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消えた信貴生駒電鉄磐船駅と
森地区歴史探訪

日時:令和6年2月10日(土)  午前10時集合
集合場所 JR河内磐船駅 56名(会員34名)参加

 

案内:向井 克喜氏(交野古文化同好会)
行程 : JR河内磐船駅10時集合 → 信貴生駒電鉄磐船駅跡→京阪河内森駅→
天田神社→川東神社・三又の堰→森灯篭の辻 → 須弥寺・観音堂→西国三十三観音
→ 森墓地・六体地蔵と3仏 → 堂の池 →大門酒造  解散 12時過ぎ徒歩約2km
 2024年2/10(土)、天候晴れ。午前9時40分過ぎから参加者が徐々に増えだして、10時の定刻には、河内磐船駅前の広場が参加の皆さんで一杯になりました。総勢56名の参加は、2013.3.30の交野古文化同好会40周年記念ウォーク「星田の桜回廊を歩こう」の参加者54名以来の新記録となりました。地元の向井克喜さんのご努力で森地区の皆さんにもお誘いされ10数名の方が参加されました。また、春の新酒の香る大門酒造さんの酒蔵見学を準備して頂いたお陰で沢山の参加者で主催者側としては嬉しい限りです。

 午前10時、皆さんが揃われたところで村田会長の挨拶の後、向井克喜氏の案内で河内磐船駅から森地区周辺の史跡を巡ってきました。先ずは駅前で、信貴電磐船駅とJR河内磐船駅の変遷や駅前開発に伴って発掘された一大鍛冶工房・森遺跡について説明を受けて、京阪・河内森駅から天田神社へ出発しました。
 そして森村へ、燈籠の辻・東大寺の二月堂燈籠などを経て、須弥寺では住職の池田幸子様のご配慮により、本殿及び観音堂を御開帳いただきご参拝させて頂きました。最後に、大門酒造さんでは大門康剛6代蔵元の案内で酒蔵見学が出来ました。事前に向井さんより十分な準備をして頂いたお陰です。感謝!感謝!です。

 参加された皆さんからは、「こんなに身近なところに沢山の歴史や言い伝えがあるなんて大変なお驚きです。散歩道が楽しく愛着が持てるようになりました。須弥寺さんはお参りしますが、陽石や三十三観音に森のお墓など案内頂き大変新鮮さを感じました。大門酒造さんの美味しいお酒を飲みながら季節の料理を頂きたいと思いました。」など嬉しい感想を頂きました。

 今回は、地元の森地区の自治会や山地保全活動など幅広く活発に活動されている、向井克喜様に大変お世話になりました。事前に関係先などへまた綿密な下見に万全を期していただき、大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。記して感謝申し上げます。
 
須弥寺にて記念撮影 
撮影は、須弥寺住職 池田幸子様にお願いしました。深謝!
消えた信貴生駒電鉄磐船駅と
森地区歴史探訪
 
レジメ
 
 
 
 






 

JR河内磐船駅 集合・出発
 
案内:向井克喜氏(古文化同好会)

新しく設置されたパーゴラ付近に集合、向井先生より詳しく説明を受けました
 消えた信貴生駒電鉄磐船駅
 ①JR河内磐船駅
JR片町線は明治28年(1895年)に片町(現大阪城北詰駅付近)ー四条畷駅が開通。明治31年(1898年)に四条畷ー長尾間が開通、その間は星田、津田駅しかなかったが昭和10年(1935年)に河内磐船駅が出来た。 
 

②信貴生駒電鉄(現京阪電鉄)磐船駅跡
京阪交野線は昭和4年(1928年)に信貴生駒電鉄として枚方ー私市間が開通、昭和10年(1935年)に片町線河内磐船駅開設に合わせそのすぐ上に連絡駅として信貴電磐船駅が出来た。昭和23年(1948年)に廃駅となり300m南側の河内森駅だけになった。その名残として私市側からのトンネル通路が今も使われている。

③京阪河内森駅
信貴生駒電鉄が開通した翌年昭和5年(1930年)に地域有力者の働きで河内森駅が出来るが昭和20年(1945年)休駅となるが直近の磐船駅の廃駅に伴い河内森駅が復活する。JRとの連絡駅としてよりも地域の要望より駅は私市地域にある河内「森」となった。
信貴生駒電鉄は枚方ー私市ー近鉄生駒駅を繋ぐ計画であったが勾配や難工事から私市駅で終わった。
 
 
 
 天 田 神 社
  天田神社は私市地区と森地区の境界、私市側にあり、両地区の氏神となっていました。この付近は、弥生時代の集落跡が見つかっており、交野でも古くから人が住んでいたところでした。「交野町史」によれば、「このあたりは川水があって、稲のよく実る甘野または甘田の名があった。まことにありがたい田だとの感謝の祈りを込めて、田の上流に宮を建てて、田の神を祀ったのが甘田の宮のはじまり」とされています。境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、付近の山麓からは肩野物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。              【祭神 本社 住吉四神】
     表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)
     底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと

 ④天田神社  
   ※郷土史かるた 「(あ)天田の宮は田の神まつる」

私市、森の氏神社住吉四社を祀る。古代この地域は土地が良く肥えて作物が豊かな野で有ったので甘野と言われ川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀った甘田宮が天田宮の起源。境内を流れる小久保川は私市・森の大切な灌漑水でありその分水堰「水分(ミワタ)」や奈良時代の1条通りとの関わりも?
 
