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平成28年2月定例勉強会

古資料による江戸明治の星田
  講師:大屋 喜代治氏 (交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 32名の参加
 2016.2.27(土)午前10時、2月定例勉強会に32名(会員25名)が参加されました。

 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の大屋喜代治氏から
「古資料による江戸明治の星田村
をテーマで星田村の概括・地名・石高・歴史について
大変詳しくお話しいただきました。
 
 「古資料による江戸明治の星田村」 講演の概要

  1.星田村元禄絵図について     
  2.天保10年星田村絵図について      
  3.星田村地詰帳について      
  4.明治期の田畑の耕地面積と米収穫高の比較      

   大屋喜代治氏作成のホームページ「星田の歴史と里と山」
     「古地図・古資料からみた江戸・明治期の星田とその農業」をご参照ください!


 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメの資料などを
    参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。


  <資料及び参考資料>
    元禄十年星田村絵図(交野市市教委・交野市文化財事業団蔵)
    天保十四年星田村絵図(  同)
    星田村大絵図(  同)
    河内国交野郡星田村地詰帳( 同)
    交野市史( 同)
    堺県管下河内国第三大区九番領萬分之六図複写版
    星田懐古誌上下巻ほか西井長和氏の著述
    星田歴史風土記(交野市市教委・交野市文化財事業団刊)
    ・まんだの和久田薫氏の著述
 

講師:大屋 喜代治氏(交野古文化同好会)
勉強会 風景


高尾事業部長


大屋喜代治氏

古資料による江戸明治の星田
1.星田村元禄絵図(元禄10年 1697年)

星田村元禄絵図(元禄10年 1697年)
 星田村の絵図は、「星田村大絵図」「元禄十年星田村絵図」「天保十四年星田村絵図」(元禄10年=1697年、天保14年=1843年)の3点があり、市指定文化財に登録されています。
 絵図を見ると、方角がまちまちに描かれていることが分かります。「元禄十年星田村絵図」では、南の方角にある山並みが現在の地図とは逆に上(北)に描かれ、地図中の場所などを示す文字も上下左右に四方から見られるように書かれています。
 これは、絵図を広間に広げて自由に見やすいように書かれたものなのです。
 絵図は地図としては大まかなものですが、当時の絵師が山・川・道・集落・領地などを絵画的に描いていて、当時の景観や様子が分かる貴重なものです。
上図の星田村元禄絵図(元禄10年 1697年)を基にした概念図
 江戸時代の星田村は全体で約1535石の村高で、そのうち1306石は近江仁正寺藩市橋家領、120石は石清水八幡宮領、109石は山城淀藩永井家領から幕領を経て、元禄7年(1694)から相模小田原藩大久保領となり、これから幕末まで推移した。
 享和3年(1803)の「星田村明細書」によると、市橋家領は戸数332軒で人数が1468人、石清水八幡宮領は戸数12軒で人数が45人、大久保領は戸数19戸で人数が109人となっている。三給の村なので、それぞれの領主ごとに村役人が存在したが、特に仁正寺藩領は1300石を越える村高を反映して、平井家・和久田家の2名の庄屋がいた。
 星田村は1500石を越える大村であり、領主関係とは別に、村の中を7つの小村に分けていた。すなわち西村・小北村・中村・堂坂村・辻屋村・上村・下村であり、それぞれの小村には肝煎と呼ばれる役人が存在していた。
市橋藩、八幡藩、大久保藩の領域
 地図では、八幡藩の2か所、大久保藩の1か所を描いている。
八幡藩の1か所目は、村の中心部から寝屋に向かう道と東高野街道の交点の西北に描いていてこの場所は現在でいうと正にJRの星田駅の敷地からその東あたりである。八幡藩のもう一つの領域は川尻の池の南、光林寺の東で御殿屋敷の西の地域である。川尻の池は新関西製鉄(旧臨港製鉄)の南西の角の交通事故慰霊塔あたりにあった池で、池の大きさは1反(約1000㎡)である。御殿屋敷とは徳川家康が大阪夏の陣の際、宿院したとされる屋敷跡で1町(1ha)ぐらいの大きさであったとされている。小字の外殿垣内が御殿屋敷にあたる。
大久保藩の位置は、小字名で平池、小池と名ががついていて、昔はその名のとおり池が沢山あって溜池農業地帯であったと思われる。.この辺の地形はの寝屋村あたりから西側に流れている天の川に向かって傾斜で下降している地形で、大久保藩の領域は高い台地状の位置にあり、平安から鎌倉にかけては星田牧という牧場に使われていたところである。市の西という小字には牛馬市があったところであるとされている。三領主の領域の確定することを元禄の絵図の目的の1つとされており、市橋藩はそれ以外の地域であろう。
 東高野街道と山根街道

