平成27年3月定例勉強会 講師:九世 吉向松月(孝造)氏 青年の家・学びの館 午前10時~12時 37名の参加 |
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2015.3.28(土)午前10時、3月定例勉強会に37名(会員31名)の方々が参加されました。 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の吉向松月氏から「吉向窯の歴史と七夕に寄せる古代ロマン」をテーマに、詳しくお話しいただきました。限られた時間ではありましたが、詳細な資料とプロジェクターによる映像を駆使してたっぷりとお話し頂きました。 まず最初に、3月22日にBS朝日で放映されました「留めさんのニッポン焼き物紀行・吉向焼」を約20分上映された後、吉向窯の200年間の歴史について、初代から現在の9世までの素晴らしい作品を紹介していただきながら吉向窯の伝統をどのように引き継いで来られたかを具体的に解説いただきました。 伊予大洲出身の戸田治兵衛が京都に出て陶づくりを学び、享和の始め、大阪十三村に窯を築いてから200年の間に、十三に端を発した窯は、高津(現在の大阪市中央区)、枚方を経て、昭和55年交野市に移転した。交野は、奈良時代の陶器、正倉院三彩の陶土の採取地として古文書に残っていて、やきものにゆかりの深い地でもあり、四季折々の自然に包まれた私市月の輪滝のほとりで作陶活動に専念できることに感謝していますと締め括られた。 今後とも吉向焼窯が交野の地に長く根付いてゆくことを願ってやみません。 HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメなどを提供頂きましたこと、 記して感謝申し上げます。 |
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今回の「留さんのニッポン焼き物紀行」ではナビゲーターの福留功男さんが200年の長い歴史をもつ大阪府交野市・吉向焼の魅力に迫ります。 歴史を学ぶ為に吉向焼を始めた吉向松月窯を訪ねます。そこで吉向(きっこう)の名前の由来が亀甲(きっこう)であることを知ります。初代から現在まで続く緑の釉薬(ゆうやく)を使った器は色鮮やかなものでした。今、この窯を継いでいるのは9世の吉向松月さん。初代から続く緑の釉薬(ゆうやく)を使った作品以外にも得意な画力を生かしたものがありました。 焼物をキャンパスに見立て、その上に絵付けした作品は福留さんも驚きを隠せませんでした。 伝統の技を使った作陶ではろくろを使わない茶碗作りを見せていただきます。 |
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200年の伝統を守り続ける吉向松月窯のHPより 伊予大洲出身の戸田治兵衛が、京都に出て陶づくりを学び、享和の始め、大阪十三村に窯を築きました。 庭前の老松と生駒山にのぼる月を愛で、「十三軒松月」と号し、作陶に専念しておりました。 時の将軍家の慶事に際し、鶴と亀の食籠を献上いたしましたところ、亀の食籠が非常に気に入られ、「亀甲」即ち「吉に向かう」にちなみ、「吉向」の窯号を賜りました。 幕末から明治にかけて窯を守った四代松月に二子があり、兄、萬三郎が、五世吉向松月を継ぎ、弟実蔵が、五代吉向十三軒を継ぎました。 これより吉向窯は、二つに分かれました。 当吉向松月窯は、この時の兄、萬三郎の流を引き継ぐものです。 初代松月が、浪速の地に窯を築いて以来、200年あまり、各代々が種々の技術を伝統に取り入れ、吉向焼として、独自の発展をしております。 平成19年10月、七世松月の次男孝造が九世松月を襲名しました。 それに伴い、八世松月(秀治)が「そう斎」(「そう」は子偏に宗)の名を賜りました。 十三に端を発した窯は、高津(現在の大阪市中央区)、枚方を経て、昭和55年交野市に移転しました。 交野は、奈良時代の陶器、正倉院三彩の陶土の採取地として古文書に残っている、やきものにゆかりの深い地でもあります。 現在、四季折々の自然に包まれた私市月の輪滝のほとりで作陶活動に専念しております。 |
