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平成25年11月定例勉強会

新島八重と板かるた

=蓄音機で藤山一郎の荒城の月を聴く=
<「板かるた」で参加者全員でかるた取り>

  講師:中西 久幸氏 (全日本かるた協会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 23名の参加
 2013.11.30(土)午前10時、11月定例勉強会に23名(会員21名)が参加されました。
 村田広報部長の挨拶に続いて、毛利信二氏より講師の中西久幸氏の詳しい紹介があり、中西久幸氏より「新島八重と板かるた」について、新島八重の人生・板かるた・それらに関連する詳細な資料を基に、大変わかりやすく明快にご講演いただきました。

今回の講演会の要旨は次の通りでした。
 平成25年NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインで、新島襄夫人となる山本八重は、戊辰戦争の会津藩で若き日を過ごし、和歌を残して会津若松城を退却しました。彼女の会津文化の中には、当地の文芸「板かるた」が関わっています。北海道へ伝承されていった当該和歌文化「板かるた」に関わる話題を提供します。
 板かるたを試していただき、新島八重の和歌文化を鑑賞してみましょう。」 


 当日は、「百人一首板かるた」2種と八重さんの図書資料数冊、それに手廻しの蓄音機、レコードを持参戴きました。蓄音機から流れる、藤山一郎の荒城の月に暫し聴き入り、「板かるた」の下の句のカルタ取りに興じて、会津若松城や八重さんを偲ぶことが出来ました。

 20ページにわたる膨大な資料集、新島八重の人生と板かるたの和歌文化に加えて、戊辰戦争後の福島県人の偉業ぶり、白虎隊の生き残り、飯沼貞吉の数奇な人生など数々の感動するお話をお聞かせ下さり有難うございました。
 中西先生、本当に有難うございました。
参加者から 「大変興味深いお話に実物の「板かるた」に触れることが出来て本当に良かったです!
早速、中西先生に「板かるた」を注文しました。」と嬉しそうに感想を話され、主催者として嬉しい限りでした。
 ※ 当日頂いたレジメ集の掲載にあたり、中西先生の快諾を戴き御礼申し上げます。
   記して感謝申し上げます。
 
 
講師:中西 久幸氏
 <講師:中西 久幸氏のご紹介>
三重県名張市出身。高槻市に在住。
定年後「万葉集」と「百人一首」と「音楽」を趣味として、その領域はセミプロ級。

全日本かるた協会調査研究部に属し「百人一首」を研究して、和歌と百人一首の「磯城島綜藝堂」(しきしましゅげいどう)のホームページを開設。
  和歌と百人一首の「磯城島綜藝堂 http://www.geocities.jp/ncnycy2002/new-profile.html
また全国万葉協会では、ホームページ「万葉二千碑」の編集を担当。
そして、SP・LPレコード鑑賞会を開催して音の世界に案内してくれます。

特に、学生時代に犬養孝先生の万葉旅行に参加してからの万葉ファンで、七夕伝説の伝わる「交野が原」では、七夕ゆかりの地に、万葉歌碑を建立する活動を側面から支援していただきました。
(2007年から5年間に万葉歌碑が5基建立)

※ 中西氏は、SP・LPレコードの蒐集家でもあり、「自宅にある古いレコード(明治から昭和20年代までの)があれば、ゴミで出さないでご連絡下さい。」とのことです。よろしく願いします。
 万葉を楽しむ 「萬葉集」と百人一首と音楽と   中西 久幸氏



 
村田広報部長の挨拶
 
毛利信二氏より講師の紹介
 
 
「百人一首の板かるた」や八重さんの参考図書類
  講演会では、中西氏秘蔵の手回しの蓄音機で
「藤山一郎の荒城の月(昭和10年頃)」をお聞かせ下さった!
 
 藤山一郎 「荒城の月」  (YouTube) 
画面をクリックして下さい!
 
  (3) 『荒城の月 こうじょうのつき』
    土井晩翠 作詞、瀧 廉太郎(滝 廉太郎) 作曲
    七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディを融合した名曲

1  春高楼(こうろう)の花の宴(えん)   巡る盃(さかづき)  影さして
 千代の松が枝(え)  分け出でし   昔の光  今いずこ
 2  秋陣営の霜の色   鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照り沿いし   昔の光  今いずこ
 3  今荒城の夜半(よわ)の月   変わらぬ光 誰(た)がためぞ
 垣に残るは ただ葛(かずら)  松に歌う(うたう)はただ嵐
 4   天上影は変わらねど   栄枯(えいこ)は移る 世の姿
  映さんとてか 今も尚   ああ荒城の夜半の月
 
中西氏は、SP・LPレコードの蒐集家でもあり、
「自宅にある古いレコード(明治から昭和20年代までの)があれば、
ゴミで出さないでご連絡下さい。」とのことです。よろしく願いします。
  交野古文化同好会講話       「新島八重と板かるた」