 概念図の右上の打上村から2本の道が描かれているが右の一里塚を通っている道は東高野街道で左の道は山根街道である。
 東高野街道は京都の東寺と高野山を結ぶ当時の国道級の道であり、大谷地区(現星田7丁目)から現在のJR星田駅前広場の南側に沿う形の道幅3.5mの道で北星田地区に抜け、昔は天野川を越えて私部村に通じていたが昭和39年頃臨港製鉄(現新関西製鉄)によって分断されている。

 後者は山根街道であるが、普通は八幡宮があった新宮山の西側の梶が坂(狸藪)、今池の北、星田寺の南から垣内川(潅漑水路)沿いの道で辻屋裏(妙見口)を通って私市に抜ける道のことをいうが、この地図では新宮山の北側(半尺口)から中川通りに結んでいる。
 寝屋村に通ずる道は、慈光寺からは,現在の道にあてはめると星田小学校の東の道(西の村の道。)から六路の交差点、大正天皇のお立ち見の記念碑を経てJRの星田駅に向かう本道である。寝屋村へは現在の高架駅の下をくぐって駅の西北にある星田池の西側に接する道幅一車線の道でこの道も山根道と呼ばれた。山根道は,けもの道を起源とする古くからある広域交通路のことである。

中川と中川水系の池
 川は星田の山と川で後述するが、傍示川、東川は星田の山水を直折受け入れていて大雨時にはたびたび氾濫を起こしあれを作ったと思われるが、中川は湧き水起源の川筋であり、古代から水田開発の中心であった川である。川沿いには、上の池、中の池、今池の3つの池が描かれているが、厳密には此の付近は中川の上流にあたり、紐谷川といわれていたが、この3つの池の付近は小山谷と呼ばれて水源地としての開発が行われていた。
 上の池は江戸初期の地図に新池と書かれていて、ほかの池はさらに古い。中の池は、現在でも富士浅間大日如来を祀っているが地図から20年ほど逆のぼる延宝5年(1677年)に仏像を富士浅間神社で開眼供養を行ったときから浅間堂の池ともよばていたが、明治の頃から上の池と中の池の境の堤が消滅しはじめ1つの池になり、また今池は、昭和30年代末に埋め立てられ住宅地になった。現在は全現堂池が残っている。

妙音池は、新宮山八幡宮の放生池として鎌倉時代に作られたとされ最も古い。
川尻の池は現在の府道交野久御山線沿いの交通慰霊塔付近にあった大きさは、1反。かっぱが住んでいるという伝承があった。


星田大池
 星田大池1町3反との記載がある。この池の創設年代は不明であるが、寛永14年(1638年)にこの池についの村の記録があり、これ以前とされている。丁度この時期から星田村の新田開発が始まっており、その時の中心施策であったのであろう。
 この池は、御農、布懸、中島、玉江などの周辺はもとより、現在のJR学研都市線の北側を含めて潅漑能力を高めるのに役立って、最大時は6町(6ha)にまで拡幅され、昭和50年に交野三中の建設のため埋め立てられて3.9haになったがそれでも交野市内では最も大きな池である。
 池は、高岡と楯石、梶が坂の丘陵に挟まれた広い谷地を堤防を築いて塞き止めて造られたものであるため、初期段階では図のように銀杏の葉っぱ状の形をしていたのであろう。その後池の拡幅のため、高岡山を取り崩し堤防を嵩上げしていった結果、水位が高まり現在の方形に近い形になったのであろう。

