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交野歴史健康ウォーク 第197回
倉治古墳群〜石仏の道を歩く
2023.2.11(土) いきいきランド 午前9時集合
行程 : 交野ドーム → 第二京阪道路側道 → 関電変電所・倉治古墳群 → 源氏の滝
 →滝の学校(旧交野中学校)跡 → 神宮寺遺跡→石仏の道(5ヶ所)→ 約 7km徒歩


案内:青山 洋二氏(交野古文化同好会)
参加者 32名(会員23名)

 2023年2月11日(土)冬晴れの中、青山洋二氏の案内で、交野で一番古くから人々の営みがあり、古い歴史が秘められた神宮寺周辺をゆっくりと探訪して来ました。
 村田会長の挨拶の後、元気に交野ドームを出発。第二京阪国道の側道を歩き、右手に交野三山を遠望しながら最初の見学地・関西電力枚方変電所付近で「倉治古墳群」について詳しく解説を受けた。次いで、交野八景で有名な「源氏の滝の清涼」に癒され、地元の年配の方々には懐かしい旧中学校跡を通り、神宮寺遺跡、石仏の道を歩き、岩倉開元寺の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 
 ウォーク当日、前日の雨もすっかり上がり早朝より続々と多くの方々が、いきいきランド広場に集合された。参加された会員23名の中、令和4年度に入会された会員が10名と二桁となりました。また、交野広報を見られたり知人の紹介などで会員外の9名の方が参加され、その内1名が新会員に申し込まれた。50周年記念の今年になって、新入会員が48名増加、総勢161名となりました。

 参加された方々から、「今まで無意識に歩いていたところに、こんなにも多くの古い歴史が隠されていたことに驚いています。こうして詳しく解説付きで見学出来て、とてもよくわかりました。また、交野のまちの地形や史跡・歴史などが分かってとても楽しかった。」など感想を頂戴しました。

 ホームページに掲載するにあたり、講師の青山さんが研究・作成されたレジメ等を頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※参考資料 平田政信氏著「考歴民」、奥野平次氏著「ふるさと交野を歩く(神の巻)」、交野市史・交野町史など参考にさせていただきました。

いきいきランド広場にて記念撮影
 
石仏の道 阿弥陀三尊磨崖石仏前にて記念撮影

倉治古墳群〜石仏の道ウォークのレジメ
 
 

 いきいきランド 交野ドーム前に集合
 
 当日のウォーク行程地図
 
 第二京阪道路の側道を歩く
 
 交野三山(左から交野山344m、旗振山345m、竜王山318m)を
第二京阪道路側道1.2kmより、遠望する
 
本日の講師は、青山洋二氏(中央右手を挙げて説明)
 関西電力枚方変電所・倉治古墳群
 第二京阪国道の側道を下り、関電の変電所付近で、
倉治古墳群の詳しい説明を受け、源氏の滝へと進む。
 
 ?関西電力枚方変電所(倉治)の古墳群

 府道枚方大和郡山線が、神宮寺集落を北へ抜けてきて、西の機物神社方面へ曲る三叉路の北側の広大(約300X300m)な区城は、関西電力変電所です。
 昭和26年京阪神地方の戦後発展で、電力需要急増に伴い北陸地方から更に(超高圧)送電線を設けるため、みかん畑を三段に整地される。この区域に大小10基の古墳があって、西南の松塚上池の東側は、社宅建設用地で4基のグループの古墳が見つかった。変電所の中心部からも4基で、壷の破片、骨片、金環や勾玉も出た。各規模は小型で6世紀末。


 関西電力鰍ェ交野市東倉治3丁目(字東浦)の丘陵に枚方変電所の建設を計画、昭和26年初め、片山長三氏から用地内の「丸山」が古墳ではないかという、連絡があり、調査確認された。「丸山」からは遺構、遺物の発見はなかったが、その後「丸山」の南側、中山路を越した付近で横穴式石室(第8号墳)を発見され、次々と全部で8基の古墳が発見された。
 倉治古墳群の出土位置図
 倉治古墳群の8基の古墳は、2グループに分かれる古墳群であることが判明した。また、この8基の横穴式石室の構造には、羨道が見られない特色がある。「竪穴系横穴式石室」と呼ばれたり「「玄室・羨道間に段をもつ石室-横口式石室」と呼ばれる概念に属する古墳である。
 この種の石室は「秦氏」など朝鮮半島南部からの渡来系氏族に見られる構造の石室であり、「清水谷古墳」と同様に、6世紀後葉、郡津・倉治の地に置かれていた交野地域を統括し天野川の水運や大和への陸路をも管掌する行政機構にあってその中の中核となった官人群−秦氏の墓域がこの2ヶ所の墓地であったと考えられている。
 古墳塚
    