                             全日本かるた協会  中西久幸
目 次
1.新島八重の人生
  (1)会津藩に歴史(2)会津藩の新島八重(3)新島八重の板かるた
2.板かるた
  (1)板かるたの歴史と種類(2)中村北潮略伝(3)板かるた競技
参考事項
  (1)八重の略年譜 (2)八重の私歌集 (3)「荒城の月」
  (4)近江神宮板かるた (5)「容保桜」 (6)戊辰戦争後の福島県人の奮闘
  (7)白虎隊生き残り(飯沼貞吉)


要 旨
 平成25年NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインで、新島襄夫人となる山本八重は、戊辰戦争の会津藩で若き日を過ごし、和歌を残して会津若松城を退却しました。
 彼女の会津文化の中には、当地の文芸「板かるた」が関わっています。北海道へ伝承されていった当該和歌文化「板かるた」に関わる話題を提供します。
 板かるたを試していただき、新島八重の和歌文化を鑑賞してみましょう。




新島八重の人生
(1)会津藩の歴史
   陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩。
   藩庁は若松城(会津若松)

時代 歴史推移
戦国期 戦国大名蘆名家の領国。天正7年(1859年)蘆名義弘が伊達政宗に大敗
蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入る。
上杉家
(1598-1601)
越後春日山から上杉景勝が入封。
領地は蒲生旧領、出羽庄内、佐渡を加えた120万石。
蒲生家
(1601-1627)
関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入封。
加藤家
(1627-16439
伊予松山から加藤嘉明が倍の加増の40万石で入封。
会津松平家
(1643-1868)
初代保科正之寛永20年(1643年)、出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入封、以後会津松平家(保科家)支配が定着。幕末までに内高は40万石を突破して、徳川御三家水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力も上回っていた。
*保科から松平への改姓
 正之没後、藩主は子の正経、その弟の正容が維いだ。正容時代、姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生。歴代藩主通字も保科家「正」から「容」に改める。
 家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いた。
 旗印は漢字1文字「會」。

幕末期の激動と衰退
嘉永5年(1852) 第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で親政して改革を行い、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。2月に死去。
第9代容保が藩主を継いで幕末の動乱期を迎えた。
安政6年(1859) 北方警備のため幕府から根室・紋別を譲渡される。
文久2年(1862) 閏8月に容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて
 (新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)
会津藩士と尊攘派志士の取締りや京都の治安維持を担った。
元治元年(1864)
禁門の変
孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰 (ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。
慶応2年12月
(1867年1月)
孝明天皇崩御、薩摩藩・長州藩との対立が激化。
慶応4年(1868) 大政奉還、王政復古を経て、鳥羽・伏見の戦いより戊辰戦争勃発。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
 明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩に孝明天皇よりの御宸翰があったにもかかわらず朝敵とされた。
*会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。
*降伏後の会津藩領は会津松平氏から没収され、藩主容保は鳥取藩預り禁錮刑。
明治2年(1869) 容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩を立てた。会津地方は廃藩置県を前に、明治政府民政局直轄地となった。
その後若松県となり、明治9年(1876年)に福島県に合併。
*容保嫡男容大に家名存続が許される。
明治3年(1870) 旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれて「斗南藩」成立、現青森県東部。
*「斗南藩(となみはん)」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったとされているが、「南、すなわち薩長政府と斗(戦)う」と。







(2) 会津若松城の新島八重
 *戊辰戦争によって会津若松の鶴ヶ城は陥落しました。新島八重も凄まじい奮戦を展開しましたが、残念ながら、城を明け渡すことになります。その前夜城内で
   「明日の夜はいづくの誰かながむらんなれし御城に残る月影」
  を詠んだとされ、戊辰戦争期における歌のひとつとされます。

 *明治34年3月、中学唱歌として発表された「荒城の月」は、明治31年土井晩翠が作詞し、滝廉太郎が作曲したものです。
 一説に大分県竹田の岡城がモデルともいわれる一方、作詞家土井晩翠の方では、仙台の青葉城あるいは会津若松の鶴ヶ城がモデルとされます。従って「荒城の月」記念碑はこれら3地点に建立されています。
 なお、「荒城の月」歌碑は、岩手県、東京都、長野県、富山県、兵庫県にもある。

 *土井晩翠は昭和21年、会津高等女学校での講演時、「荒城の月」は鶴ヶ城を思い浮かべて作詞したと言及したので、地元民は早速記念歌碑建立委員会を設立し、晩年晩翠夫婦を招いて除幕式を行ったという歴史があります。また関係辞典には

 落城二日前の九月二十二日、冴え渡る月光の中、後の同志社大学新島夫人となる山本八重子が

   あすよりはいづくの誰か眺むらん 馴れし大城に残る月影
と鶴ヶ城の壁に朱箭で一首の歌を書きしたという逸話が、晩翠の心に深い感銘となって刻み込まれ、「荒城の月」のモチーフを形成したといわれている。」
     (上笙一郎編「日本童謡事典」(2005年)東京堂出版)