 
 
 
 
 川 東 神 社
  創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。
ご祭神 :品陀別命(八幡さま)
森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。
 天田神社の小久保川の東側(川東)の森側にあるお社で石清水八幡宮との関連と言われている。森地区は平安時代から石清水との関わりが強く火長神人でもある。肩野物部一族との関わりや水分(ミワタ)との関連も?
  ホンダワケ命は「応神天皇」や「八幡神」の名で知られています。戦前までは武神として崇められていましたが、戦後から平和観念が浸透していくなかで、教育や縁結びなど日常生活に根ざした諸願成就の神さまへと変化していきます。「八幡さま」を祀る神社は全国に約4万ほどあり、日本中のどこへ行っても出会える神さまです。

 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。

 当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。
 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。
 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在)
また、この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。
 
 
 
 
 
 【あまだのみやちどりこども園】
  幼保連携型認定こども園 【あまだのみやちどりこども園】  (森新池がこども園へ)
 交野市の公私連携・幼保連携型認定こども園です。こどもたち一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きます。地域に根差すこども園として、これまで以上に親しまれる保育園を目指します。京阪交野線・河内森駅から徒歩5分の駅近です。子どもたちは、天田神社や獅子窟寺、緑豊かな環境に包まれて、元気に遊んでいます。
 2020年4月民営化となり、公私連携・幼保連携型認定こども園としてスタートしました。2021年3月に新園舎が完成。4月より定員も210名となり、一回り大きなこども園となって新たなスタートを切ります。一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きたいと思います。これまでと変わることなく地域に根差すこども園として、いろいろな役割を担い、これまで以上に親しまれるこども園を目指しています。 
 森新池 改修記念碑
當宮の口池は明治38年向井直勝氏の発起によりて創設せらる、氏の没後
昭和9年拡張工事を起工成るに及び村民氏の徳を追慕しこの碑を建つ 昭和9年5月
城戸(きど)・北城戸(きたきど)

  森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。 
森村の地名  小字名
 
森の地名の由来

 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。

 それによると延久年間(1069~1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。

 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。
 この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。
 森村 燈籠の辻
 
灯篭の辻 かえる石
 森の中心部に大きな石燈篭があり、石清水八幡神と春日大明神の燈篭である。この灯篭の南隣にかえる石(陽石)があり安土桃山時代(1585年頃)の昔話がある。
 「河内郡交野の森村の城戸という処に住む由松とお種と言う仲の良い働き者の若夫婦が僅かな田畑を耕し暮らしていたが庄屋さんから郡代の命令で大和の国の郡山城の普請に由松と村人数名が郡山城に出向いた。 郡山城の石垣普請で3ヶ月ほどで同行の他の者は帰ったが由松から音信のない日々が続きお種は毎日夫の帰りを待ち石燈篭の傍で立っていたが、何時しかお種が見えなくなった。村人が探したがその場所に大和から帰りの道を向く蛙の様な石があるのに気付き、お種が待ちきれず石になったとの昔話」多分この昔話より「森男に私市女」と云われる様になったと推測される。

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著)

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
 時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。

 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から200年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。
 
石清水八幡宮と彫ってある石灯籠
 
春日大明神と天照皇大御神の石燈籠

大灯篭の足元にくぼみ石が!
「くぼみ石」の由来を聞く。
 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。
 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と、亡くなられた奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。
 
 
 
 
二月堂石燈籠
 
 
 水 分 地 蔵
 
 
 