不おじ川あれ、東川あれ
 不おじ川(傍示川)あれ東西96間(175m)南北77間(140m) 東川(妙見川)あれ東西200間(364m)、南北33間(60m)の記載があり、傍示川、妙見川両川それぞれに2~2.5ヘクタールの荒れ地(洪水被害地)が描かれている。星田村役場保管の古記録で元禄11年4月17日の御普請人数の覚えとして大池堤の砂止170人、同5月14日367本枕木7村より出し候.内50本山門、25本大池堤、20本行人堤、100本ほうじ川とあり、この復旧工事のことではないかと思われる。
星田村大絵図

作成時期は幕末頃  左が北

明治13年作成の住宅地図  左が北
 星田村大絵図は縦184cm×横180mの大絵図であるが星田村の居住区について道路や区画について詳細で正確な記載がある。この地図の作成時代は江戸時代で詳細は不明となっているが、下の住宅地図は、明治13年に村で伝染病についての連判状を作成した際に作られたものであるが区画の道や中央に流れている中川の描き形などが似ており、また星田大池がきれいな方形にかかれていて、幕末のかなり遅い時期に作られたことが想定される。

 幕府のおふれなどを表示する政治の中心地であったとされる高札場や仁正寺、八幡藩の領域と八幡藩と小田原領の税札とともにかっては岩清水八幡宮の中心であった新宮山は八幡領除地の念書きがある。
 住居は、辻や、堂坂、なべか、畑堂などに平井、和久田(東、西)、谷、中井などの苗字を持っていて、古資料に庄屋、年寄などに名を連ねる豪農や菊屋また星田は、綿花や機織などの木綿産業が突出していたとされるがモメンヤなどあわせて屋敷図が20軒ほどが描かれている。

 星田神社の山車(だんじり)は現在はお旅所に2基が納められているが、昔は東西に分かれていて祭りの日には競い合ったという伝承があるが、薬師寺の近くに壇尻蔵が描かれていて昔は東の山車はここに収納されていたのであろう。教学院(慈光寺の末寺)、貞松庵(光林寺の隠居寺)は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった。
星田名所記(などころき)が描く江戸期文化文政の図画
         
                  御殿屋敷                      はすかい橋と高札場  
         
 星田大池の変遷を歴代の地図で見てみると、元禄絵図では大きさは1.3町(1.3ヘクタール)で最盛期の4分の1で、池の北側は紐谷小山谷地区の3つの池を尺度にすると北限は上の池までで池の北側には高岡山が描かれている。形状はいちょうの葉風であるが高岡山などを削り、土手の嵩上げを進め,水位を高めて現在の方形に近い形になっていったのであろう。
 天保の絵図では大池の北限は中の池の北までで、大きなみどり池が描かれている。明治18年の地図と比較するとみどり池は大池に吸収され、大池の先行池として、本体大池の工事中の際の代替機能のバイパス池としt作られたのではないかとも見える。、なお、元禄絵図にはみどり池はなかったのか描かれていない。星田村大絵図はかなり幕末よりの作成と見られ方形に近くなっており、みどり池は小さくなっていて池の南側に移行しているが、傍示川がとりまくように概念的に描かれていて必ずしも位置が変わっているとも思えない。明治初期の地図は、ほぼ昭和38年の大きさ6町に近づいていたであろう。現況では池の上流側に交野三中が建っていて、大きさ4町に小さくなったがそれでも交野市では一番大きな池である。


2.天保14年星田村絵図(天保14年 1843年)
「天保十四年星田村絵図」には、当時の小字名が書かれており、地名を知る手がかりになります。また、山の色から「はげ山」が広がっている様子が分ります。生活に欠かせない薪を作るために乱伐したのでしょうか。
 「元禄十年星田村絵図」と見比べると元禄10年から天保14年の約150年間に星田村から私市にかけて、はげ山がかなり増えているのが分ります。
 天保の絵図は、元禄絵図に比べて灌漑水路と小字名の記載が充実している。これは、星田大池が元禄地図では1町3反の大きさであったのが時期は不明であるが最終的には4倍の6町まで拡大している。高岡山を削って土手を嵩上げし、池が大きくなってゆくと同時に一方河川や灌漑水路の布設整備が進んできた結果、畑作から水田化が進んできた。

 小字地名は、地詰帳(検地帳ともいう。)といって検地する際に作られるもので、当時の年貢取立てのための土地の基本台帳といはれるものであるが、これに記載の耕作地の地名がまとまってその地域の小字名となる場合が多い。
傍示川

