ホームページに戻る 明けましておめでとう御座います!今年は卯年です。 |
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日時:令和5年1月2日(月) 午前10時集合 集合場所 京阪・河内森駅前 京阪河内森駅→天田神社・川東神社→一条通→安産地蔵→仁王門跡→ 国宝・薬師如来坐像→獅子窟岩→王の墓→六地蔵・滝が広の墓 12時30分解散 参加21名(会員15名) 案内: 村田義朗氏(会長) |
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2023年1/2(月)、天候くもり一時晴れ(小雨ぱらつく)。参加者21人。 年末から穏やかな良い天候が続き、正月三が日は晴れるでしょうとの予報通り、幸い風もなく暖かい初詣日和となり、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年もよろしくお願いします」と、口々に挨拶をしているところへ続々と集合され、総勢21名の元気な皆さんが顔を揃えられた。案内役の村田会長の新年の挨拶のあと、天田神社で初詣、全員で記念撮影。 古代天野川地方条里制・一条通を案内後、獅子窟寺へ向かって6丁よりゆっくっりと上り始めて、3丁の丁石付近で、皆さんも良くご存知の鶴園さんと出会い新年の挨拶もそこそこに、昨年4月の桜の頃、王の墓の手前の六地蔵で鶴園さんが撮られた写真に2つの顔らしきものが写っているのを見せて貰い(心霊写真)、大騒ぎとなりました。その後、安産地蔵・仁王門跡を通り、国宝薬師如来を拝観後、獅子の岩屋を見学。 時間も既に12時30分となりここで解散。当日は2時間30分のウォークとなりました。 解散後、6名の参加者から折角の機会だからと王の墓も見たいとの希望があり、総勢8名で「王の墓」「六地蔵」「無縁墓の墓石」「蔵骨器」「椿地蔵」を案内後、森の村への近道を通り1時過ぎ解散しました。 当日の写真撮影などは、会員の毛利信二様にお世話になりました。心から感謝申し上げます。 (参考資料) 交野市史及び考古編、交野町史、ふるさと交野を歩く(山の編)、その他WEB検索資料 |
元気な皆さんが勢揃い!天田神社で記念撮影 |
天田の宮は田の神まつる 「交野郷土史かるた」より |
天田神社は私市、森の氏神社で住吉四神を祀る。 古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので、 甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。 この甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が当天田神社の起源と言われている。 境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、付近の山麓からは 肩野物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、 当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。 祭神 本社 表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、 底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと |
案内レジメ |
案内役の村田会長の新年の挨拶 |
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【天田神社】 創建:年代不詳だが交野で稲作が始まった弥生時代頃に田の神をお祭りするするために創建された神社。 裏山に物部氏のものと見られる古墳群があり、物部氏の祖先を田の神様として祭っていた。 ご祭神:住吉明神(四神)物部氏との関わり。私市・森の村社であり、元は寺村の住吉神社も合祀していた。 |
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御神木 |
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境内の広場に古い社が北向きに建てられていたそうである。 |
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【川東神社】 創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。 ご祭神 :品陀別命(八幡さま) 森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。 当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在) 又この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。 |
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寿永寺元晧 (江戸寿永寺 住職) |
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川東神社の鳥居 |
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★神社の鳥居はどうしてその名前に鳥と居がつき、あの形なんだろう。 神社に行くとその前にたいていあるのが「鳥居」です。このような形の鳥居と呼ばれるものはなんのためにあり、どうしてこんな形になったのか、またどうしてこれに鳥居と名前がついたのか。鳥のような形はしていないが、どこから鳥と関係しているのか。このような疑問が湧いてきます。神社の前の鳥居は「ここからは神域です」との印、また「神様の通り道」とも言われています。 |
