HPのTOPページへ戻る

平成28年5月定例勉強会

明治18年淀川大洪水と治水翁大橋房太郎
  講師:高尾 秀司氏 (交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 29名の参加
 2016.5.28(土)午前10時、5月定例勉強会に29名(会員25名)が参加されました。

  村田事務局長の挨拶の後、講師の高尾秀司氏から
 「明治18年淀川大洪水と治水翁大橋房太郎
をテーマで「淀川の大洪水と大橋房太郎」など
  について、プロジェクターで沢山の画像を映し乍ら大変詳しくお話しいただきました。
  講師の高尾さんが2年がかりで調査研究された内容を発表されました。
   
  
明治18年淀川大洪水と治水翁大橋房太郎講演概要

    1.四畷神社の大橋房太郎の顕彰碑
    2.明治18年淀川大洪水について
       ①大洪水の概要
       ②枚方での決壊箇所  
         鍵屋裏の洪水石碑 説明版 伊加賀付近(合同樋門跡)など

        ③わざと切れと第二次洪水
     3.当時の被害跡と石碑など現地調査と写真の紹介
     4.淀川資料館に展示されている当時の被害状況と写真集
     5.淀川の治水翁大橋房太郎について
     6.オランダ技師・ヨハネス・デ・レーケと交野の関わり
     7.淀川系河川の大改修事業と沖野忠雄について 
        木津川・宇治川・桂川の改修、新淀川の新設、毛馬閘門、洗堰など


      <参考文献>
        淀川資料室より多数の資料を提供頂きました。
        淀川の治水翁(小川 清著) 
        四条畷神社の大橋房太郎顕彰碑など
        大坂の陣 ゆかりの地(大坂城天守閣館長 北川 央著)

       
   今回の勉強会で学んだことを、7月9日(土)の交野歴史健康ウォークで
   淀川河川事務所「淀川資料室」と枚方市の水害跡などを見学・散策します。
 
     
 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及び
   プロジェクターの映像資料などを参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。



講師: 高尾 秀司氏
勉強会 風景

明治18年淀川大洪水と治水翁大橋房太郎  レジメ

担当  高尾 秀司氏
 畷神社にお参りすると参道の階段を登った右突き当りに一際大きな石碑が目につきます。その石碑の正面には次のような文字が刻印されております。
 「淀川治水功労者 大橋房太郎君紀功碑 内務大臣正三位勲一等 水野錬太郎書」と書かれております。この碑の文字は後藤新平の揮亳によるものです。
 この人こそが明治18年の淀川大洪水(河内平野の殆どが水没した)に際し生涯をかけて治水事業を成し遂げた大橋房太郎でした。これはその房太郎の業績を顕彰したものでした。
 この碑に刻まれた房太郎の先祖が楠木氏の寄騎(よりき)であったことから有志の手で楠木氏と関わりの深いこの神社に建立されました。この碑は生駒山系の高台から淀川の流域を今も静かに見守っています。


              四条畷神社にある大橋房太郎顕彰碑


明治18年淀川大洪水について

 明治18年6月朝鮮半島に発生した低気圧に刺激された梅雨前線が6月15日に豪雨をもたらす。16日には一旦晴れましたが17日には再び新たな低気圧が豪雨をもたらした。その結果淀川の水位が急上昇する。一日で2m(7尺)も上昇し基準の水位から4,2mに達する。
 まず交野から淀川本流に流れ込む天野川の堤防が(枚方市内)決壊し、ついで天野川と淀川の合流箇所から少し下流の淀川左岸の堤防が決壊します。(今の淀川資料館のあたり。この資料館には淀川の生態系や歴史、水害と治水などの資料を展示している。) さらに大水害をもたらしたのは最初の決壊地点の少し下流の伊加賀で大きく崩れ、発生した大量の水は濁流となって、低い土地を求めて北河内を南に向います。
 19日には放出を中心とする寝屋川下流域が水没し水は寝屋川に沿うように鴫野、蒲生、都島、網島へと大阪市中心部に迫ります。これより西側には造幣局、外国人の居留地、大坂府庁(現在の位置と違う)がありここが浸水すれば大変なことになるので「わざと切れ」という非常手段をとり流れてきた水を大川に戻すことにしました。




 しかしこれだけでも歴史に残る大水害となったのですが更に25日から再び雨脚が強まる。28日からは台風の影響とみられる集中豪雨があり、7月1日には暴風も加わって淀川はじめ各河川の水位が上がり洪水に追い打ちをかけます。その規模はけた外れでつい10日前の洪水で弱っていた支流の堤防も次々に壊れました。「わざと切れ」も崩れて逆に水を呼び込む結果となりました。
 市内の浸水は2日午後7時頃が最高で4mにも及びほぼ軒先まで水の底に沈む被害を受けました。木造だった大川の橋31もすべて流出。被害人口、304,199人、浸水戸数 72、509戸。流出戸数 1749戸。全壊 1612戸 死者行方不明者 81名 これが記録に残る淀川だい洪水の概要です。