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立花会長の挨拶 |
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高尾部長より講師の吉向松月氏を紹介 |
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講師 九世 吉向松月氏 |
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当日配布されたレジメ 「吉向釡について」
吉向焼(きっこうやき)の歴史
交野市私市8-25-6/TEL 072-892-0811
(吉向松月窯・ちらしなどを参照)
200年の伝統を守り続ける吉向松月窯のHP
吉向松月窯由来 江戸時代、享和年間(1801~1804)伊予大洲藩出身の戸田治兵衛が、京に出て楽家九代了入、初代清水六兵衛、仁阿弥道八、浅井周斎などの名人達に作陶を学び、大阪十三村に築窯、庭前の老松と生駒山にのぼる月をめで「十三軒松月」と号し、作陶に専念したのが起こりです。 時恰も、将軍家に慶事が起こり、当時の大阪城代、水野忠邦侯の推挙を得て、鶴と亀の食籠を献上したところ、その亀の食籠が事の外気に入られ、亀甲、すなわち吉に向うに因んで「吉向」の窯号を賜り、爾来、吉向姓を名乗るようになりました。
また、当時の作品は、諸大名にも大いにもてはやされ、出身地の大洲藩主 加藤泰済公は申すに及ばず、周防岩国の吉川経礼侯、大和の小泉の片桐貞信侯などに引き立てられ、各地のお庭焼きに貢献いたしました。
幕末から明治にかけて窯を護った、四代松月に二子があり、兄、萬三郎が五世吉向松月を継ぎ、弟、実蔵が五代・向十三軒を継ぎました。これより、吉向窯は、二つにわかれ、当、吉向松月窯は、この時の兄、萬三郎の流れを引き継ぐものです。
初代松月が、大阪十三の地に窯を築いてより二百年、高津、枚方を経て、正倉院三彩に用いられた陶土の採土地、交野の里に工房を築くまで、各代々が伝統の中に種々の技術を取り入れ、吉向窯として独自の焼き物完成に励んで参りました。
七世松月(蕃斎)もまた、この伝統を受け継ぎ、昭和二十五年より東京、大阪の三越を始め、各地の百貨店や有名画廊にて五十数回に及ぶ個展を開催し、好評を博してまいりました。
現在、交野市の奥座敷、私市は月の輪の瀧の畔で、四季折々の自然に包まれ、尚一層の研鑚に勤め、ますます作陶活動に専念致しております。
窯場の変遷(吉向松月窯)
文化元年(開窯)~明治20年代 西成郡中津川新田(十三) 明治20年代~明治45年 高津神社正面 明治45年~昭和55年 枚方市岡山手 昭和55年から現在 交野市私市
戸田 長助 加藤清正の家来、八代城家老
朝鮮より連れ帰った陶工により八代焼(古八代焼)を興す。(西暦1598年)戸田 権兵衛重元 戸田 長助、曾孫
肥後加藤家改役により大洲加藤家に百石にて召抱え。(西暦1632年)
砥部焼きの指導の為、八代より職人4名を呼び寄せる。戸田 祐蔵 権兵衛より五代目。
お金役であったが、公金紛失事件の責任をとり、野に下る。(西暦1760年)戸田 源兵衛
(生年不詳~1819)祐蔵の長男。居合い道の師範 初代十三軒吉向松月
(戸田 治兵衛)
(1784~1861)源兵衛の長男、京に出て、楽家九代了入、初代清水六兵衛、仁阿弥道八などを訪ねて陶器の修業をする。
迎えた妻の里である大阪十三にて窯を開き、十三軒松月と名乗る。
名声を博した松月は、郷里の大洲藩に招かれ、藩公の別邸の在った、五郎にて、御用窯を仰せつかる。五郎玉川焼と伝えられる窯である。
その後、大阪に戻った十三軒松月は、十一代将軍家斉公の太政大臣宣下の慶事に当たって献上した鶴と亀の食籠の、亀に因んで「吉向」の金印と銀印を賜る。
こうして吉向十三軒松月を名乗るようになる。
その後、方々の大名に迎えられ、御用窯、いわゆるお庭焼を申しつかる。
晩年は、浄土宗に帰依し、得度して「吉向行阿」を名乗る。
大阪は、亀治、江戸は旗本の次男、一朗高義、と両方で養子を迎え、吉向焼は二家になる。
