平成29年6月定例勉強会 ー広隆寺弥勒菩薩の素顔ー 講師:大矢 良哲氏 (国立 奈良高専名誉教授) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 33名(会員27名)の参加 |
|
2017.6.24(土)午前10時、6月定例勉強会に33名が参加されました。 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の大矢良哲氏から「渡来文化の魅力」をテーマで、「弥勒菩薩の歴史的な背景・経緯や魅力について」ご講演をいただいた後、広隆寺の弥勒菩薩などの映像などを交えながら「弥勒菩薩の素顔」に迫って頂きました。 今回講師にお招きいたしました「大矢 良哲先生」は、交野市私部のご出身で、交野古文化同好会の立花会長と同級生だそうです。 先生のご講演を機に広隆寺を訪れ、じっくりと「弥勒菩薩」を観察・拝観したいと思いました。参加された方からも私と同じ気持ちになられた方が多いようです。 (講演の概要) <渡来文化の魅力> はじめに Ⅰ.蜂岡寺・広隆寺・秦寺と「日本書紀」の関係 Ⅱ.半跏思惟像の特徴 1 全体的な特徴 2 体躯の特徴 3 材質・技法の特徴 Ⅲ.半跏思惟像の名称 Ⅳ.宝冠弥勒菩薩像の二つの顔ー修理前と修理後 1 明治37年~38年 修理前の写真 2 同修理前の石膏型の頭部 3 上記石膏からの鋳造 4 昭和52年 NHK番組 明治の型取りから弥勒像の顔の復元 Ⅴ.韓国・金銅菩薩半跏像との比較 おわりに ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日頂戴しましたレジメ及び映像などを 参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 また、WEBのウィキペディア、広隆寺関連のHPなどを参照させていただきました。 |
|
講師:大矢 良哲氏 (国立 奈良高専名誉教授) |
|
高尾部長 |
立花会長 |
ー広隆寺弥勒菩薩の素顔ー 講師:大矢 良哲氏 (奈良高専名誉教授) |
|
「渡来文化の魅カ ー広隆寺弥勒菩薩の孝顔ー」の一考察 I 蜂岡寺・広隆寺・秦寺と「日本書紀」 <広隆寺> 推古天皇11年(603)秦河勝建立の秦氏の氏寺で、聖徳太子の追善の為に創建された。田村圓澄氏によると、推古30年・壬午年(622)創建の所伝もある。地元では太秦のお太子さんとして親しまれる山城最古の寺院であり、法隆寺や四天王寺といった聖徳太子建立の日本七大寺の1つとしても知られる。 寺院名称は、古くは蜂岡寺(はちおか)、秦寺、秦公寺、太秦寺、葛野寺(かどの)と変遷してきた。また創建者の秦一族は、日本書紀によると、応神天皇16年に日本へ渡来し、養蚕・機織・農耕・醸酒を日本へ伝えたとされる。秦氏の本拠地太秦は上代山城文化の中心地でもある。 『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。 元糺池に建つ珍しい三柱鳥居 木島神社(このしまじんじゃ) 境内に「蚕の社」と通称される養蚕(こがい)神社があることで知られる 正式には木島坐天照御魂(このしまにまずあまてるみたま)神社 一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。 蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとある。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。 Ⅱ半跏思惟像(はんかしゆいぞう)の特徴 1.全体的な特徴 像高123.3cm 坐高83.cm 半跏思惟のポーズ 2.体躯の特徴 A 顔の特徴 B 手の特徴 C 体つきの特徴 1..全体的な特徴 彫刻の中で、国宝指定第1号である。像高は123.3cmで、坐高は83.3cm。流れるような木目を特色とし、止利派とは異なる作風を有する。この像は後補の多い蓮華座に腰掛けている。西村公朝氏は修復中、下腹部に漆木屎(うるしこくそ)(=漆に抹香や五穀の繊維を混ぜた物が残る。)を発見し、本来は乾漆の肉盛りが全身を包んでいたことを突き止めた。また岩崎和子氏は、乾漆の程度が、しまって硬さのある肉付きだが、生硬さの残る造形の上半身には、特に厚く、両足のボリュームから、下半身は表面を整える程度(=現状。)であったと推定している。 A .顔の特徴 瞑想的な顔つきをしており、拝む者を心から癒してくれる表情である。なお、如来と菩薩は原則的に優しい慈悲の表情に作られる。