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交野歴史健康ウォーク 第201回

京街道(枚方宿)を訪ねる

鍵屋資料館の見学と周辺散策

交野市駅9:00集合→枚方公園駅→明治18年洪水碑→郵便屋の渡し跡→
西見附→市立枚方宿鍵屋資料館→旧木南家住宅(屋号・田葉粉屋)
→問屋・船番所跡→浄念寺と枡形道路→本陣跡→常夜燈→岡本町会館
→呼人堂・北村味噌→ビオルネ前・文禄堤→宗佐の辻
 12時頃解散 約2㎞徒歩
  参加者 33名(会員18名)

 2023.7.22(土)午前9時、交野市駅2階改札口に集合。9時7分発に乗車、枚方市駅で乗り換え京阪・枚方公園駅西改札口に再集合。天候快晴。連日の猛暑日が続く中、相変わらず蒸し熱い一日でした。時間通り元気な33名(会員18名)の顔が揃った。

 今回は先月の勉強会で、村田健一さんより詳しくご案内頂いた「東海道五十七次を知り尽くそう」の中、「京街道(枚方宿)」を実際に歩き身を持って歴史に触れたいと企画され、宿場町・枚方宿を考える会の
上谷会長さん、西平副会長さんのお二人の案内で街道沿いの史跡をゆっくりと説明頂きながら隈なく歩いてきました。

 枚方公園駅西広場の枚方宿の案内看板前で、枚方宿の概要などを詳しく説明を受けた後、早速京街道に向けて出発。府道京都守口線沿いに建てられた「明治18年洪水碑」、「郵便屋の渡し跡」などを見学。次いで、大名行列などが通った京街道の「西見附」から市立枚方宿鍵屋資料館に立ち寄り、江戸時代、東海道の宿場町枚方の旅籠だった鍵屋のこと、淀川を行き来する三十石船や街道を歩く人々で賑わったことなど、上谷さん・学芸員さんより往時を彷彿とするお話をお聞きしました。
 次いで、旧木南邸と船番所跡で説明を受けた後、浄念寺と枡形道路の京街道に出て本陣跡の三矢公園、常夜灯を訪ね、岡本町会館で昭和30年代頃のふるさと絵図を鑑賞、街道沿いの趣のある商店街を歩き、「宗佐の辻」までご案内頂きました。酷暑で本当に蒸し暑い中、熱心に解説していただいた、上谷さん、西平さん、本当に有難うございました。
 予定通り12時に解散。参加された皆さん、お疲れ様でした。


※散策当日、頂戴しましたレジメ「枚方宿を歩くご案内資料」やパンフレット、
 Webなど各種の資料を参考に記載しました。
 記して、感謝申し上げます。

 
鍵屋資料館前で記念撮影
 
当日の枚方宿散策マップ
(NPO法人 枚方文化観光協会パンフ参照)
 

京街道(枚方宿)を歩く レジメ  (PDF文書)
 
 
 
 
 
 
 
鍵屋資料館前で記念撮影

 枚方公園駅西口に集合
 【枚方公園駅】
1910年(明治43年)の開業当時は、枚方宿の大阪側にある
現・枚方公園駅が枚方駅を名乗り、枚方駅は枚方東口駅であった。その後、
枚方駅が枚方市の中心駅となったことから、1949年(昭和24年)に改称された。

駅の東側には丘陵地に近畿車両創業者・田中太介の邸宅「萬里荘」や
ひらかた温泉があった。
 
 
 当日、案内をお願いしました「宿場町・枚方宿を考える会」の皆様
 
会長 上谷勝己様
 
副会長 西平則子様
枚方宿の概要
 京街道・枚方宿は、岡新町、岡、三矢、泥町の4ヶ村によつて構成されていました。宿場は東西13町17間(1447m)、道幅平均2間半の1本往還筋を中心に出来ていました。枚方宿からは京都へ六里、江戸へ百二十八里、大坂へ五里の位置にある。文禄3年(1594年)に発せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が文禄5年大坂京橋から京都伏見へ向かう京街道(大坂街道)として用いられるようになった。