古墳塚 古代の人の魂を慰める
 倉治古墳群からは、多数の人骨が出土しました。そのため、昭和33年に、関西電力は取り壊された古墳の跡や、倉治一帯を見渡せる高台に古墳塚を作り、古墳に葬られた人たちの骨を埋葬しました。 それからは、毎年秋に、枚方変電所で「古墳祭り」を催し、先祖の霊を慰め、変電所の無事故と市民の幸せを祈る祭りが続いていたが、時代の変遷により、数年前に関西電力は管理上も無理があり「墓じまい」となっています。
 この塚の北側にある「心」という字に並べた石は、古墳の石が使われています。
 源氏の滝
 ?源氏の滝・.不動堂

 源氏の滝は高さ17.5m、白旗池からの渓流が流れ落ちて滝を形成。交野八景「源氏の滝の清涼」に選ばれていて、もとは近くにあった開元寺の滝が訛って「源氏の滝」になった。昔は修験者が身を清めた信仰の場であって、滝の高さ中程の北側に(河内名所図会)-享和元年(1801)にも宝形造四角形の不動堂。明治36年に京都妙心寺末寺の宣春院を移すが無住が多く、現在の六角形の不動堂は、昭和49年建立で年2回護摩木焚く法要がある。滝の左の岩に「不動明王の梵字」があるが、観音岩の梵字と同じ頃のもの。
 
 
 
源氏の滝
<伝説> 夜泣き石(源氏の滝)
源氏の滝
 交野の里に源氏姫という美しい姫と、梅千代という可愛い少年が住んでいた。源氏姫と梅千代は姉弟ではなかったが、二人とも幼いころ、母と生き別れた身の上で親身の姉弟のように一緒に暮らしていた。その頃、大和と河内の国境に「おろち山」という山が有り、そこに一団の賊が住んでいた。その賊は、時折山を降りては近郷近在の家々を襲い掠奪(りゃくだつ)をほしいままにしていた。

ある年の暮れ、この山賊の一団は遂に、交野の里にも現れ源氏姫の邸を襲い、姫と梅千代を縛り上げ引揚げた。山賊の女の頭(かしら)に手下の一人が美しい姫と少年をさらってきたと報告すると、40になるかならぬの美しい女の頭は、早速その二人を連れてくるように命じた。少年は襲われた際の驚きで、最早(もはや)息絶えていた。

女の頭は、じっとその少年の死骸(しがい)に眼を注いでいたが、急に顔色を変え、手下どもを別室に下げ、かれらが別室に去ると、急いで姫の縄を解き、少年の死体を抱き上げてはらはらと涙を流した。この不思議な様子に姫は訝しく思ったが、可愛い梅千代の死体を見るともうたまらなくなり、「弟の敵、思い知れ」と叫びざま躍り掛かり、短刀で女の頭の胸を刺した。
 けれども、女の頭はこれに抵抗するでもなく、姫の手を掴みながら「源氏姫、梅千代、許しておくれ」と、苦痛に歪む頬に涙を滂沱(ぼうだ)と流しながら叫んだ。
姫は仇の口から意外な言葉を聴いて愕然(がくぜん)とした。

女の頭の苦痛を耐えつつ途切れ途切れに物語るには、女は正しく二人の実母で、まだ女の頭が若い頃、ある家に嫁いで一人の姫をもうけたが、ある事情で姫を残して別れ、それから再び他家へ嫁ぎ、一人の男児を産むとまた離別した。 夜泣き石

