平成26年度 青年の家 学びの館1・2号室 午後1時30分~ 25年度実施報告及び会計報告・監査及び会則の一部改正 役員改選、26年度行事予定・予算案ほか 2014.4.12 総会・講演会 出席者58名 |
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総会は、村田広報部長の総合司会・議長で始まり、先ず、昨年9月急逝された中会長のご冥福を祈り黙祷を捧げた後、議案審議に入り、25年度の古文化同好会の行事実施報告は高尾副部長、会計報告は立花会計幹事、会計監査・会則の一部改正が提案され承認されました。 続いて、役員改選で新しく立花会長と15名の役員が選出され、26年度行事予定は高尾部長、予算案は梶会計幹事よりそれぞれ提案され承認されました。 新しく選任された立花会長より、40年間交野古文化同好会の会計関係と例年年明けに開かれた「かるた大会」の世話役を担当させていただいた経験などを十分に活かしながら新しく選任された役員の方々、会員の皆さんの一層のご協力ご支援をいただきながら皆さんと共々、交野古文化同好会をより発展させるよう頑張りたいと決意を述べられた。 引き続き記念講演会に移り、「桓武天皇・長岡京遷都と交野が原」をテーマで高橋徹先生よりご講演を頂戴して、26年度総会・講演会は無事終了致しました。 |
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平成26年度 古文化同好会 上期行事計画
●歴史健康ウォークは小雨決行です。従来の確認電話(891-5386)は機器が壊れましたので廃止します。 ●各行事に参加される方は、直接会場又は集合場所にお集まりください。集合時間が過ぎると出発します。 ●歴史健康ウォークに参加される方は交通事故などに十分ご留意ください。会としては責任を負いません。 |
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総会は、村田さんの司会・議長でスムーズに進み、全議案了承されました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新会長に選出された立花 昇氏 |
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梶会計幹事より26年度予算案が提案され承認されました |
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26年度 交野古文化同好会 新役員 (左より敬称略) (後列)伊東、毛利、崎山、山下、平田、吉岡、厚主、巽、梶 (前列)村田、高尾、立花、奥野、木村、木下 |
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引き続き、特別講演会が高尾部長の司会で開催されました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「桓武天皇・長岡京遷都と交野が原」 講師 : 高橋 徹氏 (元朝日新聞文化財担当編集委員) |
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講演会の司会は高尾部長 |
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講師 高橋 徹氏(元朝日新聞文化財担当編集委員) |
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「桓武天皇・長岡京遷都と交野が原」 講演要旨 (一部氏の著作から引用) 当日の講演要旨について、高尾部長に纏めていただきましたので 以下に掲載させていただきます。 |