江戸吉向は、幕末で窯の火を消すが、現在も末裔が静岡県で家を護っている。
初代を召し抱えて頂いた大名
大洲藩 加藤泰済公 五郎玉川焼 岩国藩 吉川経礼公 藩窯の多田焼の再興を目指して初代松月を招かれる。 大和小泉藩 片桐石州公
(貞信公、遜斎公)石州流八代目
初代を江戸に同道され、江戸屋敷で窯を築かれる。須坂藩 堀直格公 片桐石州公に懇願され、初代を譲り受けられ、藩窯の指導に当たらせられる。 津山藩 松平確堂公 江戸は、隅田川の畔、向島の別邸に窯を築かれ、初代松月を招かれる。
初代は没後、この確堂公のお世話により、深川本誓寺に永代供養される。
二代吉向十三軒松月(亀治))
(1803~1880)従兄である初代に招かれ、大阪の窯を任される。 三代吉向十三軒松月(輿右衛門)
(1813~ 1843)初代松月の姉の子 四代吉向十三軒松月(治平)
(1831 ~1891)二代目亀治の子 五代吉向松月 (萬三郎)
(1860 1924)治平の長男。弟、実蔵と窯を分ける。
実蔵は、五代吉向十三軒を名乗り、吉向家は、三家となる。
現在、八代目吉向十三軒は、東大阪市で窯の火を護っている。
萬三郎、長男、次蔵と共に明治天皇の姉君、伏見文秀女王殿下のお庭焼をお手伝いした御縁で、枚方の窯に御成頂き、秀松軒の軒号を賜る。
次蔵に窯を譲った後、隠居窯を大徳寺高桐院内に築き、龍山と号して作陶する。
後、この隠居窯にて没す。
六世吉向松月(次蔵)
(1884~ 19509萬三郎の長男。父と共に枚方の築窯に力を尽くし、窯と伝統を護る。 七世吉向松月(蕃斎)(福男)
(1924~ )六世松月に師事し、七世松月を継ぐ。
昭和59年、還暦に当り、四天王寺管長 出口常順猊下より、蕃斎の号を賜る。
八世吉向松月(孮斎)(秀治)(1952 ~) 福男の長男。平成十二年、七世が、襲名五十周年を迎えたのを機に八世を襲名。孝造の九世襲名にあたり、大徳寺高欄院住職 松長岡1山和尚より『孮斎」の号を賜る。 九世吉向松月(孝造)(1954 ~) 福男の次男。平成十九年、六世夫人トクが百歳を迎えたのを機に九世を襲名。
吉向蕃斎(七世松月)
大阪と奈良の間にそびえる生駒の山並に源を発し、磐船峡を形作り、交野が原(現在の交野市と枚方市に広がる平野)を潤して淀川に至る川、これが、天の川です。古代より開けた地、五畿内の中心に位置することから、この川は、古くから幾多の伝説を育んできました。川の名前から想像されるとおり、七夕との深い関係があります。
ところで、七夕とは、どんな風習なのでしょうか。実は、七夕は、中国の「周」の時代に始まったものだと云われています。彦星と織り姫が、一年に一度デートをするという、ロマンチックな物語は、五千年以上も前につくられました。この星の逢瀬にあやかつて、織物や、書道などの上達を願つて行われたのが、「乞巧奠(きっこうてん)」という行事です。
七夕は、奈良時代以前に日本に伝わつたと云われています。何事も日本流に解釈して同化してしまうお国柄から、この七夕も、広く民衆に受け入れられ、「乞巧奠」は宮中にも伝わりました。現在でも、最後の公家と云われる冷泉家では、この乞巧奠が執り行われています。
さて、交野が原が七夕の地として脚光を浴びたのは、平安京を作られた桓武天皇の時代です。桓武天皇は、豊かな農産物を収穫するために、中国に習つて、星を観測し、暦を整えられました。その甲斐あつて、その翌年は大豊作となりました。桓武天皇は大層お喜びになり、河内国交野郡に於て、天に感謝をする祭天の式を催されました(現在の枚方市片鉾の杉本神社であるといわれます)。この場所は、桓武天皇の母君である高野新笠ゆかりの百済寺(現在は廃寺となり、その礎石を基にした特別史跡として百済寺跡公園になっています)に近い、ということで定められたものだと推察されます。こののち 天皇の遊猟に随行した大宮人たちは、天の星座をこの交野ケ原になぞらえて、壮大なロマンを語り合いました。
そして、当時から宮中で行われていた乞巧奠の行事も、この地になぞらえました。川の名も天の川となり、機物神社や牽牛石も祀られました。牽牛石(枚方市に現存)は、銀河に見立てた天の川に架かる逢合橋を挟んで、織姫(天棚機比売大神)を祭神とした機物神社(交野市にあり、例年新暦七月七日には盛大に七夕祭りが行われている)と相対しています。