 絵図の上部(地図は南上位で南側。)は傍示川で東側は二つに割れているが上の川はぼって川、下の川は地獄谷川である。ぼって川には明治時代末期に旭縄文遺跡付近にあった旭(小字名)の山を2つ削り、その上流に土手を築き、星田新池が作られることになる。
 下の川は現在の南星台4丁目から星田の山中に源流があって正式には地獄谷川というが現在は傍示川の上流扱いされている。絵図では地獄谷川と両川の合流地点付近に水門が数箇所作られており、上流で中川の上流の紐谷川の上の池に、合流地点近くで星田大池に向かう水路(後者は狐川という。)が描かれている。


中川水系と星田大池水系

 明治の始めに発行された星田村の概要を示す公文書に星田村の用水溝として紐谷川、中川から天の川までの小山台溝と星田大池から茄子作り、私部との境界の中島溝と書かれている。小山台溝は、元禄絵図でも書かれているようにように中川・紐谷川と川沿いに作られた池を源水とする系統である。
 絵図で見ると今池からでている用水溝は古くから中川の西側の地域に給水していて、現在も残っている。星田大池は、新しい池として地図に示すように高い位置に星田の豊富な山水を活用してつくられた池であり、みののところで枝分かれしているが、ここは5辻といってここから4方向に分かれて周辺の給水を強化するとともに現在の星田駅周辺は地盤が高くなっていて中川系統では物理的にとどかない北星田地域を含めて給水範囲を広げた。
 なお5辻のところが絵図では6辻になっていて1本は、あまつげ川といって現在はないが昔傍示川は、高岡山の東側つまり星田大池のところを流れていたとされ、この川は、古代の傍示川といはれる。 寝屋村(現在は寝屋川市)は星田大池の水利権を持っていて星田村は10日使った後寝谷村が1日給水するということであるがその経緯はつかめていないが建設経費を負担したというよりもあまつげ川の廃止の際の代替措置でなかろうか。

万願池

 万願池が大きく描かれているが元禄絵図にはない。位置はこの地図ではわかり難いが明治初期の堺県星田村絵図では具体的に小さく描かれている。この場所は、星田山の中腹のぼって川沿いにある。
 星田の山は、土砂の流出が激しくこの位置では自然に池ができるところではなく、人工的に作られた池と考えられる。池の目的は、将来この先に星田新池が作られるが、同様の目的(遊水地)で作られたのではないかと思う。
星田の地形
 星田の地形を高低図で示した地図である。星田の南(地図の上方)は高さは最高で280m内外の山地になっており、山岳地帯から北星田地区や隣接の高田村,茄子作村にかけて南高東低で、西側の寝屋村からは東側に流れている天の川に向かっては、西高東低で、全体として南東に向かって傾斜した斜面を形成している。

 星田集落の中央から天の川に向かって中川が流れているが、中川から東の地域は、最も古くから水田耕作が開けた地域である。豊富で穏やかな流れの天の川の後背地であり、湧き水中心の中川に囲まれた扇状湿地地域であり水田耕作に必要な条件を備えていた地域であって、古くは交野物部氏が開いた土地であり、奈良時代の大化の改新の時条理制が敷かれ、班田収受の公利田として使われた土地である。

 中川以西の地は平安から鎌倉時代にかけては星田牧があってもともと牧場に使われていた。中川水系の水は、現在の星田駅周辺は標高が高くなっており、駅周辺は届かない地域があるが星田大池ができて立地上また物理的に届く範囲が拡大したために水田化可能になった地域も考えられる(小字の側田地域など)。


堺県管下河内国第三大区九番領星田邨萬分之六図
 この地図は、明治初期に作成された絵図であり、一万分の一の実測地図であるが、原図は、山林,藪地、砂山、岩石などを表示しているが、地名が見やすいようにこれらを抹消し、加工している。山の部分の高低は、場所によって異なるが、原則北から南に向けた視点で視覚的に描かれているために立体(3D)地図になっていてより見やすくなっている。

 地図の下部の小字名だけが書かれている平地の部分は、その区画、地名とも交野市史の小字名と一致するが唯当時の星田村の居住集落は、黄色い部分に集中し、村内広範に渡る耕作地を徒歩通勤によって行っていたことがかんがえられるが、唯一西側の東高野街道沿いの大谷地区に居住区があった。