新島八重の板かるた
 新島八重と板かるたの関係を示す参考資料から関連個所を引用します。
  (資料引用:同志社女子大学「同志社の母 新島八重」2012年10月24日)
         「新島八重の生涯ー八重を学ぼう 八重に学ぼうー」2012年8月

 「・・・八重が百人一首かるたの名手だったとわかった・・・八重の遊んだかるたの正体は下の句かるた取りだ…残念なことに現在の会津若松では、すでに、板かるたの記憶が消失している・・・幸いなことに北海道にそれが残っており、今でも板かるたを購入することが出来ます。」
「正月には恒例のかるた大会が新島邸で開かれています。」
「会津で発生した板かるたが、戊辰戦争以降に斗南藩(現在の青森県と岩手県の一部)経由で北海道に伝わったと言われてきました。」

これらの情報は、京都の会津県人会関係冊子「会津会雑誌」昭和3年から5年の記事に「板歌留多」として、「会津独特の下の句読みて下の句を取る歌かるた遊び」とはっきりと記されていたのです。


板かるた
(1)板かるたの歴史と種類
「板かるたのいろいろ」
板かるたの発生
 北海道説、福島県会津若松説があったが、現在では江戸時代に会津藩の武士が手内職で作成していたのではないかという説が有力。
会津若松から北海道への伝播
  屯田兵が持ち込んだ説、北方警備に赴任した武士が持ち込んだ説、開拓団が持ち込んだ説などがある。
 屯田兵の場合、厳しい自然環境のもと、「軍隊」の役目と開拓作業と訓練の日々の中で、村を挙げての神社のお祭りや夏の盆踊り、あるいは時々の相撲巡業などが唯一の娯楽で、数少ない娯楽の一つに「板かるた」があった。
板かるたの素材
 「板」に書かれた「百人一首かるた」で、取り札を「紙」ではなく「板」に書いた。屯田兵時代の北海道では「紙」は非常に貴重な品で、紙に代わって、屯田兵たちの周囲に群生していた朴(はお)や白樺の木などを切り、削り、かるたの取り札にした。最初に作ったのは、もと会津藩士達だったといわれる。特に朴の木はその丈夫さと風合いで「板かるた」の素材にぴったりで、主に手書きで作られていたが、盛んになるにつれ、工場で量産され、書体も印刷になっていった。

競技方法
5人対5人、3人対3人などの団体戦で行われ、下の句しか読まないなど、一般の百人一首と若干異なるやり方で遊び継がれ、全日本下の句かるた協会も作られ、冬になると北海道全体で遊ばれる。名人戦や選手権大会なども催されている。

最近の展示例
平成18年10月から11月にかけて、京都府八幡市立松花堂美術館で、「百人一首の世界」特別展が開催され、松花堂昭乗に関係した百人一首の各種資料が展示され、「北海道板かるた|作品も展示された。
作者名「北潮作」、縦7.6cmx横5.0cm木札に手書きされたもので、独特の変体文宇による百人一首歌下句「板かるた」となっている。
*)下旬の最初の漢字を大胆な変体字に書き出した札例
(1)第18番歌「夢の通ひ路」
(2)第42番歌「末の松山」             (スライド参照)
(3)第60番歌「まだふみもみず」
 *)下旬の最初の平仮名を大胆な変体仮名に書き出した札例
(1)第51番歌「さしも知じな」
(2)第64番歌「現れわたる」            (スライド参照)
(3)第75番歌「あはれ今年の」
 (展示例:ハ幡市立松花堂美術館「松花堂美術館平成18年度特別展
  百人一首の世界 昭乗筆百人一首色紙帖を中心に」(平成18年10月7日))

く板かるたを初めて見た人の興味深い話>

   (引用資料:千葉千鶴子「百人一首の世界」和泉選所1992年10月20日)
 大学の寮生が百人一首かるたを借りに来たので、愛用の「百人一首かるた」を差し出したが、寮生たちは「みんな怪訝な面持ちで首をかしげたまま受け取ろうとしない」。 彼らが求めていたのは「下の句歌留多」とのこと。
通常のかるたより分厚い木の板に、墨痕もしたたかに書き記された百人一首の下句。
鰊船に乗った漁師が、海洋の船中で遊んだ百人一首だとか。波しぶきにも破れないように考え出した木切れに肉太の文字。何故だか「読み札」も下句だけを朗唱。

<参考事項・4>近江神宮「板かるた扁額」 参照方
 これら「板かるた」の「下の句最初の文字」を見ますと、文字がかるたの上に踊っており、いかにも「板かるた」の面白さを思わせるような印象を受けます。かるたをする人々は取り札としてのこれらの文字を覚えねばなりません。しかし、独特の味である文字ですから、一度取り札として手にすれば、直ぐに馴染みになりそうなかるた面です。札を取り合う時、板札独特の騒々しい取扱いとそれに急かれる心が混ざり合って何とも不思議な「遊戯の世界」を醸し出すように思います。
風土的に北海道ならではの「板かるた」というべきかもしれません。

