「継体天皇と河内の馬飼首荒籠」 レジメ集 講師; 野島 稔氏 (四條畷市立歴史民俗資料館)」 |
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「継体天皇と河内の馬飼首荒籠」 PDF | |
交野古文化同好会 平成29年4月22日(土) 「継体天皇と河内の馬飼首荒籠」 四條畷市立歴史民俗資料館 野島 稔氏 モンゴルのナーダム祭 馬の背で育つというモンゴルの子供。 6歳~ 12歳の少年少女が馬にまたがり、 草原を15キロ~30キロ疾走します。 数百頭の馬が走りますが、2歳馬がもつとも 可愛がられ、レースも一番人気といいます。 |
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讃良は渡来系の地域 四條畷市は大阪府の東北部にあたり、国定公園生駒山地北部の山麓にひろがる緑豊かな地域です。『続日本紀』和銅6年(713)5月、元明天皇の時に「畿内と七道諸国の郡・里の名称は、良い名を選んでつけるよう」命じられました。四條畷市を中心にして、北側に寝屋川市の一部と南に大東市の一部を含めた地域に讃良の地名が使われました。その地名は、明治時代まで使われました。 古墳時代の讃良は馬を飼う初期牧場で、古代において最も華やかな時代でした。日本書紀にも馬に関する記述が多く、馬は軍事の要になつていきました。また、渡来系の馬飼いである娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造などの名がみえます。鵜野讃良皇女(持統天皇=686)の「鵜野・菟野」は四條畷あたりと考えられています。讃良は渡来人や渡来系の人々が住む先進的な地位であつたことは間違いありません。 |
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河内に伝わつた最新技術 古墳時代に朝鮮半島から最新の技術が河内に伝わりました。鉄工技術は交野市・柏原市。須恵器の焼成技術は堺市。馬と馬の飼育技術は四條畷市のほぼ全域と寝屋りII市の南部の一部で、いわゆる讃良にあたる地域で牧場が運営されました(その範囲は四條畷市の西側を中心にして東西約2㎞、南北約3km)。 四條畷市域の山系からは、讃良川・岡部川・清滝川・権現川などの川:が西へ流れ出しています。この川の水が古墳時代には「河内湖」に注いでいました。一方、寝屋川市では淀川が「河内湖」に注いでいたました。今の大阪平野中部は海だつたり湖だつたりしたのです。 朝鮮半島から河内へのルートは、玄界灘を越え、瀬戸内から難波津へ、それにつながるのが河内湖でした。四條畷はその河内湖畔に所在し、生駒山系を東西にまたいで河内湖から大和へつながる「清滝街道」が走っていました。山系の西側山裾を南北に走る山の根の道「東高野街道」は、四條畷で「清滝街道」と交差しています。これらの幹線道路は古墳時代から利用されていたということは遺跡が点在することからも想像することができます。 このような立地条件からもヤマト政権が讃良郡に牧を誘致し、馬の機動力を軍事制度に組み入れ新戦力としたことは容易に理解できます。そして馬は無くてはならない軍事力となつていきました。 |
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馬は準構造船に乗つて 四條畷市蔀屋北遺跡は大阪府寝屋川北部流域下水道「なわて水みらいセンター」建設に伴い約2万5千㎡どを調査しました。(大阪府教育委員会調査)その成果は、古墳時代の馬牧場の存在を,さらに明確なものとしました。蔀屋北遺跡は河内湖の東端にあたる湖畔近くの集落ですが、現在でもかなりの低湿地帯です。 渡来人は準構造船に馬をのせて讃良を終着点とし、牧を築きました。蔀屋北遺跡では準構造船をリサイクルした井戸が6基、寝屋川市長保寺遺跡で3基出土しています。 船材はスギが多い中で蔀屋北遺跡では、モミ材のものが1基あり、朝鮮半島製と考えられています。この井戸から出土した土器は遺跡で最も古く5世紀の初めごろのものです。この船に乗って渡来人と馬が来たのでしよう。 これらの準構造船は、全長約10㍍。 10名ほどで漕ぎ、人が歩く速さで進みました。荒波の玄界灘を越えるのはかなり危険をともない、多くの船が海の底に沈んだと考えられています。 |
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集落から出土した蒙古系の馬 ≪子馬≫ 四條畷市では、集落から馬骨・馬歯が多量に出土します。蔀屋北遺跡では、乳歯のある2歳馬が出土しています。生きていればハミをつける練習をしていたでしょう。馬にとってハミは、口に異物を入れられるのですからとても嫌がります。調教して、馬が人を乗せられるようになる5歳ごろにようやく出荷。この子馬は牧の存在を裏付けました。 |