 居住地区は、交野市史の小字地図では東村、西村、北村、乾(戌亥)村、坤(未申)村、艮(丑寅)村と方位がついていて、南村はなく南側は星田神社と星田寺、妙音池などで集落がなかったため向井と呼ばれていたが、明治初期の地図では神社寺地区を南邨とし、巽(辰巳)村が新たに増えており、居住地化がすすんでいる。従って交野市史の小字地図はこれよりも古い時期の作成であろう。

 星田の山岳地帯の小字名は、平地部の農耕地帯と異なり,三宅など天皇領や荘園や歴代幕府などの時代を経ているが当時の権力者の直轄地になっており、農耕地などとは別の形で区画や命名がされている。

 星田の場合、区画は尾根筋や谷筋が境界になって小字名がつけられる場合が多い。地図で山岳部でも朱書きの地名が交野市史の小字名と一致した地名であり、( )内で併記している地名は、表現が異なる箇所でそれ以外はほとんど一致している。黒字で書かれている地名でも小字扱いされている例も数多くある。

 星田山の頂上は、馬が峯といって頂上一帯の形状が馬の胴体の形になっていることの地名で頂上の東側には茄子石の谷が流れているがこの谷に瓢箪の形をしたひさごの淵と呼ばれる池があったので小字名で池の内と呼ばれた。馬が峯の西側にはボッテ谷が流れているがこの西側の斜面はボッテといはれた。なすび石の谷とぼって谷が合流し傍示川に合流しているが、この両谷の合流地点に明治の末期に星田新池が築造されているがこの地図には時期的に当然記載がない。その南側の斜面は、割林(地図では土砂川原と記載)といって昔の村民が薪をとったところである。その西斜面は早刈といって肥料に使う草刈をしたところである。


3.河内国交野郡星田村地詰帳
 
1 地詰帳とは検地帳のことで、検地は、古いものは、文禄三年(1594年)に豊臣秀吉によって行われたいわゆる太閤検地がよく知られているが、江戸時代はその約40年後寛永十四年(1637年)頃に検地が行われた。
 その頃は星田村では、村中総がかりの新田畑の大開墾が行われたとされている。さらに40年後の延宝三年(1675年)当時天候不順などで慢性的な不作が続いていた悪条件の中で年貢の増収と小農経営の自立安定を目指し、畿内などの幕府直轄領で六尺一歩を一間、三百歩を一反とする新検といはれた縄で測量が行われたものであるが、そのとき星田は、幕府の直轄領ではないが、実施されたとされている。

2 当時の検地制度は、公6民4といはれ年貢の取立てが厳しいため、庄屋などが制度が将来に向けて引きずらないよう全て資料として残らないよう、処分したのではないかともいはれ、近隣の村では見当たらず、たまたま星田村にだけ、庄屋の引き継ぎ文書として残っていたもので、当時の農業の実情がよくわかる貴重な資料である。
地詰帳による豪中農家の分布図
元禄3年の覚書記載の庄屋
                   市橋下総守殿下星田村庄屋          東 兵 衛
                               同   断          三郎右衛門
                   今井九右衛門御支配同村庄屋         半 兵 衛
                   八幡善法寺御支配同村庄屋          源左衛門