(2)中村北潮略伝
 「板かるた」に関わった書家・中村北潮氏の略歴

中村北潮氏 略歴
北海道函館市出身。明治42年(1909)2月1日、廻船問屋に生まれる。3歳でお寺に預けられ、写経をしたことが手習いの始まりとなった。13歳の時すでに、「北潮」を名乗っていた。
書道塾「北潮舎」を開き、多数の門下生を育てた。平成6年(1994)11月1日、85歳で亡くなる。
70年間書き続けた作品は、板かるた、板書、色紙、硯屏風など70万点にのぼるという。70年間に70万点の作品を書き続けたと言うことは、1年に1万点、1日に30点書き続けたことになる。大変な意欲の書家。
日本文化の中には、それぞれの分野に色々の文字が用いられている。
 *のれんの板文字  *歌舞伎役者の名前  *相撲の番付け など
多様な漢字、カタカタ、平仮名の文化が拡がっている。
遊びの世界での文字のバラエティもある。
人の人生を辿ってみても、名前を親からもらって、死しては戒名を貰って締めくくりとするわけで、文字の文化とは切っても切れない縁がある。
中村氏の展開した「板かるた」の世界も、分野から観れば遊戯の世界の一端を担った事になる。
生涯に残された何十万という文字の遺産も百人一首文化と共に、その価値が高まっていくことになるでしょう。

(3) 板かるた競技
 「板かるた」(下の句かるた)の遊び方 「板かるた ビデオを参照」

*詳細な寸法が描かれた専用のシートを用いる。
*三人対三人で競う。
*両チーム横一列に並び、向かい合う。
*三人の役目は「攻め」「中間」「守り」別に向かい合い、自分か、相手の札を取り合う。
*競技中味方同士の札は入れ替えられる。
*読み札は通常の百人一首の読み札を用いるが、下の句しか読まない。
 北海道新聞 芦別で世代交流下の句かるた大会 <youube>
 
 「板かるた 下記のビデオを参照下さい」  北海道江差町郷土資料館 提供 <YouTube>
 
 
  「板かるた」の書体の変遷、現在の「板かるた」の画像集は
こちらのホームページを参照ください。
 
 
参 考 事 項
 (1)八重の略年譜

1845  弘化二年  十一月二日(新暦十二月一日)八重誕生
1865  慶応元年  川崎尚之介と結婚
1868  慶応四年  戊辰戦争 父権八・弟三郎戦死 八重籠城
1871  明治四年  兄覚馬を頼つて家族で京都へ移住
1872  明治五年  女紅場権舎長並びに教導試補
1875  明治八年  川崎尚之介死去 新島襄と出会う
1876  明治九年  新島襄と結婚 ドーン夫人と私塾をスタークウェザーと女子塾開設
1877  明治十年  同志社分校女紅場開校  礼法教員を勤める
1890  明治二十三年  夫襄永眠 八重は日本赤十字社正社員になる
1892  明治二十五年  兄覚馬死去
1894  明治二十七年  篤志看護婦として日清戦争に従軍
1904  明治三十七年  篤志看護婦として日露戦争に従軍
1906  明治三十九年  勲六等宝冠章受賞
1924  大正十三年    皇后陛下行啓に際し単独謁見
1928  昭和三年     昭和天皇大礼に際し銀杯授かる
1932  昭和七年  六月十四日  永眠 八十六歳(数え年の米寿)
      (同志社女子大学「新島八重の生涯―八重を学ぼう、八重に学ぼう」
       二〇一三NHK大河ドラマ「八重の桜」記念(二〇一二年八月))
 参照
 
 
 
 
 
 
 
 新島八重歌集    
      (出典 :同志社女子大学「新島八重の生涯―八重を学ぼう、
                八重に学ぼう」二〇一二年八月増補改訂版)