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忍ヶ丘駅前遺跡 子馬形埴輪 |
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≪愛馬の埋葬≫ 蔀屋北遺跡で多くの馬骨が出土しています。とりわけ遺存状態の良い馬一体分が横たわるようにして出土しました。この馬は、体高124㎝の蒙古系馬で、死に際し廃棄されたものではなく丁重に葬られていました。現在、保存処理され近つ飛鳥博物館で展示公開されています。また、「なわて水みらいセンター」敷地に馬一体のレプリカや説明板が設置されています。ぜひ、ご覧ください。 ≪馬を焼く≫ 中野遺跡では、火を使う祭祀に使われたと考えている焼け木と下顎骨が出土しています。こ.の馬骨が四條畷で最初の発見となつた記念的な馬です。今から40年ほど前の調査ですが、当時は古墳調査が花盛りの時で、ヤマト政権を支えた馬飼集団の話など注目されることはありませんでした。 ≪井戸の中の馬≫ 同じ中野遺跡から、井戸の中位堆積土層から板材の上に乗せた馬頭骨が出土。頭骨の上には石と土器が置かれていました。これは井戸の廃棄に伴う祭祀と考えています。この後、次々と馬骨が発見され、渡来人がこの地に根をおろした証拠となる陶質土器や韓式系土器が多量に出土しています。 |
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体高 124cm |
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馬具(今も昔も変わらないデザイン) ≪乗馬の道具≫ 蔀屋北遺跡では馬具も出土しました。馬の口にかませるハミ(鉄製鑣轡)。乗馬の際に脚をかけるカシ製一本造りのアブミ2点。黒漆塗り木製鞍が出土しました。これらの馬具は古墳出土のきらびやかなものではありませんが、牧で使う実用性の高いものです。 ≪本物そっくり馬形埴輸≫ 南山下遣跡出土の馬形埴輪は、ずんぐりとして足が短い馬です。蒙古系の馬の体形や表情、馬具などがよく観察されていて忠実につくられた埴輪です。この馬がつけている馬具は先述の蔀屋北遺跡で出土した馬具とうり二つ。馬具の出土によって埴輪の資料的価値も高くなりました。 ≪飼育・乗馬に必要な道具≫ 馬の体を手入れするブラシは、ほこりや虫から皮膚を守ります。馬を走らせるにはムチは欠かせません。 市内の遺跡から鉄滓や羽口の出土もみられ、馬具などの鉄製品を作ったり、修理もしました。 |
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馬飼集団の馬の祀り ≪馬のいけにえ》 奈良井遺跡や鎌田遺跡の祭祀場では、馬を生け贄にして祀りをしていました。私たちにとっては残酷に思います。当時の人々も大切な馬を犠牲にするのは忍びなかったと思いますが、牧の繁栄を願う強さのあらわれで、何よりも大切な馬を犠牲にしたのです。儀式のハイライトは、馬の首を切り落とし、神様に捧げる瞬間だつたでしょう。 《:奈良井遺跡の祀り場≫ では、一辺40mの方形台状をとり巻く溝から9頭分の馬が出土しています。生け贄にされた馬の首は、今切り落としたかと思うほど生々しい姿で出土しました。板に載せられた馬一体も出土しましたが、遺存状態は良くありませんでした。 祀りで使われた道具として、36個の滑石製臼玉入りの須恵器大甕、ミニチェアの人形12点・馬形5点と先述のブラシとムチが出土しました。 ≪鎌田遺跡の祀り場≫ では、スリザサラを奏で、玉や木製の矢や刀を使いました。渡来品と考えられる金製垂飾(耳飾りか?)の一部も出土しています。どちらの遼跡からも朝鮮半島から運ばれた陶質土器や韓式系土器が出土しています。 |
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後列 四條畷小学校遺跡 右 奈良井遺跡 左 中野遺跡 |
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古墳時代の中期から後期(約1600 ~ 1400 年前)にかけて、四條畷では平野地域のほぼ全域で渡来人が伝えた馬飼いが盛んに行われました。大上古墳群は、その馬飼いの人々が葬られた古墳です。 大上古墳群は、四條畷市大字清瀧にある古墳群です。そのうち3号墳は国道163 号の拡幅工事に伴って調査を行い、古墳に立て並べられていた円筒埴輪や、表面に葺かれていた葺石が非常に残りの良い状態で見つかりました。この古墳は古墳時代後期(約1500 年前)のもので、全長約45 mの前方後円墳です。被葬者が葬られていた棺は削平されていて見つかりませんでしたが、その規模はこの時期としては周辺で最も大きなものであり、馬飼いのリーダーが葬られていた可能性がある古墳といえます。 この時期の馬飼いのリーダーとしては、継体天皇の即位に尽力した河内馬飼首荒籠などがいます。日本書紀に載る天皇を支えた馬飼いのリーダーの墓なのかもしれませんね。 |