 地詰帳の作成時期は文化五年とみるべきであろうと考えるが、豪中農家の耕作地は、広域に及んでいて家族、使用人、無役農家など小作人によって支えられていたのであろう。

 市橋藩の庄屋東兵衛氏は、幼名を半五郎といい、地詰帳の半五郎のことであろう。これによると庄屋東兵衛家は、田、畠、屋敷すべてを含めて80筆の記載があり、すべて半五郎一本で、地名や屋号のついた別名はなく、石高42石で、1区、2区、3区、6区に集中していて4区、5区にはない。
 市橋家の同役庄屋三郎右衛門氏は、石高で47石で一番多いが、三郎右衛門 辻やと地名の辻屋がついたものが15石あまりあり、6区の屋敷の中で、三郎右衛門と辻や三郎右衛門の双方が存在する。全区にわたるが、辻や三郎右衛門は、3,4,5区に集中し、地区別に使い分けしているようにも見える
 今井藩後に大久保藩となるが庄屋の半兵衛は、38石で領地は上平池、堀の内や尾道など6区であるが、個人の請受地も6区に多い。
 八幡藩の庄屋源左衛門氏については、地詰帳の源は源左衛門氏の幼名として、源と辻源、辻やの源は,同一人とすると24石あり、八幡藩の領域は、3区が中心であるが、個人の請受地としては、3区もあるが、八幡藩は荘園時代から豊臣時代など最も古い歴史をもち、古い水田地である1区、2区が多いのであろう
5反百姓出ず入らず
 昔のことわざで五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとんの経営であると言うことです。ただし自作農の場合で、小作の場合は、半分は地主のもので自分の収入は収穫の半分で2反5畝になる。
1反とはほぼ1ha(ヘクタール)で、1haは,100m×10m四方あるいは33m平方mである。
従って5反とは100m×50mの大きさである。1反の田から1石の米がとれる。
1石の米は人1人が1年間養うに必要な量である。5人家族を想定すると5石必要でそのためには5反の田が必要である。
ざっとした計算である。
年一石の米を食べようとすると、第2次大戦後に食糧配給制度があり、事情が少し改善して1人2合7斥まできたが、腹いっぱい食べるためには一人3合配給が目標という時代があった。1日3合を365日食べれば年に1石8升5合になり、1石を超える。そのためには毎日朝昼夕食とも3杯飯を食べることになる。
人の1日取得カロリー1500カロリーを米食だけで取得しようとなるとこうなるが、今日副食が豊富であり、とてもこのようにたべられない。

4.明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較
 この地詰帳記載の田畠の面積を集計すると、一部八幡藩の地区は石高だけで田畠の上中下ランクに加えて面積の記載がないので全量をとらえることはできないが、この分については石高からの推計地になる。

 田は、市橋藩、大久保藩で73町.9反、畠は同じく両藩で18町5反であり、これに八幡藩分120石の面積を仮に田の中クラスで推計換算すると1反あたり1.3石とすると120石の耕地面積は9町2反となる。合わせて田、畠と八幡分を加算すると全耕地面積合計は101町6反になる。明治期に入ってからの田畑の状況を大阪府地誌で見てみると面積が2倍以上になっている。

 なお、星田では明治末期に星田新池が、また大正の始めに大谷新池が作られ、これらは時代的に後世のできごとであり、この耕地の増加には全く影響を与えていない。

  税地  明治8年改正反別(大阪府地誌)
  田  191町5反2畝25歩
  畑   38町7畝10歩

 また米の収穫高を見てみると、元禄3年の三藩庄屋の覚書以来星田村高は1535石八斗とそのまま、幕末まで続いているとされているが、明治23年の交野郡米改良組合の米収穫高では4,677石34とほぼ3倍に増加している。
 元禄期から後は星田大池の改修が進み、当然収穫高の増加になっていることが考えられるが、この地詰帳が文化五年であるとすると100年あまりの間、村高が増加していないのは、不自然におもえる。地詰帳とよく似たものに名寄帳がある。地詰帳は土地1筆ごとに記載された台帳であるのに対して名寄帳は、村役人が事務上の必要性から作られたもので人を中心に全ての土地やしきなどを取りまとめたものである。年貢の徴収はこれによって徴収されたとされている。

 農家300余りで2100余りの筆数があれば、年貢の徴収は、個人あてまとめて徴収していたのであろう。隠田といって年貢逃れを厳しく扱っていたが領主側も零細農民を生かしておくために鍬下(開墾中の土地)として次回の検地まで徴収を伸ばすという措置もあったようであるが、これらの扱いは名寄帳の中であつかわれたのであろうか。

 地詰帳では1反あたりの生産量は、上田で1石5斗。中田で1石3斗、下田で1石1斗とする場合が多いが、前記の明冶23年の米収穫高を耕作面積で除すると1反あたりの生産高は2石8斗であり、地詰帳の描く耕地面積、反当り生産量ともかなり低く、時代の進化や生産性を十分織り込んでいない面は否定できないが、検地の実施は、する領主にとっても受ける農民側にとっても困難な課題をかけており、その分名寄帳などで補正がなされていたのか実態はわからない。
明治22年の町村制施行
最後までご覧いただきありがとうございました

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