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平成29年2月定例勉強会

万葉集に親しむ
~役小角(役行者)と前鬼小中坊~


  講師:五鬼助 義之氏
(小中坊 住職)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 41名(会員28名)の参加
 2017.2.25(土)午前10時、2月定例勉強会に41名が参加されました。

  立花会長の開会の挨拶に続いて、高尾部長より講師の五鬼助義之氏のプロフィール
 紹介があり、五鬼助先生から「大峰奥駆道を守る~役行者と前鬼小中坊~」をテーマで、
 第一部はご講演、第二部はDVDの鑑賞「修験道の修行」に分けて詳細にお話しいただきました。
  
  ご講演の概要は、
   1.世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道
      ・霊場とは  ・参詣道とは
   2.修験道とは
      役小角、山伏の装束、聖護院(本山修験宗)、
      醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)、修験道の歴史
   3.大峰奥駆道
      概要、大峰75靡について、前鬼周辺の工程表、
      前鬼について ・前鬼・後鬼  5人の子供が宿坊を守り修験者を支えた
      小中坊の系図 61代・・五鬼助義之  62代・・五鬼助義峰
      小中坊の建物・行者堂・宿坊・宿泊所・お墓、その他

   後半は、ビデオの鑑賞 「修験道の修行」
      ①修行について  ②大峰奥駆道の修行 ③戸開式(大峰戸開け式、大峰山寺)
      ④葛城修行 法華経塚 岩湧寺、粉河寺、中津川、友ヶ島
   
   また、当日の勉強会には、五鬼助義之氏のご長男・62代目の五鬼助義峰さんも
   ご家族で参加されました。

  ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及び参考図表、
    WEB情報、「大峰奥駆道の里・下北山村」、「下北山村・きなりの郷」の冊子記事
    などを参照させて頂き、記して感謝申し上げます。

五鬼助 義之氏(ごきじょ よしゆきし)
 五鬼助義之さんは、1943年に下北山村前鬼で生まれた。小中学時代は通学のために、上北山村小橡の伯母夫婦の下で過ごし、高校・大学は京都へ。父、義憲さん(60代目)が52歳の若さで亡くなったのは、義之さんが大学生の時だった。「長男だからいずれ継ぐ、と思っていましたが、この時は独り身だった叔父の義价さんが宿坊を守りました。優しい人で、行者さんや村の人、登山者さんからも愛されていました。ここが途絶えなかったのは、叔父の存在が大きいです」

 1984年に義价さんが亡くなり、林業をしていた弟の義元さんが繋いで、1997年から義之さんが61代目として、全面的に宿坊を継いだ。当時、夫婦共に会社勤めをしていたため、平日は勤務し、週末に宿坊へ通う生活になった。「4時に起き、6時に大阪を出て、10時頃に到着します。大変は大変でしたが、多くの人と出会い、様々な話を聞けることが本当に面白い。また、都会にはない自然がいっぱいで、親しんだ山があって、今は前鬼に来ることがぜいたくだと感じます」
  
      奥大和総合情報サイト「まほなび」より参照
役行者の遺言を1300年間守り、
宿坊小仲坊を開く
五鬼助家61代当主五鬼助義之さん


<下記は、2000年5月頃の新聞記事です>





 「1300年守ってきた宿坊は開ざさない。役行者さんとの約束もありますが、15歳まで暮らしたこの地が一番好きだから」 修験道の祖・役行者は来年が1300年遠忌。行者像の両脇に控える従者二人のうち、オノを持つ前鬼は「大峰行者の修行を助けよ」の遺言で大峰山脈の中腹、奈良県下北山村前鬼に住みついたという。五鬼助家はその末えいとして、紀伊半島の山中約150kmを歩く大峯奥駈修行を支えてきた。

 前鬼には明治初期、五つの宿坊があったが次々廃坊に。15年前、最後の小仲坊を独りで守った叔父義价さんの死後は無住。兄弟、親類で奥駈シーズンだけ開けてきた。3年前からは、会社勤めのかたわら大阪府寝屋川市の自宅から車で4時間かけて通い、年中、土・日曜と連休に宿坊を開けている。

 「築後数百年の宿坊、行者堂の修理、行場や奥駆道の草刈りや整備・・・・。仕事は山ほど」 前鬼へは日に2本のバスを降りてから林道を3時間歩く。標高830mの盆地は手つかずの自然が残り、歌人・西行も訪れた歴史の里。電話はあるが、電気は自家発電。

