HPのTOPページへ戻る

平成28年11月定例勉強会

万葉集に親しむ

  講師:岡本三千代氏
(万葉うたがたり会主宰)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 28名(会員25名)の参加
 2016.11.26(土)午前10時、11月定例勉強会に28名が参加されました。

  村田事務局長の挨拶の後、講師の岡本三千代先生から「
万葉集に親しむをテーマで、歌の趣旨、時代背景、歴史など大変多岐にわたり詳細にお話しいただきました。
  
  2年前の平成26年11月の勉強会で、岡本先生には、「万葉集に親しむ」~万葉集と万葉歌碑~」について、万葉集へのこだわり、万葉うたがたり会のこと、交野と万葉集・歌碑など、大変わかりやすく作曲された歌を交えながら明快にご講演いただきました。
 
  今回は、[紅葉]の歌を全員で斉唱して始まり、万葉集の季節・自然、特に秋の紅葉、時雨の歌、また三笠山、龍田山、龍田川、生駒山の歌を中心に、紅葉・龍田の山・暗峠のことを大変詳しく解説頂きながらお話下さいました。

  後半は、5年前に発生した東日本大震災の大津波の「温故地震」ー多賀城下に達した大津波ーから、大伴家持の歌った「みちのく山に 金(くがね)花咲く」、海ゆかばの元歌、聖武天皇の御代・大仏建立に黄金900両を献納した百済王敬福・百済寺のことなど、大変興味深いお話をお聞かせ下さり誠に有難うございました。

  今回の勉強会の内容を取りまとめるに当たり、当日頂いたレジメを参考にさせていただきました。
   

  ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及びWEB記事などを
     参照させて頂き、記して感謝申し上げます。

講師:岡本三千代氏(万葉うたがたり会主宰)

岡本三千代氏の万葉うたがたりのホームページ

以下は、HPを参照させていただきました。
 甲南女子大学文学部国文学科卒業。在学中に文化功労者である故犬養孝氏に師事、万葉集を学ぶ。現在、奈良女子大学大学院で、再び女子大生に!
「万葉の道」の著者、扇野聖史氏の出会いがきっかけとなり万葉集に作曲。「万葉うたがたり」という独自のスタイルで昭和57年より演奏活動を開始、今日に至り、2009年で活動28年を終えた。
CDや楽譜など作品集も制作。また講座・執筆など活動範囲も広がり、自治体と協力して、ふるさと作りの手伝いや、万葉ロマンの世界を広める活動をしている。前明日香村観光開発公社理事。


平成26年10月1日付で、犬養万葉記念館の館長に就任された。
 岡本三千代の「万葉うたがたり」とは

万葉集の長・短歌に自作のメロディーをのせて「歌い」、万葉集の歌の説明や、また岡本三千代個人の感性で万葉集によせて「語る」スタイルをいつのまにか「万葉うたがたり」と名づけていただいていた。
歌がメロディーを伴うことで、万葉歌がドラマテイックにイメージ化されてくる。 コンサート活動等を通して、古典学習としての「古代文学」ではない『万葉集』の魅力の数々を伝えていき、ひとりでも多くの万葉ファンを増やしていきたいと頑張っている。
 犬養孝先生との出会い そしてライフワークに

甲南女子大学で万葉学者の故犬養孝氏に出会い、師事したことが、今日のきっかけとなっている。

犬養先生は風土文芸学の立場から万葉集を生涯の研究対象とされた。ゼミ生の私たちは先生と一緒に日本全国の万葉故地を訪れ、時代や情景を万葉時代に戻し、臨場感を味わう体験を通して、万葉歌を勉強し、考証した。その時には必ず、「犬養節」という犬養先生独自の節回しの朗唱に聞き入りながら、または唱和しながら、万葉旅行を楽しむのが「あたりまえ」になっていた。