(ただし、同じ慈悲の相でも如来像は優しさの中にも厳格さを湛えている形で製作される。)さて、この像は細い目、はっきりとした眉、通った鼻筋をしており、唇の両端にはやや力が込められている。これをアルカイックスマイル(=気品漂う古拙の微笑。飛鳥仏像の特色。)と呼ぶが、西村公朝氏によると、いいアイディアが浮かんだ瞬間の表情であるという。喉は一般的に三道が多く、特に飛鳥時代には横に2本の線を入れておく程度であるのに、本像は四道もある。 B.手の特徴 両手の表現は変化があり、その繊細な指先は優雅である。左手は甲が扁平で、不自然であることから、漆が塗られていたと推定されている。思惟手である右手も一木で造られた物だ。右手の材木は縦の木目で、薬指を除いて、指は木目に沿った形になっており、細い指であっても、折れにくい構造をしている。右手の小指と人さし指は江戸時代に修理した物だが、薬指は昭和35年に京大生に折られるまで現存していた。 1960年(昭和35年)8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機についてよく言われるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼られておらず、木目が出ており、埃もたまっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。 広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊
C.体つきの特徴 ほっそりとした体つきで、その柔らかい肉体・体のこなし・衣の自然な皺は中宮寺像よりも進んでいる。半跏倚座(=椅子に座って右足を曲げ、左足の上に載せたもの。)である。 この姿勢は、奈良時代以前の弥勒菩薩に多いポーズで、日本の一般の弥勒菩薩には、宝冠をかぶり、蓮華座(=蓮の花弁。)を象る上に結跏趺座している。 ③.材質・技法の特徴 A・アカマツの一材(1951 小原二郎説=顕微鏡観察) ①寺伝のように朝鮮伝来か(小原説) 飛鳥・白鳳の木彫は711外なくクスノキ(樟は南方系、朝鮮にはない)。 ・東京国立博物館=1956 X線撮影によつて、頭体部に内割りをほど こし、頭部から体躯、右手指先まで一本彫と判明 ②朝鮮アカマツを輸入し、渡来人が制作した(彫刻技術者西村公朝説) ③ 日本でもアカマツは存在するので制作国は決められない(岩崎和子説) 第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。 B・木の芯側に顔面を彫る(木裏から彫る)(西村公朝説) Ⅲ 半枷思惟像の名称 ・寛平2年(890)の「広隆寺資財校替実録帳」 「金色弥勒菩薩像壱躯 同高二尺八寸 所謂太子本願形」 ・野中寺の金銅弥動半枷像の銘文にも「丙寅年(666)」「弥勒御像也」とある。 広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。 『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、『書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、請来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。 像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。 制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される ※弥勤とは 古代インド・サンスクリット(梵語)のマイトレヤの音訳 菩薩とは菩提(=悟り。)薩埵(=衆生。)(=悟りを求める衆生。)の略であり、サンスクリット語のボーディサット(bodhisattva)を漢訳したものである。如来の補佐役であり、図像的には装飾品や宝冠を身に付け、三尊形式(=中尊〔=如来。〕+脇侍〔=菩薩。〕)で表されることが多い。 大乗仏教では発菩提心(=悟りを求める心を起こすこと。)を得た者は全て菩薩と見なされるが、修行進度・教義理解に応じた、経典によるランキングがあり、最上位の菩薩は次の転生で輪廻転生から解放され、如来になることができるとされている。 また如来とは最高位の仏であり、図像的には大日如来を除いて、原則的に装飾品は無い。 Ⅳ 宝冠弥勒菩薩像の二つの顔一修理前と修理後 1.明治37年(1904)~ 38年)修理前の写真… いかにも朝鮮系 a.