 「奥駈修行者は年間7カ寺250人ほど。今後は修験だけでなく釈迦ケ岳などの登山基地としてスポーツ登山客や一般客も受け入れる」。定年後は常住も考えている。

 長男の義峰さん=写真左=は京都工繊大を今春卒業、メーカーに就職した。昨年住職資格を取り跡継ぎを宣言。「自然の中で子供たちの心を癒すカウンセリングセミナーを開きたい」。
 21世紀も父子で癒しの里を支える心意気だ。
寝屋川市在住。義之さんは1943年下北山村前鬼生まれ。
4人兄弟の長男。小・中学校は上北山村、
高校・大学は京都で学び、大阪で保険関係職に就く。1972年結婚。
1997年宿坊を継ぎ、毎週土曜日に前鬼へ通う。
前鬼宿坊 小仲坊
平日 TEL/072-834-1074
現地 TEL/07468-5-2210
●修験者・一般問わず宿泊可能。

吉野郡下北山村前鬼30
営/土・日曜、連休、お盆・年末年始
宿泊/1泊2食付 8,000円(弁当500円)※要予約
素泊まり 4,000円
※無人宿泊所(布団あり)
勉強会 風景

美しき日本 奈良  YouTube
下北山村 前鬼山 1300年の修行場
大峰奥駆道を守る  レジメ

講師:五鬼助 義之氏(小中坊 住職)
講演概要のまとめ
     「大峯奥駈道を守る」
      ~役小角(役行者)と前鬼小仲坊~
             2017.2.25 小仲坊住職 五鬼助義之

1.世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道
  霊場
    ① 高野山
    ② 吉野
    ③ 熊野三山 (熊野那智大社・熊野速玉大社・熊野本宮大社)

  参詣道
   ① 大峯奥駈道
   ② 熊野古道大辺路
   ③ 熊野古道小辺路
   ④ 熊野古道中辺路
   ⑤ 熊野古道伊勢路
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道

  紀伊半島の南部には、奈良・和歌山・三重に跨る広大な紀伊山地が広がっています。深い森と山々を源に流れ下る川が形づくる自然豊かな地は、太古から神々の鎮まる地とされてきました。仏教が伝来すると、この地は現世の浄土として、また山岳修行の地として多くの人が訪れ、神々と仏が融合する日本独特の信仰の原点となってきました。
 2004年に世界文化遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」は、紀伊山地に点在する吉野・大峰・高野山・熊野三山の3つの霊場とそれぞれを結ぶ参詣道(熊野古道、大峯奥駈道、高野山町石道)を含み、さまざまな思いを抱いて霊場をめざした人々の魂が今に息づく貴重な場所です。
世界遺産
大峰奥駆道(おおみねおくがけみち)」


   世界遺産の大峯奥駈道は修験道の根本道場・金峯山寺がある吉野から熊野三山へと至る約80kmにわたる修行の道で、7世紀後半に役行者によつて開かれたと伝えられています。標高1914.9 mの八経ヶ岳を最高峰に、1000~1900 mの峰々が連なる大峰山脈を縦走する険しいルートで、一週間かけて踏破する「奥駈け」は修験道では最も重視される行で、山中には75ヶ所の「靡(なびき)」と呼ばれる霊場が残されています。

   「奥駈け」とは修験道で最も重要な行とされるもので、大峯山寺からさらに奥の「靡」を進む道をいいます。熊野本宮大社の証誠殿を1番に吉野川右岸の柳の宿まで、75か所の靡(霊場)が残されています。また、熊野から吉野へ至る大峰入りを「順峰(じゅんぶ)」、吉野から熊野へ至る大峰入りは「逆峰(ぎゃくぶ)」とも呼ばれています。 

 「靡(なびき)」というのは「役行者になびく」という意味を持つ言葉なのですが、数多くの「靡」が集中する下北山村は、昇天を前にした役行者が神仙たちと「この世での最後の行」を行った、非常に特別な「聖地」とされています。

 下北山村には18から42まで計25ヶ所の「靡」がありますが、「奥駈けの心臓部」とも言えるのが、ちょうど75「靡(なびき)」の中央に位置する38番目の「靡」の「深仙の宿(じんせんのしゅく)」と、その南の「大日岳」、北の「釈迦ヶ岳」です。中でも美しいピラミッド型の「釈迦ヶ岳」は「大峯一の秀峰」とも呼ばれており、「続日本百名山」にも選ばれました。
2.修験道とは
  ① 日本古来の山岳信仰が仏教を取り入れた、日本独特の宗教感

  ② 創始(開基):役小角(えんのおづぬ)(役行者)(えんのぎょうじや)=神変大菩薩
    634年~ 701年 葛城山の山麓で生まれ
   葛城山・金剛山・生駒山・箕面・熊野の山々で修行。大峯山で蔵王権現を感得。
   伊豆大島に流刑(2年)毎日海を飛んで富士山にお参り。嫌疑が晴れて大和に帰還、
   釈迦ケ岳で最後の行をした後、母と共に箕面で五雲に乗り昇天したと伝えられている。
奥駈道の創始者 役行者とは?

