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平成29年10月定例勉強会

“歴史の迷宮を歩く”シリーズ
 
青丹よしの奈良の闇に迫る
  
歴史研究家 寺田政信氏(交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 27名(会員23名)の参加
2017.10.28(土)午前10時、10月定例勉強会に27名が参加されました。

  高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の寺田政信氏より「青丹よしの奈良の闇に迫る」をテーマで、前回の「持統天皇の本音の実態に迫る」に引き続き、奈良時代のいろいろな事件などを、独自の研究手法を用いて詳しく解説されました。

  “青丹よし 寧楽(奈良)の京師(都)は咲く花の匂ふがごとく 今さかりなり”
 この歌から奈良時代は豪華絢爛な天平文化をイメージしますが、内実はいろいろな事件が続発し
 正に闇の中であったというのが私の今回の論旨です。

 (講演会の概要)

  “歴史の迷宮を歩く”シリーズ  「青丹よしの奈良の闇に迫る」
    1.持統天皇の本音 →  
        表向きは平穏であったが奈良時代の闇の始まりであった
    2.奈良時代の闇
      ① 藤原京から平城京への遷都の謎
      ② 長屋王の変
      ③ 藤原広嗣の乱
      ④ 聖武天皇流浪の旅
      ⑤ 大仏造立と大仏開眼
      ⑥ 大仏造立と開眼秘話
      ⑦ 東大寺二月堂お水取り、若狭のお水送りの謎
      ⑧ 正倉院
      ⑨ 藤原仲麻呂の乱
      ⑩ 光仁天皇即位
      ⑪ 桓武天皇即位
         794年平安京に遷都しました。ようやく奈良時代からの闇を越えて
         新しい時代を迎えることになります。持統天皇が夢見た時代になりました。
      ⑫ 阿倍野仲麻呂の逸話
    3.さいごに
 
 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」及び、
 WEB記事などを参考にさせていただきました。記して感謝申し上げます。


講師   歴史研究家 寺田政信氏
“歴史の迷宮を歩く”シリーズ(PDF)
 
青丹よしの奈良の闇に迫
  歴史研究家 寺田政信氏
【はじめに】
 “青丹よし 寧楽(奈良)の京師(都)は咲く花の匂ふがごとく 今さかりなり”    小野朝臣老

 この歌から奈良時代は豪華絢爛な天平文化をイメージしますが、内実はいろいろな事件が続発し正に闇の中であったというのが私の今回の論旨です。

 その原因は、昨年の“持統天皇の本音の実態に迫る”の流れの中にあります。すなわち、天智系(藤原家を含め)と天武系の葛藤と確執です。そこで改めて昨年の話の要点を振り返ってみます。

 *持統天皇(讃良皇女)は、天智天皇の娘として生まれ大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎ、壬申の乱を大海人皇子と草壁皇子と共に戦い大海人皇子(天武天皇)に尽くします。

 *しかし、草壁皇子の后は天智直系の皇女(後の元明女帝)を配します。草壁皇子が早世し天武天皇が亡くなると天武系に天皇:候補の皇子がいるにもかかわらず自ら持統天皇として即位します。天智直系の血統になります。そして、藤原不比等と組んでいろいろな事業を展開します。その事業の内容は天武天皇が意図し企画したものの排除でした。

 *持統天皇は草壁の皇子と皇女(元明女帝)の間に生まれた軽皇子(文武天皇)に期待し、后には藤原不比等の娘宮子を配します。文武天皇と宮子の間には首親王が誕生します。後の聖武天皇です。

 *文武天皇は持統天皇の譲位を受けて697年に即位しますが、701年大宝律令を制定し、遣唐使の派遣も復活します。

 *持統天皇没後も改革を実行し律令制度の修正を実施します。

 *文武天皇は」頭脳明晰で優秀な天皇でしたが生まれつき病弱で、707年に没します。この時、子供の首親王は6歳でした。

 *首親王の成長を待つ間、天智天皇の皇女の元明女帝、草壁皇子の娘の皇女である元正女帝が中継ぎ役を立派にこなしました。この間、持統天皇の意志を継いだ藤原不比等が強力にサポートしたものと思われます。
表向きは平穏でしたが、奈良時代の闇の始まりでもあったと思われます。

