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交野歴史健康ウォーク 206回
京街道・守口宿文禄堤周辺
松下幸之助歴史館見学
京阪守口市駅〜文禄堤〜白井邸跡〜難宗寺〜
松下幸之助歴史館  京阪西三荘駅(解散)



案内人:村田 義朗氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2024年3月9日(土) 午前9時 京阪交野市駅集合  
        参加者30名(会員20名)

 行程 : 守口市駅西口〜文禄堤〜白井邸跡〜守口宿本陣跡〜難宗寺〜
       松下幸之助歴史館   
徒歩約2.5km 12時頃解散

 
※写真撮影は、竹田様、青山様、猿渡様にお世話になりました。
 2024年3/9(土)、天候 晴時々曇り。

 京阪交野市駅改札口前に9時前に集合、都合よく9時発の列車に乗車、枚方市駅で準急に乗り換え守口市駅西口にて下車。早速、駅前より数分の文禄堤まで歩き、案内役の村田会長の挨拶のあと、当日のウォークの行程、「文禄堤」のことを詳しく説明頂き、由緒ある商家や民家などが建ち並ぶ京街道をゆっくりと歩き懐かしい雰囲気と歴史を楽しみました。

 その後、大塩平八郎ゆかりの地・白井邸跡や守口宿の本陣跡を通り、幻の大坂遷都・難宗寺の由来、また境内の樹齢400年の大いちょうに驚嘆、次いで松下幸之助歴史館では、和歌山から僅か9歳で大阪に丁稚奉公、世界的な大企業に育てあげた94年間の松下幸之助の生涯と事業発展の歴史を約50分ばかりじっくりと見学しました。

 
当日は、早朝より冷え込み小雪も舞う少し肌寒さも感じる気候でしたが、幸い歩くには支障もなくまずまずのウォーク日和でした。何時もは電車で素通りすることが多い守口〜門真にかけて、江戸時代が身近に感じられる文禄堤や大塩平八郎のゆかりの地、松下幸之助歴史館をゆっくりと歩いていろいろな歴史を存分に楽しむことができました。

 参加された皆さんから「こんなに身近なところに文禄堤が残っていることは知りませんでした。また、色々な歴史を身近に感じられる大変楽しいウォークでした、十分に楽しみました!」と大好評でした。


 このたび、難宗寺様に大変お世話になりました。明治天皇がお泊りされた時の玉座を拝見したいと、事前にお寺様へ予約をお願いしました。快くお引き受け下さり、当日は詳しくご説明も伺いながらゆっくりと見学させていただき、心より感謝申し上げます。

 ※案内役の村田さんには下見や資料など沢山提供頂き有難うございました。
  当日、頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。
  記して感謝申し上げます。


難宗寺境内  大いちょう前で記念撮影


松下幸之助歴史館前にて記念撮影

京街道・守口宿文禄堤
松下幸之助歴史館見学 レジメ
 
 
 
 
 
 
 

文禄堤周辺マップ


 京街道・文禄堤へ
交野市駅集合 守口市駅西口
   
案内: 村田 義朗氏 (交野古文化同好会 会長)
文禄堤
 この堤は、豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ最短距離の堤として、文禄5年(1596)に毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じて淀川左岸の堤防を改修。整備したもので、のちに、東海道守口宿の一部が築かれました。
 堤防上の道は、京へ向かうときは京街道、大坂へ向かうときは大坂街道と呼ばれました。
 幕府が公称した東海道は、江戸から大坂までの57次とされています。57番目の宿場として守口宿が整備されたのは、元和2年(1616)の「証文の写し」や、同7年の「諸役御免の証文」の記録から、この頃と考えられています。
 堤の長さは、約27キロメートルあったと言われていますが、度重なる淀川の改修工事でそのほとんどは姿を消しており、現在ではここ、本町の一部のみが江戸時代の宿場町の面影をしのぶことができる貴重な文化財です。
   平成22年3月  守口教育委員会
 江戸時代になると伏見から大阪までは、五街道の一つである東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿が設けられた。
 東海道の大津宿からこれら4宿場を経て大阪に至る道のりは、参勤交代の経路としても用いられた。東海道五十七次と呼ぶ。日本橋から53番目が大津宿、54番目が伏見宿、55番目が淀宿、56番目が枚方宿、57番目が守口宿、終点が最初は京橋、その後高麗橋に変更された。
 また、淀宿と枚方宿の間に遊郭を持った間の宿、橋本があった。
 次の3枚の地図は、「十三のいま昔を歩こう」ホームページの「守口の文禄堤」より拝借したものです。 2枚目の地図は、明治18年測量地図で、黄色の線が文禄堤。
 現在の淀川は度重なる改修工事により、当時より1q西へと寄っています。
下図は明治18年の測量地図、黄色の線が文禄堤を表しています。
 現在の地図と明治18年の測量地図を重ねたもの。