 役行者は本名を役小角(えんのおづの)といい、修行を始めてからは役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれました。
 実在の人物で、『続日本紀』と『日本霊異記』に記録が残っています。舒明天皇6 (634)年、大和の高城山麓にて加茂氏の一族として誕生。

 17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学び、その後、葛城山や熊野や大峯の山々で山岳修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し修験道の基礎を築きました。あまりの神通力により、伊豆大島に流されましたが、夜な夜な富士山にて修行した、など数々の華やかな伝説に彩られています。

 諸国を巡って多くの山を開山した修験道のスーパースターです。大宝元(701)年に嫌疑が晴れ、大和に帰還。釈迦ヶ岳で最後の行を行い、6月7日に箕面にて五色の雲に乗って母とともに昇天したと伝わります。
【修験道(しゅげんどう)】
  日本古来の山岳信仰と仏教か混淆した日本独特の宗教。山に籠って厳しい修行を重ねることにより、超自然の能力を得て人々を救済するというもので、山岳修行者を修験者または山伏ともいう。

【大峰山脈(おおみねさんみゃく)】
 奈良県南部の山脈で、近畿最高峰の八経ヶ岳をはじめ高峰が集まり、「近畿の屋根」と称される。北端が吉野山で南部の一部は和歌山県に達する。山脈全体を「大峰山」と呼ぶこともある。
③ 山伏の装束:
   本山派: 天台密教系・・聖護院(本山修験宗)
                ・・金峯山寺(金峰山修験本宗)
   当山派: 真言密教系・・醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)

④ 聖護院 (本山修験宗)
   智證大師園珍(えんちん) (814-891)
   聖護院では平安期の高僧、第5代天台座主

⑤ 醍醐寺三宝院 (真言宗醍醐派)
   聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし) (832-909)
    天智天皇の6世の孫 醍醐寺の開祖、当山派修験道の祖
   修験道中興の祖(役小角以降途絶えていた修験道の再興祖とする伝承)
   鳳閣寺(ほうかくじ)に修験道場を開いた(黒滝村)
   理源大師廟塔(重要文化財) 没後460年記念に建立
   修験道の中興の祖と呼んでいます。

⑥ 修験道の歴史  明治3年:廃仏毀釈  明治5年:修験宗禁止令   昭和2年:復活
3.大峯奥駈道
   ① 吉野・・・(胎蔵界)・・・山上ヶ岳
   ② 両峯(りょうぶ)分け
   ③ 釈迦岳・・・(金剛界)・・・熊野
④ 大峯75靡(なびき):
   順峯(じゅんぶ)と逆峯(ぎゃくぶ)
◇1番「那智山(なちさん)」     ※熊野那智大社
◇2番「新宮証誠殿」       ※熊野速玉大社
◇3番「本宮証誠殿」       ※熊野本宮大社
◇10番「玉置山(たまおきやま)」 ※玉置神社
  ・
◇28番「三重の滝(みかさねのたき)」   ※前鬼裏行場
◇29番「前鬼」_(ぜんきさ_ん)」      _※前鬼の里 (標高820m)
◇30番「千草岳(ちぐさだけ)」       ※「二つ岩」の手前
◇31番「小池の宿(こいけのしゅく)」    ※池郷川の上流
◇32番「蘇莫岳(そぼくさだけ)」      ※大峰山系稜線上
◇33番「二つ岩(ふたついわ)」
◇34番「千手岳(せんじゅだけ)」      ※大日岳の東
◇35番「大日岳(だいにちだけ)」      ※大峰山系稜線上
◇36番「五角仙(ごかくせん)」
◇37番「聖天の森(しょうてんのもり)」
◇38番「深仙の宿(じんせんのしゅく)」  ※大峰山系稜線上
◇39番「都津門(とつもん)」       ※大峰山系稜線上
◇40番「釈迦ヶ岳(しゃかがたけ)」    ※大峰山系稜線上(標高 1799m)
  ・
◇67番「山上ケ岳(さんじょうがだけ)」   ※大峰山寺 (標高1719m)
  ・
◇73番「吉野山(よしのやま)」      ※金峰山寺
◇75番「柳の宿(やなぎのしゅく)」     ※近鉄「六田(むだ)駅」
前鬼周辺の靡(なびき)