 「宿人馬継合で困窮いたし、人馬役のもの多分に宿方退散し、継合に差支、比段、寺沢藤右衛門へ申出、追つて退散のもの帰住致す」(天正年間(1573年~1591年頃)という記録により、この頃にはすでに宿場としての起源があつた。

 慶長6年(1601年)徳川家康がこの京街道を東海道の延伸部とし整備した。元和2年(1616)守口宿の存在が古文書で見受けられる事から同じ頃枚方宿が成立したのではないかと考えられる。

 東海道は品川宿~大津宿までの53次と呼ばれてきましたが「東海道は品川宿より守口宿」(幕府道中奉行所御勘定 谷金十郎、宝暦8年(1758年)や「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答、寛政元年(1789年)という記録により、この頃には枚方宿が東海道の一部であつた事がうかがえる。

 大津宿(53次)・伏見宿(54次)・淀宿(65次)・枚方宿(56次) ・守口宿(57次)

 享保3年(1803)枚方宿明細帳によると、宿高642石3斗9合 人口1664人(男743人、女921人)本陣1軒、脇本陣2軒、家老専用本陣1軒、人馬継立問屋場2ヶ所、旅籠屋55軒(大17・中180・小20)その他高札場3ヵ所、郷蔵4ヵ所、船番所2ヶ所、7里飛脚小屋、町飛脚などがありました。また、間屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民家は378軒ありました。

 
 
枚方公園駅西広場の枚方宿の案内看板前で、枚方宿の概要などを詳しく説明を受けた。
 
 
明治18年洪水碑
 明治18年6月は梅雨の長雨が続き15日の朝~17日夜まで降り続いた豪雨のため18日午前3時三矢村・伊加賀村の堤防が決壊(伊加賀切れ)し、その切れ口は180mに達し洪水はたちまち淀川左岸一帯を水没させました。さらに、7月にも豪雨に見舞われ復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり大阪府下で7万戸余が浸水するという未曾有の大洪水となりました。 (洪水碑は明治19年に建立)
  明治18年、6月から7月初旬にかけて、発達した低気圧が相次いで大阪を襲い、次々に堤防が決壊。約27万人が被災。北・中河内郡から大阪市内では大阪城~天王寺間の一部高台地域を除く殆どの低地部が水害を受け、大阪の橋も30余りが次々に流出し、市内の交通のほぼ全てが寸断された。
 この水害をきっかけに沖野忠雄が中心になり、宇治川の寸替、新淀川の開削、瀬田川の浚渫・洗堰の建設、毛馬洗堰・閘門の建設と、本格的な淀川の改良工事を行った。碑の「季」は年の旧字。
 
 
郵便屋の渡し跡
 郵便輸送に使われた船着き場。明治10年に、対岸の東海道本線の大阪京都間が開通してから昭和5年に枚方大橋ができるまで、郵便物を渡しで運び、国鉄・高槻駅まで運んだ。渡し場はこれより上流570mにあった。対岸は大塚の渡し。

ー参考ー
*枚方大橋・昭和5年10月開通
*京阪電車・明治43年4月開業
*片町線(学研都線) ・明治28年8月に浪速鉄道により片町駅一四条畷駅間が開業
全線単線。片町駅・放出駅・徳庵駅・住道駅・四条畷駅が開業:その後関西鉄道となり、明治31年4月:四条畷駅―長尾駅間が延伸開業。
津田駅・長尾駅が開業。同年7月星田駅開業。昭和10年12月河内磐船駅が開業。

 
 
 
 
