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交野歴史健康ウォーク 第203回
京都御苑と御土居巡り

2023.10.14(土) 京阪・交野市駅 午前9時集合
行程 : 交野市駅集合 → 枚方市駅 → 出町柳駅 → 蘆山寺(G土塁)→梨の木神社→
閑院宮邸跡・展示室見学→拾翠邸拝観→出水の小川→蛤御門→中立売休憩所前(昼食)→
京都御所拝観見学→一条邸跡・縣井→近衛邸跡(糸桜)→桂宮邸跡(庭園跡)見学→
中山邸跡・祐ノ井→猿が辻→解散午後3時頃→京阪出町柳駅 約 9km徒歩


案内:盛岡 博氏(交野古文化同好会)
参加者 21名(会員13名)

 2023年10月14日(土)、当日朝は冷え込み曇り空、午後は雨模様の予報でしたが、幸い雨に遭うこともなく、盛岡博氏の案内で、「京都御苑と御土居巡り」京都御苑周辺をゆっくりと探訪して来ました。

 交野市駅に定刻の9時前には元気なメンバーが続々と集合された。午後の天候が危ぶまれた為、当初予定の「西ノ京原町の御土居」は割愛して、直接、京都御苑周辺史跡などを巡る事となり、9時15分発の京阪電車に乗車、枚方市駅で乗り換え→出町柳駅で下車。

 案内の盛岡さんは、この日の為に何度も下見され、交通機関の乗り換え、昼食場所・トイレ休憩の場所を確認された。事前に、閑院宮邸跡・展示室の案内を職員さんにお願いされ、御所の拝観時刻などを決め注意点を把握されたり、また参加者に分かりやすいようにと、カラー刷りのレジメを準備された。本当に有り難いことです。感謝、感謝です。

 当初予定の行程を逆順に、先ずは蘆山寺へ案内された。豊臣秀吉が築造した「御土居」の現存する史跡のうち9ヶ所が国の史跡として指定されている。今回のウォークは、9ヶ所のうち3月に歩けなかった2ヶ所を巡る予定でしたが、「西ノ京原町の御土居」は割愛して、蘆山寺内の「御土居」を見学。1ヶ所だけでしたが、御土居に登りその凄さの一端が実感できました。
 次に、京都御苑の梨木神社の染殿井等を見学後、御苑の南へと移動。閑院宮邸跡・展示室で職員さんより詳しく説明を受け、拾翠邸、出水の小川、蛤御門を廻り、中立売休憩所付近で昼食後、「京都御所拝観」に久しぶりに感動。参加された皆さんも、「京都御所が拝観できたことや初めて見学する場所も多く、大変良い勉強ができました」と大好評でした。

 今回、企画立案して頂き、当日はリーダーとして引率・案内役の盛岡さんを始め、お世話役の方々、参加くださいました皆さんのお陰と感謝申し上げます。 

 ホームページに掲載するにあたり、講師の盛岡さんが研究・作成されたレジメ等を頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※参考資料 京都御苑・京都御所などのホームぺージや御土居に関するWEB記事等を
 参考にさせていただきました。記して感謝申し上げます。
 京都御苑と御土居巡りMAP

蛤御門前で記念撮影

御所の猿ケ辻前で記念撮影
「京都御苑と御土居巡り」レジメ 

京都御苑と御土居巡り
 
大久保利通邸宅跡で案内される盛岡 博氏
上京区石薬師通寺町下る一筋目東入南側

薩摩藩士大久保利通(1830〜78)は、文久年間(1861〜63)に上洛して以降、京都に滞在することが多く、岩倉具視(1825〜83)らと討幕のための朝廷工作にあたり、大政奉還から王政復古に尽力した。この石標は,慶応2(1866)年正月から同4年6月までの間,この地に構えた邸宅跡を示すものである。
 御土居
  天下統一目前、豊臣秀吉は応仁の乱で荒れ果てた京都を再建するために、大規模な京都改造計画に取り組みました。御所の修復や聚楽第の建設を行い、周辺大名や公家の屋敷町と寺院を集めた寺町を造りました。
 1591年(天正19)には京都を広範囲にわたって囲む巨大な土塁・堀を築き上げ、その中に街を完成させました。(3〜4ヶ月で完成といわれている)
 御土居(この名称は豊臣政権期には使われていない→江戸時代に幕府の所管であることにより御土居とよばれるようになった)は、外敵の襲来に備える防塁、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として築かれた台形の土塁と堀からなります。北は上賀茂から鷹峯、西は紙屋川、南は九条(東寺)、東は鴨川、総延長約22.5kmの大土木工事でした。一般に、土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼ばれ、要所に出入り口になる「七口・地図参照」が設けられました。
 江戸時代に入ると洛外まで街が広がり、次第に堤防の役割を果たすもの以外は取り壊されていきました。現在、御土居のうち9ヶ所が国の史跡に指定されています。