犬養先生の大阪大学時代の教え子で、銀行マンでありながら並行して万葉集研究をライフワークとされておられた故扇野聖史氏のお奨めで(扇野さんは既にウクレレで万葉歌を歌われていた!?)、万葉歌に作曲をしたことが、最初のきっかけとなった。大学4年の処女作が「二上エレジー」である。
万葉集を覚えようという気持ちで、手探りで作曲を始めたが、犬養先生の朗唱→扇野さんから受けたカルチャーショック→作曲→演奏活動という発展は思いがけないことでもあったし、その後は見えない力・人によって支えられて「私と万葉集」についてライフワークだと公言できるまでに至ったことを感慨深く思っている。2015年には活動35週年を迎える。
勉強会 風景

 
村田事務局長の挨拶に笑顔で応えられる岡本先生


講演は、「もみじ」の歌を全員で斉唱して始まった!

紅葉(もみじ)
うた:NHK東京児童合唱団   作詞:高野辰之


秋の夕日に 照る山紅葉  濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様

渓の流に 散り浮く紅葉  波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに 水の上にも織る錦
万葉集に親しむ  レジメ

講師:岡本三千代氏(万葉うたがかり会主宰)
講演概要のまとめ
万葉集は

  7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。
・  巻1~巻20まで、およそ4520首(写本によって異なるので)の歌が載っています。
・ 天皇、皇族だけでなく、庶民の歌も数多く載せられています。
・ すべて漢字で書かれています。
・ 最初は数巻がまとめられ、のちに追加され、最終的に大伴家持が20巻にまとめたと考えられています。
・ 「万葉集」は、「万(よろず)の言(こと)の葉の歌集」からその名がつけられたとも、「万代(よろずよ)に伝えられるべき歌集」からとも言われています。

時雨彩色

万葉集の巻8巻10には、四季・自然の歌が多い。
  【四季】万葉の人が感じた日本の季節感を、歌を通じて感じたり、共感できます。
  【自然】万葉の人々が触れていた豊かな自然への想いを知ることができます。

『万葉集』では、黄葉の歌は、四季に部立(ぶだて)されている巻8や巻10に集中し、時雨(しぐれ)は黄葉を色づかせ、散らす天象として大きな位置を占める。地名としては、三笠(みかさ)山や竜田(たつた)山などが多い。また、「もみち葉の」は、はかなく散りやすいことから、「移る」「過ぐ」にかかる枕詞(まくらことば)として用いられる。紅葉は視覚的に賞美するとともに、手折ってかざし(挿頭華)とすることも多く詠まれている。

1605  高円の 野辺の秋萩 この頃の 暁露に 咲きにけむかも
         作者は大伴宿祢家持。
 高円山(たかまどやま)は奈良市春日山の南方の山。「この頃の暁(あかとき)」は
 1603番歌の「この頃の朝明」と同意。「高円山の野辺の秋萩はここ数日の露を受けて咲いたであろうか」という歌である。

1571  春日野に 時雨降る見ゆ 明日よりは 黄葉かざさむ 高円の山
      春日野は平城京の東方に広がる野。高円(たかまど)山は春日山の南、大文字焼きが行われる山。「黄葉かざさむ」はいうまでもなく、高円山自体が黄葉化することである。「春日野にしぐれが降っているのが見える。明日は高円山は黄葉に覆われるだろう」という歌である。

1553  時雨の雨 間なくし降れば 三笠山 木末あまねく 色づきにけり
       作者は衛門大尉大伴宿祢稲公。稲公は1549番歌に出てきたばかりで、衛門大尉は宮城警護の役所で長官、次官に次ぐ役職。
 「間なくし降れば」はむろん「降ったら」などという仮定語ではない。「降るので」という意味である。三笠山は春日大社の背後の山。木末(こぬれ)は梢のこと。「しぐれ雨が絶え間なく降り続き、三笠山の木々の梢一面すっかり色づいてきた」という歌である。

