星のまち交野TOPページへ戻る

平成26年3月定例勉強会

大塩平八郎の乱

  講師:高尾 秀司氏 (交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時

44名(会員29名)の参加
 2014.3.22(土)午前10時、3月定例勉強会に44名(会員29名)が参加されました。
平田副会長の挨拶に続いて、高尾秀司より「大塩平八郎の乱」をテーマに、事件のあらまし、大塩平八郎の人物像、当時の情勢、門弟、乱の顛末など詳細な資料を基にわかりやすくご講演いただきました。
 講演後、活発な質疑応答がなされ大変有意義な勉強会となりました。 

 また、講演内容を受けて9月13日(土)には天満周辺を高尾氏の案内で、大塩平八郎の乱に関連する史跡を探訪する予定で多くの方の参加が望めそうです。
 ※ 当日頂いたレジメ集及びパワーポイントでの映像写真集の掲載にあたり、
   高尾さんの快諾を戴き御礼申し上げます。 記して感謝申し上げます。
 
  また、講演会の写真は、伊東征八郎様にお世話になりました。
 
 
 
 
講演のレジメ集
大塩平八郎の乱
 
大塩平八郎の肖像画(大坂城天守閣蔵)
事件のあらまし

 1836年天保の大飢饉が起き、極端な米不足となり餓死者があいついだ。百姓一揆や打ちこわしも多数起こった。そんな状態にもかかわらず米を大坂から江戸に送ろうとする幕府の大坂町奉行所に業を煮やした大塩平八郎は元大阪東町奉行所の与力であったにも拘らず民衆の立場にたち天保8年(1837)2月19日、同志と共に民衆を苦しめる役人や金持ちを攻め滅ぼすため挙兵し大商人などの屋敷に火をかけた。この為大坂の町中のおよそ五分の一が焼けてしまいました。これが俗に云う大塩平八郎の乱であります。
大塩平八郎はどんな人だったか

 大塩平八郎は、大坂町奉行であった大塩敬高(よしたか)の長男として寛政5年(1793)に生まれました。平八郎は幼くして両親を亡くし、祖母の手で育てられました。そして14歳のころ父の跡を継いで与力見習、後与力となりました。平八郎は奉行所時代、清廉潔白な人物として不正を次々と暴いてゆきました。強盗殺人事件、僧侶の腐敗事件,屎尿処理事件等を裁き、特に西町奉行所与力、弓削新左衛門の汚職事件では内部の犯行であった為、難航するが見事解決、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めました。(この時の上司・高井山城守の応援があって成功)この事件に関わった人々・仲介役・八尾新蔵(遊女屋の亭主・新町遊郭・八百軒)千日の吉五郎(十手持ち)など
 1830年高井山城守の江戸転勤とともに与力を辞任して養子の格之助に跡目を譲り、自宅で洗心洞という私塾を開き門弟の教育にあたった。学問は陽明学で知行合一(知識と行動はもともと一つであるという).仁(人間関係の基本で他人に対する親愛の情・優しさを意味している)を説く。
当時の大坂の行政の仕組み
 「大坂城代」 将軍直轄。譜代大名が就任
 「大番」 将軍直轄 将軍の信任の厚い旗本が就任 これの長が大番頭


大坂町奉行所
 大坂町奉行所は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行のひとつ。元和5年(1619)に久貝正俊(東)嶋田直時(西)が奉行所に奉行として、それぞれ役高3000石で任じられたのが始まりとされている。江戸幕府と同様に東西一カ月ごとの輪番制を取った。初名は大坂郡代。老中支配下で大坂三郷(天満組、北組、南組)摂津、河内、和泉、播磨の行政や司法を執り行っており、最初の奉行所は大阪城北西の出入り口である京橋口の門外に設置されていたが、享保9年(1724)の大火で焼け、その後東町奉行所は京橋口、西奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転された。
 
奉行所の役人 与力、同心
 東西各奉行所に、それぞれ「与力」30騎(馬にのる兵士という意)(今で云えば府庁の係長位で出世しても課長止まり)「同心」50人が配属。与力は80石、同心(与力の配下)は10石を支給され、屋敷は与力が500坪、同心は200坪(もっと狭くしるしたものもある)を拝領された。表面上の給与は少ないが付け届けなどで同程度の武士より裕福であったという。