それから18年の月日を送ったが、二人の子供のことが気にかかり、山賊といえども一度は逢いたいと念じていた。今日偶然にも二人の子供と意外な対面が母子相互いに殺し殺されつして悲しい最期(さいご)を遂げるのだ、とのことであった。 姉弟のように暮らしてきた梅千代は弟であり、山賊の頭は姉弟の産みの母であろうとは。


 しかもその母を自分の手にかけてしまったとは何とした悲しいことか。姫の目先は真暗になり、母と弟にすがり付いてはた泣きに泣いたのであった。そして、姫はそこを飛び出すと付近の滝壷に身を投げて母や弟の後を追ったという。(伝説の河内より)

源氏の滝の入口、石仏が沢山並べられている付近に夜泣き石がある。源氏姫が悲しみのあまり、滝壷に身を投げてから、この石が泣くという
 
夜泣き石
 
 
 
 
 
源氏の滝へと上る!
 
 
 滝の学校(旧交野中学校)跡
?滝の学校(旧交野中学校)跡

 戦後間もない昭和22年、学校教育法施行により、6.3.3制の学制の中学校が突然出発。校舎も机、教科書も無い(ゼロ)からの出発と初代久保田校長は記す。交野星田学校組合立中学校として産声を上げ、当時現市役所辺りにあった、交野小学校の一部を4月に借用して、約半歳後当時滝の近くの「交野女子専門学校」を買収して、そこへ中学校移転。昼なお暗く、雨漏りもする校舎。交野の北東端部で地理的に不便で、生徒、教職員、PTAの方々から移転、改築の要望が起り、昭和36年遂に現在の所に新校舎完成。よって滝の校舎|ま、14年間存在しました。 
 
 旧交野中学校(上)と旧プール(下)
   
 
現在は、旧交野中学のプールの上に交野里山ゆうゆう会の作業場が建てられている
塞ノ神(さいのかみ) 
 神宮寺1丁目の角地(地蔵の辻)に、さいのかみ(塞の神)が祀られている。村に悪魔を入れないように守っていただく神様だと言う。いつもお花が飾れ手入れされている。この辻を東に神宮寺2丁目の住宅街に入り山へと登れば、交野山への石仏の道に続く
 この山麓には、今から約9000年の昔、縄文早期時代に人々が居住していたという。ここに神宮寺縄文早期居住跡、天平時代の開元寺跡の石碑がある。
 
 神宮寺遺跡
交野郷土史カルタより
礎石にしのぶ 
     開元寺

今のところ交野地方で天平以前の寺院で唯一判っているのが、開元寺です。昭和29年神宮寺で天平時代に礎石が発見され、古代当地方に栄えた大寺の果てだとわかりました。
この寺は中世には、山岳寺院として交野山上に移りましたが火災に遭い、その後源氏の滝の口に小寺となって残っていました、明治時代に廃寺となってしまいました。

縄文の遺跡 
  豊かに神宮寺

神宮寺には交野山の登り口に約一万三千年前の旧石器時代、それより200メートル下ったところに約九千年前の縄文時代早期の遺跡があります。特に底部の尖った押型文の神宮寺式土器は、縄文時代早期を代表する土器の一つとして有名です。

神宮寺縄文時代住居遺跡

神宮寺遺跡神宮寺式土器
 
昭和31年、交野考古学会(現在の交野古文化同好会)が岩倉開元寺跡調査の時に、石仏の道の弥勒仏坐像石仏から下へ、2枚目の畑の南よりのミカン畑から2点の石器が採集されました。この2点の石器はハンドアックスと呼ばれる握斧とナイフ形石器でした。ハンドアックスは長さ9センチ・幅6センチ・厚さ2センチで、ナイフ形石器は長さ6センテ・幅2センチ・厚さ1センチで石材は共に二上山から採取される讃岐石(サヌカイト)です。

 また交野考古学会による神宮寺地区の調査で縄文時代の石鏃や石器の原石材が発見され、神宮寺付近に縄文時代の集落があることが確実となり、神宮寺遺跡と名付けられました。昭和32年の調査で採集された土器片は縄文時代早期の押型文土器で、遺跡名をとって「神宮寺式土器」⇒
と呼ばれています。神宮寺遺跡では縄文時代の住居は発見されていませんが、炉が5基出土しています。