1554  大君の 御笠の山の 黄葉は 今日の時雨に 散りか過ぎなむ
        前歌に大伴家持が応えた歌。
 「大君の」は本来天皇を指す用語であるが、本歌の場合は「御笠(三笠)の山」の美称と考えていいだろう。ただ、御笠にかかる「大君の」は本歌のほかに1102番歌の一例しかなく、断定し難い。「岩波大系本」や「伊藤本」は枕詞としているがむろん枕詞(?)である。「御笠の山の黄葉(もみぢば)は今日のこの時雨で散ってしまうだろうか」という歌である。
 万葉うたがたり会のテーマ曲
 サンバ・DE・ツバキ

 こちらをクリックして、 サンバ・DE・ツバキの曲を試聴下さい。
 巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野

 河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽きず 巨勢の春野は
巨勢山のつらつら椿を、その名のようにつらつら見ては賛美したいものだなあ。巨勢の春の野を。
…………………………………………………………………………………………………

この歌は坂門人足(さかとのひとたり)の作で、大宝元年(701年)の秋、持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、同行した坂門人足が詠んだ歌です。
一見、単純に秋に訪れた巨勢山で、春に咲く椿を見てみたいものだと言っているようにも取れますが、この歌も土地誉めの要素が強く巨勢山を賛美することで土地の精霊の加護を受けて旅路の無事を祈る歌なのでしょう。

その証拠に、巻一の(五十六)にはこの歌の元となったといわれている「河の辺(へ)のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は」という歌が収録されています。
この手の土地誉めの歌はお呪いの呪文のようなもので、伝承となってさまざまな人が詠み替え詠いついで来たようですね。

また、この歌の特色のひとつとして、歌の「調べ(リズム)」の滑らかさは特筆すべきものがあるように思います。
「巨勢山の…巨勢の春野を」、「つらつら椿つらつらに」など繰り返しの技法を使うことで、歌を口ずさんだ時に非常に心地よくすらすらと暗じられるようになっています。

人々に詠み継がれ歴史のなかに残る名歌には、このような「調べ(リズム)」感のよいものが多いものです。
 時雨彩色
 YouTubeで万葉うたがたりコンサートの「時雨彩色」を動画(3分)でご覧ください。 
 高円の 野辺の秋萩 この頃の 暁露に 咲きにけむかも

春日野に 時雨降る見ゆ 明日よりは 黄葉挿頭さむ 高円の山

時雨の雨 間無くし降れば 三笠山 木末あまねく 色づきにけり

大君の 三笠の山の 黄葉は 今日の時雨に 散りか過ぎなむ
 
 岡本先生に解説いただきました、三笠山の参考写真です。 

  

手前は荒池、向こうは奈良公園、三角形の山が三笠山(御蓋山)(みかさやま)である。
背後は春日奥山(春日原始林)。御蓋山の全容が真近に眺められる。
※ 龍田川
  平安時代以降、紅葉の名所として歌に詠まれた龍田川は、いま、生駒山の東麓を南に流れて大和川に合流する川である。
  しかし、万葉の歌に詠まれた龍田川とは、龍田大社のあたりを流れる、いまの大和川のことだ。龍田大社は風神を祭った神社である。奈良県生駒郡三郷町立野にある。
① 「 ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 龍田川  からくれないに 水くくるとは 」 
                         在原業平 : 古今集、百人一首 伊勢物語


  ( あの不思議な事も多かった神代にも聞いたことがありません。
         この龍田川に紅葉が散り敷いて水を真っ赤に括り染めにするとは )

  「からくれない」は韓の国から渡来した紅の意で鮮やかな紅色。「水くくる」は 「水を括り染めにする」意。
  「くくり染め」とは絞り染めのことで、布地のところどころを糸でくくり、文様が出来るように染め残しを作る
   染め方をいいます。



② 「 嵐吹く 三室(みむろ)の山の もみぢ葉は 龍田(たつた)の川の 錦なりけり 」
                        能因法師(69番) 『後拾遺集』秋・366