  「靡」とは修験者たちが礼拝や修行を行う霊場のことです。平安時代中ごろ、大峯山中には
  120ヶ所の「靡」がありましたが、それが次第に整理されて近世には75ヶ所となりました。
  前鬼周辺の「靡」が「大峯奥駈道」の行程と一致しないのは、前鬼は江戸時代まで教育の場
  を兼ねた修験の一大修行拠点であり、修験者たちはここに滞在しながら四方の行場に出か
  けたからだと言われています。
⑤前鬼周辺の行程表
   ○国道169号線「前鬼口」(標高300m)  車 20分
   ○前鬼林道 車止めゲート(標高600m)  徒歩2k m↑ 40分 ↓30分
   ○前鬼の里  「小中坊」 (標高820m)
   ○前鬼のトチノキ巨樹群 (標高900m)   徒歩 ↑20分 ↓15分
⑥ 前鬼について

  1)前鬼(ぜんき)またの名を 義覚(ぎかく)
   後鬼(ごき)またの名を 義賢(ぎけん)   弟子夫婦
     *生駒山・暗峠で人の子をさらつて食べる鬼だったが、
      役行者が改心させた。(一説による)

  2)五人の子供
      後鬼→ 五鬼
    〇五鬼助(ごきじょ)・・・小中坊   ※ 現在も存続
    ○五鬼継(ごきつぐ) …・森本坊   ※ 昭和40年頃まで存続
    〇五鬼上(ごきじょう)・…中之坊   ※ 廃業(里を出る)
    〇五鬼童(ごきどう) …・不動坊   ※ 廃業(里を出る)
    ○五鬼熊(ごきぐま) …・行者坊   ※ 廃業(里を出る)

  3)小仲坊(おなかぼう)・・五鬼助家 系図
     60代  父     五鬼助義憲・・長男
         叔父さん  (五鬼助義价・五男)   約20年
         弟      (五鬼助義元・次男)   約10年
     61代  五鬼助義之・。・長男
     62代  五鬼助義峰・・・長男

  4)小仲坊の建物
    ・行者堂
    ・宿坊(庫裏)
    ・宿泊所
    ・お墓

  5)その他
   ・前鬼のトチノキ巨樹群(奈良県指定天然記念物) 樹齢200年
   ・28番「二重の滝(みかさねのたき)」  *前鬼裏行場
 役行者と前鬼・後鬼
 
 役行者には「前鬼(ぜんき) (別名「義覚(ぎかく)」と、「後鬼(ごき)」(別名「義賢(ぎけん)」という弟子夫婦がおりました。二人はもともと生駒山の暗峠(くらがりとうげ)で人の子をさらって食べる鬼でしたが、役行者が夫婦の子供を隠しておびき出し、今までの所業を悔い改めるよう諭しました。反省した二匹の鬼は人間の姿に変えられ、役行者の従者となったのです。

 常に役行者の前を歩いたのが、手に斧を持った赤鬼の「前鬼」、後ろを歩いたのがその妻で水瓶を持った青鬼の「後鬼」だといわれています。この夫婦とその五人の子供たち「五鬼助、五鬼継、五鬼上、五鬼童、五鬼熊」が住んだのが「前鬼」という集落です。明治の半ばまで彼らの子孫による五つの宿坊があり、田畑を耕しながら「大峯奥駈道」を行く修行者たちを支えてきました。

 また15キロほどの距離にある「池原」の集落からも、毎日のように物資を運ぶ人足が入山していたといいます。今は61代目当主である五鬼助義之さんが、「前鬼山小仲坊」を守っています。

役行者と前鬼・後鬼

大正時代の前鬼の里風景

五鬼助家の宿坊

行者堂

前鬼のトチノキ巨樹群(奈良県指定天然記念物) 樹齢200年
第二部 ビデオを見る

 1. 修行!超自然の力求めて「修験道の修行」
   ① プロローグ 1分
   ② さまざまな修行 4分
      水行・滝行・護摩(ごま)・火渡り
   ③ 葛城修行 15分
      法華経二十八品を埋葬した経塚
      15番岩湧寺・粉河寺・7番中津川・加太・1番友ケ島
   ④ 戸開式(大峯山戸開け式・大峯山寺) 6分
      5月3日・本堂の3つの扉
   ⑤ 花開式(三宝院門跡花供入峯) 10分
      醍醐寺三宝院門跡・報恩院(大阪)・四天王寺(大阪)
      龍泉寺(天川村洞川)。八大龍王堂・母公堂・小笹行者堂
      鳳閣寺・聖宝理源大師廟(黒滝村)
        *6月7日から大峯山中に蓮華の花を供える行事
   ⑥ 大峯奥駈道  30分
      吉野山東南院(役行者の開基)をスタート、逆峯(ぎゃくぶ)
   ⑦ エピローグ 2分


 2.質疑応答
懺悔 ざ ん げ!  懺悔 ざんげ! 六根清浄(ろっこんしょうじょう)

  罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること。
  六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)が福徳により清らかになること。
         (広辞苑第六版より引用)
最後までご覧いただきありがとうございました

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