え、かまどに火をつけてあずきがゆを炊き、もちを入れて小正月を祝つた。
田原台が開発され、世の中の近代化が進むにつれ、村の諸行事も合理化されてきているので、村の伝統の諸行事もだんだん変わっていくものと思われる。
名月のいもどろぼう 
              四条畷市下田原 丸石 完
「今日は名月やから、お月さんに芋供えてや。」
「ススキとハギは、とっておいてや。」と、朝の対話があり、夕方までに、元気のよいススキと色のよいハギを取ってきて、一升瓶にさいて縁側に供える。おばあさんは、こ芋といんげん豆を、年によっては、きつまいもを掘ってきて供えてくれる。ちょうしにお酒を少し入れ、さかずきを添えて、ショウギ(床机)の上に飾り、お月さんがよく見える縁側に供える。
お月さんが上ってきて月の光が当たってくると手を合わして拝む。これで、子どもの「祭子役割」が完了して、夕食になる。
9月中旬の名月の頃には、こ芋はまだ小さく初物で、お月さんに供えるために一株か二株掘って、家族もお相伴できるので、供えたこ芋を見るとヨダレを落としそうになリ一つつまみたくなったことを覚えている。
さつまいもの40日でも作っていたら掘れる年もあつたが、音は今に比べ、作物のできるが二ヶ月ぐらい遅く、11月に大方のものが実った。
 雨戸を開けるとショウジ(障子)がなかったので、広いカドからよく見えるし、すぐに手が届くので家族の夕食が始まるまで、子どもが番をしていた。取りに来ることを予想し、また期待して。
「初物はやっばりうまいな。お月さんも食べはったやろか。」……表で子どもの声がする。ふとお供えに目をやると、お皿はカラッポ。「あっ、やられた。お月さんにこ芋のお変わりや。」と、たのんでおいて、ジンベを着て出ていく。
 お月見泥棒は、絶対に顔を見せない。ジンベを頭からかぶったりする。1メートルほの細い竹を持つてきて、手を伸ばしてこ芋を刺して取る。小さい子は縁に上って手でつまんでとる。家の人たちが目を離した一瞬を狙ってたばって(賜って)しまうスリルが何とも言えない。ワァーと(勝どき)声が聞こえた時は、全部取られた後である。2~3人で連れ立って近所を回る。番をしている人の姿があれば、消えるまで庭の茂みに息を殺して待つ。その中にチャンスがある。手を伸ばして小芋をつかんだ瞬間に、冷たい手で足を捕まれたことがある。おじさんが縁の下にゴザを敷いて寝ておられたとのこと。子どもたちの楽しい行事におじさんが一味加えてくれた格好となり、翌年からは縁の下にも気を配らなければならなくなり、楽しさが増した一時期もあつた。
 でも、泥棒をすることは悪いことであるから学校では一切話をしなかった。先生も、巡査も知っておられたが、名月の芋に限って目をつぶってくれていたようです。その後、柿に手を伸ばした高学年生があったとかで、学校で注意を受けたこともあつた。

 仲秋の名月を拝み、名月の映える天の川で手を清め、悪病を洗い流す、という心仰心に付随した『芋賜り(いもたばり)』が、いもドロボーに変化した素朴な遊びであった、と思われる。