  ( 山風が吹いている三室山(みむろやま)の紅葉(が吹き散らされて)で、竜田川の水面は
   錦のように絢爛たる美しさだ。
 )
※ 龍田の山
 龍田山(たつたやま)は、現在の奈良県生駒郡三郷町(さんごうちょう)の龍田本宮(たつたほんぐう)の西、信貴山(しぎさん)の南にあたる山地とされています。龍田山(たつたやま)という山はありません。周辺の山々を含めて竜田の山と呼ばれていた。
③ 「 雁がねの 来鳴きしなへに 韓衣 龍田の山は もみちそめたり 」
   ( 雁がねが 渡って来て鳴き始めたかと思うと はや 韓衣(からころも)を裁つという名のタツ田の山は
    色づき始めた 雁がねが 韓の錦を運んできたらしい )


   「 妹が紐 解くと結びて 龍田山 今こそもみち そめてありけれ 」
   ( いとしい妻の下紐を きっとまた解こうとしっかり結んで発つという 龍田の山は今まさに
       モミジが 始まっている )

  
 「 夕されば 雁の越え行く 龍田山 しぐれに競ひ 色づきにけり 」
    ( 夕暮れになると 雁の飛び越えてゆく龍田山は 時雨と競うように 色づきいてきた
        雁に誘われて 時雨と競って 9

  
 「 秋されば 雁飛び越ゆる 龍田山 立ちても居ても 君をしぞ思ふ 」
    ( 秋になると 雁が飛び越えるタツ田山のように タッていても 座っていても
         あなたの事を思っています 雁が飛ぶような心地で )

   ※ 龍田山 立ちても居ても
      寄物陳思歌 (モノニヨセテオモイヲノブルウタ)
      ものによせておもいをのぶる‐うた〔ものによせておもひをのぶる‐〕【▽寄▽物▽陳▽思歌】
      万葉集で相聞(そうもん)に属する歌の一類。ある物によせて間接的に心情を述べた歌。
「もみつ【紅=葉つ/黄=葉つ】」(動詞) → もみち(紅葉)(名詞)に変化したもの

 万葉集の歌に詠まれる「もみじ」は、「黄葉」と書かれているものが圧倒的で、「紅葉」はごくわずかです。
 その理由として、「奈良時代には黄色く色づくものが注目されたためだ」、という説があります。

 黄葉は88首、赤葉は3首、、次の歌④が紅葉は1首のみです。
④ 「 妹がりと 馬に鞍置きて 生駒山 打ち越え来れば 紅葉散りつつ 」 
                                巻10-2201  作者未詳
  ( いとしいあの子の許へと馬に鞍を置いて 生駒山を急ぎ越えてくると
         紅葉がしきりに散っていることよ )   ※ 暗峠を超えて

   こちらは悠々と馬上の旅。紅葉を楽しむ余裕があり、旅情も漂っています。
   作者は高貴な人物なのでしょうか。  「妹がり」の「がり」は「~のもとへ」

 ※なお、万葉で「もみじ」の原文表記はほとんど「黄葉」(もみち)。
   その中で「紅葉」と表記されている唯一の歌です。
暗峠(くらがりとうげ)

 奈良の方から生駒山を見て左手の低いところ、生駒山頂からはすこし南にくだった鞍部が暗峠(くらがりとうげ)(455m)である。この道は奈良の三条大路を西に延びて矢田の丘陵を越え平群川をわたり、峠を越えて枚岡神社のわきに出る道で、こんにち暗越奈良街道と言われる。歩いて山越をするものが低いところをえらぶのは通例だから、この道は近世はもちろん、近鉄奈良線のできるまでは重要な交通路だった。奈良から大阪へ商品の仕入れにゆくものも徹夜でこの峠を越えたという。戦後にはジープの往来がときどきあった。こんにちは通る人もなく、暗峠には農家が数軒、さきのころまでの旅宿のあとなどがのこって、いまは明るい山道である。
生駒の山越えの道は山頂の北方に善根寺越え、遊園地の北側を越える辻子越え、それとこの暗峠の三つがあるが、当時どれを通ったかは定められない。いわゆる「草香の直越」についても説がある。また暗峠は中世以後の道だとの説もあるが、確証のあるわけでなく、この暗峠越の道筋なども、当時の重要な路線であったと思われる。
 いとしい人のもとへと馬に鞍をつけて山越をしてゆくと、おりからもみじが散りくる旅情旅愁は、歩く山越なればこそ身にしみるものがあるわけだ。いまはしんかんと人気なく道いっぱいに農作物がほしてあったり、5月ごろにはほととぎすの大変おおいところでもある。
 生駒の山頂から暗峠・十三峠を経て信貴山・竜田方面にゆく尾根道は、終日平群の谷から大和平野を見下ろし、一方大阪府の東壁をゆくようで、古代東西の実情がうきあがってくる。