松月町の墓地には、白井家の墓があります。

文禄堤のイラスト地図
 
守口市駅西口より直ぐ、文禄堤の守居橋
 
守口市駅近くに残る文禄堤跡。堤上の旧京街道から撮影。
文禄堤を道路が横切っているため、堤の断面が歩道の壁になっている。

本町橋の上から京阪守口市駅方面を撮影

本町橋から西方面を
文禄堤を北へと歩く
由緒ある古い商家や民家などが建ち並んでいます。

文禄堤の上の道路は、車1台がやっと通れる幅。4.6m
 
 復元高札
守口宿の高札を復元したもの。本来の場所は、現在の八島交差点付近。
 
 
 
 文禄堤薩摩英国館
1926年(大正15年)に建てられた由緒ある酒問屋だった建物を
リノベーションして、開いたティールーム。?(うだつ)のあがる重厚な建物。
 
 
 
 
 旧徳永家住宅
京街道に面して間口10間の主屋があり、座敷周りに前庭が広がる。
住宅は木造2階建てで2階部分が低い厨子2階という形式。
将来は、守口市の歴史資料館への予定。
 
 
 
 

下の道路への(階段道

提灯、旗、幕、のれん、和洋傘店
 
 来迎坂
文禄堤から東へ折れて、奈良街道に入る石段の坂道
 
 
 
 
 
 
文禄堤はここから下りながら一号線へと当たります。
国道1号線 八島の交差点へと出ます
大塩平八郎ゆかりの白井邸跡
八島交差点の北東側
大塩平八郎ゆかりの書院跡は守口市竜田通り1丁目7-10にありましたが、
今はマクドナルドの店になっており、その片隅に説明板と瓦があります。
 白井家は守口宿の村役人を務める名家でこの辺り一帯を占める大邸宅でした。白井孝右衛門は大塩平八郎とは師弟関係にあり、経済的にも平八郎を援助していました。また自宅を開放して大塩平八郎を招いて,近在の人達に陽明学を学ばせていました。
 大塩平八郎の乱では多くの農民を動員して参加しましたが僅か半日で鎮圧され乱後孝右衛門は処刑された。この乱は後の社会に大きな影響を与え幕末の維新へと大きく動きます。現在は建物は有りません。
 
白井家 大塩平八郎ゆかりの書院跡
 この敷地内には、江戸時代に守口町の豪農白井家の邸宅があり、その一画に建つ書院を、世間では「大塩平八郎ゆかりの書院」と呼んでいました。天保年間のはじめ、全国的に飢饉が続き、大阪市中にも犠牲者が続出しましたが、大坂町奉行所の役人は、なんら対策を立てることができず、また市中の商人はそれを機会に利益を得ようとしました。
 そこで東町奉行所与力であり、陽明学者でもあった大塩平八郎は、幕府や商人に天誅を加えて窮民を救うべく、密かに門下の与力・同心及び近在の富農達と謀って、兵を挙げました。
 これが天保8年(1837)2月19日の「大塩平八郎の乱」です。
 当時の白井家の当主の孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として、経済的な支援を行っており、門弟の中心的人物でした。
 大塩はこの白井家の建物の一室で、守口近郷の農民達に講義したと伝えられています。
 守口市内でも数少ない、歴史上の人物にゆかりの地であったといえます。
             平成23年6月  守口市教育委員会
 
 守口宿本陣跡
 本陣とは、江戸時代の全国の宿場に設けられた大名・幕府役人・勅使・宮門跡等の宿泊の為の屋敷である。守口宿があったところは、竜田通1丁目付近で、ここは現在も道路幅が広くなっている。守口宿の道幅は2間半(約4.6m)と定められていたが、ここは15m余りもあり、この場所で人や荷物の継立(人馬を替えて貨客を送り継ぐ)が行われた。
 