小字によって多少の違いがあったようです。自分の小字(照湧、野田、片田、滝寺)の外へは行かなかった。
                                        おしまい、おしまい・・・!
宮本常一著『村の旧家と村落組織I』
宮本常一著作集』32 未来社 1986年
奈良県生駒郡北倭村南田原 奈良県4L駒郡北倭村南田原
 調査 昭和22年9月6日 中本直吉(84歳)談
 近畿日鉄奈良線、生駒駅の北方一里余のところにある。元来南田原の地は川を距てて大阪府の田原村と対しており、高山村の中、ここだけは特別の一地区をなしている。なお大阪府の一村(田原村)が生駒山の東側にあることも不思議であるがその理由は明らかでない。
 この地は旗本領で、代官がいてとりたてており、幕末の頃には矢野氏が代官であったが、ずっと古くは山上という家が代官をしていた。その家は南田原にあったようで、その屋敷址が常居という字名になっている。その下の苗代のところをヘノシタと言っており、源吾屋敷、馬道などの地名もある。山上源吾という代官がいたのである。その家の墓は寺の後の墓地にあり、寺にも半鐘、花たて、ろうそくたてなどを山上氏が寄進している。またわ宮にも山上宗園と書いたとうろうがある。山上氏がこの地を去った時は明らかでない。亡びたものではなくて、江戸の方へ引きあげたものではないかと思われる。その後矢野氏が代官になってきたようである。
 南田原は古く家が18軒あったといわれる。大体300年まえ頃のはなしである。しかし古文書がほとんどのこっていないので、あきらかでない。俵口の人が反古を買ってみると、その中に南田原の元禄の頃の記事があり、それによると、川の名や子安地蔵のことなどもでており、中本氏の家のまえの池のこともでている。これは中本氏や池田氏などの本家すじ五軒の者が組合で造ったものと言われている。寺もその頃造られたものらしい。
 幕末の頃には80戸になっていた。他から入り来んでくるものは少なくて、多くは分家によって殖えて行ったようである。それが現在ではさらに140戸にもなっている。
 旗本領であった頃には、米納であったが、租税もことにきびしかった。そして表付きの下駄ははけず、屋根にグダリをつけず、長押をうってはならぬというきまりがあった。
 代官は米作の改良には力をそそぎ、郷倉をおいてそこで米をとりたてた。この場合、年貢のほか、生駒郷の経費や講合の食糧などもとりたてたものである。郷倉はしたがって村人によって経営され、とりたてられた米の中から年貫も納めた。
 本家18軒は今日あきらかでない。家の盛衰は相当にはげしい。池田氏の本家などはのこっているが、中本氏の本家は明治一六、七年の不況の時にたおれてしまった。しかし分家の方はそれぞれ残って栄えている。直吉氏の家は三代まえに分家したもので、三番目の分家と言われている。二番目の分家は直吉家の裏にある。その外二軒の分家が出ているが、孫分家はないという。
 この地は土地の乏しい土地で、たくさん土地を持っている者でも一町二、三反にすぎず、大きい地主はない。生駒郷全体にもとは大きい財産を持ったものはなく、いわゆる豪家は見られなかった。また小作で何代も通してゆく者も少なかった。小作だけを三代もしているような家はよほどなまけものであって、三代たてばたいてい自作にはなった。 一方自作ができるように一方では田地を手ばなす者もあり、一町以上も持っている者の没落する時には五、六人で分けて買ったものである。そして地主がそのまま小作人になることも少なくなかった。
 この地は明治になってから多くの新田がひらかれた。明治三七、八年頃特に多くがひらかれている。
中本直吉氏の家でも分家で大して土地を持っていなかったが、明治二五年頃から開田をはじめて、一町三反ほどを拓き、地主になった。これだけの日をうるわすために三カ所に池をひらいた。池ば一反の土地を養うのに五〇坪を必要とするといわれている。
 この村で一般にひらかれた田は切池のかかりになっている。南田原はこの切池のできた後に多くの田がひらかれたのであって、この池のかかりは四〇町歩であるが、明治になってその中の三〇町歩があたらしくひらかれたのである。そして多い家は三町くらいもひらいたのである。
 なおこの地では街道ばたの家は多くたおれている。不便なところにある家はもとのままであっておとろえたものは少ない。街道筋の家はずっと古くから子安講を組んでいて、新しい家はこれに参加することはできないのであるが、それが大正時代には四六軒あったものが、現在三八軒に減っている。二〇年ほどの間にそれほど家がへったのである。多くは大阪へ行っている。
 南田原一四〇戸のうち最も大きな地主は七町歩持っていた岡田本家で、本家筋の家である。これは買いとってから大きくなったもので、明治以来のことである。しかし戦争の中頃から漸次手ばなして行って現在はすっかりなくなっている。百姓だけしていた家であった。その米は品質がよくて酒米として売っていた。
 小作だけしていた家は一〇年まえに一〇軒ほどあった。他所からきて小作したものはない。また分家して純小作になったというのもないようである。分家する時に分ける土地は、家によって決まらない。が、たいてい耕地の3分の一を分けることになっている。中には地所をもらわず職人になっているものもある。この地は生駒石の産地で石工になっているものが多いのである。
 もと農家に奉公人は多かった。それは新田開墾の人足としてきたものであった。その人足がこの地に居ついたものもあるが、それは分家の形式でなく、独立して家をたてた。
 中には分家をして土地をひらいたものもある。この場合土地は各自で買ってから拓いたのである。
四反の土地を二七円(明治三〇年代)で買ったことがある。当時日当は一日一二銭であつた。小作料は高いもので二石くらいのものもあつた。そういう土地で三石くらいできたものである。地主と小作との関係は主従的なものは全然見られない。
           (昭和24.11.7整理)
最後までご覧頂き有難うございました!


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