⑤ 陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首 (併せて短歌) ー大伴家持ー
  葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と
  知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山河を 広み厚みと たてまつる 
  御調(みつき)宝は  数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大王の 諸人(もろひと)を
  誘ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて 金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに
  鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
  天地の 神相うづなひ 皇御祖(すめろき)の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 朕(あ)が御代に
  顕はしてあれば 食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の雄を
  まつろへの むけのまにまに 老人(おいひと)も 女童児(めのわらはこ)も しが願ふ 心足(だ)らひに
  撫で賜ひ 治(をさ)め賜へば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の
  遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
  
海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大王の 辺(へ)にこそ死なめ
  かへり見は せじと異立(ことだ)て 大夫の 清きその名を 古よ 今の現(をつつ)に
  流さへる 祖(おや)の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖(おや)の 立つる異立て
  人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ
  梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り
  我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる 大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み

反歌三首

  ますらおの 心思ほゆ 大王の 命の幸(さき)の聞けば貴み
    (ますらおの心を身にしみて感じた。大君のお言葉のありがたさを また「が」。
                承ると貴くて。また「貴いので」。)

  大伴の遠つ神祖の 奥つ城は 著(しる)く標(しめ)立て 人の知るべく
    (大伴の 遠い先祖の 御霊屋(みたまや)は はっきり印をせよ 人がそれと知るほどに)

  天皇の御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金(くがね)花咲く
     (天皇の 御代が栄えるであろうと 東国の 陸奥の国の山に 黄金の花が咲いた)
 大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、特別な家柄であった。物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきたのである。天皇は、この内乱の危機をはらんだ時代を憂えて、あらためてことさらに、両氏へ忠誠を求めたのである。

その宣命の中に、次のような言葉がある。

 大伴佐伯の宿禰は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(続日本紀)

「海行かば水浸く屍山行かば草生す屍」の一節は、
 先の大戦中に、戦意高揚のために利用され、もてはやされたから、年配の人はよく覚えていることだろう。
もともとは、大伴佐伯両氏の間に伝わっていた、戦闘歌謡であった。

この時、家持は越中にあったが、使者を通じて宣命を知り、また贈位を賜った。感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えた。

この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の
、伴造意識が鮮やかに表れている。我々はそれを読むことによって、古代における氏族の意識の一端に触れることができる。
みちのく山

 天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金(くがね)花咲く
                         大伴家持  巻 18-4097
 聖武天皇の天平21年(七四九)2月、おりから造営中の東大寺大仏の塗金に不足していたとき、陸奥の小田郡からはじめて金を産して、陸奥国守百済王敬福が黄金九〇〇両を献納した。天皇は四月東大寺に行幸されて産金を喜ぶ詔書を出され、年号を天平感宝元年と改められた。当時、越中国守として国守館にあった大伴家持は、詔書の中に大伴氏の祖先以来の功績がたたえられているのに感激して詔書をことほぐ長歌1首と反歌3首を作った。これはその反歌の第3番目である。「陸奥山」は長歌に「陸奥の小田なる山」とあるのをさしている。
 産金地は東北本線小牛田駅東方の遠田郡涌谷町黄金迫付近の山地で、石巻線涌谷駅から町をぬけて北へ3キロ余の山あいにあたる。現在山ぶところに式内黄金山神社(黄金宮)が訪う人もなく鎮まり、社の前に「黄金始出地」の碑や山田博士筆の万葉歌碑がある。社地はもと1.5キロほど北方の山中にあった。付近山地は近時の発掘調査で産金がたしかめられている。
 この歌は現地での歌ではないが万葉故地の最北限にあたる。家持は越中で陸奥を思い生涯の感激を歌にあらわしたが、その同じ人が三六年後の延暦四年(七八五)、持節征東将軍としておそらくは多賀城に在任中病没し、しかも藤原種継暗殺事件に連坐のかどで未葬のまま追罰された。黄金迫の幽林の中には数奇な運命の人の心魂が人しれずつぶやいているようでもある。