 
 此附近天平時代開元寺跡
 現在この石碑は道の反対側に建っている。
 興福寺の官務牒疎(嘉吉元年作)に開元寺として書かているが、官務牒疎は偽書としているが、奥野平次氏によりここから寺跡とみられる、礎石が発見され現在歴史資料展示室の前庭に展示されている。
 従って機物神社の神宮寺としてなんらかの寺があったと思われている。 
 
 
 
 
 
 神宮寺先縄文時代遺跡
 神宮寺先縄文時代遺跡(神宮寺石器時代遺跡)
 昭和31年の秋、石仏の道の弥勒菩薩の磨崖仏の下、二枚目の畑の南寄りのミカン畑でニ点の石器が採集された、一つはサヌカイト製の握斧式石器(ハンドアックス)長さ約9cm幅6cm、もう一つは同じくサヌカイト製のナイフ形石器、長さ6cm、幅2cmである。
今から2万5千年前と考えられている。握斧式石器は日常の狩猟にも、また人と人との闘争にも使われたと考えられている。
 
 
  奥野平次氏著(ふるさと交野を歩く・神の巻)参照
 旧石器を発見(1万3千年前頃) 昭和30年、握り槌・ナイフブレード 二上山のサヌカイト
 2  神宮寺縄文時代住居跡  神宮寺式土器の発見 縄文早期約8千年前 押型文土器
 3  天平時代開元寺跡 昭和48年発掘調査 開元寺の一部を発見 昭和29年礎石発見
 4  弥生式土器(後期 約2千年前))の発見 昭和45年 宮ノ下141(通称 柿畑)
 5  瓦器や灯明皿の破片 サヌカイトの剥離片など発見 昭和53年新見有子(小学生)さん
 6 有舌尖頭器 昭和54年田中喜子(小学生)さん、物入れの引き出しより 神宮寺宮跡付近 
 
 石仏の道を歩く
 岩倉開元寺跡
 
 石仏の道 岩倉開元寺への参拝道
 神宮寺の村から廃岩倉開元寺へと通じる道が石仏の道である。
 この石仏の道に存在する弥勒仏坐像石仏、二尊石仏、三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏、の5点が、平成14年9月1日付けで「廃岩倉開元寺関係石仏群」として交野市の指定文化財になった。

 石仏の道をあがると、右側に東面して花崗岩の自然石に刻まれた弥勒菩薩(第一石仏)がある。この弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。
 まわりは竹薮に囲まれ、しっとりとした趣はいつまで眺めていても飽きない。

 山裾の藪(神宮寺の宮跡)のある北から里のかけて、奈良時代に開元寺と言う大寺が建ち、その寺が鎌倉時代の頃に、交野山の山頂に寺を移し岩倉開元寺と名を変えたといわれており、この道は岩倉開元寺への参道であった。往時、沢山の僧やお参りする人々が通った道である。

 弥勒菩薩から登山道を登ると、右側に細長い池があり、この池の東端の小道に、二尊石仏(第ニ石仏)が西面している。さらに第二の山池を左に見て進むとぐっと南に山道は曲がるが、ここからすぐ右側に大石の頂部が見える。この大石の上部中央に南面して、半円の光背に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。
 本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音・勢至の両菩薩の立像で、文明11年(1475)と彫られている。室町中期である。現在、交野山への登山道(石仏の道)は、この磨崖仏の北側を通っているが、昔は南側の小川に沿って、眼の上に阿弥陀三尊を拝みながら「なんまいだ、なんまいだ」と唱えながら登ったと言う。 見落としがちなので、要注意。
 道の左手に、頭部が少し欠けた阿弥陀さんがおられる。阿弥陀如来立像石仏(第四石仏)である。石仏の頭部右半分や光背の上部を欠損しているが、衣は通肩で来迎印を結んでおられ制作年代は室町時代とされている。石仏のある北側斜面は「鳩が谷」とも呼ばれ、以前ここから骨壺が出土したといい、開元寺の墓地であった可能性があり、この石仏も墓地に伴う供養のために造立したと考えられている。