明治21年(1888) 小川一真撮影写真(東京国立博物館情報アーカイブ) b.年次不詳 久野健旧蔵写真 早稲田大学の会津記念室には、明治37年修理以前の石膏型の頭部が残されているが、頬により肉がついている。当初は漆箔(=漆の上から金箔を押した物。)の像であり、全身金箔で覆われ、金色に輝いていたようだが、現在は剥落してしまっている。後世の修復において、奈良時代の塑像の仕上げに使われたような、繊維の入った土が塗られたが、江戸時代に至っては、胡粉(=顔料。)を塗りたくり、それを紙張りで包んで、安物の代用の金箔を押された為に、大変見苦しい姿となったらしい。そこで明治の修復の際に、そういった物が全部剥がされたのだが、逆に繊維が立って、木目が飛び出た、簓のような状態と化してしまったので、木目と木目の間の簓の肉が取れた部分へ漆を盛り込み、現在のような表面が硬い顔になったという。西村公朝氏は明治の修復を経た現在の本像の有様を、洗練された美しさだと評している。 2.同修理以前の石膏型の頭部(」早稲田大学 会津記念室蔵)…・ 菅原大三郎らが抜いた石膏マスク 数点あり 3.上記石膏からの鋳造 昭和30年大國壽郎鋳金像(箱書き) 明治37年修理以前の石膏型の頭部ー菅原大三郎らが抜いた石膏マスクからの鋳造 昭和30年大國壽郎鋳金像 (箱書き) 4. 昭和52年 NHK番組 明治の型取りから弥勒像の顔の復元(西村公朝) 石膏の表面+油土で塑形(漆木屎の厚み)+金箔(漆箔) 西村公朝氏はS52のNHK番組収録で、明治の修理の時に石膏で型取りした頭部へ、造像当初の乾漆の厚みを粘土で肉盛りし、金箔置いた復元にも挑戦した。その復元された頭部は本物の顔の幅よりも1cm大きい石膏の上に肉盛りしたこともあってか、非常におおらかなふくらみを持ち、参加者からは一様に「韓国の顔だ」との声が聞かれたという。 その復元された頭部が実物より大きい理由として、研究者は明治の修復の時に本物を削ったからではないかと推定しているが、西村公朝氏は現代のような型抜き技術のない時代のことであり、粘土を少し広げて取り出した為だと考えている。西村公朝氏は像が右に少し傾いているのは、人間の顔は右の方が整っているので、製作者がその方が美しく見せられると考え、意図的に右頬を余計に土盛りしたのではないかと推測している。 明治37年、修理前の弥勒菩薩像 V 韓国・金銅菩薩半跏像との比較 1.国立中央博物館の弥勒半跏像 ア 旧徳寿官蔵の弥勒像 93cm金銅像 イ 旧総督府の弥勒像 80cm 金銅像 古風 6世紀 「宝冠弥勒」は我が国の国宝第1号に指定された仏像で、ドイツの哲学者カール・ヤスパースが「人間実存の最高の姿」を表したものと激賞したことで知られている。国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価されている。 霊宝殿の中央に安置されている宝冠弥勒は、像高が123.3cmで、制作時期は7世紀とされている。宝冠弥勒のシャープに鼻筋の通った瞑想の表情と共に、木の素地の肌をそのままにした「飾らぬ美しさ」が、多くの人々の心を魅了している。現代人の悩みや苦しみ を吸い取ってくれるような哲学的な美しさを感じる人も多いとのことだ。 宝冠弥勒と国宝83号は、いずれも韓国製だとしても、材質が異なる。広隆寺の半跏思惟像は木彫仏であるが、博物館のそれは金銅製である。その違いが見る者に微妙な印象の差を生むのだろうか。だが、平安時代の記録では広隆寺の半跏思惟像が「金色弥勒菩薩」と記されている。製作当時は、木彫のままでなく、その上に漆(うるし)がもられ金箔がおされていたと考えられる。その姿から受ける印象は現在のそれとは全く異なり、博物館の半跏思惟像のそれに近いものだったかもしれない。 <弥勒菩薩 複製 年代順経過> 明治37年(1904)修理前、顔面を石膏で型抜き(菅原大三郎) ● 東大寺龍松院・筒井英俊旧蔵 複製(石膏) ● 美術史家・安藤更生旧蔵 複製(石膏) ほか 明治37年(1904) 37・38年 武田五一京都府技師となり(兼任)、主に古社寺の修繕を担当 広隆寺如意輪観音半脚像(弥勒)修理工事 彫刻担当 新納忠之介・菅原大三郎ら 昭和30年(1955) 武田博士修理以前の石膏像(菅原大三郎の型抜き)を もとに、釜師大國壽郎が鋳金複製(箱書) 昭和35年(1960)8・18 広隆寺弥勤善薩の指折り事件 美術院国宝修理所、指を接合 昭和52年(1977) NHK番組収録において、仏師西村公朝が 明治の顔面型取り石膏に、漆箔を施す |
最後までご覧いただきまして有難うございます。 |