 ちなみに平成27年9月13日の東日本の大洪水による茨城県の被害住宅 11,748戸、死者4名 外栃木、宮城もただいな被害ありました。(読売新聞)

 現在でも当時洪水のあった場所にその跡を示す石碑などが沢山残っており、また当時被害にあったお寺や神社が残っております。今回はそれぞれの現場を画面上で見てまわることにします。枚方、門真、東大坂、大東市、大阪市内等。プロジェクターで写真をご覧いただきます。

           淀川の治水翁 大橋房太郎
 この大水害から世紀の淀川大改修にたちあがったのが後、淀川の治水翁といわれる大橋房太郎であった。

      大橋房太郎の生いたち
 
 万延元年(1860) 摂津国東成郡放出村に生まれる。

「放出」のこと

  阿遅速雄(お)神社(あじはやおじんじゃ)(JR放出駅近く)に不思議な話が伝わっております。
 天智天皇7年(668)新羅の僧「道行」が尾張の熱田神社から神剣・天叢雲剣を盗み出し新羅に逃げ帰ろうとした途中暴風雨に遭って、この地まで流され、これは神様の怒りに違いないと恐ろしくなった僧は、盗み出した神剣を川に放ち出しました。これが放出(はねてん)の起源とされております。
 またこの神社には大橋房太郎寄進の石碑もあります。大橋家はこの放出で大庄屋を務める有力者の一族であった。

 房太郎は向学心旺盛で色々な人々に師事し後、西船場・阿波座の広教小学校の代用教師となる。その後法律の勉学に励み後東京に出て鳩山和夫法学博士(鳩山一郎の父)邸に住み込みの書生となり法律の勉学に励む。この時淀川の大洪水の報に接し急遽大坂に帰ることになる。この後の活躍は年表にてみることにする。

明治18年7月   東京より被害を知り急きょ大坂に帰る
明治20年6月   放出村・下辻村の村長に就任
明治24年     大坂府議会で淀川改修測量費を府で負担と決まる
明治24年12月  府議会で淀川改修建議案が議決される
明治25・26年   上京し松方正義総理、伊藤博文総理、等に陳情
明治29年2月   帝国議会で淀川改修建議案が可決
      3月   河川法、淀川改修法が可決
            新淀川の水路にあたる土地の収用交渉始まる
明治37年     日露戦争の為、一時工事中止に追い込まれる。
明治42年6月1日  毛馬の閘門で淀川大改修竣工式が執り行われる
昭和10年6月30日  死去享年74歳 大阪市中央公会堂にて葬儀が行われる。
              (関市長と二人のみ)

 この改修工事にはオランダからヨハネス・デ・レーケ技師がまねかれ総指揮をとる。この時期、交野の天野川でレーケの指導で砂防堰堤が築かれ今も活躍しており国の登録文化財になっております。(水辺プラザ2か所、尺治川1カ所) 明治32年(1899)に造られ府下で一番古いものです。

 また当時第四区土木監督所長 沖野 忠雄氏の淀川系河川の壮大な改修計画が出されこれに従って大改修工事が行われることになりました。

<概要> その範囲は琵琶湖から大阪湾までに及びました。宇治川の改修・桂川、宇治川、木津川の合流地点、(現在、背割り堤と呼ばれて桜の名所になっている) 淀川、毛馬から西に一直線に流れる新淀川の新設、毛馬閘門、毛馬洗堰等であり、明治29年から明治43年までの14年にもわたる歳月をかけて完成しました。
 この工事は当時の淀川の治水安全度を飛躍的に向上させ、地域の発展に寄与するとともに、その後の日本全国の河川の治水対策にも大きな影響を与えました。

<参考文献>
近畿地方整備局淀川河川事務所淀川資料室より多くの資料を頂きました。
小川 清著 淀川の治水翁 大橋房太郎   四条畷神社
大坂城天守閣館長 北川 央(ひろし)著 大坂の陣 ゆかりの地 朱印めぐり
近畿地方整備局淀川河川事務所 「淀川資料館」
http://www.yodo-museum.go.jp/about/group.html  より参照


明治18年淀川大洪水と治水翁大橋房太郎
当日、プロジェクターで映写された画像・説明資料集
高尾秀司氏より提供頂きました
最後までご覧いただきありがとうございました

交野古文化同好会のTOPへ

HPのTOPページへ戻る