 桜新地:明治18年の洪水の後つくられた仮堤防の跡に明治42年枚方宿の旅籠20戸を移転させて出来た。さらに拡大したが、昭和33年の公娼制度廃止により衰退。
水面回廊の近くに「TSUYAYA」の創業者増田宗昭氏の家(表札はお父さんの宗三氏)現存。
 京街道・西見附
見附 : 宿場の出入り口
街道の分岐点など交通の要所におかれた見張り所(見附)
  豊臣秀吉により、大坂城と伏見城の築城に伴い、文禄3(1594)年から慶長元(1596)年に諸大名(毛利輝元・小早川隆景など)に命じて長柄から枚方まで27kmにわたって淀川堤防左岸に造られた治水と軍用の道路が文禄堤。これが京と大坂を結ぶので「京街道」といわれている。
 家康は、五街道のひとつとして江戸から京都までの東海道五十三次を整備。1615年(慶長20)に大坂城が落城すると、東海道を高麗橋まで延長し、参勤交代の西国大名が入洛し朝廷に接触するのを防ぐため、大津から伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場をつくった。
 見附とは本来の意味は見張り番の置かれていたところで、宿場の入り口のこと。この辺りに高札場や晒し場があった。大名行列が通るときには本陣の主が見附で関札を立てて羽織袴で迎えた。大阪川の西見附から、泥町、三矢町、岡町、岡新町の4村があった。西見附から京都側の東見附までの約1.5kmの間が枚方宿。
 枚方宿は、天保14(1843)年の資料では、旅籠69軒、本陣が1,脇本陣が2、家老専用本陣1、人口は378軒で1549人。6割が女性で飯盛女がたくさんいた。天領で道中奉行の支配下。大坂と京都の中間点で、宿場町として栄え、同時に大坂・伏見間の三十石船の中継港としても賑わったが片宿で苦しかった。ドイツ人医師ケンペルやシーボルトの江戸参府紀行にも枚方宿のことが書かれている。
 
 
 
市立枚方宿鍵屋資料館 
  平成13年7月開館。商人宿から幕末に船待ち宿に。平成9年まで料亭・料理旅館として営業。
 主屋は起り屋根、卯建てなど、江戸時代後期の町家構造。文化8年(1811)に建築。市の有形文化財。
 別棟は昭和3年に建築。国登録有形文化財。
 江戸時代、枚方は劇毎道の宿場町として、また淀川を行き来する三十石船の中継港としてにぎわいました。当時、三十石船の乗客を相手に「餅くらわんか、酒くらわんか」と乱暴な口調で食べ物を売る煮売茶舟「くらわんか舟」が枚方の名物で、その様子は十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」や、浮世絵師・安藤広重の「京都名所之内 淀川」にも描かれています。

 「ここはどこじゃと船頭衆に問えば ここは枚方鍵屋浦…鍵屋浦には碇が要らぬ 三味や太鼓で船止める」―。この「渕||三十石船唄」も登場する鍵屋はかつての船宿で、現在は枚方宿鍵屋資料館として枚方宿の町家や船宿の様子を当時の雰囲気のまま伝えています。館内には枚方宿に関係する古文書や出土遺物、絵画、映像などを展示しています。
 
 
 
 
 
 
 
 江戸時代、東海道の宿場町枚方の旅籠だった鍵屋のこと、
淀川を行き来する三十石船や街道を歩く人々で賑わったことなど、
学芸員さんより往時を彷彿とするお話を伺った。
 
 
 

枚方の辺りで物売りのくらわんか船が寄って、餅・牛蒡汁・酒など売りつけている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木南邸(屋号・田葉粉屋)(きなみてい)
 江戸時代初期よりの豪農。庄屋と問屋役人を兼ねる。現在の建物は幕末期か明治初期のもの。★問屋場。輸送、宿泊に関する業務を行う。人足の継立と馬の継立。庄屋が交代で問屋役人を兼ねる。

  主屋は国登録有形文化財 天保3年(1832)。棟札には「棟梁 三矢邑大工作治郎 渚邑大工宗助 願主 木南喜右衛門正氏」とある。
 木造つし2階建て切妻造桟瓦葺。2階の座敷は明治時代以降。枚方で1番古くて大きい町屋。現在は山本さんが管理。屋号が田葉粉屋。表屋造。表側に店舗の棟を別棟として配し、中庭を挟んで居宅がある。出格子、虫籠窓。入り口を入ると土間があり、駕籠や太鼓、龍吐水が置かれていて、その奥に玄関がある。蔵が5戸前あった。
 江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼任、江戸時代末期には金融業も営む。江戸時代には代々喜右衛門を名乗っていた。
 
 
 
 
 
 
「虫籠窓」(むしこまど)は、かたちが虫かごに似ているので名づけられたといわれています。もとは、町屋の中二階、通りに面した部分に取り付けられました。
 船番所跡(過書船船番所・伏見船船番所)
 淀川を上り下りする船を監視する役所
 船の監視、水難救助、船切符改め、上米(通行手形、手数料)の取り立てを行う。
過書船は幕府の通行手形を持ち、船に焼印。江戸時代、運上を納めて伏見・大坂間の淀川筋の往来を許可され、客や貨物を運送した。最盛期には三十石船671艘と淀船507艘。