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牧場の条件 ※馬の文化叢書2 古代 馬と日本史 高橋富雄編 財団法人馬事文化財団 元信濃史学会会長―志茂樹氏(故)による論文は、牧場の条件がわかりやすく書かれています。 『放牧地域の広さは、馬一匹につき1~ 2町歩前後を必要とするとのことであるから、その頭数によっては相当の広範囲を必要としたことが推察される。その土地は幾分の傾斜をもった、酸性土壌ではない乾燥性の肥沃なところを必要とする。何といっても豊かな、栄養価値の高い牧草の繁茂する土地でなくてはならず、それに相当量の清水は絶対に必要であり、土質は馬の蹄を強くするに適するところが望ましい。ちなみに水は繁飼の際は馬一匹につき一日に1斗~2斗を必要とするとのことである。 なほ、放牧地帯は純然たる草原地帯より常緑樹の雑林を交えた、斜陽率50%程度のところが最も条件にかなっているとされている。それに高度の高いところを併せ持つていれば紫外線が強いので、よい牧草を供給することができる。・・・・・ 大体において放牧地帯は高度の高い方向に延びていった公算が大きいようである。牧場を廃棄するのは、牧草が育たなくなった、疲病などでその地域が不適当とされた時である』 |
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<日本書紀に見る馬飼三氏> 日本書紀に登場する荒籠は渡来人の馬飼のリーダーでした。荒籠は継体天皇の即位へと導き信頼を確かなものにしました。 ■日本書紀 履中天皇 5年9月の条 天皇が淡路嶋に狩をした日に、河内馬飼部らが駕に従つて轡をつけ手綱をつけたと記されているが、これが河内の馬飼についての記述の最初です。 ■日本書紀 継体天皇 元年正月の条 河内馬飼首荒籠(かわちのうまかひのおびとあらこ)は天皇の即位を導いた重要な人物です。首は中小豪族に与えた氏族の姓の一つです。 同23年4月の条 近江毛野臣(おふみのけなのおみ)の従者として河内馬飼首御狩(かわちのうまかひのおびとみかり) 同24年9月の条 河内母樹馬飼首御狩(かわちのおものきのうまかひのおびとみかり)という人物があらわれます。この河内母樹は河内母木邑のことで東大阪市豊浦町付近であると考えられます。 ■日本書紀 欽明天皇22年正月の条 河内馬飼首押勝(かわちのうまかひのおびとおしかつ)という人物が登場。 ■日本書紀 天武天皇12年9月・10月の条 川内馬飼造(かふち)・娑羅羅馬飼造(さらら)・菟野馬飼造(うの)が連の姓を賜ったことが記されています。 この馬飼三氏のうち娑羅羅馬飼造と菟野馬飼造は四條畷あたりに在住したか、もしくは出身とみられます。 |
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<牧と馬に関わる文献> ■日本書紀 応神天皇 15年8月6日条 百済王が阿直伎を派遣して、良馬二匹を貢つた。軽坂の辺の厩で養つた。・・・それで、その馬を養つたところを、厩坂とよぶのである。(橿原市大軽町付近) ■日本書紀 安閑天皇2年(535)9月13日条 牛を難波の大隅島(東淀川区南大道町・西大道町)と姫島(西淀川区姫島町)の松原とに放せ。 (この牧を廃上して人民が水田を増やすことを許したのは霊亀2年(716)) ■日本書紀 欽明天皇23年(562)7月1日条、 日本に留まつた新羅の使者は河内の国の更荒郡の鶴鵜野(鵜野)の邑の新羅の人の先祖である(後の持統天皇は鵜野讃良皇女) ■日本書紀 孝徳天皇2年(646)正月条 駅馬(えきば)、伝馬(てんま)を給うのは、みな鈴、伝符による。(駅馬を供給することのできる牧が存在した証しです) 伝鈴=駅馬・伝馬の制度の設置に伴つて造られたと考えられており、宮吏は駅において、この鈴を鳴らして馬を走らせました。 ■日本書紀 天智天皇7年(668)7月条 近江の国は武術を訓練した。また多くの牧を設置して馬を放牧した。(これが放牧の初見) ■続日本書紀 文武天皇4年(700)3月17日条 諸国に命じて牧場の地を定め、牛馬を放牧させた。 これが国牧の初見です。ただし牧がどこであったかはよくわかっていませんが、信濃・甲斐・上野・武蔵などが放牧敵地であり、最も早くから国の牧が設置されたと想定されています。 牧は大宝律令(702年頒布)できびしく管理されました。