この牽牛石がある所には、昔、中山観音寺がありました。南北朝時代に廃寺となつたと伝えられています。この中山観音寺とゆかり深いのが、兵庫県宝塚市の中山寺です。歴史的な経緯は調べてみる必要がありますが、現在この中山寺で年中行事として8月9日に(旧暦の七夕にあたる)「星下り大会式」という催事が行なわれている事は興味深い事です。
現在、「七夕まつり」といえば宮城県の仙台市が有名ですが、これも交野が原と深い繋がりがあると言えます。前述の百済寺がそのヒントとなりました。時代は奈良時代以前に遡りますが、朝鮮半島の戦に破れ、日本の天皇家を頼つて逃れてきた百済の王族、それが百済王家です。百済王家は、領地をあたえられ、一豪族として迎えられました。そしてこの百済王家の中興の祖、百済王敬福は、陸奥守として、多賀城(朝廷の奥州統治の為の出先機関、現在の宮城県多賀城市にあつた)に赴任しました。当時は、奈良の東大寺の大仏の造営の時期で、聖武天皇は、大仏に使う金が足りなくて困つておられました。百済王敬福は、奥州で「金」を見つけ、大和へ持ち帰りました。この「金」で大仏の造営が成功したのです。そのご褒美に、百済寺と交野が原を賜りました。この後も数代にわたり百済王家は陸奥守に任ぜられました。この時代に七夕も奥州に伝わつたのだと考えられます。
こうして中国で生まれた風習が、朝鮮半島の百済、畿内を経て奥州へと伝わつたのです。交野が原と奥州仙台との間には深い繋がりができました。七夕は、それ以後、土着の風習として深く奥州の文化に根付いていつたのです。九世 吉向松月(孝造) KIKKO Shogetsu
〒576ー0033
大阪府交野市私市8-25-6
- 1954 吉向蕃斎(七世松月)の次男として生まれる
- 1972 京都市日吉丘高校陶芸科卒業
- 1977 大阪芸術大学工芸学科陶磁器専攻卒業
- 1978 大阪工芸展出品(以後毎年入選)
- 1980 大阪三越にて初の個展を開催
- 1986 山本紅雲先生に日本画を師事(1993年迄)
- 1998 京阪百貨店守口店にて個展
- 1995 産業文化の功労者として大阪府知事から表彰
- 1998 直原玉青先生に水墨画を師事(2005年迄)
- 2006 大阪府知事表彰
- 2007 九世吉向松月を襲名。日本橋三越にて九世襲名展を開催 、
- 2008 全国の百貨店にて九世襲名展を開催
- 2010 韓国テグにて茶文化世界祭に招待出品
私は、伝統的な焼き物を造る窯元に生まれ、幼いころから茶道や華道に用いられる茶碗や壺や皿などに親しんで来ました。高校、大学と陶芸を習い、家業の仕事につきました。吉向焼は茶碗や水指、菓子器などの茶道具が本業です。茶陶では一定の形式や寸法などがあり、茶の作法に則った作品を造っています。成形方法はてびねりによる制作が基本であり、私も大部分の作品を水引きろくろを使わない「てびねり」と「ひもづくり」によって制作しています。
また、元来絵が好きな私は、制作を始めた当所、植物などの絵を花器や食籠(じきろう 和菓子を入れる器)に描いていましたが、京都で日本画の山本紅雲先生に師事してから、風景のスケッチの為に各地に出かけ自然の美しい景色に出会いました。そしてその景色からこの素晴らしい風景をなんとか陶器に残せないだろうかと思うようになりました。そして、出来るだけ自然の風景の色を出せるように、釉薬の調合と顔料を使い、研究を重ねました。茶陶である吉向焼は、楽や交址や三彩などの低火度の焼物を造っている色釉の豊富な窯元です。その為、古くから多彩な釉薬が使われてきました。そのことがこの風景の作品づくりに大いに役立ちました。
また、新しい技法も考えました。土台となる素地の色を変える事により、その上に掛ける透明性の釉薬と重なって、微妙な中間色を出せるように工夫しました。作品の形も従来の壺や皿ではなく、その景色からうかんだ形からの創作を試みるようになりました。花器や陶額なども手掛け、作品の意図として出来るだけ自然の風景がとけこむ姿を目指しており、時には用途や形式にこだわらず、オブジェ的な制作もしています。現代の日本の住まいに置かれる形、寸法なども念頭に置きながら、今までにない新しい陶器を制作したいと思っています。