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奈良時代終わり頃、天智系の天皇にかわり天武系の第49代光仁天皇が誕生。その後を継いだのが50代桓武天皇である。桓武天皇は光仁天皇と百済系の母、高野新笠との間に生まれました。天皇はよく朕の体の中には百済系の血が混ざっていると云っておられた。 天応元年(781)光仁天皇が高齢と病を理由に譲位の意向を固めたことから同年4月即位され桓武天皇となった。翌年から政情不安が続き(藤原仲麻呂の乱や道鏡問題)、又凶作と疫病の流行に見舞われたことから年号を延暦元年と改元した。延暦3年(784)こうした忌まわしい出来事を振り払う為、長岡京に遷都することになったと云われている。ところが天皇が翌延暦4年9月長岡亰から平城京へ赴いている最中造長岡京使の藤原種継(自らの姻戚である秦氏の根拠地の近くで,権勢を固めようとしたとの説もある)が暗殺されるという事件が起こった。この事件で早良皇太子にまで嫌疑がかかり、淡路へ配流の途次亡くなる。 なぜ長岡亰に遷都したかという学説はさまざまなものがあるが、この謎を解く鍵の一つが、桓武天皇がしばしば行幸した「交野」にあるのではなかろうか。延暦2年(783)10月に始まり延暦21年(802)11月までの間に計12回交野に行幸したことを史書は伝えている。その目的は狩猟が多いが,それ以外の目的の行幸だけのときもあったようである。 交野市には市の東の連峰にお椀を伏せたようなひときわ目立つ山がある。交野山(標高341m)である。上に立つと遠く南西方向に大阪湾、北には京都盆地が望める。 その間を縫って、淀川の流れが光る。「交野」はその淀川の東側で、交野山の西から北西にかけての一帯を呼んだらしく現在の枚方市と交野市にあたる。交野市が古代史上特に注目されるのは、この地で中国歴代のものとよく似た「天神の祭り」が行われたからである。 中国では極めて重要な天子の祭礼であるが、日本では桓武天皇が延暦4年(785)と6年,曾孫文徳天皇が斉衡3年(850)に天子の祭として行った記録が残っている。「続日本記」延暦4年(785)11月の条には「天神を交野の柏原に祀る。宿禱(しゅくとう)を賽(さい)するなり」とあって、天神の祭りの場が交野の柏原であることが知られる。「宿禱を賽す」というのは、永年神への祈りに対するお礼の祭といった意味である。「注」柏原という所は今の枚方市片鉾あたりではないかと云われているが、確定はしていない。 中国においてはこの祭りは天子の祭である。冬至に南郊で天を、夏至に北郊で地をそれぞれ祀るというようにセットになったもので、本来儒教にのっとった祭儀であるとされている。天をまつるには円丘の天壇で、地をまつるには方丘の地壇で行うが天地を南郊で合祭したケースもある。現在北京には明清時代の天壇、地壇が城郭城の南にのこっていることはよく知られている。 桓武天皇が生まれたのは,母方の実家である山背国乙訓郡大枝村の土師氏の家ではないかとされるが、育った場所はよくわからない。しかし河内交野が深い関わりをもつことは疑いない。桓武天皇の絶大の信頼を得て御宮をとりしきった女性に百済王明信という女性がいる。山部王だった若いころの天皇が愛した女性とも云われるが、交野の百済王一族の出身といわれる。河内交野郡は難波百済郡と共に百済王氏の本拠地で、百済氏は奈良時代後期には百済寺を建立するなど仏教信者であった。同時に彼等も道教的背景を持っていたことは、交野の地理的な思想背景を考えると疑いない。 例えば交野には天野川(天の川)や星田、星の森といった地名が残り、北斗七星を神格化した妙見さんをまつる社殿もある。星の信仰は本来道教的なものである。天の川には神仙世界と人界を結ぶ仙女伝説があったことも平安時代の曽根好忠の歌集「曾丹集」が記録している。 もう一つの例は交野山西側ふもとの、交野市倉治に七夕姫をまつる機物神社(はたものじんじゃ)がある。室町時代の創建といわれ、現在は南向きの社殿があるが、どうも、もっと古いものであるらしい。その証拠は同神社のもともとのご神体は交野山でなかったかと思われるのである。(現在の境内に交野山を拝んだといわれる玉垣が残っている)山や岩などをご神体とするのは奈良桜井の大神神の例でも知られるように、古いタイプの神社といわれる。このことから同神社は渡来人の里だったころに、すでに建てられていたと考えられるのではないか。七夕伝承は道教的世界観に関係するもので、七夕姫は道教の神・西王母より派生した神人と見られることから、同神社の存在は当時の渡来人の精神生活を投影しているように思われる。いずれも傍証でしかないが、交野の渡来人たちが道教的文化・習俗をもちこんでいたと考えるのは決して無理な推論ではないようだ。 