黄金山神社に隣接して平成六年、産金の歴史や黄金山遺跡を紹介する涌谷町立天平ろまん館が開館された。
       詳細は、
涌谷町立天平ろまん館ホームページを参照ください。

黄金山神社  涌谷町黄金迫にて
百済寺について
 百済王家とは、百済滅亡の時、我が国に亡命した百済王の子の禅広(ぜんこう)一族のことである。天智天皇は、禅広のため、摂津の国に百済郡を創設して、一族をそこに住まわせた。禅広のひ孫にあたる敬福(きょうふく)は天平15年(743)に陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた。その敬福が天平勝宝元年(749)、黄金900両を献じた。東大寺大仏に鍍金用の金が不足していたときだったので、聖武天皇はいたく喜んで彼に従三位を授け、宮内卿に任じ、河内守を加えた。このとき、枚方の地が与えられ、一族は摂津の百済郡からこの地に移り住んだ。
<百済王敬福の略歴>

天平10年(738)、正六位上・敬福は陸奥介(むつのすけ)に任ぜられる。この年、初めて敬福の名が
            『続日本紀』に登場(41歳)
天平11年(739)、従五位下の位を授けられる(42歳)
天平15年(743)、陸奥守(むつのかみ)に栄進する(46歳)
天平勝宝元年(749)2月、敬福が黄金900両を献じる。聖武天皇、はなはだ喜び従三位を授け、
            宮内卿に任じ、河内守を加える(52歳)
天平勝宝4年(752)4月9日、大仏開眼の法要が営まれ、5月28日、敬福を常陸守に任ぜられる(55歳)
天平宝字3年(759)、敬福、伊予守に転任(62歳)
天平宝字5年(761)、新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命される(64歳)
天平宝字7年(763)、敬福、讃岐守に転任(66歳)
天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱が起きると、敬福は藤原仲麻呂の支持で即位していた
                淳仁天皇を外衛大将として幽閉(67歳)
天平神護元年(765)、敬福、刑部卿に任じられる。称徳天皇の紀伊国行幸時には騎馬将軍として
              警護に当たる。その帰途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、敬福らは
              本国の舞(百済舞)を奏した(68歳)。
天平神護2年(766)6月28日、刑部卿従三位・百済王敬福が逝去(享年69歳)

★室町時代の古文書『百済王霊祠廟由緒』によれば、敬福の叔父にあたる百済王南典の没後、聖武天皇の勅によって百済王氏の祖先と南典の霊を祀るため、百済王神社と百済寺が創建されたと記されている。

百済寺は鎌倉時代に焼失し廃寺となった。しかし、百済王神社は百済王氏の没落にもかかわらず中宮一円の氏神として地域住民の崇敬を集めて、現在まで存続してきた。現在の本殿は、江戸時代の文政10年(1828)、奈良春日神社の作り替えのとき、旧社の一棟を譲り受けて移設してきたものである。石の鳥居や、石灯籠、狛犬なども江戸時代中期以降のものだとされている。