私の作品の基本に流れているものは「自然」と「こころ」です。一日のなかで、移り変わる自然の風景、たとえば刻々と変わる夜明けの光、色彩などを、一期一会として心に感じ、それを作品のなかに残したいと考えています。
伝統工芸の持つ古来の形式や、茶陶の世界の様式を否定するのではなく、自然の色や形を表現する一手段として作品の中にとりいれ、茶道の精神に照らし合わせたもてなしのこころが感じられる作品づくりを続けていきたいと思っています。
楽焼を基本とする吉向松月窯
楽焼は、千利休が楽焼初代の長次郎にお茶を飲むために作らせた代々伝わる焼き物。吉向焼は、伊予大洲藩出身の初代戸田治兵衛(初代松月)が、楽家九代や初代眞清水六兵衛、高橋道八から楽・京焼の陶技を習得し、江戸時代の享和年間に浪速・十三村で窯を築いたとされている。吉向松月堂はその後、高津、枚方を経て、1980年から交野市私市の山里に窯を移転。現存する大阪発祥の最古の窯元とも言われている。
吉向松月窯の由来は、11代将軍・家斉に亀と鶴の食籠(じきろう)(蓋付きの菓子鉢)を献上したところ大変気に入られて、亀甲、すなわち「吉」に「向う」として「吉向」の窯号を賜ったそうだ。
以来、「吉向」の姓を名乗るようになったという。また、代々の当主は松月を名乗り、現在は九世吉向松月(孝造)さんが当主を務めている。吉向焼は楽焼の流れをくむ茶陶の伝統を受け継ぐとともに、代々伝わる吉向焼の伝統と技術を、父の七世蕃斎さん、兄の八世孮斎さんの親子三代で今もしっかりと守り、独自の発展を遂げている。楽焼(らくやき)は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤(けろくろ)を使用せず手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、750℃ - 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。 また、楽茶碗などとも呼ばれる。 狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。
当日の講演会会場で、パワーポイントを映しながら説明を受けました |
豪商田中家のホームページ 田中家本家周辺図の上の端に吉向窯跡が書かれています。 |
信州須坂のおたからのホームページ |
信州須坂 吉向焼のホームページを参照ください。 |
多彩な文化人との交流風景 |
奈良の正倉院に納められている、白、赤褐色(黄色)、緑色の三色で 塗られた陶器を奈良三彩(ならさんさい)と呼びます。 |
正倉院の三彩・緑釉陶器は我が国で製作された焼き物です。 かっては、中国製作説や一部渤海製作説もありましたが、 現在では我が国で作られた事が判明しています。 |
交野は、奈良時代の陶器、正倉院三彩の陶土の採取地として古文書に残っている。 |
正倉院文書の西金堂造営記録「造仏所作物帳(ぞうぶっしょさくもつちょう)」に 彩釉陶器(さいゆうとうき)の原料や、河内国肩野郡と石川郡から土を、 春日山から燃料の薪を運んだことが知られます。 (興福寺 文化財HP)より |
古くから交野は良質の粘土が出ることで知られており、 奈良の正倉院に納められている奈良朝時代の「三彩陶器」も、 交野の土で作られたと言われています。 |
桓武天皇の祭天の式が行われたと言われている神社 |
「星の座」とよばれる彦星・織姫へのお供え物を前に、 蹴鞠・雅楽・披講(和歌の朗詠)を二星に手向けます。 そして、続いて天の川に見立てた白い布が敷かれ、 天の川をはさんだ男女が和歌の贈答をおこないます。 |
旧暦七月7日に行われる乞巧奠 1年に一度の逢瀬を楽しむ彦星と織姫に、 雅楽や和歌を手向け、技が巧みになるようにと祈る儀式 二星へのお供え物をのせる祭壇を星の座と呼ぶ |
吉向松月氏が作成されたミニチュア |
最後までご覧いただきまして有難うございます。 |