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交野歴史健康ウォーク 200回
交野のへそを歩く
「私部城跡と周辺遺跡を探訪」
青年の家〜原田織機工場跡〜住吉神社御旅所〜北田家住宅
住吉神社〜山野酒造〜光通寺〜無量光寺〜想善寺
〜私部城跡



案内人:吉岡一秋・青山洋二・村田義朗氏(交野古文化同好会)

日時 : 2023年6月10日(土)午前9時 青年の家玄関口集合 
                              参加者 35名(会員30名)
行程 :
 青年の家〜原田織機工場跡〜住吉神社御旅所〜北田家住宅〜
         住吉神社〜山野酒造〜光通寺〜無量光寺〜想善寺〜私部城跡                       徒歩 約5km  12時解散
 梅雨本番の不順な天候が続いていましたが、当日は雨の心配もなく曇り空のまずまずのウォーク日和となり、早朝より沢山の参加者が青年の家の玄関口に集合された。

 村田会長の挨拶、「早朝より沢山の方に参加頂き有難うございます。本日は、地元にお住いの「吉岡さんと青山さん」のご案内で私部の町中を隈なく歩く予定です。手元の私部地区の地図とレジメをご覧ください。昭和30年〜40年頃の商店街の案内図が付いていますが、実際にはこの図よりも多く、100軒近くのお店が軒を連ねて賑わっていたそうです。最初に歩きます山根街道沿いには500m位の範囲の中に30数店舗があったようです。また、現在も元気な石橋も捜してみましょう。それでは、お二人の案内で私部地区を楽しく歩きたいと思いますので、宜しくお願いします」で始まり、早速に青年の家を出発した。

 青年の家から直ぐ山根街道に出て、地元を知り尽くしているお二人より、子供の頃の懐かしい話や思い出話を取り交ぜながら、住吉神社の御旅所〜昔の交野小学校〜北田家住宅〜札場の辻〜住吉神社〜工事中のみらい学園〜山野酒造〜市場橋〜光通寺〜無量光寺〜想善寺〜私部城跡まで、周辺の史跡・遺跡の解説などを聞きながらゆっくりと歩いてきました。
 当日の参加者は「広報かたの」などで事前に見られた方を含めて、総勢35名(会員30名)の元気な皆さんでした。参加された会員の30名の中、16名が昨年・今年で新しく入会された方でした。


 吉岡さんの楽しい思い出話にうなずいたり、時に笑顔が見え、参加された皆さんは、私部の町をゆっくりと楽しまれたようです。また、青山さんからは、いろいろと研究された寺社や遺跡について詳しくお話し頂き、色々な歴史があることがお分かり頂けたことと思います。
 「今日は私部の町をゆっくりと歩き本当に楽しい一日でした。御旅所や代官屋敷など、始めて訪れ、普段歩くことのないところまで案内頂き大変良かった。また、昔は、沢山のお店があったこと等もお聞きして本当に驚きです」と言われたことが印象に残りました。

 
 ※ホームページに記載するに当たり、吉岡さん、青山さんさんより事前にいただいたレジュメや資料などを参考にさせて頂きました。記して感謝申し上げます。
 山根街道沿いの昔の商店街の手書きの地図
 
当日の「私部城跡と周辺史跡ウォークマップ

住吉神社で元気に集合写真

交野のへそを歩く   レジメ
「私部城跡と周辺遺跡を探訪」
 
 
 
 
 
 山野家住宅 私部7丁目、敷地4,800uあまり。江戸時代〜大正時代の「建築物」は平成15年1/31国の登録文化財に登録されている。


 江戸時代、水戸徳川家の家臣・山野部氏が、泉南地方に帰農した後、山野家を興し明治時代交野に移られた。当家は、約110年前の大正時代から続く「造り酒屋」であり、現在も「造り酒屋」屋敷の姿をとどめている貴重な建築物です。重厚な造りのお主屋は、大正時代に寝屋川市にあった江戸末期の民家を移築されたもので、木造平屋建瓦葺の建坪110坪余りである。
 高く下見板を張り変化に富んだ外観の長屋門は、明治初期の木造平屋瓦葺・漆喰塗りで、長さ18間(33m)昭和初めに移築された。府道に面した土塀は、瓦葺長さ47mあり、切り石積みの上に築かれて、丁寧な仕事で独特の味わいがある。

 
 
 
 
 
 
 
 

青年の家 武道館前にて
 
案内人:吉岡一秋・青山洋二氏
 山根街道沿いの大矢宅の名物樹木ヒバ

大矢家の匂いヒバ

◆大矢家の前庭の木です。台風でこずえが折れたので、近くの交野造園さんがデザインしたそうです。ヒバは、ヒノキ科のアスナロ属 青森ヒバが有名

   「あしたはヒノキになろう」 ヒノキチオール(芳香剤)