★百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇は、敬福の孫娘・明信(みょうしん)との関係で、この枚方の地を重視するようになった。彼女は、桓武天皇がまだ山部王と呼ばれる日の当たらない皇子だった頃の初恋の女性だったとされている。彼女は桓武天皇の時代、後に右大臣まで昇進した藤原継縄(ふじわらのつぐただ)の妻となっていたが、尚侍(ないしのかみ)として天皇の秘書役とも言うべき重要な役職をこなした。
 桓武天皇の世になり平安時代に入ると、百済王家から急に多数の女性が宮中に召されるようになり、そのうちの幾人かは皇子・皇女を儲け、三位以上にも叙せられた。さらに、天皇はしばしば交野に行幸し、山野で狩りを楽んだという。天皇の交野行幸は12回を数える。このように百済王家に繁栄をもたらしたのは、百済王明信の力によるものとされている。
 現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王氏の繁栄の跡をとどめるものなのである。


百済王神社(くだらのこにきしじんじゃ)・・・ 小錦ではない「こにきし」

住 所: 枚方市中宮西之町1-68 京阪宮之阪駅から東へ300m
祭 神: 百済王神 須佐之男命
本 殿: 南向。妻入


   
多 賀 城
 多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。
国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。

 奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。
 奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。
 第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震(貞観地震)による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。

 多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
 これにより、平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

 多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(後に多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
 「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」  清原元輔
              心変わり侍りける女に人に代わりて後拾遺集・恋四(770))
(約束したのにね、お互いに泣いて涙に濡れた着物の袖を絞りながら。
末の松山を波が越すことなんてあり得ないように、決して心変わりはしないと。それなのに・・・。)

 【契りきな】  「契り」は4段活用動詞「契る」の連用形で、主に「(恋の)約束をする」という意味。「き」は過去の助動詞「き」の終止形、「な」は感動を表す終助詞で、「約束したものでしたよね」と過去を感動的に回想しています。  【かたみに】  副詞で「お互いに」という意味です。  【袖をしぼりつつ】  「袖をしぼる」というのは「泣き濡れる」という意味で、涙を拭いた袖がしぼらねばならないほどぐっしょり濡れた、という意味合いです。大げさに思えますが、平安時代の歌によく使われる表現です。「つつ」は繰り返しを表す接続詞です。  

【末の松山】  現在の宮城県多賀城市周辺です。

 【波越さじとは】  「じ」は打消しの推量・意志を表す助動詞で、「かたみ~とは」までが「契りきな」に続く倒置法になっています。末の松山はどんな大きな波でも越せないことから、永遠を表す表現、「2人の間に心変わりがなく永遠に愛し続ける」ことを表しています。

作者:清原元輔(きよはらのもとすけ。908~990)
 清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫で清少納言の父にあたります。平安中期に活躍した大歌人「梨壺(なしつぼ)の五人」の一人として有名で、五人で「万葉集」を現在のような20巻本の形に整えた訓点打ちの作業や、村上天皇の命による「後撰集」の編纂を行っています。
<産経新聞  平成24年1月31日  夕刊記事より>

『温故地震』
多賀城下に達した大津波   千年に一度の理由


 昨年3月11日に発生した東日本大震災の大津波は、千年に1度の規模といわれる。今回は、その理由を説明しておこう。

 平安時代に編纂された正史のひとつ「日本三代実録」には、平安時代初期の貞観11(869)年、現在の東方地方の太平洋側にあった陸奥国で大きな地震があり、沿岸に津波が襲ってきたという記録が残されている。現代文に訳すと以下のような内容だ。

 <陸奥国で大地震があり、夜空が明るくなって昼のように照らされた。人々は大声で騒いだが、起き上がることが出来なかった。ある人は倒れた家で圧死し、ある人は地面に出来た割れ目にはまって埋もれてしまった。牛馬は驚き騒ぎ、城や倉庫の門や櫓、壁が数限りなく崩れ落ちた>

 大地震の生々しい記録の後には、続いて襲ってきたすさまじい津波の様子が書き留められている。

 <海の方から雷のような音が聞こえ、たけり狂った大波が押し寄せてきて陸地にみなぎり、たちまちのうちに城下に達した。水が満々として、海水の行き着く果てが知れないほどだった。原野も道路もすべてどす黒い海水で覆われた。船で逃げるいとまもなく、高いところに逃げることも出来なかった。溺死者は千人あまりで、収穫した農作物もほとんど残らず流されてしまった>