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鳥居には、次の二つの形が殆どですが、中には、三輪鳥居や三つ鳥居などもあります。 【明神鳥居(みょうじん)】 ・明神系:神明に比べて「明神」系は、仏教建築の影響があり、やや曲線的です。横木は、笠木の下に島木が添えられていて、両端が反っているもの(反増=そりまし)もあります。柱も地面に垂直ではなく、やや斜めに立ち、根元に行くほど太くなっているようになっています(ころび)。安芸の宮島の厳島神社、奈良の春日大社や、京都・平安神宮、石清水八幡宮が「明神」系になります。 明神鳥居(みょうじんとりい)は上の横棒が上にそっていて、下の棒が柱の外に出ています。縦柱は斜めです。OO明神というような神社などでよくみられます。漆をぬることが多くみられます。 【神明鳥居(しんめいとりい)】 ・神明系:「神明」系は、シンプルな形で横木には島木がなく、笠木と貫の二本で、縦柱もまっすぐ垂直に立っています。伊勢神宮や靖国神社、熱田神宮、鹿島神宮などが、この「神明」系の鳥居です。 |
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お宮を出て、左に上ってゆくと坂口に出る。井上姓が多く、長慶天皇と関係のある方々だと聞く。獅子窟寺の上り口に、「獅子窟律寺」「南無阿弥陀仏」「従是六丁」などと刻まれた三つの碑が建っている。 中央の名号碑から寛保元年(1741)酉8月日 坂口久兵衛と銘記されているそうです。 |
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河内名所図会 享和元年(1801) 描かれてる絵図を丹念に見てゆくと、往時のことが細かく解ってくる貴重な資料です。 |
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獅子窟寺へ向かって6丁よりゆっくっりと上り始めて、3丁の丁石付近で、皆さんも良くご存知の鶴園さんと出会い新年の挨拶もそこそこに、昨年4月の桜の頃、王の墓の手前の六地蔵で鶴園さんが撮られた写真に2つの顔らしきものが写っているのを見せて貰い(心霊写真)、大騒ぎとなりました。 | ||||||||||||||
京阪電車・私市駅、河内森駅、またはJR河内磐船駅よりそれぞれ徒歩約40分。
普賢山獅子窟寺といい、真言宗高野山派に属する。 |
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獅子窟寺の上り口よりゆっくりと登り始めると、獅子窟寺の参道の中ほどの山側に、室町時代の作と思われる丈52センチの首なし地蔵がおられる。私市の老婦人たちは、この地蔵を「安産地蔵」と呼んでいる。 |
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さらに上ると、左右に「聖武天皇勅願、行基菩薩開創、役行者、弘法大師、修行旧蹟」「当山禁 殺生 制酒辛」と刻まれた石柱が立っている。昔は、ここに山門があり、牛臥石の上を越してお参りした。参道は平らで広い、ここまで登るとほっと一息できる。 昔、両側には松並木があったが、昭和9年(1934)の第1室戸台風で倒れてしまった。参道の奥まった所の石組みの中央に仁王門跡の立札が立っている。仁王さんは今は本堂におられる。右に折れ、少し崩れた道を行くと百四つ(元は百八つ)の石段がある。 亀山上皇はご本尊の薬師仏に病気平癒を祈られ、全快した喜びに荒廃した寺を立派に再建された。嘉元3年(1305年)上皇崩御の時、その徳をしのんで王の墓が建てられたという。 |
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牛臥石 |
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仁王門跡 |
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牛臥石 |
仁王門跡 |
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地蔵尊 西国三十三観音の三十三番札所の谷汲山華厳寺が祀られている |
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天福岩 この岩を抱えて願いを唱えると叶うといわれる |
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本堂前では、新年のお神酒が振舞われていました! |
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獅子窟寺の境内からの眺望はお見事です! 当日は、遠くが霞んで山並みが見えませんでしたが・・・。 |
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薬師堂前で記念撮影 健康で元気に活動が出来ますよう!お祈りしました! |
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大阪府下の5点の国宝仏像は次の通りです。 獅子窟寺 *木造薬師如来坐像(薬師堂安置) 平安時代 道明寺 *(秘仏)木造十一面観音立像(本堂安置) 平安時代 葛井寺 *乾漆千手観音坐像(本堂安置) 天平時代 観心寺 *(秘仏)木造如意輪観音坐像(金堂安置) 平安時代 金剛寺 *国宝・金堂三尊像と呼ばれています。木造大日如来坐像(国宝) ※左脇侍は木造不動明王坐像(国宝)、右脇侍は木造隆三世明王坐像(国宝) ※国宝に指定されたのは平成29年9月15日なので国宝としては新しい部類。 |
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仁王門跡の石組みを左に曲がって山道を下り100メートルほど進んだところに「王の墓」と呼ばれる亀山上皇(亀山院ともいう)と皇后の供養塔が2基並んでいます。この亀山上皇は、私市とつながりの深い上皇で、獅子窟寺の薬師如来に病気の回復を祈願し、そのご利益で病気が治った上皇は大喜びし、滞在した場所に観音寺(現在の廃千手寺)やその寺を管理するための田を寄進しました。また獅子窟寺の修復・石段を造られた。 | ||||||||||||||
