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| 日本の道を代表する幹線道路・東海道(旧東海道)は、徳川家康が拡充・整備を行った街道で、五街道の一つです。道としては、律令時代(7〜 10世紀)から東西交通の要として存在していました。家康の当初の目的は、軍用道路としてのものでしたが、次第に商業・産業・旅の道へと変化していきました。 |
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三条駅で下車、スタートは三条駅地上出口前にある駅伝発祥の地碑からです。
本日案内していただく森岡さん(古文化同好会)より、本日の行程及び注意事項について、京の町は紅葉が始まりどこも混雑しています、信号を渡るときは無理をしないで余裕を持って渡るよう、全員が渡るのを確認してから出発します。等の説明があり出発です。 |
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日本最初の駅伝は大正6年に読売新聞社が主催した東海道駅伝徒歩競争とされている。
スタート地点は京都三条大橋、ゴールは東京上野不忍池で、5 0 8km2 3区間を3日間かけて走るレースでした。この碑は、駅伝発祥から100年を迎えたことを記念して建立された。 |
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豊臣秀吉の名により増田長盛が奉行となって、天正18年(1590)正月に日本で初めての石橋として架けられたと書かれている。
石柱はその時の橋脚に使われたと考えられ、天二十七年 津国御影 七月吉日と刻まれている。
高札場とは幕府が決めて法度や掟書などのを本の板に書き、人目を引くように高く掲げる場です。 |
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| 遭難の碑が建っていますが、実際に遭難(襲われた)した場所は、この地より北ヘー町の場所です。同時期に襲われたのではなく、佐久間が先で、大村が後です。 |
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| 江戸時代後期の戯作者・十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくる、人気者の二人の像です。物語の中では三条大橋に近い宿屋に泊まった際、ハシゴを買わされるという、笑い話のような愉快な話が出てきます。 |
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| 御所の方角を向き、御所におわす天皇に向かって望拝する姿の像ですが、武士が土下座をしているような姿から、通称「上下座」として知られており待ち合わせ場所としてよくつかわれているようです。彦九郎は、明和元年(1764)18歳の時、学舎を志し遺書を残して家出し、はるばる京都にやつて来たそうです。 |
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| 平安京造営の際、桓武天皇が大内裏鎮護のため都の四方に祭祀した大将軍神社の東南方角の一つ。特にこの地は京に入る七日の一つ(粟田口)の要地に当たるため、邪霊の侵入を防ぐ意を以って重要視されてきました。 |
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| 京都における現存最古の道標。碑文は、【北】三条通白川橋、【東】是よりひだりちおんゐんぎおん きよ水みち、【南】延宝六成午二月吉日、京都為無案内旅人立之
施主 為二世安楽。 |
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| 織田信長を本能寺で討った後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、山科区の小栗栖の竹藪で土民(農民)の襲撃を受け打たれ自刃したとされる。その首を介錯した者がこの地に埋葬したと伝わる。 |
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| 天台宗門跡青蓮院の鎮守社.主祭神はスサノオノミコトとオオナムチノミコト。厄除け,病除け、旅行安全祈願に訪れる人も多い。本殿と幣殿は江戸時代の複合社殿として貴重とされ、元禄16年(1703)に建てられた拝殿と合わせて京都市指定有形文化財に指定されている。10月には「粟田祭」が行われ、祗園祭の山鉾の現形と言われる「剣鉾」が巡行する。 |
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| 疎水上流の蹴上船溜と下流の南禅寺船溜を結んだ全長約582mの傾斜鉄道で、建設当時世界最長でした。約36mの高低差を克服するために舟を台車に乗せ、ケーブルカーと同じ原理で運び、舟は貨物の積み下ろしせずに、高低差を乗り切ることができる。現在は、レールが保存され、自由に歩くことが出来ます。 |
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| 蹴上インクラインの下を横断するためのトンネル.らせん状にレンガが積まれ、渦を巻いているように見える。北垣邦道(第3代京都府知事)の揮ごうによる「陽気発処(ようきはっするところ)」、「雄観奇想(ゆうかんきそう)」の扁額がある。 |
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| 南禅寺境内にある琵琶湖疎水の水路橋です。境内の景観に配慮し、田辺朔郎が設計・デザインを行った。レンガ、花商岩のアーチ型の橋脚です。有名な観光スポットとして、多くの観光客が訪れています。又、映画・テレビなどの撮影もよく行われている。 |
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(昼食場所) |
天台宗門琵琶湖疎水完成に重要な役割を果たした二人の功績を讃えて設置されました。北垣は第3代京都府知事で、天皇が東京に遷って京都が衰退していた。知事着任後、琵琶湖の水で京都に工業を進行させようと疎水事業を立案。
日邊は22歳の若さで主任技師に抜櫂され、琵琶湖疎水や日本初の水力発電所建設を指揮し完成させた。 |

田辺朔郎博士像 |
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| 古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には粟圏口(日岡)刑場として、傑、獄門,火刑が行われた。刑場を臨む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によつて何基もの供養塔が建てられている。明治5年には、刑場跡地の後の山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間でしたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあった。 |
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| 京都三条大橋・大津間の三里(約12km)の道には、江州米(近江米)などの物資を運送する牛車の運行を楽にするために、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。この石が車石と呼ばれており、溝は牛車の頻繁な運行によって擦り削られてできたものです。 |
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しかしながら高瀬川で寄り道しすぎた為、以降の行程を変更し、紅葉の南禅寺(非常に混雑していた)、水路閣、粟田口刑場跡、日ノ岡峠(車石)から旧東海道「日ノ岡の峠道」(道路幅員が2間から2.5間[3.6m〜4.5m]の昔ながらの道路)を次回に回し、そのまま143号線を下り、地下鉄東西線「御陵(みささぎ)駅」より帰宅の途に就きました。
東海道(府道37号線・143号線)沿線は見どころ満点で、紅葉もみごろでした。 |
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旧東海道へは右の道路を進む |

地下鉄御陵駅をゴールとした |
| 参加の皆様、お疲れ様でした! |