馬は国家の資であり有事の備えとして重要性は益々高まりました。 ■続日本書紀 文武天皇(大宝2年=702) 初めて紀伊国に賀陀(加太)の馬家を設けました。淡路に渡る港のためです。 ■続日本書紀 文武天皇(慶雲3年=706) 諸国の騎兵660人が天皇の乗り物につき従いました。 ■続日本書紀 元明天皇(和銅2年=709)。隼人の郡司以下186人が朝廷に参内し、諸国の騎兵500人を召して行列の威儀をととのえました。 平城京遷都(710)では、どれだけの騎士が行列したかは想像できます。 ■続日本書記 元明天皇 和銅4年(711)平城京遷都の翌年、初めて都に近い主要な所に《駅》を設けました。 山背国相楽郡には岡田駅 綴喜郡には山本駅 河内国交野には楠葉駅 摂津国嶋上郡には大原駅 嶋下郡には殖村駅 伊賀国阿閇郡には新家駅 古代律令制の成立と共に駅伝制が導入され、各国の連絡のために東海道・山陽道などの官道を整備し、駅を各所に設けられました。駅は官道を騎乗で往来する人々に便宜を図ると共に、駅備え付けの駅馬によって早馬を走らせて手紙や荷物を運ぶ役割を果たしました。 |
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まとめ 国牧が設置されたのは文武天皇4年(700)といわれています。この頃には、讃良の牧はすっかり姿を消し讃良の地名や渡来系の馬飼いに関わる人名にだけ残りました。鵜野讃良皇女(持統天皇)め鵜野(菟野)讃良はまさに渡来人の本拠地といえます。 讃良の牧が消滅した後の牧の所在地は明確ではありませんが、田畑が開墾されていない山林。原野など未開の地が選ばれ、信濃・甲斐・上野・武蔵などで国の牧として最も早く設置されたでしよう。奈良時代の大宝律令には飼育に関することがきめ細かく記載されていますが、この頃に馬の飼育方法が定められたというわけではなく、讃良の渡来系馬飼集団な:どの飼育や調教技術が引き継がれていったのではないかと思います。 讃良の牧はごく初期の牧場ですが、馬飼いの熱意で、疫病などの恐怖からのがれて、200年間も牧が続いたこと|ま驚異といえるでしょう。 大和朝廷が原初的な国のまとまりをつくり上げるためには、.讃良の馬が重要な役割を果たしたに違いありません。 |
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厚く荒籠に寵待ふ(あらこにめぐみたまふ) |
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福井新聞 継体天皇の即位1500年より参照 巨大古墳時代の5世紀、血の争いを繰り返したヤマトの王権の後継者がなくなり、越の国(現在の福井県)にいた男大迹(おほど)王が迎えられた。後に継体天皇と呼ばれる大王の誕生は今から1500年前のことだ。日本書紀によると継体元年2月4日という。西暦では507年3月5日となる。 日本書紀によると506年、子のいない武烈天皇が亡くなり、ヤマトに天皇の跡継ぎがいなくなってしまった。大連(おおむらじ)の大伴金村はまず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫という倭彦(やまとひこ)王を迎えようとした。しかし王は迎えにきた兵を見て、恐れ逃げてしまう。翌507年金村は、群臣と計り、応神天皇の5世の孫という男大迹王を越の三国から迎えることにした。男大迹王は人々を愛し、賢人を尊び、心豊かな人物との評判で、「天皇の子孫で賢者は王しかいない」と一致した。 1月に金村ら大臣、大連が迎えにいくと王はゆったりと腰をかけ、家臣を整列させ、既に天子の風格があったという。王はすぐに信用せず、かねて知り合いだった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)→に使いを出して、大臣、大連の真意を確かめてようやく決意した。馬は当時の最速の交通、情報手段で王は越にいながら中央の情勢もしっかりと把握していたと見られる。 507年2月4日河内国交野群葛葉の宮、現在の大阪府枚方市樟葉で即位した。 継体天皇の父は彦主人王(ひこうしおう)。近江高嶋郡三尾の別業(なりどころ=別荘の意味)にいた時、三国の坂中井(さかない=現在の福井県坂井市)にいた振媛(ふりひめ)が美人で姿も美しいことを聞いて使いを送って妃とした。そこで男大迹(おほど)王が生まれたが、幼いときに父王がなくなり振媛は「遠く故郷を離れ、うまく子を養うことができない。高向に帰って親を養いながら育てたい」と越へ戻る。高向は現在の坂井市丸岡町の北西部に神社名が残る。天皇が即位したのは58歳。それまでどう過ごしたか、何をしていたか記録には残らないが、福井県内には坂井平野の治水など様々な伝承が残る。 