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2022年 新春恒例の初歩き
令和4年天田神社~須弥寺初詣
=森古墳群と砂防堰堤=

 明けましておめでとう御座います!今年は寅年です。
1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きで、
天田神社と須弥寺周辺の史跡を訪ねて来ました。


日時:令和4年1月2日(日)  午前10時集合
集合場所 京阪・河内森駅
  21名(会員13名)参加
案内:向井 克喜氏(交野古文化同好会)
行程 : 京阪河内森駅10時集合 → 天田神社 → 川東神社→三又の堰
あまだのみやちどりこども園 → 森の城戸 →蛙石 → 灯篭の辻 →
二月堂石燈籠 → 卵塔 → 森古墳群 → 雷塚古墳【1号墳】 →
ナガラ谷土石流跡 → 今池 → 新設の新川 → ナガラ谷小池群 →
砂防堰堤 → むらやま → 須弥寺・六体地蔵と3仏 →河内33観音
→ 鐘楼 → 陽石 → 観音像と鰐口(鐘)  解散 12時過ぎ徒歩約3。5km
 2022年1/2(日)、天候晴れ。今年の正月は年末より急激に冷え込みましたが、初歩きの当日はさわやかに晴れ渡り大変穏やかな天候の中、ゆっくりと歩くことが出来ました。早朝から河内森駅には、「明けましておめでとうございます」「今年も昨年同様どうぞよろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら沢山の元気なメンバーが集合された。

 午前10時、皆さんが揃った処で、村田会長の新年の挨拶の後、向井克喜氏の案内で、河内森駅から天田神社へ初詣。先ずは出発に先立ち、崎山竜男氏の指導で正月休みに弛んだ身体を十分に解してから元気にサァー出発。
 森村へ、燈籠の辻・東大寺の二月堂などを経て、森古墳群と新設の砂防堰堤の探索登山に出掛けました。当日は、森区山地保全会の皆様のお陰で山道が綺麗に整備されており、皆さん安全に事故もなく歩くことが出来ました。感謝!感謝です!最後は須弥寺で初詣、新春の鐘撞きも出来たし初歩きに相応しいコースを探訪してきました。

 参加者は元気な総勢21名(会員13名)の皆さん、新春の初歩きと初詣、想定外の山登りで高低差のあるコースでしたが、皆さん元気に初詣と史跡巡りを楽しまれたようです。
 「穏やかで天気も良く、森の山へ登るのは初めてでしたが、気持ちが良かったです。こんな近くの山に歴史と宝物が埋まっているなんてびっくりしました。天田神社の初詣もできて良い正月を迎えられ幸せです」と感想を頂戴しました。
 
 今回は、地元の森区山地保全会で平成10年より永年活動されている、向井克喜様に大変お世話になりました。事前に山道などの整備もして頂き、綿密な下見に万全を期していただき、大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。
 また、毛利信二様には、記念撮影など大変お世話になりました。
  記して感謝申し上げます。
 
天田神社にて新年の記念撮影 毛利さんにお願いしました。深謝!
 交野古文化同好会・恒例初歩きMAP

交野古文化同好会・恒例初歩きレジメ
令和4年 天田神社・須弥寺初詣と周辺めぐり
集合場所:京阪・河内森駅 午前10時集合










 

京阪河内森駅付近  出発
 
村田会長と向井氏の挨拶
 天田神社で初詣
  天田神社は私市地区と森地区の境界、私市側にあり、両地区の氏神となっていました。この付近は、弥生時代の集落跡が見つかっており、交野でも古くから人が住んでいたところでした。「交野町史」によれば、「このあたりは川水があって、稲のよく実る甘野または甘田の名があった。まことにありがたい田だとの感謝の祈りを込めて、田の上流に宮を建てて、田の神を祀ったのが甘田の宮のはじまり」とされています。境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、付近の山麓からは肩野物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。              【祭神 本社 住吉四神】
     表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)
     底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと

 
 
 