浄土真宗 本願寺派
難宗寺(なんしゅうじ)   大坂遷都ゆかりの地
難宗寺 
宗派浄土真宗(西本願寺派)
本尊阿弥陀如来

 現寺地はもと融通念仏宗の寺で1347年(正平3)頃に創建された来迎寺の跡地で小さな坊舎が残されていました。蓮如上人の頃真宗に改宗したと伝えられている。明治維新の時幕府軍が大坂に敗走。それを追う形で親政軍が京都を出発明治天皇はこの難宗寺に入られ一時守口は一夜の帝都となりました。

 大塩の乱のとき白井家の財産を一時期この寺が預かって管理していたといわれます。
 今回、明治天皇がお泊りされた時の玉座を拝見したいと、事前にお寺様へ予約をお願いしました。快くお引き受け下さり、当日は詳しくご説明も伺いながらゆっくりと見学させていただき、心より感謝申し上げます。

大塩平八郎ゆかりの書院跡があった場所から少し東に行くと
立派な難宗寺の太鼓楼が見える。

難宗寺の土塀の傍に道標や記念碑が建っています。

右から  1.正面に 御行在所  裏に 明治元年3月22日
2.正面に 御仮泊所  明治43年10月4日   3.すぐ守口街道
4.左 京みち 右 大坂 文政13年7月  と刻されている。

 
 文明7年(1475)吉崎を退出し、枚方市出口に光善寺を創建した蓮如上人が文明9年(1477)に守口坊として建立したのが始まりと言われ、西御坊とと呼ばれるようになりました。
 元和元年(1615)兵火によって焼失し、寛永13年(1679)再建されましたが、その後、度重なる風水害などで朽廃したため、文化4年(1807)に再建されたものが現在の本堂であります。

 この本堂の平面は完全に左右対称で、典型的な真宗寺院本堂の形式がとられています。また、当寺は、周囲を築地塀で囲み、西南に鐘楼、西面に山門、北に長屋門・太鼓楼を配し、本堂東北に玄関・書院、庫裏を配しており、守口市内の真宗寺院として最も整った構えが残されている重要な文化財であります。

 さらに、この寺の境内には、樹齢約500年、高さ約25メートル、直径約1.5メートルの大きな銀杏の木があり、これは昭和50年に大阪府の天然記念物に、そして、昭和55年に市の保存樹木に指定された貴重な樹木であります。
       平成7年3月    守口市教育委員会
 大阪府指定天然記念物

 いちょうは中国原産の裸子植物で落葉性の雌雄異株の高木である。
我国にも古くから渡来し、各地の寺社などに植えられた。本樹は難宗寺境内の本堂西側に所在し、樹高は25mを超え、目通りの直径1.5m(南北方向に長円形の長軸を示す)をはかる雄株である。
 枝張りは幹より南へ約15m、北へ約13m張り出している。樹齢は葉がやや小型化して老齢化を示し、約400年と想定できる巨木である。
  昭和62年2月   大阪府教育委員会
 

25メートルの高さの大いちょうを背景に記念写真
 
幻の大坂遷都

山門の傍に「明治天皇守口行在所」

明治大帝聖跡
 明治元年(1868)3月23日、明治天皇が大阪へ行幸の際宿泊されたのもこの難宗寺ある。
また、明治43年10月3日には、淀川で陸軍特別大演習が行われた時、皇太子殿下(大正天皇)が架橋演習閲覧の為宿泊され、御仮泊所となったところでもあります。
幻の大坂遷都  
  慶応三年(1867年)10月には「大政奉還」、12月には「王政復古の大号令」を出し、翌年の1月2日に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に勝利した薩長・・・。

 明治天皇という錦の御旗を手に入れて官軍となった薩長軍の大久保利通は、「幕府にはむかう逆賊」のイメージを拭い去り、天皇中心の新しい政治が始まる事を印象づけるために・・・と、慶応四年(明治元年・1868年)1月19日、「大坂遷都白書」を提出します。

 しかし、予想通りこの案は、大昔の平安の頃の天皇中心を夢見る京都の公家たちの猛反対に遭います。あまりの反対ぶりに、大久保はしかたなく、当面の目標を、天皇の「大坂御幸」に変更し、1月29日に明治天皇の大坂行きが決定します。