 この山道を更に、登ると左に傾いた大石がある。その上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第五石仏)が刻まれている。高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し、これよりやや下側の両脇には、第さん石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が蓮華座の上に立っている。また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。右側の菩薩が赤茶けているのは、開元寺の火災の時のものともいわれている。
 雨上がりの朝、こもれびが射す頃の石仏の美しさを皆さんも是非ご鑑賞下さい。きっとご満足されるでしょう。近いうちに、是非とも石仏の道をお尋ねください。
廃岩倉開元寺石仏群・石仏の道   交野市指定文化財 平成14年9月1日指定
 言い伝えによると岩倉開元寺は神宮寺にあった開元寺を移したといわれている。
最近ではその開元寺の存在が疑われております。しかし岩倉開元寺が存在したことは発掘調査の結果、その実在が確認されております。この山道に石仏は五体祀られております。
 
弥勒菩薩坐像の右手は講師の青山洋二氏
 
 
 
石造弥勒菩薩坐像 

鎌倉時代の作とされている
岩全高180p、像高101cm、花崗岩製

神宮寺の集落から交野山に向かう登山道は「石仏の道」と呼ばれ開元寺跡の石碑や縄文時代住居跡の石碑前を過ぎて、山手にさしかかる所に弥勒菩薩坐像が東向きに立っており、岩倉開元寺の境域を示す傍示石と考えられています。
 像は二重円光光背の内に薄肉彫りの坐像です。首に三道をあらわし衲衣を纏い右手は胸前に挙げて施無畏印を、左手は膝前に掌をふせて触地印をあらわし、蓮華座の上に座っています。顔の表情などにやや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆったりとしたすてがたい表情をしています。
二尊石仏 

造られた時代は不明
総高40cm、阿弥陀立像11,4cm比丘形12,0cm

弥勒菩薩坐像石仏から更に登ると南に分かれる小道があり、その分岐点付近に西面して当石仏はあります。高さが40cm程の小さい石仏であるが向かって右側の像は比丘形(びくぎょう)向って左側は阿弥陀如来像とみられるが磨耗が激しいためその姿をよく知ることは出来ないが、比丘形像は両手を胸前に挙げて合掌印を結んでおり阿弥陀像は手を前にして定印を結んでいるよう。比丘とは托鉢する修行者や出家得度して修行した人をいう。


磨崖三尊像 
室町時代の作・岩全高3.4m、石仏龕全高43cm

石造弥勒菩薩坐像からさらに山道を登ると川の懸崖石上方部に南面して半月形の繰り込みを造り、その中に三尊の石仏を半肉彫りしています。これは昔石仏の南側に参道があった為南面しているといわれている。中央の仏は衣を通肩にまとい、蓮華座の上に坐り、両手を膝前で組み弥陀の定印を結んだ阿弥陀如来と考えられます。両脇には合掌する比丘形の立像を彫りだしており、阿弥陀三尊とするにはやや無理があり三尊像と呼んでいる。中尊像向かって右側に「文明十一年己亥二月日」、左脇に「道満敬白」の刻銘があり、1479年の作と判ります。又石仏の外側の脇には阿弥陀如来の種字「キリーク」が刻まれています。

阿弥陀如来立像 

室町時代の作・全高43cm

磨崖三尊仏の直ぐ北側に、阿弥陀如来立像(市指定文化財)があります。船形光背の内側に阿弥陀如来立像が肉彫りされていますが、頭部右半分及び光背の上部を欠損しています。像容は首に三道を表し、衣は通肩にまとい、右手を胸前に挙げ、左手を下げた来迎印を結んでいる。この石仏さんの後ろの斜面は「鳩が谷」と呼ばれ、以前にここから骨壷が出土したと伝えられており、岩倉開元寺の墓地であった可能性もあります。その為、この石仏も墓地に伴う供養のためのものとも考えられます。「鳩が谷」という名前も「墓が谷」がなまったものではないかとも思われます。
磨崖阿弥陀三尊像(室町時代の作)