天田神社境内で、崎山さんのご指導のもと身体を十分に解してから出発しました。
 川東神社
  創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。
ご祭神 :品陀別命(八幡さま)森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。
  ホンダワケ命は「応神天皇」や「八幡神」の名で知られています。戦前までは武神として崇められていましたが、戦後から平和観念が浸透していくなかで、教育や縁結びなど日常生活に根ざした諸願成就の神さまへと変化していきます。「八幡さま」を祀る神社は全国に約4万ほどあり、日本中のどこへ行っても出会える神さまです。

 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。

 当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。
 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。
 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在)
また、この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。
 
 
 【あまだのみやちどりこども園】
  幼保連携型認定こども園 【あまだのみやちどりこども園】  (森新池がこども園へ)
 交野市の公私連携・幼保連携型認定こども園です。こどもたち一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きます。地域に根差すこども園として、これまで以上に親しまれる保育園を目指します。京阪交野線・河内森駅から徒歩5分の駅近です。子どもたちは、天田神社や獅子窟寺、緑豊かな環境に包まれて、元気に遊んでいます。
 2020年4月民営化となり、公私連携・幼保連携型認定こども園としてスタートしました。2021年3月に新園舎が完成。4月より定員も210名となり、一回り大きなこども園となって新たなスタートを切ります。一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きたいと思います。これまでと変わることなく地域に根差すこども園として、いろいろな役割を担い、これまで以上に親しまれるこども園を目指しています。 
 森新池 改修記念碑
當宮の口池は明治38年向井直勝氏の発起によりて創設せらる、氏の没後
昭和9年拡張工事を起工成るに及び村民氏の徳を追慕しこの碑を建つ 昭和9年5月
城戸(きど)・北城戸(きたきど)

  森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。 
森村の地名  小字名
 
森の地名の由来

 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。

 それによると延久年間(1069~1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。

 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。
 この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。
 森村 燈籠の辻
 
灯篭の辻 かえる石

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著)

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
 時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。

 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から200年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。
 
石清水八幡宮と彫ってある石灯籠
 
春日大明神と天照皇大御神の石燈籠

大灯篭の足元にくぼみ石が!
「くぼみ石」の由来を聞く。
 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。
 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と、亡くなられた奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。
二月堂石燈籠
広大な土地が宅地造成中(灯篭の辻の東側)
 
 
 
 
 森古墳群と砂防堰堤の探索
 雷塚古墳は、森古墳群の中にある最大級の前方後円墳。古墳時代前期(4世紀)の築造と考えられ、卑弥呼の墓といわれる奈良の桜井・箸墓 古墳と同じくバチ型の古墳である。全長106m。

 この古墳発見の契機は小学生だった。化石探しに夢中になっていた小学生3 人が交野市森地区の山中で土器のかけらを発見したのである。とりあえずの位置確認調査が行われ、昭和57年、向井山、卵塔、 大知谷、ゴミケ谷にかけて五つの前方後円墳が発見された。その中でも最大の大きさを持つのが雷塚古墳だが、周囲に陪塚と見 られる円墳も見つかっている。

 少年達が発見した土器は、二重口縁を持つ壺型土器の破片であった。この土器の形式は古く、まだ円筒埴輪が出現する前の時期である。これから古墳時代も前期に近いと推定されているが、本格的な発掘調査はまだ実施されていない。森古墳群は、前方後円墳4基、円墳1基から構成されているが、土器発見地点から更に山奥へ600m進んだ標高143mか ら155mの場所で、雷塚古墳が発見された。
 全長106m、後円部経56m、前方部先端幅32m、くびれ部幅22m、尾根の地形を巧みに利用した前方部2段、後円部3段の段築が形成されている。特に後円部に比べて前方部の幅が小さく、高さが極端に低い点、前方部が三味線のバチのように開いている点、 墳丘部に埴輪や葺き石などが見られない点などが、前期古墳の中でもさらに古い部類に属するのではないかと見られている。
 
 
 