規模と構造

 断面図で見ると、基礎部分の幅約20m、頂上部の幅と高さが約5mの台形状。土塁の外側には堀があり、幅は10m、深さは最大4mと巨大。基礎となる土塁を作るための膨大な土はどこから調達したかは今も不明で、御土居の上には美観のために竹が植えられていました。

         
 御土居史跡図
 G御土居史跡 中京区西ノ京原町
史跡がご神体になっている市五郎稲荷神社。
土塁に接して社殿があり、鳥居の続く参道が堀の後だといわれている。

当日の午後から雨が予想されたため、残念ですが今回のウォークを割愛しました。
 
F史跡指定 上京区北之辺町(蘆山寺内) 
蘆山寺(ろざんじ) 天台園浄宗の本山の寺院。本尊は阿弥陀三尊。
紫式部の邸宅跡として知られる。
元三大師堂(如意輪観音を安置)は洛陽三十三所観音霊場32番札所。
蘆山寺境内の東側に、御土居の一部が約50m残り実際に登って見学できる。
 日本人で唯一人「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並文豪紫式部は、「平安京東郊の中河の地」すなわち現在の廬山寺の境内(全域)に住んでおりました。それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤第)であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したといわれております。
 紫式部は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆されたものであります。そのため、世界文学史上屈指の史跡、世界文学発祥の地とも言われております。
 
紫式部 歌碑
 
 「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに雲隠れにし 夜半の月かな(紫式部)」
「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする(大弐三位)」

前半は、紫式部の歌です。「小倉百人一首」に入選した歌となります。後半は、大弐三位の歌となります。
大弐三位は、藤原宣孝と紫式部の娘です。歌人としての才能は、母である紫式部に匹敵したと伝わっています。

史跡「御土居」に登ってみました!立派な土塁が残されていました!
梨木神社(なしのきじんじゃ)
明治18年10月、三條實萬公(さんじょうさねつむこう)を御祭神として創建、別格官幣者に列せられ大正4年の大正天皇即位式にあたり、實萬公の御子實美公(さねとみこう)が第二座御祭神として合祀されました。三條家は五摂家に次ぐ公郷最高の名家でした。
 
鳥居の向こうに何故かマンションが建っている!
境内のマンション建設は、梨木神社が社殿の修復等の資金集めに苦慮していた2013年、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の期限付きで貸し、その地代を社殿の修復費用に充てる計画をたてました。
しかし、その計画が神社本庁の承認を得られなかったことから、神社本庁から離脱をし、単立神社となりました。

京都三名水の染殿井
 
藤袴と蝶々
 日本人初のノーベル賞受賞の理論物理学者である湯川秀樹博士は、生涯の殆どを京都で過ごし、京都大学、大阪大学名誉教授などを歴任されました。京都市名誉市民として表彰されており、学士院恩賜賞受賞、最年少で文化勲章を受章したことでも知られています。当社「萩の会」初代会長。
              『千年の昔の園も かくやありし
                           木の下かげに 乱れさく萩』
 上田秋成翁は江戸時代後期の読本作者、国学者、歌人、茶人であり、近世日本文学の代表作『雨月物語』の作者として知られています。この石碑は、秋成翁が晩年を過ごした羽倉信義邸がこの近辺(寺町荒神口上ル)にあったことから、当社に奉納されたものです。
        『ふみよめば 絵を巻きみればかにかくに
                       昔の人のしのばるるかな』
 京都御苑(きょうとぎょえん)
 京都御所と京都仙洞御所。大宮御所、京都迎賓館を包含する東西700m、南北1300mの広大な緑地で、環境省が管理する国民公園、禁門の変で有名な蛤御門など四方から自由に出入りができ、芝生や梅林などがある格好の散策地。レストハウス、運動広場など憩いの場の他、関院宮邸跡、庭園、御苑の歴史と自然が学べる展示館、拾翠邸など歴史的遺構も残る。
 1947年(昭和22年)、京都御苑は、同じく皇室苑地であった新宿御苑、皇居外苑とともに、国民公園とすることが閣議決定され、1949年(昭和24年)に厚生省の管理運営のもとに、その由緒ある沿革を尊重し、努めて現状の回復保存を図るとともに、国民庭園として広く国民に開放し利用していくこととなりました。 
 
 
 幕末の頃の京都御苑の絵図
 
  二条家邸
 二条家邸は江戸時代はじめには内裏(京都御所)の南に隣接していたが,寛文3(1663)年,霊元院へ後西院が譲位し,後西院の院御所用地がにわかに必要になったので,二条家の地があてられ,二条家は今出川通の北側に移転した。以来江戸時代を通じてこの地に邸宅(本邸)がうけつがれたが,明治10年に敷地西半分が,昭和21年に東半分を同志社が取得し,現在は同志社女子大学校地になっている。この石標は五摂家の一である二条家の旧地を示すものである。
 なお,二条家が今出川通の北側,すなわち現京都御苑域外に移転したことを公家町から外へ出されたと表現する向きがあるが,これは現在の京都御苑域=公家町と理解することからくる誤りである。
京都御苑 閑院宮邸跡
きょうとぎょえん      かんいんのみやていあと
 