ここからはいろいろな事件を検証していきます。
“青丹よし 寧楽(奈良)の京師(都)は咲く花の匂ふがごとく 今さかりなり”    小野朝臣老
 <現代語訳> 青丹よし(枕言葉)奈良の都は、咲く花の色香が艶やかに匂い映え、今盛りです。
 
  大宰少弐としての小野老の大宰府着任を祝う饗宴で、老自らが詠んだ和歌。長屋王の変後に大宰府で詠まれたこの歌は決して単純な平城京讃歌ではないとの指摘がある(直木孝次郎)。
【藤原京から平城京への遷都の謎】藤原京大極殿
 
 持統天皇は天武天皇の意志を引き継ぎ日本で最初の条坊制を採用した藤原京を造営し694年に遷都します。藤原不比等がサポートしていたものと思われます。最近の調査で藤原京はかなり大規模で平城京より規模が大きいのではとも言われています。

 その藤原京も持統天皇が702年に崩御すると平城京遷都の話が持ち上がり710年に平城京へ遷都されます。藤原京は十数年の命でした。

 なぜこんなに立派な藤原京が短期間に見捨てられたのか大きな謎です。水の流れが悪く大極殿に汚水が流れ疫病になるとか、近くに水運がないとかいわれますが、説得力がありません。最近歴史学者が通説となっているのは、当時盛んになった遣唐使が長安の都を見て都の作り方には一定の決まりがあり、藤原京はそうなっていないというわけです。

 私見としては、都の機能に支障がなければそこまでやらなくてもよいと思っていて何か別の理由があるのではと考えてみました。

 ここからは私見ですが、持銃天皇と藤原不比等(藤原鎌足の息子)は天智直系の女帝と天智天皇と刎頸の友藤原家です。この二人は天智系への復帰と天武系の排除を生涯の目標としていたと推察します。そこで二人は天武天皇の意図であった藤原京は完成させますが、いずれ遷都をと目論んでいたのではないでしょうか。

 そんな時、遣唐使から長安の都の情報がもたらされ、これ幸いと平城京遷都に傾斜していったものと思われます。持銃天皇が亡くなる前から平城京遷都は二人で話し合われ持銃天皇が亡くなると藤原不比等に託したのではないでしょうか。ビンチヒッタ的な元明女帝でしたが短期間に遷都できたのは藤原不比等に負うところ大だったと推察します。
 
 元明女帝の712年に古事記が上奏され、元正女帝720年に日本書記が上奏されています。これもすべて藤原不比等が関わっていると思います。よく古事記も日本書記も藤原不比等が改竄したといわれていますが、そうではなく、全体の流れに整合性を持たせ巧みに編集したというべきでしょう。

                  藤原不比等の系図














       藤原不比等
【長屋王の変】
 
 首親工の成長を待つ日々が続きます。714年立太子するもまだ13歳でした。
 元明女帝は一旦娘の元正女帝に譲位し首親工の成長を待ちます。724年ようやく聖式天皇が印位しますがまだ23歳でした。藤原不比等は他に天皇候補の皇子がいることに恐れ首親王に娘の安宿媛を嫁がせます。後の光明皇后です。親王の間は民間の安宿媛を妻とすることは全く問題ないが、親王から天皇に即位したとき民間出身の媛を皇后にすることはこの時代ご法度であった。

 藤原不比等が強引に聖式天皇の后に光明皇后を据えたことに長屋王が異を唱えたのである。多分藤原不比等が仕組んだと思われるが長屋王に謀反の疑いあるという理由で自害に追いこみました。

 これが長屋王の変である。天皇になる資格のある長屋王が民間人の藤原不比等にやられたのでしょうか。大きな謎です。私だけしか分かっていない答えがあります。それは長屋王が天武系の系譜の人物だったからです。天智系の圧力に屈したのです。持統天皇の怨念です。
 その後、藤原四兄弟が疫病で亡くなります。長屋王の祟りと噂されます。

【藤原広嗣の乱】
 藤原四兄弟が疫病で亡くなると藤原氏の権勢にも陰りが出てきます。藤原広嗣も九州に左遷気味に赴任させられます。それを不服として乱を起こしますがすぐに鎮圧されます。その一方で、橘諸兄や吉備真備が権力を強めていきます。
【聖武天皇流浪の旅】
  藤原家から距離を置きたいとの思いがあったようです。母親の宮子には生誕後33年目に会うことができています。うつ病だったようですが藤原不比等が会わせなかったのが事実のような気がします。現実の政治には興未がなく仏教と大仏建立に全精力を傾けました。