継体天皇は応神天皇5世の孫とされるが、日本書紀には詳しい系図はなく、皇統とのつながりを否定する研究者もいる。鎌倉時代の書「釈日本紀」に引用される「上宮記」に詳しい系図があり、この上宮記の文体の古さなどから、日本書紀の元になった文ではないかと見られ、皇統説を支持する研究者も増えてきている。上宮記には垂仁天皇の子孫とされる振媛の系図も載っている。 樟葉の即位後仁賢天皇の手白香(たしらか)皇女を皇后に迎え、ヤマトの王権との結びつきを強める。手白香皇女を含めて日本書紀には9人、古事記には7人の妃がいたとされる。 樟葉に続いて、511年に山城国の筒城(つつき)宮=京都府京田辺市、さらに518年、山城国の弟国(おとくに)宮=京都府長岡京市=へと淀川の近くの3カ所に宮を置いた後、即位から20年後の526年ようやくヤマトの磐余玉穂(いわれたまほ)宮に入る。 当時は東アジアの国際関係が緊張していた時期で、書紀によると512年任那の4県を百済に割譲した。半島政策を巡って筑紫国磐井の乱が起こり、大伴金村らを派遣して鎮圧した。 531年82歳で亡くなる。後を子の安閑、宣化天皇、さらに手白香皇女の欽明天皇が就くが、日本書紀にも不自然な記述もあり、内乱があったと見る研究者もいる。 |
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滋賀県高島市にある鴨稲荷山古墳は、明治35年(1902)に県道工事お土砂採取により発見されました。この際に横穴式石室が破壊され、中から家形石棺が見つかりました。石棺の内部は朱で真っ赤に塗られており、中から金銅製の冠・くつ・金製耳飾りなどを含む豪華な副葬品が見つかりました。大正12年(1923)に京都大学が詳細な調査を行いました。 家形石棺の石材は、二上山の白色系凝灰岩(白石)です。被葬者は大和地域と強いつながりを持ち、若狭を通して朝鮮半島との交流を持っていた人物と考えられています。 |
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継体天皇の父彦主人王(ひこうしおう)は、越前の国三国(福井県坂井市付近)にいる振媛(ふるひめ)が、容姿端麗で見目麗しい女性だということを聞きました。それで、近江の国高島郡三尾(滋賀県高島市)の別業(なりどころ=別荘)から使いを出して彼女を妃に迎えました。こうして生まれたのがのちの継体天皇となる男大迹王(おほどおう)でした。 彦主人王が高島に別荘を構えたのは、この地を拠点とする豪族三尾君氏(みおのきみし)と密接な関係があったためとみられます。妻振媛は父方が三尾君氏出身とする説もあり、三尾君は彦主人王・継体天皇父子を支える豪族の一つとみられます。鴨稲荷山古墳は、このように継体天皇を支えた三尾君が被葬者である可能性があります。 |
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田中王塚古墳参道 墳長72mの帆立貝形前方後円墳 宮内庁が管理しています |
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田中王塚古墳は、継体天皇の父・彦主人王の墓の可能性がある陵墓参考地として、宮内庁が管理しています。 古墳周辺では5世紀中葉から後葉の埴輪が採集されていて、時期的にも父の生きていたとされる時代と一致します。 父・彦主人王は天皇がまだ幼いころに亡くなりました。母・振媛は、地元の越前の国三国(福井県坂井市付近)に戻り、天皇を育てたとされます。 |
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天皇堂跡 ここで大和からの使者大伴金村らを迎えたとか 坂井市丸岡町女形谷 |
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継体天皇の母である振媛は、第11代垂仁天皇の子孫とされていて、振媛は夫である彦主人王の死後、出身地の越の国(福井県)三国の高向に戻り、そこで天皇を育てました。福井県の古墳では朝鮮半島系の遺物の出土も多く、天皇を支えた豪族の力や、渡来系も含めた広範囲な交流が読み取れます。 現地には天皇関連の伝承地も多く残されています。 |
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天皇が即位まで暮らした高向宮推定地 坂井市丸岡町高田 |
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大伴金村をまつる式内社久米田神社 坂井市丸岡町下久米田 |
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