展示室では、実物資料やデジタルコンテンツを交えて、
京都御苑の歴史や自然、
公家の生活などを紹介しています。
 
当日、11時30分頃より職員さんより詳しく解説を聞くことが出来ました。

VR映像シアターでは公家の生活などが上映されていた
拾翠邸(しゅうすいてい)
九條邸跡(拾翠邸) 茶室
茶室として残つている建物は、拾翠亭と呼ばれ、九条家屋敷の貴重な遺構の一つです。
九條池を中心とした美しい庭園は、四季折々の風情を醸し出している。
池の中にある厳島神社は、邸内社として祀られている。
 
 

2階から撮影した池の写真
中央に架かる立派な反橋は明治15年に竣工した高倉橋と呼ばれている。

1階から撮影した池の写真   手前の木は百日紅

茶室内部の様子
出水の小川
南西部の出水の小川は、母子で水にふれあう場として整備された100mほどの人工の小川です。
地下からくみ上げた井戸水が、深さ数センチメートルの浅い小川となって木陰を流れ、
夏には水遊びをする子供達の人気スポットです。
 水辺にはさまざまな動植物も見られて、また、周辺には桜が植えられて桜の見どころの一つにもなっています。
蛤御門(新在家御門)
はまぐりごもん(しんざいけごもん)
 御苑の周りには、かつての公家町と市中の境界であった九つの御門があります。
この蛤御門は、もとは新在家御門と呼ばれ常に閉ざされていましたが、江戸時代の大火で初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれるようになりました。 また、幕末の禁門の変では、御苑一帯が主戦場となり、この戦いに長州藩が敗れたことで幕末動乱の転機となりましたが、その最大の激戦地だったのが蛤御門で、弾傷らしき跡が残っています。
 
 
京都御所の拝観
通年、事前申込み不要で参観できます!
 御苑の中央北部にある、東西約250m、南北約450mの築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期に再建したもので、一部は平安期の古制を模している。周囲に六門と歴代天皇が即位した、紫宸殿、又、北側に皇后宮常御殿などがあり、小御所前には大きな池を配した優雅な庭園があります。
 京都御所は、明治維新まで天皇のお住まいであり、桓武天皇が794年に平安京に都を移されたのが始まりです。 現在の京都御所の場所は、1331年光厳天皇がここで即位されて以降、1869年に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間、天皇のお住まいとして使用されました。

 周囲に高い築地塀をめぐらし、内部には紫宸殿や清涼殿など平安時代の面影を色濃く残す建物が並ぶ。 現在の建物は江戸時代末期の造営。

 春・秋に一般公開が行われていたが、平成28年(2016)7月26日より一年を通して事前申込み不要で参観できるようになった。 


 京都御所では、宮内庁職員によるガイドツアー(50分間)を実施しています。 一般公開日には4回(午前9時30分、午前10時30分、午後1時30分、午後2時30分)開催されます。 事前予約は必要ありませんので、参加希望者はツアー開始前に参観者休所に集合しましょう。
 
 京都御所は、明治維新まで天皇のお住まい(古くは内裏という)であり、桓武天皇が奈良の平城京より長岡京(京都府)を経て、延暦13年(794)に平安京に都を移されたのが始まりである。

 平安京は南北約5.2km、東西約4.5kmの方形で、中央の朱雀大路(現在の千本通り)により左京と右京に分けられ、大小の道で碁盤の目のように区画されていた。平安京の大内裏(国家的儀式を行う施設や様々な役所があった区画)の中程に内裏があった。内裏(だいり)は火災に遭うと、貴族の邸宅などが一時的に仮の内裏とされた。これを里内裏(さとだいり)という。

 現在の京都御所の場所は土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)といわれた里内裏の一つで、元弘元年(1331)に光厳天皇(こうごんてんのう)がここで即位をされて以降、明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間、天皇のお住まいとして使用された。この間も幾度となく火災に遭い、その都度再建が行われ、当初は現在の敷地の半分以下であったが、豊臣秀吉や徳川幕府による造営により敷地は次第に拡張された。