 最初に、加茂の近くの恭仁京に遷都します。多分あのあたりに権力を持つ橘諸兄(当時右大臣)の勧めによるものと思われます。続いて紫香楽の宮へと移動します。ここではたくさんの僧房を造り大仏建立を目指します。
 大仏を収める建築物の木材は豊富ですが、大仏のための銅、金、水銀などの入手が難しく撤退することになりました。一旦難波京に行幸し恭仁京を経て平城京にもどります。745年のことでした。この間に741年に国分寺、国分尼寺建立の詔、743年には廬舎那仏造営の詔を発します。

【大仏造立と大仏開眼】

 

 聖武天皇は大仏建立に専念します。後継者に苦しみます。一人っ子の安積親王が亡くなると女性の阿保内親王を立太子します。女性の立太子は初めてです。749年阿保内親王に譲位します。孝謙女帝です。自らは上皇を名乗ります。光明皇后も上后となります。そして念願の大仏開眼が盛大に4月9日に行われます。本来釈迦の涅槃の4月8日に行われるはずですが天候不順があったのかもしれません。

 この日の大仏開眼を仕切った事務局長てきな僧は良弁和尚でした。インド僧が多かったようです。良弁は東大寺の初代別当をつとめます。
良弁については後はど詳述します。

聖武天皇は念願の大仏開眼を終えて4年後の756年に崩御します。
【大仏造立と開眼秘話】
<行基の活躍>
 
 行基は668年河内国に生まれ出家して数々修行をこなし、民衆への布教を始めます。多くの寺院を建立し仏教を広めます。インフラ整備にも実力を発揮します。最初は都の役人から民衆を惑わす僧侶としてにらまれていたようですが、行基の献身的な行動に感心し藤原不比等と光明皇后もその実力を認めていったようです。
 そして、741年東大寺の大仏建立が始まると、聖武天皇みずから行基に協力をお願いしたようです。行募には知識という信仰集団がおり行基の事業をサポートしていたようです。

 行基の事業は、巧みで理に叶っています。まず、村長など地域の有力者に灌漑用の池の掘削や、川に橋を架けることを提案します。これにより、農作地の大幅な拡大がはかられます。橋は川向うの耕作地拡大に役立ちます。実際の土木作業は百姓逹の農作業の合間ないしは農閑期に行ったものと思われます。増産されたた作物は、百姓にも一部分け与えられ、一部を大仏建立の資金として寄進されたと思われます。

 行基は百姓相手に仏像を造りこれを拝むことであの世の極楽へ行けると説きます。そして、農閑期に大仏建立への参加を勧めます。いい出稼ぎにもなるし、大仏を建立するのに貢献すれば間違いなく極楽へいけるというわけです。この事業は行基一人でやれるわけではなく、知識集団という強力なスタッフの支援で業績を拳げていきます。大仏建立の資金、人足の供給で貢献し聖武天皇は大いに喜び、745年行基を大僧正に任じました。しかしながら行基は大仏開眼の2年前の749年に亡くなりました。その後、行基菩薩として慕われました。寺を行基開創、仏像を行基制作と伝承する寺は770余を数えると言われています。
<東大寺二月堂お水取り、     若狭のお水送りの謎>
 大仏開眼が行われた750年4月9日の前2月に二月堂でお水取りが、若狭ではお水送りが行われています。この行事は今日まで絶え間なく行われています。東大寺が焼き討ちにあつたり大仏が壊された期間にも絶え間なく行われています。お水取り3月1日から3月14日迄で連日、松明で堂の周りを駆け抜ける行事、堂内では修二会の荒行が行われています。

 若狭のお水送りは3月2日一日のみで、神宮寺の神水を2K離れた鵜の瀬に運び鵜の装束の神官が神水を遠敷川に注ぐという行事です。鵜がこの神水を地下を通って10日をかけてニ月堂に運びます。3月12日二月堂の若狭井から神水を汲み上げ本堂の秘仏の十一面観音に捧げます。これが行事の全容です。
 それでは、この不可思議な行事をだれが仕組み誰が実行したのでしょうか?