 つまり、「首都にはまだ決定していないけど、とりあえず天皇は大坂に滞在してください」って事です。 そして、3月21日、京都を出立した明治天皇は大坂に入り、翌22日の夜、お寺に一泊・・・それが、難宗寺です。
 そこで一泊された明治天皇は、翌3月23日、東本願寺の末寺・盛泉寺に入り、ここに内侍所(ないしどころ・賢所)を置かれたました。
 賢所(かしこどころ)とは、宮中にあるアマテラスオオミカミを祀る場所で、天皇が祭祀行う最も重要な場所・・・つまり、この時、わずかの間だけではありますが、この場所に天皇がいて賢所があったという事で、厳密に言えば、ここが日本の首都であったという事になります。

 しかし、その後、前島密(まえじまひそか)から、新たな「東京遷都論」が出され、1ヶ月後の4月には新しい官制が発表され、天皇は江戸へ行かれますが、もちろん京都の公家たちは、これにも反対・・・結局、またまた、とりあえず・・・といった感じのまま、7月に江戸が東京と改められたのです。
 京都のお年寄りが、未だに「天皇さんは、東京に行ってはるだけや」とおっしゃるのもわからないではありません。

 もしかしたら、大阪も・・・
 
 
 
 
 
 
 
当時の様子を詳しくお話頂きました。心より感謝申し上げます。

難宗寺の立派な築地塀
 盛泉寺(じょうせんじ)
明治天皇の大坂行幸の際、内侍所の奉安所となったところです。
 
 
 
パナソニックミュージアム
松下幸之助 歴史館

詳しくは、パナソニックミュージアムをご参照ください。
竜田通りを東へ行き、京阪電車沿いを北へ行くとパナソニックの会社があり、
正面に「さくら広場」、「松下幸之助歴史館」と「ものづくりイズム館」があります。
 松下幸之助が歩んだ94年の道

 松下幸之助は1894年11月27日、和歌山県和佐村の裕福な農家に
誕生しました。しかし幸之助が4歳の時、父が米相場で失敗し一家は没落。
幸之助は小学校を中退し、わずか9歳で丁稚奉公に出ることになります。

 それからの松下幸之助94年の生涯で、幾多の苦難を乗り越える中に
見出した「行き方・考え方」。その“道”をたどりながら、
松下幸之助の経営観や人生観を学ぶことができます。

1968年(昭和43年)3月7日、創業50周年記念事業の一環として、「歴史館」が開館。建物は昭和8年本拠が大開から門真に移転した当時の本店社屋をそのままの姿で再現されている。

パンフレットより参照

松下幸之助歴史館前で記念撮影
松下幸之助翁寿像    松下幸之助歴史館のホームページより

 歴史館の前庭に、幸之助の全身立像があります。
この立像は、労働組合の結成40周年を記念して、幸之助の「物をつくる前に人をつくる」を信念とした従業員の福祉労働条件の向上と、「対立と調和」の精神に基づく健全な労使関係の発展に尽くした功績に感謝し、労働組合より贈られました。

 1986年(昭和61年)11月27日、幸之助の満92歳の誕生日の日に、「松下幸之助翁寿像建立贈呈式」が歴史館構内で行われました。幸之助本人も出席、労働組合各支部長ら約150名が見守る中、会社代表の松下正治会長(当時)と約8万人の組合員を代表する前川中央執行委員長(当時)の手により、寿像の除幕が行われました。建立された像は、高さ3.5メートル、重さ320キログラムという銅製の全身立像で、構内に永久的に設置されることになっています。

京阪・西三荘駅で解散
西三荘駅  駅下を流れる西三荘川(現在は暗渠)を駅名に採用

 守口駅(現・守口市駅) - 寝屋川信号所間の連続立体交差化と複々線化工事が1972年11月28日に着工され、同工事に伴い新設された駅である。
 当駅が開設されるまで、当駅の京都寄り約200m(門真元町郵便局の南西あたり)に旧「門真駅」があった。当駅は新駅の扱いであるが、実質的には高架化に伴う門真駅の移転といえる。
 この新駅の名称案には、当初「西門真駅」と「東守口駅」(仮称は「松下前駅」としているものもある)の2つがあったが、結局はどちらも採用されず、駅下を流れる西三荘川(現在は暗渠)を駅名に採用した。
 最後までご覧いただき有難うございました

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