 ここで注意してほしいのは「たちまちのうちに城下に達した」という部分だ。原文は陸奥国司が朝廷に報告した文章だから、ここでいう「城」は、陸奥国司がいた多賀城に間違いあるまい。その「城下」に達したということは、海水は多賀城に達したのではなく、多賀城の城下町の街区に達したことを意味する。 
       ・
 条里状に建設されたといわれる多賀城城下町の街区は、図に示したように海岸から約5キロ離れた位置にあったことが地元考古学者の発掘調査で突き止められている。これにより、貞観11年の津波到達域の一部が明らかになった。そして、この位置には図の通り、1142年後に東日本大震災の津波が到達している。

 2つの津波の間には、慶長16(1611)年の慶長三陸地震津波、明治29(1896)年の明治三陸大津波など、大きな津波が幾度かあった。しかし、多賀城下に達した津波は一つもない。 それゆえ、東日本大震災の津波は千年に1度の規模といわれるのである。

        (都司嘉宣(つじ・よしのぶ) 東大地震研究所)
「〝波越さぬ丘〟は、惨禍を伝える教訓の地!」
次代へ――。史都・多賀城が新たな伝承を語り始めています。

      宮城から感謝を込めて2013ホームページ
今から約1300年前の724年。大和朝廷は、陸奧国の政治と軍事の拠点として、現在の多賀城市に「国府多賀城」を設置します。
それは「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、11世紀の中ごろに衰退するまで、東北地方の中心的な役割を果たしてきました。

多賀城には、坂上田村麻呂や万葉歌人である大伴家持らも派遣されてきました。
また、平安時代には、風流を愛する都人が「歌枕の地」として憧れ、地名を詠み込んだ多くの和歌を作っています。

多賀城市八幡地区に「末の松山」という歌枕の地があります。
ここを詠み込んだ歌としては、小倉百人一首の四十二番、清原元輔の「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(後拾遺集)がよく知られています。
ほかにも、古今和歌集や源氏物語でも歌われ、「末の松山」の名は、多くの歌に残されています。

清原元輔の歌は「約束しましたよね。涙に濡れた着物の袖を絞りながら。末の松山を波が越すことなどあり得ないように、私たちの心も決して変わらない」という意味ですが、他の歌でも、地名とともに「波」という言葉がセットで登場し、「愛の契り」や「固い約束」の比喩として使われています。

どうして「末の松山」と「波」は、一緒に詠まれているのでしょうか。
「歌が詠まれる前の869年(貞観11年)、陸奧国で大地震が発生し、多賀城の国府のそばまで大津波が襲ってきました。東日本大震災後〝千年に一度の規模の地震〟として語られるようになった貞観地震のことです」と話すのは、多賀城市の観光ボランティアガイドの柴田十一夫さん。

「10世紀の初めに書かれた日本三代実録によると、当時の多賀城政庁の建物は地震でつぶれ、政庁のそばにあったまちも津波に飲まれ、1000人以上の人が犠牲になったとあります」

「〝末の松山〟は、標高10mほどの小山です。貞観地震の津波は、この小山の麓まで押し寄せましたが、山を飲み込むことはありませんでした。まちが流されるほどの津波が来たのに、小山は無事だったのです」

「そして、このことが都人に伝わり、〝末の松山〟は、決して波が越すことのない場所、契りや約束を表す言葉として詠まれるようになったのだと言われています」

「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」 清原元輔

互いに袖をしぼりながら約束したじゃないですか。末の松山を波がけして乗り越えないように、ぜったいに心変わりはしないと。それなのに、あなたは…まんまと浮気したんですね。
  

多賀城駅から歩いて10分ほどの小高い丘「末の松山」
最後までご覧いただきありがとうございました

交野古文化同好会のTOPへ

HPのTOPページへ戻る