   ストレスを和らげリラックスさせる働き

  枯死しても芯まで腐らない程耐久性あり

 
 
 
 住吉神社 御旅所
 住吉神社の御旅所 (本宮からの往復距離1200m)
秋祭りのの際、ご神体の神輿が本宮からお渡りになり、仮にとどまる所。
神官により神事、巫女によるお神楽が奉納されます。
 
 交野市役所及びわかば子供園は旧交野小学校跡
 明治18年(1885)、逢合橋付近に交南小学校開校。明治28年(1895)ここへ尋常小学校のみ移転、大正18年(1919)交南小学校・尋常高等も移転。昭和29年(1954)交野小学校となり、現在みらい学園として工事中。(60年間)
 交野小学校は、明治18年(1885)〜令和5年(2023)まで、創立138年。

 昭和22年、交野農芸学校・交野高等実践女学校・四條畷高校分校が併設されていた。
 
 
 
 
現在も残る珍しい「煙抜き」屋根
 
 山根街道 北田家住宅付近
 
 
 
 

大峰山五〇度供養塔(代官屋敷の道路を南に隔てた角地)
 北田家住宅
代官屋敷(北田家住宅)


 江戸時代、私部の領主畠山氏の代官をしていたことから地元では「代官屋敷」として親しまれてきました。屋敷の広さは約4千平方メートル(約1200坪)あり、門長屋は55、8mもあり日本最長です。

 又高さも2,6mもあり馬に乗ったまま出入りが出来るといわれたほどです。乾蔵から享保7年(1722)の棟札が見つかり、母屋の建築はそれより少し前頃と思われます。

 昭和54年、国の重要文化財に指定され、毎年春と秋に公開されています。この北田家は南北時代の後醍醐天皇の重臣、北畠親房の子顕家の子孫と言われ、南朝没落後、その姓をはばかり、北畠の白を除き北田と称したという。
一般公開日が春と秋の2季制に変わりました!
 「広報かたの」などでお知らせします。 見学は事前に予約が必要です。先着30名
 右記の文化財事業団に申し込み下さい。   交野市文化財事業団    TEL 072−893−8111    

北田家門長屋 大きな構えは 代官屋敷 (交野カルタ)

 私部(きさべ)1丁目に(交野市役所より南に5分) 江戸時代の代官屋敷といわれる北田家がある。
約4000平方メートルの広い敷地に、長さ56メートルの白壁作りで大きな構えの門長屋が続くおもむきは豪壮である。

 母屋の玄関が上手に突き出た形式は全国にも数少なく、約300年前の貴重な建物として国指定重要文化財になっている。
 北田家所蔵の系譜をたどると、南北朝時代の南朝方に仕えていた武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)につながり、 南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の白を除き、「北田」と称したといわれる。

 その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見氏の重臣となるが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢により攻められ遂に開城となった。この時なお残って最後まで奮戦し、下仕9人と共に壮烈な戦死を遂げたのが北田好忠であった。

 その後、20年程経って、京都の叔父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り現在の所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが現在の北田家の最初で、そのため好孝が中祖の第1世とされている。

 関ケ原の戦いの後、徳川家康が天下を統一し、幕藩体制をしいたのに伴い、元和5年(1619)、畠山の子孫・旗本畠山修理太夫が、私部の3分の2を所領するに及んで、北田家は、この地の庄屋を勤めることになる。そして18世紀前半、第6世佳隆の代には代官職を担うようになった。

 代官職就任の時期と主屋建築年代が相前後することとなり、なんらかの関連を想像させる。以後第10世好剛の代まで続くが、元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。
                       (重要文化財・北田家住宅説明文書を参照)

 
山根街道筋
 
 
 
代官屋敷前の石橋。
 
 札ノ辻橋
 小字・札ノ辻の南端部に架けられた石橋。山根街道筋で高札が掲げられた門前町の中心地である。
この東西の道は、西は交野駅より東は小学校まで、北田家の高台から深い谷地形(幅40m、深さ3m)の水路となっており、戦国期の私部城の外堀の役目をしていたと考えられています。
 
 
住吉神社
 祭神は住吉四神で元禄5年(1692)の私部村寺社改帳によると、いつ勧請したか分からないとあります。社殿は住吉神社であるから住吉作りと思われるが、春日造りとなっている。これは奈良春日大社の社殿が20年毎に建て替えとなるので、江戸時代にその宮殿を譲り受けたからである。 

 また昔、境内に現光寺という宮寺があって、空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいたという。会館の裏に空禅藪と呼ばれる所があり歴代の住職の墓がある。