参道をさらに登り、標高160mほどのところに岩倉開元寺の寺域への登り口があります。この登り口の手前に阿弥陀三尊磨崖石仏がおられます。高さ2.5mの巨岩に彫られており、真ん中に阿弥陀如来坐像、右側に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像が半肉彫にしています。中尊の阿弥陀如来坐像は蓮華座上に坐り、衣を偏祖右肩にまとい両手は膝前に組んで弥陀の定印をむすんでいます。膝の衣文の表現は省略されています。向かって右側に合掌して蓮華座に立つ勢至菩薩は簡単に頭髪部と眉目を表し、衣文の表現もほとんど省略し、蓮華座も腕状の輪郭のみ表現されています。左側の観音菩薩立像は両手の上に蓮台らしきものを持っています。像の表現は勢至菩薩と同じで簡略化されています。この石仏さんは西に面していることから、西方極楽浄土への往生を願って作られたのでしょう。

 弥勒菩薩坐像(第一の石仏)
 弥勒菩薩坐像(第一の石仏)
 「石仏の道」を登って開元寺跡の石碑や縄文時代住居跡の石碑を過ぎて、山手にさしかかる所に弥勒菩薩坐像(市指定文化財)があります。この石仏は、やや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆりたりとした表情をしています。造られたのは鎌倉時代の始めごろとされ、山頂近くにあった岩倉開元寺の境界を示す傍示石と考えられています。この石仏群では一番古いものである。

 二尊石仏 (市指定文化財・第二の石仏)
 
 二尊石仏 (市指定文化財・第二の石仏)
弥勒菩薩坐像石仏から更に登ると南に分かれる小道があり、その分岐点付近に西面して当石仏はある。高さが40cm程の小さい石仏である。向かって右側の像は比丘形左側は阿弥陀如来像とみられるが磨耗が激しいためその姿をよく知ることは出来ない。比丘とは托鉢する修行者や出家得度して修行した人をいう。
 
 三尊磨崖石仏 (第三の石仏)
 三尊磨崖石仏 (第三の石仏)
さらに登ると「文明十一年」(1479年)の銘が入った第三の石仏がある。三尊磨崖石仏(市指定文化財)が石仏の道に背をむけた形で立っている。以前には向いに登山道があったといわれる。高さ3.4m、幅3.7mの巨石に阿弥陀三尊を半肉彫し、枠の外側の脇には阿弥陀如来の種字「キリーク」が刻まれている。真ん中に阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左に勢至菩薩(この逆の位置という説もある)を従えていると見られるが、研究者によっては両脇を比丘形とする意見もあります。
 
阿弥陀如来立像 室町時代の作・全高43cm
阿弥陀如来立像 (第4の石仏)
第三の石仏の直ぐ北側、道をへだてて、阿弥陀如来立像(市指定文化財)があります。この石仏さんの後ろの斜面は「鳩が谷」と呼ばれ、以前にここから骨壷が出土したと伝えられており、岩倉開元寺の墓地の入口であった可能性もあります。「鳩が谷」という名前も「墓が谷」がなまったものではないかとも思われます。残念ながら、この石仏の右頭部が少しかけております。
 
磨崖阿弥陀三尊像 (室町時代の作)
 磨崖阿弥陀三尊像 (第5の石仏)
山道をさらに登り、標高160mほどのところに岩倉開元寺の寺域への登りロがあります。この登りロの手前に第5の石仏さん、阿弥陀三尊磨崖石仏(市指定文化財)があります。高さ2.5m、幅2.1mの巨石に彫られており、真ん中に阿弥陀如来坐像、右側に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像が彫られています。(逆の説もある)この石仏さんは西に面していることから、西方極楽浄土への往生を願って作られたのでしょう。

 
 
 岩倉開元寺跡
 磨崖阿弥能三尊像の東方、交野山の南東山麓(標高230〜300m)、東西約400mの間に20数ヵ所の建物跡を残していた。古文化同好会の先駆けである、交野考古学会が昭和29年10月から「岩倉開元寺」の発掘調査。この寺について全く文献がなく、この発掘は高く評価される。創建や焼亡年代は、地方伝説と考古学物証しかなく、数年に渡って遺跡の一部を発掘。「密教寺院の正方形(約26m)」の多宝塔と思われ、二段になった焦土層も発見した。その出土面から、下の層は室町前期、上の層は室町後期の再建と思われる。
 
 
 
 
 最後までご覧いただき有難うございました!


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