桓武天皇が度々交野に狩猟にきたといわれるがどうも遊びだけではなさそうに思われる。天皇が交野に来るたびに其の地にゆかりのある人物の位階を引き上げていたり、さらに百済楽を奏していることなどを考えると、なにか特別な事情があったと思うべきである。その特別な事情とは、それは交野で山川の神をまつることではなかっただろうか。時代がさかのぼるが持統天皇が吉野宮滝に31回も行幸をしている。何故何回も行かれたのか。当時の人達にとって吉野は道教思想の説く不老,不死の神仙境あるいはそこに最も近いところと考えられたのではないか。桓武天皇もこの交野をすでに述べたようなこの地を神仙境と考へ交野に度々行幸して山川のまつりを行い、そして交野山の北に新都を選定されたのではなかろうか。 (高尾氏記述) |
<参考> 桓武天皇の漢風祭祀…封禅(ほうぜん)と郊祀(こうし) (『ツクヨミ・秘された神』より) |
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天皇即位にあたって、必要な手続きは天武天皇によって定められたものである。すなわち践祚(せんそ)大嘗祭(だいじょうさい)をおこない、三種の神器を継承することで天皇となるものだ。 しかし桓武天皇は、これをそのままおこなうだけではなく、史上初めてとなる祭祀をもおこなった。それが「郊祀(こうし)」である。郊祀とは、秦始皇帝に始まる最上位の皇帝祭祀である。文字通り都の郊外でおこなう祭祀であって、封禅(ほうぜん)の亞種である。 封禅は皇帝(始皇帝が「天子(てんし)」に代わる尊号として創始)となるための一世一度の祭祀であるが、泰山(たいざん)まではるばる出向き、山頂及び山麓において皇帝一人でおこなうものをいう。 「封(ほう)」は、泰山山頂に壇を造り天を祀り、「禅(ぜん)」は泰山の麓で地を祀るもので、合わせて「封禅」という。これによって「天命」を受けて天子となる。 郊祀はこれを受け継ぎ、都の南の郊外に天を祀り(天壇(てんだん))、北の郊外に地を祀り(社禝(しゃしょく))、宗廟に祖先を祀る(宗廟(そうびょう))こととしたようだ。天壇は冬至の日に祀り、地壇は夏至の日に祀った。詳細を記した記録がないためそれぞれの次第は不明だが、とくに南郊祭祀が尊ばれ、後にはこれを指して郊祀というようになったようだ。あるいは、北郊は臣下を代理に立てておこない、南郊のみを皇帝自ら親祀した。 北京に残る天壇は明・清時代に実際に使われたもので、郊祀を公開の場でおこない、天子として君臨する根拠を広く示すことを一つの目的ともしていた。 わが国では、天壇に天神を祀り、地壇に地祇を祀り、宗廟に皇祖・祖神を祀った。 ちなみに天皇家では現在、宇佐神宮を「第一の宗廟」としている。ということは、つまり皇祖神の第一であるという意味である。 わが国では、郊祀は、桓武天皇が二度おこない、文徳天皇が一度おこなっている。他に公式の記録はない。 なお、桓武天皇が郊祀をおこなった場所には注目しておく必要があるだろう。 北河内の交野(かたの)である(現在の大阪府交野市)。交野は百済王(くだらのこにきし)一族の拠点であったことから、若き頃より深い関わりがあった。後に内侍所(ないしどころ)の尚侍(しょうし)(女官長)となる百済王明信(みょうしん)は、桓武天皇の初恋の女性であったとされる。 その縁もあって、即位して後も交野に行幸することしばしばで、記録に見えるだけでも実に十数回に及ぶ。天皇行幸の回数は他に比較するところもない。 目的は狩猟がほとんどであるが、「郊祀」のために二回行幸している。延暦四年十一月、延暦六年十一月、ともに冬至の日である。桓武天皇は、交野に天壇を設けて「天」を祀ったのである。場所は交野の柏原野とされるが、具体的にどの辺りかは判然しない。京都のほぼ真南になるはずである。 ところで河内の交野は、ニギハヤヒが降臨したとされる場所である。ニギハヤヒは神武に国土と十種神宝を譲った千住神である。八咫鏡と八坂瓊勾玉をアマテラスから授かり、神武に受け渡すまで護持していたという来歴をもつ。その降臨地で桓武天皇は郊祀をおこなった。これは、ただの偶然ではないだろう。郊祀は「天神」を祀るものだ。この地で郊祀がおこなわれたということは、祀られた天神はニギハヤヒであったと考えるのが自然だろう。(『ツクヨミ・秘された神』より) |