円通山 須弥寺
 ⑦須弥寺と観音堂      ※郷土史かるた 「 (や) 八幡の神主 村の名に」

 浄土宗西山派で本尊は阿弥陀如来坐像。交野で最も古い寺の一つで平安時代初期の弘法大使の創建とされている。境内から奈良時代の瓦が発見され既にこの地に奈良時代の寺が有ったと思われる。
・須弥寺の東側に観音堂があり石清水八幡宮警固観音菩薩が祀られている。宇佐八幡から石清水八幡宮に勧請したおり(861年)、森村(むくね村)が火長神人としてお供したとの伝説があり、警固観音を貞観3年(862年)にこの地に安置された。その後堂宇が荒廃し観音像も紛失したが延久年間(1070年頃)石清水八幡宮の「森」神官が当地向井山(常徳庵?)に隠棲した際、石清水の宝殿より観音を迎えて再興、傍らに真言宗石清水寺を建立されその功績を称え「むくね村」が神官の名を戴き「森村」となったと伝わる。
 森地区は現在も観音講としてこの観音さんを祀り石清水八幡宮火長神人として熱心に勤めている。
 西山浄土宗のお寺である。開山は弘法大師(平安時代)と伝えられていたが、発掘調査で奈良時代の瓦が出土、従って奈良時代に出来ていたことが分かりました。後に石清水八幡宮から観音像を迎えて石清水と合し鎌倉時代には非常に栄えたと伝えられている。八幡宮の神官、森宮内少輔がこの村に隠棲し八幡宮から観音像を迎えて栄えたことから森の名前をとって、無垢根村から森村に呼び名を変えたと言われる。
 最近の研究で奈良の松永久秀が私部城を攻めるにあたって、須弥寺を拠点にしたことが分かってきました。
 
 
 
 
 
須弥寺の「参拝のしおり」
 
 
 須弥寺遺跡
 
 
 
 観音堂と鰐口(鐘)
 須弥寺の境内に石清水警固観音菩薩像を祀る観音堂があり、森村の護り観音として平安時代より手厚く崇拝され、今日も石清水八幡宮の氏子(火長神人)として誇り有る文化伝統行事を継承されている。
 お堂の向拝に鰐口がある。鰐口(鐘):昔倉治村で悪病が流行したが、森村には病気がはやらなかった。それは観音堂に祭られていた仏像「脱衣婆」の御仏力と噂され、倉治の村人はこの「脱衣婆」を借りて拝むことになり持ち出し、寺村の一本松まで来たところで急に雷雨が発生、これは仏の祟りと持ち出した愚かさを詫びて鰐口を上げた。鰐口には倉治村と刻まれている(江戸時代の伝説)。
 観音堂 「石清水八幡警固観世音菩薩」が祀られている
 
 
 
 
須弥寺観音堂前にて記念撮影
 
古代人崇拝の 陽石
 
  

この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。
子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています
 
 
 
須弥寺の 鐘楼
 
 
 
 
 
 
須弥寺の西国三十三観音
 元々はこの山(堂山)の尾根筋の山道に有ったものを宅地開発時に、墓から鐘楼堂への参道に移設され、西国33ヶ所の石仏(江戸前期?)が全て残っている貴重な遺産。この堂山は山地保全会の活動場所でもあり、紅葉と桜の綺麗な里山(参道)を目指し、交野八景になればと夢を描いている。鐘楼堂の傍に古代人が崇拝した陽石があり、森村の原点でもある場所。
 
 
 
 
 六体地蔵尊と一石三尊像
 
地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道を表す六体地蔵
 
釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊像
  亡くなった人を救う地蔵の能力を、より具体的に表現しているのが、墓地の入口などにまつられている六体地蔵です。輪廻(りねん)する六つの世界、地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道のすべてに分身して、その世界の衆生を救うのが六地蔵です。
 亡くなった人が六道のどこにいようと、地蔵菩薩がそれぞれに合った姿で出現して救ってくれる、こんな願いが六地蔵にはこめられているのです。また、六体地蔵は墓を見守ってくれている。
 参る前には「いつもお世話になっています」帰る時は「またお願いします」とお礼を言うのが作法です。

「おどんがうつ死んだら みちばたいける 通る人ごち花いける」
これは貧しい乙女の歌う五木の子守唄、人の心をしぼる悲しい物語が秘められているのでしょう。
野の仏の多様性はその時々の人の心の多様性をあらわしているのでしょう。

地蔵さんがずっと人間を救って下さっている。
 とするとお釈迦が亡くなったあと、ずっと現在までも地蔵さんが人々を救ういちばん近い存在なのですから地蔵像の多さの理由もわかります。その能力は虚空蔵の蔵と同じで無限です。
 地蔵の地は大地。大地はすべての生命を育む源ですから、地蔵菩薩の巧徳もあらゆるものをカバーしてくれているのです。
 リリーフ役を示すものとして、釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊を構成する例もあります。
 また、パワーの具体的な例として「地蔵の十益」を説く経典があり、菩薩の身で修業に励む地蔵の立てた誓いのことです。この中には土地豊穣とか現存益寿(長生きを保証すると言うような意味)など主として現世の利益があげられています。
 「お地蔵さんにお願いしたら何でも聞き入れてもらえる」という面では、現世利益のスーパースターである観音菩薩とかなり類似しています。
   (平田政信さんの「今日の話はなんでっか」を参照)