 
 「卵塔」付近
 昔この下の平地に常徳寺と言うお寺があり、その僧侶の墓があった場所と伝説がある。卵塔の上部に平坦な場所がありこの辺りを俗に「首つり谷」とも言われ、大昔の墓跡が小字になったのかもしれない。この場所の東側や南側に森古墳群(雷塚、山神塚、鍋塚)があり、不気味な伝説の多い場所でもある。
 
 
新川(堂の池への灌漑水路)
  江戸時代に清水ガ谷の清水を灌漑池「堂の池」へ引くための用水路として村人が総出で各個人山に水路を建設した。水平度を見る為に松明を灯し麓から目測で高さを計測し工事をしたと言い伝えがあり、今も活用されている。
 堂の池の近くに墓谷の水脈があるがこの水を嫌い、清水を引いたのであろう。
 河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり堂の池に入る。「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか」この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。
 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」
 
 
 森古墳群 1号墳(雷塚古墳)
  森1号古墳(3世紀後半の前方後円墳、奈良の箸墓古墳と同期)
 この山を雷塚と言われ周辺には6基の古墳があり、その最大の古墳で全長106mあり、前期古墳時代で日本最古の古墳の一つと言われている。 埋葬者は不明であるが当地の豪族肩野物部氏との説もある(交野市文化財)
 
 
右側が後円部で、左が前方部になります。
 
 
 ナラガ谷土石流跡
 
 
 
 
 
 砂防堰堤
 平成26年8月9日の集中豪雨でこの付近の山が崩落し下流部の小池や住居地迄土石流が発生、その応急修理として砂防堰堤が設置された。 平成30年度より下流部に大掛かりな砂防ダムの工事(大阪府)が始まるが、その後のこの谷筋(ナラガ谷)の景観維持が課題となる。
 
 
 今 池
 ナラガ谷小池群の最上部にありこの池周辺で山地保全会発足時から桜の植樹活動をスタートした当会の活動の原点の場所であり今も整備を継続中である。
 
 
 
 ナガラ谷小池群
 小池群は全て個人所有の池であり、この谷筋は地質より昔から水害の多い地区であり灌漑用だけではなく砂防用としても重要な役割を担っていた。小池群の下流に小字名で「関留」があり、土砂を最後に留める場所と思われる。
 
 
 
新しく作られた新川、左手下はナガラ谷小池群
 
新設の砂防堰堤工事の為、埋まってしまった新川
 新設された「砂防堰堤」
 淀川水系天野川支川第4支系渓砂防事業 砂防堰堤
事業の目的・概要
■平成25年(2013)9月に交野市森南地区で天野川支川第四支渓の土砂が台風18号の降雨により住宅地に流出するという土砂災害が発生しました。
不安定土砂が堆積するとともに渓岸・渓床の浸食が著しいことから、土石流の発生による災害より府民の生命・財産を守るため砂防堰堤を整備し人家72戸、JR片町線を保全する。
砂防堰堤1基 堤高 14.5m
全体事業費 4億円(国2億円、府2億円)
        内訳(調査費0.3億円、用地費0.3億円 工事費3.4億円)
■令和3年(2021)1月竣工 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 むらやま
 森財産区の山で昔は茶畑や果物畑として活用されていたが近年放置され 荒れはてた。平成10年頃より財産区と山地保全会が連携して整備をし、 小学卒業生に桜を植樹してもらい綺麗な里山を次代に引き継ぐ場でもある。
 
 
円通山 須弥寺
 西山浄土宗のお寺である。開山は弘法大師(平安時代)と伝えられていたが、発掘調査で奈良時代の瓦が出土、従って奈良時代に出来ていたことが分かりました。後に石清水八幡宮から観音像を迎えて石清水と合し鎌倉時代には非常に栄えたと伝えられている。八幡宮の神官、森宮内少輔がこの村に隠棲し八幡宮から観音像を迎えて栄えたことから森の名前をとって、無垢根村から森村に呼び名を変えたと言われる。
 最近の研究で奈良の松永久秀が私部城を攻めるにあたって、須弥寺を拠点にしたことが分かってきました。
 六体地蔵尊と一石三尊像
 