 また神社の入り口にある大鳥居は万延元年(1860)に私部口山の鳥居谷から原材を運んできて造ったものであります。
私部の氏神さまは、私部の東南にあって、祭神は住吉三神 (底筒男命・中筒男命・表筒男命)と息長帯姫命。古い由緒は伝わっていない。建物は、本殿・拝殿・神輿庫・社務所など。末社は、乾神社-本殿の左、(応神天皇・えべっさん・天神さんを祀る。巽神社・稲荷さん、貴船神社・厳島神社など。
秋祭りは毎年10月16日。江戸末期まで、現社務所の処に宮寺(現光寺)があって、その住職が当社を守っていた。
府道に面した石造・大鳥居について、最初は文政8年(1825)建立されるも、大地震(1855)・台風で倒れたので、万延元年(1860)に再建された。高さ7.27m、柱の周り2.09m幅6.67m(交野で最大)。
 
 
 

(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。


 1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
 明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
    その後、すぐ元号が「万延」になることに。

       つ 
     食 く 
     ら ね 
     っ 飯 
   大 て    
   鳥 運    
   居 ぶ 

私部住吉神社の石の大鳥居は大風で倒れ、万延元年(1860年)に再建された交野一の大鳥居です
私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら二、三百人で運んだと記録されています。
   (交野かるた より)

 私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)

交野山、伊勢神宮などの遥拝所

谷垣宮司さんより住吉神社の詳しい由来などをお話下さいました。

谷垣宮司

吉岡さんと谷垣宮司

青山さんより、「北田家」について詳しく説明を受ける。
 
 未来小学校前の二月堂
 二月堂祠と私部街道が通る。坂長口(さくさぐち)にある祠(神を祀る小さなやしろ)。奈良東大寺二月堂はお水取りで有名ですが、ご本尊・十一面観音菩薩を信仰する「観音講」が私部でもあり、明治40年頃、伏拝の祠が作られた。
 
 工事中の交野みらい学園
旧交野小学校・旧長宝寺小学校・一中の一体型小中一貫校が建設中。
2023年.6/1〜2024年10/31
完成予定。
 市場橋の石橋
 小字・市場の北端に架かる石橋。昔は、市が立ち多くの人が集まり行きかった場所。百々川は東から西へと流れ、長宝寺小学校の南で免除川に合流、戦国期の私部城跡の北側を何度も折れ曲がりながら流れている。
 免除川と共に私部城の外堀の役目を果たしていたと考えられている。
 
 
 
光通寺
 
 
光通寺 宗派 は臨済宗 本尊 聖観 音像 (鎌倉 時代)
本尊は観音菩薩立像(秘仏)。 鎌倉時代の作、本造 (ヒ ノキ材)。 このお寺は室町時代のはじめに創建 され、その後京都東福寺の末寺 とな ります。別峯の創建 と伝えられてお ります。室町時代の終りから戦国時代にかけ朝廷にお茶を献ずるな ど極めて力をもつた寺でありま した。
 またこの寺の石垣の中には 「石垣地蔵」 と呼ばれる 2体の石仏がみ られます。石仏はかな り風化 していて、わか りづ らいのですが、光線の具合で浮き上がることがあ ります。境内にはたくさんの石仏、弁財天、お稲荷 さん、お不動 さんな どが祀 られています。
 お寺を開かれたと云われる別峯 さんのお墓 も墓地の中にあります。寺に残 る古文書によると敷地を私部城にとられたと書かれています。
私部城と因縁の寺
 私部城を造る時、ー 城主・安見右近に寺は焼かれ、寺地を奪い、破壊した。安見氏に対する恨みが棟札に書かれている。江戸時代に入り、現在の境内地に帰って来て再建した。
 昭和56年屋根裏修理で棟札(寛文4年1664年)が見つかり 「信長公の時、家臣安見右近という悪政した者、現われ仏法を無視した(光通寺を倒した)。そして哀れな最期を遂げた」と書かれてあった。ここは、周りより2m程高く、私部城の出郭(でくるわ)=城の端へ突出して築く郭として利用された。(大坂城の真田丸にあたる)
 江戸時代の軍旗物語ー私部城の事と思われる「後家が城」と書いた「室町殿日記」には、「城の大手にやぐらがあり、鉄炮2,30挺並べて守りを固めていた・・・光通寺付近に「やぐら」があったかも・・・。
 その後、1720年(享保5年)建立された本堂は、市内最古級の建築物です。
 
大改修が終了した本殿
 
 
 
 
弁天さん
 
お稲荷さん
 
お不動さんと役行者堂
 
お不動さんと役行者

石垣地蔵


石垣を上がったところの本堂の東側に、「こばか地蔵」が沢山おられる。
昭和4年、信貴生駒電鉄(今の京阪電鉄交野線)の工事中、
交野駅の南踏切付近、「こばか」から出土したものが主に集められている。