森墓地の迎え地蔵
 堂の池
 ⑩堂の池:
森地区の重要な灌漑池でありこの水は江戸時代に墓谷からの水を嫌い小久保川の上流の清水を山沿いに村人総出で約2kmの水路「新川」を設置され、現在もこの水路は森水利組合で整備し活用されている。堂の池周辺は桜の名所にすべく小学生による桜の植樹で整備を続けている。
 
堂の池
 
新川
新川(堂の池への灌漑水路)
  江戸時代に清水ガ谷の清水を灌漑池「堂の池」へ引くための用水路として村人が総出で各個人山に水路を建設した。水平度を見る為に松明を灯し麓から目測で高さを計測し工事をしたと言い伝えがあり、今も活用されている。
 堂の池の近くに墓谷の水脈があるがこの水を嫌い、清水を引いたのであろう。
 河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり堂の池に入る。「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか」この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。
 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」
 大門酒造  酒屋半左エ門 無垢根亭
 ⑪大門酒造:     ※郷土史かるた 「(さ) 酒づくりに 役人の監督」

文政9年(1826年)創業で森の風土・水・文化をコンセプトにした交野で最も古い伝統ある酒蔵。昭和時代は「菊養老」現在は「利休梅」「DAIMON」と約200年の伝統に磨きを加え、国内外の愛飲者が多い酒蔵。今回は大門康剛6代目蔵元の案内で新酒の香る酒蔵見学をさせて頂く。
 大門酒造株式会社 Daimon Brewery
 
 

大門康剛6代目蔵元より醸造について詳しくご説明を受けました
 
 酒造りの新しい時代へ
杜氏蔵人の手による伝統的な酒造りが、時代の流れと共に変わって参りました。
経験と勘の酒造りから分析を通した発酵制御へと舵を切りながら、手造りの心を忘れずに丁寧に一つひとつの工程を仕上げてゆく。麹菌と酵母菌の織り成す発酵という生命の神秘に心ときめかせ、醸しています。

大門酒造で造るすべての規格、グレードの酒に対して、よく磨いた米で突破精麹(つきはぜこうじ)と呼ばれる麹を造り低温でゆっくり発酵させる吟醸造りをしています。
正確な吸水歩合の良い蒸米を得る為、10Kg単位による洗米と限定吸水で厳格な原料処理を行い安定した温度湿度のコントロールよる麹造り、穏やかな軟水で育む低温長期発酵によるモロミの育成を目指しています。

それぞれの工程での温度、湿度操作には無数の選択肢があります。
酵母菌、麹菌の生命を最大限に生かし発揮できるよう、あらゆる情報を数値化、分析管理し最適な糖化・溶解を進めることで最高な低温長期醪醗酵を行い、酒造りに落とし込んでいます。

      (大門酒造株式会社のホームページを参照)
 
 
 
 無垢根亭(むくねてい)  酒蔵の二階に設けた小さな酒亭
  お客様各位
   江戸時代から続く酒蔵の中にひっそりと佇むレストラン
   無垢根亭がリニューアルオープンしております。
   ゆっくりとした空間で季節ごとに変わる土鍋料理をお楽しみください
 
 無垢根亭  ご予約お待ちしております。
    予告   令和6年6月の歴史健康 ウォークで案内します
 
 森古墳群と砂防堰堤の探索
 雷塚古墳は、森古墳群の中にある最大級の前方後円墳。古墳時代前期(4世紀)の築造と考えられ、卑弥呼の墓といわれる奈良の桜井・箸墓 古墳と同じくバチ型の古墳である。全長106m。

 この古墳発見の契機は小学生だった。化石探しに夢中になっていた小学生3 人が交野市森地区の山中で土器のかけらを発見したのである。とりあえずの位置確認調査が行われ、昭和57年、向井山、卵塔、 大知谷、ゴミケ谷にかけて五つの前方後円墳が発見された。その中でも最大の大きさを持つのが雷塚古墳だが、周囲に陪塚と見 られる円墳も見つかっている。

 少年達が発見した土器は、二重口縁を持つ壺型土器の破片であった。この土器の形式は古く、まだ円筒埴輪が出現する前の時期である。これから古墳時代も前期に近いと推定されているが、本格的な発掘調査はまだ実施されていない。森古墳群は、前方後円墳4基、円墳1基から構成されているが、土器発見地点から更に山奥へ600m進んだ標高143mか ら155mの場所で、雷塚古墳が発見された。
 全長106m、後円部経56m、前方部先端幅32m、くびれ部幅22m、尾根の地形を巧みに利用した前方部2段、後円部3段の段築が形成されている。特に後円部に比べて前方部の幅が小さく、高さが極端に低い点、前方部が三味線のバチのように開いている点、 墳丘部に埴輪や葺き石などが見られない点などが、前期古墳の中でもさらに古い部類に属するのではないかと見られている。
 
 



最後までご覧いただき有難うございました!

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