 私見を交えて解明していきます。

 この行事を仕組んだのは大仏開眼の事務局長として取り仕切った良弁和尚で間違いありません。良弁は幼児の時、鷹に咥えられて二月堂の杉の木に吊るされたという伝承があり今も何代目かの
良弁杉⇒が現存しています。

 一方、若狭の鵜の瀬には良弁誕生の地に大きな碑が立っています。そして実行者は良弁の高弟の実忠で間違いないと思います。お水送りは水銀を運んだと推察します。若狭の神宮寺付近には遠敷という地名があります。遠敷は辰砂(水銀を多く含む)の意味です。丹生という場合もありますが、丹生は水銀の少ないべんがらのようなものかも知れません。

 水銀が大仏建立に何故必要なのでしょうか。銅の表面に金を塗る必要がありますが、金粉を液状(アマルガム)状にする必要がありそれには大量の水銀が必要です。金を固着させるには、水銀を液体として飛ばす必要があります。多分百匁ろうそくが用いられたと思われます。水銀の気体は水銀毒をもたらします。いたいいたい病です。多分多くの人達が水銀毒に苦しんだのではないでしょうか。亡くなった人も大勢いたかもしれません。

 作業者だけでなく周辺の人達、見回りにきていた僧侶たちにも害が及んだかもしれません。聖武天皇が病気がちだったのも現場視察で水銀毒の影響を受けていたかも知れません。このことを知った良弁はお水取りの名のもとに修二会で十一面観音(いろいろな人をあらわす)に悔過(悔い改める)荒行を実現したのではないでしょうか。

 このように考えてみるとお水取りも、お水送りも合法的に説明できます。


お水取りの風景
 【正倉院】
 聖武天皇が亡くなると光明上后は聖武天皇が日常生活で使っていたもの、宝物として大切にしていたものを東大寺の正倉に預けたのが始まりです。東大寺も光明上后に配慮し正倉の北倉を宝物専用としました。そこから正倉院と呼ぶようになったようです。正倉院宝物は多岐にわたりその数9000点とも言われています。宮内庁がそれぞれの専門の技術者に依頼して管理、メンテナンスを行っています。その中から、毎年数百点が奈良国立博物館で正倉院展として公開されます。

 今年は10月28日から11月13日までの開催です。今年の目玉はガラスの器、緑瑠璃十二曲長坏です。これは、阿倍仲麻呂が難関の「科挙」に合格し皇帝の饗応の宴の時に酒を酌んだ坏ではないかといわれているものです。宝物の多くは遣唐使によって持ち帰れたものだと思っています。

 当時の唐の長安にはシルクロードを介して多くの物が集積しています。当時皇帝の有力な官吏であった阿倍仲麻呂がいろいろ幹旋し日本から来た遣唐使に品定めをしていたのではないでしょうか。正倉院の素晴らしい宝物は遣唐使や阿倍仲麻呂のお陰であったことを改めて実感しています。
2017年 第69回 正倉院展 (奈良国立博物館)
開催期間  2017年10月28日(土) ~ 2017年11月13日(月)
          (09:00~18:00 ※入館は閉館の30分前まで
※金曜日、土曜日、日曜日、祝日(10月28日・29日、11月3日・4日・5日・10日・11日・12日)は20:00まで)

詳細は、第69回正倉院展ホームページを参照ください!
今年の目玉はガラスの器、緑瑠璃十二曲長坏(みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)。

これは、阿倍仲麻呂が難関の「科挙」に合格し皇帝の饗応の宴の時に酒を酌んだ坏ではないかと
いわれているものです。


【藤原仲麻呂の乱】

 大仏開眼を終え2年聖武天皇亡くなると、一旦平穏になるが政務は光明上后と藤原仲麻呂が握り孝謙女帝は、天武系の淳仁天皇に譲る。ところが淳仁天皇は藤原仲麻呂の自宅に取り込まれてしまう。それでも孝謙と淳仁はうまくいっていたようだ。760年光明皇后が亡くなると藤原仲麻呂の権力は急速に衰え藤原仲麻呂の乱を起こすが琵琶湖の畔で自害する。淳仁天皇も道鏡の悪口を言い称徳天皇に廃される。