光通寺開祖「別峯和尚」のお墓にお参り
伝説
 おとなしのどんどん」
 集慶殿(古い光通寺)の開祖別峯和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。
すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。
 
無量光寺
無量光寺 
 浄土真宗西本願寺末本尊・阿弥陀如来 (平安時代)
 かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺 として建立 されたが焼失し、 1486年 頃今の位置に再建 されたとい う。
 戦国時代には、このお寺は浄土真宗となっていた為、信長の石山本願寺攻めの時 (1570)、 当寺三世覚心が本願寺に味方 し、天王寺の方で信長方にいた私部城の安見氏 と戦ったため、寺は焼かれ覚心は 20年も帰 られなかったと伝えられています。
 寺も享保15年 (1730)よ うやく再建できたという。明治維新の成辰戦争の時、幕府軍が立ち寄ったと伝えられている。

無量光寺の立派な石橋
 
 

菩提樹の花が満開でした!
 境内の「銀杏」「菩提樹」「カイヅカ」は市の指定樹木。
 
 
 無量光寺 本堂大棟獅子口
 
この獅子口は、瓦の生産地であった当地私部で寛延4年(1751)に製作され、現在の無量寺本堂の建立以来250年以上も屋根を護っていました。屋根の棟仕舞は、6世紀後半に日本に瓦が伝来した当初、鴟尾(しび)にはじまり、桧皮葺などの建物に使うために獅子口が考案されました。その獅子口は、京都御所にある桧皮葺の重要な建物に使用され、獅子口のことを御所棟鬼板と別に称し、「紫宸口」と記すこともありました。
 無量光寺の屋根を護る獅子口は、経之巻、綾筋、巴紋をあしらった伝統的な意匠を順守しています。平成26年(2014)、無量光寺門徒の一大決心と多大なる尽力によって実現した本堂の修復工事(株式会社金剛組)において、従来の意匠を踏襲した新しい獅子口が本堂の屋根に飾られ、新たな歴史を刻んでいます。
                 平成27年3月    無量光寺
 獅子口・・・鬼瓦に相当するところに駒形をした箱型を据える。頂上に「経の巻」(円筒形の巴瓦)を3〜5本のせる。その下に山形の綾筋模様をつける。現在では瓦葺きの棟の仕舞として使われてるが、本来は桧皮葺きや柿葺き(こけらぶき)などの屋根の棟重(おも)しとして造られ、装飾を兼ねた瓦として使われていた。その後、桧皮葺きに限らず、鬼瓦と同じように瓦葺き屋根にも獅子口が使われるようになっていった。
 屋根の流れが重なり合う頂部において、雨水などの浸入を防ぎ、棟の端を隠すために造られる瓦には、鬼瓦などがありますが、浄土真宗の寺院の山内には、鬼はいませんので獅子口瓦になります。
 
想善寺
想善寺 宗派は西山浄土宗
 本尊 阿弥陀如来坐像

 天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年(1793)秋に現在の伽藍ができました。

 本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置しその左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。
 当地方では子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。

私部城跡
 私部城は戦国時代時代に築かれた河内の豪族・ 安見氏の居城です。城は本郭・二郭・三郭・ 四郭からなる主郭と周囲の副郭で構成されています。
 最近、郵便局附近の発掘調査の結果、郵便局 「5郭」跡である事が分かりました。
 平成30年10月1日付で交野市の文化財に指定される。東西400m南北300m、甲子園球場の3倍強あります。
 私部城は室町時代の始め頃に出来たと云われていたが、最近の研究で元亀元年頃 (1570年 )頃には立派な防御機能を備えた城であったことが分かってきま した。又松永弾正が二度も攻めてきたことが分かっております。私部城跡は交野郵便局の東側の森の中に土塁と切り通しがそのあとを留めております。 しかもこの城は平地に作られた非常に珍しいものであります。
 近年開発が進み保存に不安を感じますが、市民の力でこのまま後世に伝えてゆきたいものです。
 
部城の歴史

私部城は何時頃出来たか?
1568年{永禄11}織田配下となつた安見右近により完成したとみられる

1571年{元亀2}安見右近が奈良多聞城で切腹においこまれる。直後に私部城を攻める。城主不在の危機を乗り越える

1572年{元亀3}4月松永久秀が再び私部城を攻める。この時は織田方の柴田勝家、佐久間信盛等の援軍により撃退

1578年 (天正6)安見新七郎所で信長が休息する

1581年 (天正9)信長の馬揃えに取次者である安見新七郎が召集される。
 
 
 
 
 
 
 
私部城 本丸堀跡
 
新しく令和3年8月に建てられた私部城(本郭)の説明版
 
 
 
 最近、郵便局附近の発掘調査の結果、
郵便局 「5郭」跡である事が分かりました。
 
 
 
 
 


交野かるたにも描かれている石仏

最後までご覧いただき有難うございました

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