岡っ引き・目明し
 公式な役職でなく与力などが私的に雇った協力者(親分とよばれる、内部事情に通じた町、村内の顔役に委任される場合が多い)、その為映画などによく出てくる悪役としての役目が多い
 英雄として描かれているのが「銭形平次」である。(原作、野村胡堂)最も有名な捕り物帳。岡っ引きであるが、[投げ銭」を駆使して、事件を鮮やかに解決していく。
洗心洞について
 天保元年(1830)平八郎は与力を辞任して養子の「格之助」に跡目を継がせ、自らは自宅で私塾を開き門弟や農民の教育にあたった。この塾を洗心洞とよんだ。文字通り心を洗う塾舎とした。屋敷内に講堂と塾舎を設け,塾生を寄宿させ塾学生と共に日夜文武両道を教授した。その門弟は4,5十人に達したという。学風は非常に厳格で子弟の名分を正し,知行合一の実学を重んじた。号を中斎と称し数々の名著があり、詩文も書いたという。ここで育った門人から後の乱に多数のものが参加した。
乱に参加した主だった門弟
「白井考右衛門」
 守口市竜田通りに屋敷はありこの地方きっての豪農であった。早くから平八郎の門下生となり、経済的な援助を行い、片腕とも云われる協力者であった。最近まで大塩書院と呼ばれる隠居所がありここで大塩が出張して講義が行われていたと居はれております。乱の後伏見に逃れる途中豊後橋で捕えられる。

「高橋九右衛門」
 河内国門真三番村の富農であった高橋九右衛門は白井孝右衛門の口利きで大塩家の勝手向きの世話をしており、平八郎の挙兵にあたっては終始その中核となった人物である。事件後支配役場へ自首す。

「深尾才次郎」
 枚方市尊延寺の出身でいまでも才二郎に関連する家族が住んでいる。また道を挟んだ山手の墓地に墓がある。才次郎の家があった所に「大塩中斎遺跡」の石碑が建っている。
才次郎は大塩の挙兵を知ると、たくさんの同行者と大坂へ向かったが、途中守口あたりで大塩の敗走を知り大和・初瀬から能登へ逃亡したが自害する。

「庄司義左衛門」
 同僚に人望があり、剣、槍にもすぐれ砲術にも心得があった。
 乱にそなえて砲術の指導を行っていた。

「茨田郡次」(まんだぐんじ)
 茨田家は3百有余年にわたり連綿と続いてきた門真地方切っての旧家である。郡士の曽祖父は大坂与力瀬田八右衛門の倅であり、大塩家とは同役である上に屋敷も背中合わせであったといわれます。郡次が大塩と出会うのは,守口の白井孝右衛門の紹介で洗心洞に入門の時であるといわれます。しかし茨田家に残された「金銀出入帳」に入門の前に季節ごとに「大塩先生」宛に祝儀が送られていたという記録があることから早い段階から大塩を見知っていたとも考えられます。

 この事件には、その外近郷の農民が多数参加した。この農民達は相次ぐ天災、年貢,諸役の強請、綿、菜種などの作物の専売権を市中の豪商に握られ痛憤おさえられないものがあった。
 事件後、瀬田藤四郎家族が茨田家に逃れ来て、その夜郡次宅に泊まり翌朝、郡司共々、星田和久田家(東和久田)にやって来て、一行を大和に逃がした後、門真に帰り、郡次は支配役場に自首後、捕えられ獄死したと云われる。
茨田郡次と交野和久田家との関係

 郡次の妻「のぶ」は星田村和久田与次兵衛の娘(東和久田)で庄九郎の姉・庄九郎は大塩の門弟でありながら乱に参加していない。当時11才という幼少であった為と思われる。
 郡次の妹「りく」は和久田庄九郎の分家・市兵衛に嫁ぐ

和久田家勘定帳 (門真市歴史博物館所蔵)
・(和久田庄九郎が洗心洞入門の時の書類)
 天保元年乙未(きのとひつじ)(1830年)六月穀日
・入門  和久田庄九郎   改名  仁蔵
・洗心洞大先生様へ
・ 献上 一、御扇子 三本但し台附
・ 同 一、御束修 金百疋
・ 同格之助様へ
・ 呈上 一、御扇子料 金五十疋
・同塾中へ
・ 進上 一、 大手饅頭  数石
・ 但し壱分ツヽ
 以上
・ 右之通差上入門相済申候
  ※参考・束(そく)修(しゅう)お金の数え方、疋=10文、1文は10円?)
瀬田藤四郎と済之助
 「藤四郎」は東町奉行所与力で屋敷は大塩邸と裏手で接していた。大塩とは特に懇意であったが、乱の数年前、半身不随になっていた。しかし乱には積極的に加担した。乱の後養子済之助の妻子と共に親類の茨田郡司を頼って来て後、大和の国に逃れたが捕縛され、まもなく獄死した。
「済之助」は藤四郎の養子。洗心洞の門弟で平八郎の指導をうける。
 事件当時奉行所に居たが、事が露見したのを知り、奉行所を必死に脱出して平八郎に知らせる。乱の当日は後方の隊の頭として参加している。事件後河内恩地村まで逃れたが自殺したとされる。