 孝謙上后は重祚(天皇に返りざくこと)して称徳天皇となり、病気を治療してくれた道鏡を重用し法王の位を与え天皇譲位まで考えたようであるが和気清麻呂に阻まれる。道鏡が女たらしとされるが、まじめな僧侶だと思っています。八尾の弓削神社には、道鏡は良弁に師事しサンスクリットを勉強したと記されています。
【光仁天皇即位】

 770年称徳天皇が亡くなると、藤原永手・百川に推挙され天皇になった。藤原永手・百川は藤原家でも末席の方ですから穴馬を当てたと言えるかもしれません。
 光仁天皇は天智天皇の孫ですから、正に!100%の血統の天皇の誕生となりました。光仁天皇は天皇になる素振りをみせると殺されると思い酒を飲んで馬鹿を装っていたようです。奈良の僧侶からいじめにあっていたようです。
 最初は、格の高い井上内親王(いのえ・いがみないしんのう)を皇后として他戸親王(おさべしんのう)を立太子していたが、井上内親王が天皇を呪詛したとし他戸親王共々抹殺されます。誰かの陰謀でしょう。以後井上内親王は御霊神社に祀られます。

 百済王末裔とされる高野新笠を妃とし間に生まれた山部親王(後の桓武天皇)を立太子します。高野新笠は韓国の人ですから日本の天皇家には韓国の血が流れています。このことをはっきり平成天皇がサッカーワールドカップを日韓共催でやるときおっしゃいました。
 誡に慧眼だと思います。
【桓武天皇即位】

 即位後すぐ長岡京遷都を決心します。枚方にも何度か来て百済系の人達と宴会を楽しんでいます。784年に長岡京に遷都したが、翌年、長岡京の主役者藤原種継が暗殺され、母親の高野新笠の死、皇后の死などが相次ぎ長岡京を捨てる決心をし、794年平安京に遷都しました。

 
ようやく奈良時代からの闇を越えて新しい時代を迎えることになります。
  持統天皇が夢見た時代になりました。
【阿倍野仲麻呂の逸話】

 阿倍仲麻呂は奈良時代中国で大活躍した人物です。闇の世界でなく明るい話題です。
阿倍仲麻呂は698年に生まれ716年、18歳で吉備典備等と共に遣唐使の留学生として選ばれ入唐しました。大学で学び20代で最も難関とされる「科拳」の進士科に合格しました。儒教だけでなく詩才も求められ「50歳の合格でも若い」とされていた。それを20代で合格したのだからいかに凄いかが分かります。

 皇帝の離宮に招かれ皇帝の臨席する中贅を尽くした酒食が並び華やかな歌舞が繰り広げられた。その時使われた酒器が今年正倉院に展示される緑瑠璃十二曲長盃ではないかというロマンのある話です。
 皇帝の籠愛を受け出世していきます。何度か日本への帰国を嘆願しますが皇帝は優秀な官吏を手放したくなくなかなか許可が下りません。758年ようやく許可が下りました。仲麻呂57歳になっていました。送別の宴が盛大に催され、玄宗皇帝や王維など名だたる面々が漢詩を贈ったという。

 仲麻呂は帰路を南下に港に着くとここでも送別の宴が盛大に催されたという。だが、不運に見舞われる。仲麻呂の船だけが暴風に巻き込まれ難破してしまう。結果、唐にとどまり、帰国を果たせなかったが、他の遣唐使逹に多くの文物を持たらし、それらが正倉院の宝物として今私逹が鑑賞できるのです。仲麻呂の想いが心に伝わってきます。
阿倍仲麻呂は、帰国の送別の宴で歌っています。
  “天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも” 日本人の魂です。

荒池付近から眺める「春日なる三笠の山

平城宮跡から眺める「春日なる三笠の山」
【さいごに】

 平城京は710年主役の天皇不在のままに関かれ784年桓武天皇の長岡京遷都により閉じました。70余年の命でした。その間いろいろな事がありました。今回は、闇の部分に焦点を合わせましたが、華やかな時もありました。

 奈良時代を縁の下から支えた二人の人物を改めて紹介し締めとします。

 行基はインフラ整備により人々の生活を豊かにし、寺院の建立と仏像により人々の心を豊かにしました。まさに菩薩でした。

 阿倍仲麻呂は、帰国の送別の宴で歌っています。
  “天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも”日本人の魂です。


最後までご覧いただきまして有難うございます。

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