地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道を表す六体地蔵
 
釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊像
  亡くなった人を救う地蔵の能力を、より具体的に表現しているのが、墓地の入口などにまつられている六体地蔵です。輪廻(りねん)する六つの世界、地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道のすべてに分身して、その世界の衆生を救うのが六地蔵です。
 亡くなった人が六道のどこにいようと、地蔵菩薩がそれぞれに合った姿で出現して救ってくれる、こんな願いが六地蔵にはこめられているのです。また、六体地蔵は墓を見守ってくれている。
 参る前には「いつもお世話になっています」帰る時は「またお願いします」とお礼を言うのが作法です。

「おどんがうつ死んだら みちばたいける 通る人ごち花いける」
これは貧しい乙女の歌う五木の子守唄、人の心をしぼる悲しい物語が秘められているのでしょう。
野の仏の多様性はその時々の人の心の多様性をあらわしているのでしょう。

地蔵さんがずっと人間を救って下さっている。
 とするとお釈迦が亡くなったあと、ずっと現在までも地蔵さんが人々を救ういちばん近い存在なのですから地蔵像の多さの理由もわかります。その能力は虚空蔵の蔵と同じで無限です。
 地蔵の地は大地。大地はすべての生命を育む源ですから、地蔵菩薩の巧徳もあらゆるものをカバーしてくれているのです。
 リリーフ役を示すものとして、釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊を構成する例もあります。
 また、パワーの具体的な例として「地蔵の十益」を説く経典があり、菩薩の身で修業に励む地蔵の立てた誓いのことです。この中には土地豊穣とか現存益寿(長生きを保証すると言うような意味)など主として現世の利益があげられています。
 「お地蔵さんにお願いしたら何でも聞き入れてもらえる」という面では、現世利益のスーパースターである観音菩薩とかなり類似しています。
   (平田政信さんの「今日の話はなんでっか」を参照)
 
須弥寺の西国三十三観音
 元々はこの山(堂山)の尾根筋の山道に有ったものを宅地開発時に、墓から鐘楼堂への参道に移設され、西国33ヶ所の石仏(江戸前期?)が全て残っている貴重な遺産。この堂山は山地保全会の活動場所でもあり、紅葉と桜の綺麗な里山(参道)を目指し、交野 八景になればと夢を描いている。鐘楼堂の傍に古代人が崇拝した陽石があり、森村の原点でもある場所。
 
 
須弥寺の 鐘楼
 皆さん、次から次へと鐘を撞くと良い音が響き渡りました!
 
 
 
 
 
古代人崇拝の 陽石
 
  

この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。
子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています
 観音堂と鰐口(鐘)
 須弥寺の境内に石清水警固観音菩薩像を祀る観音堂があり、森村の護り観音として平安時代より手厚く崇拝され、今日も石清水八幡宮の氏子(火長神人)として誇り有る文化伝統行事を継承されている。
 お堂の向拝に鰐口がある。鰐口(鐘):昔倉治村で悪病が流行したが、森村には病気がはやらなかった。それは観音堂に祭られていた仏像「脱衣婆」の御仏力と噂され、倉治の村人はこの「脱衣婆」を借りて拝むことになり持ち出し、寺村の一本松まで来たところで急に雷雨が発生、これは仏の祟りと持ち出した愚かさを詫びて鰐口を上げた。鰐口には倉治村と刻まれている(江戸時代の伝説)。
 観音堂 「石清水八幡警固観世音菩薩」が祀られている
 
 
 
1月2日当日は閉じておりましたが、画像を拝んでください! 
 
 
須弥寺観音堂前にて記念撮影
 
須弥寺の「参拝のしおり」
 
 
 須弥寺遺跡
 
 
初歩きご参加の皆さん、大変お疲れ様でした!
 最後までご覧いただき有難うございました!

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