橋本忠兵衛
 摂津国東成郡般若村(現大阪市清水町)の庄屋で豪農であった。平八郎の妾「ゆう」は曾根崎の茶屋の娘であったが忠兵衛の妹として縁組をし忠兵衛の長女「みね」は平八郎の養子「格之助」の妻という大塩家とは姻戚関係で結ばれていた。又資金的な援助もしていた。
乱の準備
 かなり以前から計画していたようである。文政13年(乱の8年前)幕府京都代官・小堀主税によって、平八郎門弟の探索が実施されていた。(東海道、枚方宿と淀川。 中島三佳)

高槻との関係
平八郎は高槻藩藩校・青莪堂で陽明学等の講義を行い門人を育てる
天保7年(乱の前年)高槻藩士・柘植牛兵衛から百目筒鉄砲を購入
     (幕末京都をめぐる雄藩と高槻。編集・高槻市しろあと歴史館)

「檄文」大塩が挙兵する理由を書いている
 大坂東町奉行、跡部山城守(老中水野忠邦の弟)は飢饉にたいして何ら対策を講じないばかりでなく、天保8年4月に予定されている新将軍(12代徳川家慶)就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させるという、一身の利益だけを考えている。又市中の豪商たちは、飢饉にもかかわらず、豪遊の毎日を送り、米の買い占めによって米価のつり上げをはかっている。このような姦吏(不正を働く役人)・貧商たちに天誅を加え、貧民に金銭や穀物を分配するために兵をあげる。 (一部を抜粋)

蔵書を売って貧民に与える
 乱に先立って、平八郎が長年に亘って買い入れた蔵書を 売却して、貧民一万人に一人一朱づつわけあたえる。売却した書籍代は6百30両余り。現在の金額にして一億三千万円といわれる。一朱は2百50文 一文は現在の10円?米一升二合余買えるとされる。
乱の顛末

 この間に剣、槍、鉄砲,大砲,竹やりなどの武器を調達していた。
西町奉行所新任の堀伊賀守と先任の跡部山城守の巡検が2月19日に決まったことが瀬田斉之助から知らされた。午後4時頃与力町の朝岡助之丞宅に立ち寄ると想定して、まず彼等を討つべく、2月19日午後4時決起と決定(朝岡は東町奉行所の与力で平八郎は最大の悪者としていた)

 ところが2月17日同志の平山助次郎、19日未明門弟2名が密告に及ぶ。この為、急遽2月19日午前8時決起に変更。この為計画通りの行動がとれなく昼過ぎには鎮圧され、行動は失敗に終わる。大塩親子の行方はしばらく分からなかったが(実際には枚岡あたりに潜伏していた)2月末頃にかつての知り合い、靭油懸町の染物屋三吉屋五郎兵衛方に移った。しかし染物屋のもと女中の知らせで露見し、3月27日の朝、奉行所側に攻め込まれ、自ら爆死した。この時取り方に加わった内山彦次郎は後、新撰組に殺される。平八郎46歳、格之助27歳であった。
その後の情勢

 大乱のあと、それに煽られたように各地で百姓一揆があいついだ。そのなかには備後三原、越後柏崎、摂津能勢の騒動のように「大塩平八郎門弟」の旗を揚げたり「徳政大塩味方」の旗印を揚げたりして騒動に加わった。老中水野忠邦はこの事件を直接の契機として天保の改革を行うが失敗に終わる。海に塩が満ちてくる潮の流れのように時代は「討幕」にむかって大きく転回していった。それは平八郎がまったく予期しなかった時代の流れであった。(終り)
「参考文献」
新修 大阪市史 資料編 第7巻 第6章 大塩の乱
交野市文化財事業団 資料が語るかたの今昔物語「帳面が語る大塩平八郎の乱」
薮田 貫(ゆたか)(関西大学・教授) 講義より・ 常松 降嗣(同 上) 講義より
中島 三佳著「東海道枚方宿と淀川」大塩平八郎と幕府代官 小堀主税の動向
和久田 薫 著 星田風土記 大塩平八郎の乱
三谷 秀治 著 大塩平八郎
高槻市教育委員会編  幕末 京都を巡る雄藩と高槻
大塩平八郎と河内衣摺村  政野 敦子
その他各地の平八郎の乱関係の遺跡・説明版等の写真・記述より
次回の講演会は、平成26年4月12日(土)学びの館にて
平成26年度交野古文化同好会の定例総会後、午後2時30分より
テーマ 「桓武天皇長岡京遷都と交野が原」
 講師:高橋 徹氏(元朝日新聞文化財担当編集員)です。
 


交野古文化同好会のTOPへ

HPのTOPページへ戻る