1.戊辰長月二十日あまり三日の夜、さしのぼる月のいとさやけなるを見て
   明日の夜は何国の誰かながむらむなれし御城に残す月影
2.須磨にものしけるとき(詠詳年未詳)
  「たちならぶ松原ごしに見ゆるかな月照り渡る須磨の浦風」
3.夫のみまかりける年の春(明治二十三年)
  「ひとりねの寝覚めの床は春雨の音聞くさへもわびしかりける」
4.「心あらば立ちな隠しそ春霞御墓の山の松のむらだち」
5.「大磯の浪にくだくる月影は如何に寂しき姿なるらん」
6.「大磯の岩にくだくる波の音のまくらにひびく夜半ぞ悲しき」
7.(明治二十三年)「頼みつる竹は深雪に埋もれて世のうきふしをたれとかたらむ」
8.(明治二十三年三月)「大磯の岩に砕けし白波も玉と輝く世にこそありけれ」
9.(襄の二周忌の述懐)「打ち寄するうきよの波は荒くとも心の岩は動かざりけり」
10.「かえらざることとしれども幾度は思ひ出してぬるる袖かな」
11. (明治三十三年襄の十周忌)「梓弓十年の春のけふもまた帰らぬ人を慕ひぬるかな」
12.「鶯の初音をつぐるこの頃は昔の春をしのばるるかな」
13. 御大典のある月の三日おのが誕生日なれば(大正三年十一月三日)
  「大君のめでたき御代に七十路のよはひかさぬる身こそ幸なれ」  八重子
14. 古里 新島八重子七十七(大正十年)「東山弓張り月は照せども昔の城は今草の原」
15. 大正十三年春を迎へて
  「いつしかに八十路の春となりにけり射るがごとくに年月はへて」
16. 慶事を聞て(昭和三年)「いくとせは峰に懸れる叢雲の晴れて嬉しき光をぞみる」
17. 戊辰あき「六十とせの音を語る友もなくあはれさみしきこほろぎの声」
18. (八十四歳の詠)「ふるさとの萩の葉風の音ばかり今も昔にかはらざりけり」
19. 御盃をいただきて(昭和三年十一月)
  「数ならぬ身もながらゐて大君の恵の露にかかるうれしさ」
20. 昭和三年十一月十七日黒谷にてうつし 八十四歳八重子
  「ちよふとも色もかはらぬ若松の木の下かげに遊ぶ群れづる」
21. 柏木氏の月報を見て(昭和五年二月)
  「ありし世にともに祈りしことの葉をおもひ出してぬるる袖かな」
22. 「あづさ弓春来にくれば大磯の岩打つ波の音ぞなつかし」
23. ふるさとわすれがたく(昭和六年四月)
  「若松のわがふるさとに来て見ればさきだつものは涙なりけり」
24.「たらちねのみはかのあとをとふこともけふをかぎりとなくほととぎす」
25.「老いぬれど又も越えなむ白河の関のとざしはよし固くとも」
26. 暁鶏声(昭和七年元旦)「幸い多き年来にけり諸人に暁つぐるくたかけの声」
27. 寿(昭和七年正月)「葦鶴の鳴くを聞きつつ嬉くも米てふ文字の年を迎へぬ」
28. その他「たけの子を見ても生ひ立ちまなべ子ら親に勝ると人のいふまで」
 (3) 『荒城の月 こうじょうのつき』
    土井晩翠 作詞、瀧 廉太郎(滝 廉太郎) 作曲
    七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディを融合した名曲

1  春高楼(こうろう)の花の宴(えん)   巡る盃(さかづき)  影さして
 千代の松が枝(え)  分け出でし   昔の光  今いずこ
 2  秋陣営の霜の色   鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照り沿いし   昔の光  今いずこ
 3  今荒城の夜半(よわ)の月   変わらぬ光 誰(た)がためぞ
 垣に残るは ただ葛(かずら)  松に歌う(うたう)はただ嵐
 4   天上影は変わらねど   栄枯(えいこ)は移る 世の姿
  映さんとてか 今も尚   ああ荒城の夜半の月
*明治34年(1901年)中学校唱歌懸賞応募作品として作曲。原曲は無伴奏歌曲。
*歌詞は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したもの。
  原題は『荒城月』。
*『荒城の月』歌碑は全国に4箇所あり。
(1)土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址
(2)福島県会津若松市の鶴ヶ城址。
(3)滝廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址
(4)富山県富山市富山城址
 (4)近江神宮の「板かるた扁額」
*百人一首第一番歌とその歌人は、天智天皇の、
  「あきのたのかりほのいほのとまをあらみわがころもではつゆにぬれつつ
その天智天皇縁の地、近江大津京跡近くに、昭和15年・紀元二千六百年の年に、天智天皇を御祭神とする近江神宮が創建された。百人一首の故里ともなりつつあり、京都嵯峨野定家卿縁りの地と共に、「志賀の里」は一層和歌世界との関係も深い。

*近江神宮境内の一隅に次の扁額の「板かるた」の展示あり。
この扁額の関係者は関西北海道クラブ会長南部忠平氏で、奉納年は昭和五十八年十二月吉日・中村北潮書となっている。

*南部忠平氏はアムステルダムおよびロスアンゼルス・オリンピックの走り幅跳びで活躍した戦前の著名な陸上選手。往年の著名なスポーッ選手が百人一首のかるたを近江神宮へ奉納することになったのか、南部氏の経歴(下記参照)を見ると、彼は北海道出身で、長らく関西地区で活躍して上述のクラブと関わっていたため。

現在では北海道にのみ存在する「板かるた」は、前述のように、明治期に會津若松からの北海道移住者が伝えたとされているもので、現在でも北海道ではこれらの「板かるた」を使用して「かるた取り」を行つている。
関西北海道クラブの記念企画として、同じく北海道出身の書家中村北潮氏の腕を借りて、北海道に縁り深い「板かるた」を奉納することになったのでしょう。
この扁額は南部忠平氏の名前と共に後世まで語り継ぎ、伝承されていくことでしょう。
因みに南部氏がこの扁額を奉納したとき、古希を迎えられるときでもあった。