 建築様式や全体構成は時代と共に変化をしていったが、天明8年(1788)の焼失による再建時には、江戸幕府の老中松平定信を総奉行とし、有職故実家の裏松固禅(光世)らの考証により、平安の古制に則った紫宸殿や清涼殿、その他の御殿が寛政2年(1790)に建造された。しかしこの内裏も嘉永7年(1854)に焼失し、翌安政2年(1855)には寛政時の内裏がほぼそのままの形で再建された。これが現在の京都御所である。この御所は孝明天皇及び明治天皇の日々のご生活や数々の宮中の年中行事に加え、幕末期の王政復古の大号令、小御所会議、五箇条の御誓文の発布、明治・大正・昭和の天皇の即位の礼が行われた歴史的な舞台となった場所である。
 現在の京都御所は築地塀に囲まれた南北約450m、東西約250mお方形で、面積は約11万uである。敷地内では、古代以来の日本宮殿lと文化が見られると同時に、回遊式庭園の御池庭、献上の石や灯篭を配した御内庭など、木々や花など季節の変化も楽しめるものとなっている。
 下記のHPへアクセスして、御所の拝観順路や施設のご案内ビデオをお楽しみください!
宮内庁参観案内:施設情報:京都御所 (kunaicho.go.jp)
 京都御所の拝観順路地図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 御三間
 
京都仙洞御所・大宮御所
仙洞御所とは、皇位を退かれた天皇(上皇、院など)の御所です。後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7年(1630年)に完成した。以後、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格天皇の五代の御所として使用された。
大宮御所とは、皇太后の御所です。現在の御所は,慶応3年(1867年)に英照皇太后(孝明天皇の女御)のために造営されたものです。皇太后が東京に移られた後は、御常御殿のみを残し整理され現在に伝えられています。
京都迎賓館
日本の歴史、文化を象徴する都市・京都で、海外からの賓客を心を込めてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただく施設として平成17年に建設された。歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観とし、品格のある和風の佇まいを創出している。建物や調度品には、数寄屋大工、左官、作庭、西陣織や蒔絵など数多くの京都を代表する伝統芸能において匠の技を用いている。
一条邸跡・縣井(あがたのい)
この井戸の付近は、一条邸跡です。井戸は京都三名水の一つと言われています。古くはここに縣宮があり、役人になりたい人たちがこの水で身を清めて祈願したとされています。
 
近衛邸跡・糸桜
近衛家は五摂家の一つであり、近衛大路にあったので近衛と名付けられた。
この屋敷の糸桜は江戸時代から有名で、御苑の中でもいち早く春の訪れを告げてくれる。
幕末、薩摩藩の篤姫も江戸に嫁ぐ前にこの屋敷を訪れている。
 
桂宮邸跡の庭園の公開
桂宮邸跡庭園について
「桂宮邸跡」(かつらのみやていあと)はかつての四親王家(世襲親王家)の一つ・桂宮家の本邸の跡。『京都御苑』の最北部で、『京都御所』のすぐ北、五摂家の邸宅跡で枝垂れ桜が有名な『近衛邸跡』のすぐ東に位置します。

長らく閉ざされていましたが、2022年5月より一般公開が開始!ただ入場口が少しわかりづらいかも…近衛邸跡寄りにかつての桂宮邸の立派な門(表門/勅使門)が残り、桂宮邸跡の解説のQRコードなんかも設置されているのですが、入場口はここではなく敷地の南側の林の中にあります。

桃山時代に八条宮智仁親王を初代として成立し、“四親王家”と呼ばれた宮家のうち伏見宮に次いで2番目に古い桂宮家。八条宮智仁親王と言えば『桂離宮』の造営者としても有名。

2022年から公開がはじまった本邸の跡にも庭園の遺構が残ります。幕末の1854年(嘉永7年)に京都御所が火災にあった際に桂宮邸が孝明天皇の仮皇居となり、現在残る庭園はその際に作庭された池泉鑑賞式庭園。その格式の通りかなり大規模かつ特徴的な庭石がふんだんに使われた池庭!
中山邸跡・祐井(さちのい)
京都御所の北東に、京都御苑三大名水のひとつ、祐井(さちのい)があります。ここは、権大納言中山忠能の邸跡です。明治天皇の生誕の地でもあります。明治天皇は、孝明天皇の第二皇子で、祐宮(さちのみや)と命名されました。 
 明治天皇が産湯に使ったといわれる敷地内の井戸は、祐宮二才の夏、干天で枯れたため、新たに掘られ「祐井」と名づけられたといいます。
 
祐井(さちのい)

明治天皇誕生の地・右奥に「祐井の井戸」が見える
御所の鬼門・猿ケ辻(さるがつじ)
御所の東北は鬼門の為、角が切り込まれている。御幣を持った木彫りの猿が、鬼門除けとして置かれている。文久3年(1863)に尊王攘夷派の急進であった公卿姉小路公知がこの辺で暗殺されてた。

昔、夜な夜な抜け出しては、御所や市中の人々にいたずらをするため、
御幣を担いだ猿が金網の中に閉じ込められている。
 最後までご覧いただき有難うございました!

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