弘法大師の水 誰が言うともなしに、この谷(男石と女石)から出る水を弘法大師の水と言われてきた |
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首なしの六地蔵 明治の廃仏毀釈の時に上部が壊されたものか? 【六体地蔵】 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上において功徳を施す仏様 |
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見はらしの ひらけた所に 王の墓 (郷土史かるた) | ||||||||||||||
王の墓
獅子窟寺への山道を登って行くと寺の約150M手前、少し開けた所に仁王門跡の石組みがあり、左へ山道を下り、六体地蔵の前を抜けると、湾曲に突き出した所に、亀山上皇と皇后の供養塔・王の墓が重厚なたたずまいを見せている。 この付近は、見晴らしの良い所から百重が原と呼ばれ、亀山院の分骨陵とか、後亀山天皇陵などと言われていた。辺りには古木が多く、かって王の墓の上のシイの大木の枝を切り落とそうとしたところ、「キイキイ」と泣き、木に触れただけで腹痛を起こしたといういわれがある。 昼なお暗い木立の中にたたずむと、中世の栄華がしのばれる。 |
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【極楽往生を願う蔵骨器】 この亀山上皇と皇后の供養塔がある付近は「百重が原」と呼ばれ、ここの周辺から、2個の蔵骨器(骨壺)が出土しています。 一つは真言を刻んだ「梵文光明真言刻銘瓦質土器」と言われる室町時代の蔵骨器です。大きさは高さ16.9センチ、口径21センチで、器の表面には細かい錐状の工具で浄土変真言や光明真言などのありがたいお経が2行1単位で21回も刻まれています。 お経の内容を要約すると「大日如来の諸力によって、死よりの恐怖を破壊し、もしこの死者が地獄に堕ち苦しんでいる場合でも、光明真言の力で地獄を破り脱し、極楽往生へ転生するように願う」という内容です。 いずれの蔵骨器も王の墓を中心とする中世墓地に埋葬され、死者を地獄から救う葬送の形が立体的に造られており、鎌倉時代の終わりごろの葬送様式が分かる大変貴重なものです。 |
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梵文光明真言刻銘瓦質土器 (ぼんもんこうみょうしんごんこくめいがしつどき)(室町時代) 出土地 獅子窟寺(裏山) 交野市私市 もとは土砂加持かじの際に使用される容器と考えられますが、後に蔵骨器に転用された可能性の高い土器です。平成12年、交野市指定文化財に指定された。 公開日 水曜から日曜 午前10時から午後5時(入室は4時30分) 交野市立歴史民俗資料室に展示してあります。 |
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梵文光明真言刻銘瓦質土器 (ぼんもんこうみょうしんごんこくめいがしつどき)(室町時代) |
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昭和47年から続けられている交野古文化同好会の無縁墓清掃 | ||||||||||||||
交野古文化同好会の無縁墓(昭和52年8月)は、無縁墓の墓標(昭和47年8月6日建立)が新しく会員のお力で石に変わりました。 昭和52年8月6日(石鏃26号参照) 昭和45年3月、滝が広(月輪の滝付近)の住宅建設現場から蔵骨器と銅銭、富寿神宝50枚と塼仏が出土した。富寿神宝は本朝(皇朝)十二銭中5番目に鋳造されたもので発行時の天皇は嵯峨天皇で鋳造・発行年は818年です。 交野古文化同好会有志による無縁墓清掃 故奥野平次さんが中心となり、昭和47年夏から続けられている活動です。 交野古文化同好会の活動が今も継承されております。 |
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月の輪の近くの「滝が広」付近から蔵骨器が発見され、昭和52年丁重に葬られた |
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昭和45年3月に30日に出土した火葬骨を埋葬する |
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蔵骨器と塼仏 |
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獅子窟寺の頂上からの眺望は素晴らしく、大阪市街、大阪城、遠くは淡路島、 明石海峡大橋を望み、眼下に淀川河岸から三島連山、六甲山をながめることが出来る。 |
※ 鮎返しの滝と賓頭盧尊(びんずる)さん |
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ぬれている びんずるさんも 滝の中 | |
大日如来の真言「アビラウンケン」石碑 |
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獅子窟寺の本堂の北の石段を上がって、まっすぐ行くと、獅子窟の南側の支え石に突き当たる。 |
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次回の行事は、1月21日(土)午前10時から青年の家・学びの館にて、勉強会「お釈迦様の教え-般若経とは?」が開催されます。よろしくお願いします。 |
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最後までご覧いただき有難うございました |