(注)南部忠平氏の略歴(インターネット。WIKIPEDIA事典参照)
  (明治37年(1904)5月24日生~ 平成9年(1997)7月23日没、享年93歳)
  戦前のアムステルダムやロスアンゼルス・オリンピックの陸上選手。
(1)生まれ    北海道出身。
(2)中学時代  北海中学から陸上選手として活動した。雪のため練習ができないと、札幌市内の百貨店の階段でトレーニングをして鍛えたという。
(3)大學時代  早稲田大学在学中の昭和3年(1928)のアムステルダム・オリンピックで陸上男子三段跳で4位入賞。
(4)現役時代  昭和6年(1931)神宮で走り幅跳び7m98(十0.5)の世界記録を樹立。
(5)五輪選手  その勢いをかって、昭和7年(1932)8月4日のロサンゼルス・オリンピックでは優勝(金メダル)しました。また、走り幅跳びでも3位(銅メダル)を獲得するという快挙を成し遂げています。
南部氏の記録は大変レベルが高く、70年以上たった現在でもいまだに日本歴代13位に位置しているそうです。したがって40年近く日本記録として残り、昭和45年(1970)になって漸くにして山田宏臣が8m01を跳んで南部氏を乗り越えることが出来た。
(6)社会人  現役中は美津濃(ミズノ)に所属し、引退後は大阪毎日新聞運動部長・日本陸上競技連盟強化部コーチ。東京オリンピック日本陸上チーム監督などを歴任しました。
(7)表彰  1992年、国際オリンピックからオリンピック功労賞(olympic ordcr)が贈られています。
(8)死去  1997年7月肺炎により死去。
 現在、南部氏の功績をたたえて、毎年7月に南部忠平記念陸上という大会が開催されていて、五輪・世界選手権の追加代表選考会に使われる非常に重要な大会。








(5)「容保桜」    (スライド参照方)
 京都府庁(嘗て京都守護職上屋敷跡) 旧本館(国重要文化財。1904年明治37年造園家小川治兵衛施工)中庭に、円山公園初代しだれ桜の孫桜はじめ6本の桜がある。
 桜守として有名な造園家で、植藤造園第16代佐野藤右衛門氏(平成18年度京都府文化賞功労賞受賞)は、平成22年3月、当時の守護職會津藩主松平容保の名に因み「容保桜」と命名した。大島桜系の山桜で、通常の山桜より大輪の花を咲かせる。
 佐野氏が「容保桜」の種から15cmほどに育てた若木10本が、平成24年12月に京都府知事から會津若松市長へ寄贈された。


 (6)戊辰戦争後の福島県人の奮闘
   <和歌の世界の桃源郷・みちのくー福島県の歴史と文学世界

 地形・気候・交通・歴史の面より3地区(*浜通り:太平洋ー阿武隈高地 *中通:阿武隈高地ー
     奥羽山脈 *会津:奥羽山脈ー越後山脈)に区分される

*歴史  古代:信夫国(福島盆地)蝦夷勢力圏境界、信夫郡として陸奥国に再編
     701年(大宝元年)信夫郡 718年(養老2年)石城国6郡・石背国5郡分置
     中世:伊達・相馬・二階堂・蘆名・畠山・結城各氏族の関東武士団割拠
     近世:蒲生氏郷、上杉景勝、保科正之が順次入府、小藩と天領が乱立
     明治:若松県、日本松県、磐前県を経て、明治9年福島県へ合併

*文学世界の展開
(1)萬葉集:巻第十四 東歌―陸奥国相聞往来歌および譬喩歌
      縁りの地 安積山(巻16-3807)、会津嶺、安達太良山など
(2)古今集ほか:仮名序(安積山の歌。和歌の父母)
      縁りの地 安積の沼、安達、信夫もじ摺り、陸奥への道(勿来関、自河の関・能因法師)
(3):百人一首:河原左大臣、源重之、藤原実方、西行法師
(4):奥の細道:松尾芭蕉

近代から現代にかけて県の厳しい歴史

*戊辰戦争の後遺症的福島県人気質
福島県人は「頑固」、保守的で生真面目なイメージ。
背景に戊辰戦争での長州への遺恨にある。長州藩の意向で、会津藩士の遺体は埋葬すら許されず、白虎隊は自害を強制され、福島県人は今も長州(山口県)を許さず。
明治維新以降、福島会津若松市と山口萩市で何度となく和解交渉が行われたが、いまだ和解に至らず。

<幕末期の中藩・小藩群>
 会津(松平・二十八万石)、平(安藤・三万百)、中村(相馬・六万石)
 棚倉(戸田・七万石)、白川(阿部・十万石)、湯長谷(内藤・一万五千石)、
 二本松(丹羽・十万石)、泉(本多三万石)、福島(板倉・三万石)、
 三春(秋田・五万石)が入り組んでいた。

<地形的孤立性と福島県人気風>
 奥羽山脈と阿武隈山脈により地形が東の浜通り、中央部の中通り、西の会津地方と三地域に分断された。3地域の気質は異なり、各々が独立地域感が強い。
  「会津」律儀で頑固一徹)筋を通し情に厚い。
  「中道り」好奇心強く,都会的で柔軟な考え方が多い。
  「浜道り」開放的でおおらかでさっぱりして気っぷがいい関東型に近い。

*明治維新後の福島県出身の人物
 戊辰戦争における敗北は、その後の明治政府に対する負い目となり、近代社会における生きる道として、「文官の世界」で国に奉仕する立場を意識せざるを得なかった。公人としての福島県人の人物一覧を引用する。

▲山本覚馬(同志社大学設立に貢献、京都府議会議長)(新島八重実兄)
▲飯沼貞吉(貞雄)(白虎隊生き残り)(逓信省役人・電信電話の発展に貢献)
▲飯沼一省(貞雄の甥)(内務次官、東京都長官)(参考事項・その7参照)
△河野広中(第lo代衆議院議長)
△堀切善兵衛(第26代衆議院議長)
△堀切善次郎(内務大臣、東京市長、神奈川県知事)
△松平恒雄(初代参議院議長、宮内大臣、外務次官など)
△池上四郎(朝鮮総督府政務総監、大阪市長)
△池上三郎(函館控訴院検事長)
△西川鉄次郎(大審院判事、中央大学倉J立者の一人、白虎隊士)
□中野友禮(日本曹達創業者、日曹コンツェルン創業者)
□星一(星製薬創業者、星薬科大学創立者)
□高嶺秀夫(東京高等師範学校、東京女子高等師範学校長)

●井深八重(ハンセン氏病看護師)(1897-1989)
  (會津藩士家系、台北生れ、同志社女学校専門部出身。父衆議院議員井深彦三郎、
  明治学院総理井深梶之助は伯父。ソニー創始者井深大遠縁。
  遠藤周作『わたしが・棄てた・女』モデル)
 ●大山捨松(女子教育者)(1860-1919)
 (明治の知識人、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名さき、のち咲子。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。)
○山川浩(東京高等師範学校。女子高等師範学校長、陸軍少将、貴族院議員)
○山川健次郎(東京・九州・京都各帝国大学総長、貴族院議員)
○山川二葉(東京女子高等師範舎監)
  (会津藩国家老・山川重固と会津藩士。西郷近登之の娘・えんの7人兄弟の長女
   弟妹に、浩、三輪、操、健次郎、常磐、咲子)

文学・文芸分野の人材
〇高村智恵子(高村光太郎の妻 )□中山義秀(芥川賞受賞作家)
□横光利一(作家) □草野心平(詩人) □丘灯至夫(作詞家) □野村俊夫(作詞家)

音楽分野の人材
□古関裕而(作曲家)(1909-1989)(和製スーザと呼ばれ、作曲は五千由に及ぶ。)
(クラシック畑からポピュラー畑に転身、多数の軍歌、歌謡曲、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」など、全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲嵐」)、 読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輸のオリンピックマーチなど。
□伊藤久男(流行歌手)  □霧島昇(流行歌手)  □春日八郎(流行歌手)

一風変わった立志伝中の奇人としては、 (参考メモ冊子参照)
野口英世(細菌学)と偉人伝中人物なるも、生涯借金しまくった千円札肖像人物

軍人や自衛官にも多くの人材を輩出しているが、元帥・陸軍大将は、
 ◇畑俊六 ◇畑栄太郎 ◇西義一
などの数名で、変わった軍人としては、
 ◇松江豊壽陸軍少将・板東存虜収容所長
  (かのベートーベン「第九」本邦初演を挙行した武人)
近年では、自衛隊の田母神俊雄航空幕僚長がいる。

東日本大震災の大津波と原子力発電所崩壊大惨事の被害
◆戊辰戦争(1868年)から143年目の平成23年3月11日またしても福島県人は、
  百年に一度の大惨事を一身に受けねばならなかった。
◆ どうして東京電力原子力発電所は福島県を立地環境に選定したのか。
  1950年代末頃の福島県は、高度経済成長の波に乗り遅れ、産業近代化率も
  全国平均の270%と比較して126%と低位であった。このため福島県は産業誘致
  のため電源開発に努力していたが、エネルギー革命により常磐地区の石炭産業が
  斜陽化してきたため、新エネルギー源を模索していた。
  1960年(昭和35年)5月福島県は日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)
  に加盟し、11月東京電力に双葉郡の原子力発電所誘致の敷地提供をする旨を
  表明し、翌年9月大熊町議会が、10月双葉町議会が原子力発電所誘致を議決。
   (半世紀後惨事に遭遇するとは、予測だにしなかったであろう。)
◆広島県人の受けた人類初の原子爆弾被弾惨事とともに、「*島」県人の悩みは終わることがない。
◆かの戊辰戦争での中央政府の會津藩に対する姿勢がなおかつ残っていたのであろうか。

(7)白虎隊生き残り(飯沼貞吉)
   (いいぬまさだきち、嘉永7年(1854年4月22日~昭和6年(1931年2月12日)
*白虎隊士(士中二番隊所属)。維新後は逓信省通信技師、陸軍大尉。
 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に
*自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。
*維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、 日清戦争にも従軍した。
*昭和6年77歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。正五位勲四等。
 (補足)飯沼貞吉の生涯
*嘉永7年(1854年)会津藩士・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と二之丁間、
大町通りにて生まれる。時衛は物頭を勤め、家禄450石。母文子は西郷十郎右衛門近
登之の娘で、雅号玉章(たまずさ)の歌人。両親と兄の源八、妹のひろ、弟の関弥。
他に祖父の粂之進、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居。会津藩家老。西郷頼母の
妻千重子は叔母。山川大蔵(浩)、山川健次郎、大山捨松、山川二葉らの山川兄弟姉
妹は従兄弟(母同士が姉妹)。
*10歳で藩校日新館に入学。二経塾一番組編入、15歳で止善堂に入る。学業
・武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ15歳だったが、長身でもあり、1歳偽つて入隊。
 (従兄妹の山川健次郎は同年生まれで、幼年白虎隊)。

*白虎隊 白虎士中二番隊出陣の慶応4年8月22日、父時衛は既に白河口に出陣、兄の
源八(18歳)も越後口の戦線に出ていた為、母文子から厳かな訓戒を受けた。
 「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓え
 もあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な
 振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれ
 ば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より母方祖母との面会
を許された。貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。
  重き君軽き命と知れや知れおその媼(おうな)のうへはおもはで
歌人の母は、短冊に一首したためた。
  梓弓むかふ矢先はしげくともひきなかへしそ武士(もののふ)の道
*旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノロ原に出撃。翌23日の早朝四時頃、副隊長格
教導篠田儀三郎指揮下に、戦ったが敗走。飯盛山に至り、炎に包まれた城下を見て、
敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意。貞吉も、皆に遅れじと咽喉に
脇差を突き立てたが死にきれずにいた。
*彼を救出し介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。ハツに
は貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、
心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。その後、
医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。
翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医
(阿部宗達、吉見雲台)が治療をし一命をとり止めた。

*その後の貞吉 貞雄と改名
明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾(静岡学問所、静岡市)に入り、
          後の海軍大将出羽重遠らと学ぶ。
明治4年(1871年)藤沢(志摩守)次謙(奥医師桂川甫賢三男)書生となる。
明治5年(1872年)工部省技術教場(東京)入所、電信技師となり、10月赤間関(山口県下関市)赴任。
          その後、国内各地での勤務。
1885年(明治18年)工部省が通信省に変わり新潟に勤務。
1891年(明治24年)広島電信建築区電信建築長に就任。
1893年(明治26年)東京郵便電信局勤務
1894年(明治27年)日清戦争、大本営付となり陸軍歩兵大尉として出征。
1905年(明治38年)札幌郵便局工務課長
191o年(明治43年)仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。
           正五位勲四等を受章。
*1881年(明治14年)広島藩士松尾錬太郎娘れんと結婚
1882年(明治15年)長男一雄
1885年(明治18年)長女浦路
1897年(明治30年)二男一精
1906年(明治39年)一雄が日露戦争に出征して帰還した直後、札幌で死去。
        一精は北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し、三男一女に恵まれた。
*孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇、国際医療福祉大学大学院教授・飯沼下浩、
甥に大正期から昭和の終戦直後に内務官僚。貴族院議員などを歴任した飯沼一省。

*晩年退職後も仙台に住む。會津三園會メンバーで秋月満志子に和歌の指導を受けた。
皇太子殿下飯盛山行啓に「日の御子の御影あふきて若桜ちりての後も春を知るらん」
1931年(昭和6年)2月12日、仙台にて永眠。墓は同市内の輪王寺。
1957年(昭和32年)戊辰戦争九十年祭時、前島会の手で飯盛山に墓碑が建てられた。
*貞吉は白虎隊のことを一部の史家以外にはほとんど話さず、子孫も一部の史家のみに史料を委託した。

     (以上)
「板かるた」で初めてのカルタ取り
中西先生に読んでいただき、参加者全員で「下の句かるた」を楽しみました!
   
 百人一首の下の句が独特の文字で書かれた「板かるた」
   
   
   
独特の文字は読めそうで読めません!馴れるまではお手付きばかり!
   
   
   
初めての板かるた、如何でしたか? 

「大変興味深いお話に実物の「板かるた」に触れることが出来て本当に良かったです!
早速、中西先生に「板かるた」を注文しました。」と嬉しそうに感想を話され、主催者として嬉しい限りでした。
次回の勉強会は、平成26年2月22日(土)学びの館 午前10時~12時
「交野地域の古代氏族」  =新選姓氏禄から考える=
 講師:真鍋 成史氏(交野市教育委員会)です。
 


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