・三十石船 : 長さ17m、幅2.5m、主に人間28~30人。船頭は初め4人、江戸時代後半6人。伏見と大坂(八軒家~道頓堀)間。最盛期は1日9,000人の乗客を運んだとのこと。くらわんか船(茶船)が売り込み。
享保の頃は、下りは半日(6時間)72文。上りは1日144文。船頭らが川岸から綱で船を引き上げる。(重労働)

淀船(淀二十石船) : 米、塩、魚、青物、薪等を運ぶ。八幡宮神役。大坂冬・夏の陣に貢献。独自に動いていたが江戸時代後半に統合。

伏見船(十五石船) : 200艘、元禄年間、旅客・荷物の奪い合い、伏見奉行の管轄。

★過書船・大坂と京・伏見の間の貨客を運んだ特権川船。過書(通行手形)を所持するす船。
豊臣秀吉から1598年(慶弔3)河村与三右衛門、木村惣右衛門が朱印状をうけ、徳川家康も1603年これを再認しました。
株数が決められていて、運上金を上納。過書奉行管轄。元禄13年頃には、621艘(250石船1艘、200石船37艘、50石船99艘、40石船99艘)。
★伏見船 江戸時代、伏見を本拠として淀川を上下し貨客輸送にあたつた船。
1698年15石積み200艘が許可され、伏見奉行の管理下におかれて営業しました。

★三十石船(過書船) 乗客定員28名、船頭4人。上りは船頭3人で岸から綱を引いて上った。米三十石を積める船の総称。上りは1日または1晩、下りは半日または半夜。

★ くらわんね船 (茶舟)
大坂の陣のおり、徳|1方に兵糧を運んだ功労で許可。高槻の柱本が発祥。枚方で停船しようとする三十石船に鍵爪をかけて近づき、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟(店主2名乗船程度)が「くらわんか舟」と呼ばれていた。汁椀など食後の食器は要返却となる。
「くらわんか」とは、この地方の方言で「喰わないのか」「喰うことも出来ないくらいの銭も持つていないのか」と乱暴に、また挑発気味に言った言葉です。

 夜と昼とを問わず三十石船に近づき、乗客たちに「くらわんか」と声を掛け販売していたことから「くらわんか船」 という名がついた。東海道中膝栗毛などさまざまな紀行文学で、くらわんか舟の船頭たちが「飯くらわんか\ 酒くらわんか\ 銭がないからようくらわんか」と大声でがなりたてながら寝ている客を乱暴に起こして回り食事を売るさまが描かれている。
 
 
 
 
 浄念寺と枡形道路
 浄土宗本願寺派、1495年蓮如の弟子岩見入道浄念が開祖、1739年門跡御坊、1764年大火で本堂類焼、1795年再建。表御坊、西御坊と呼ばれる。宿の有力者の寄合や身分の高い人の宿泊所にも使用される。本尊阿弥陀如来立像、西国三十三ヶ所参り北河内版の十四番札所。万年寺より移された不動明王立像は市の有形文化財。桝形道路。
 浄念寺前の道路は京街道で枡形道路になっています。本陣が近いことから外部から敵が攻めてきても、直進できないようにするための工夫と言われる。
 
 
問屋場跡 
 宿場間の荷物を運搬する人馬や飛脚の中継所であり、幕府から任命された問屋役人(庄屋)の詰所。人足100人、馬100疋を常備。前の宿場から運ばれてきた荷物を引き継ぎ、次の宿場まで枚方宿の責任と負担で運んだ(伝馬制)公用旅行者や民間の宿の手配など、宿駅の事務一切を取扱った。4ヶ村を上番(三矢村・泥町村)と下番(岡町・岡新町)の2つに分け、1年交代で任務に就いた。 
 
 
道標(国道第二號路線)
明治18(1885)年から昭和8(1933)年まで、枚方宿の東海道(京街道)が国道第二號路線と呼ばれた。
 本陣跡(三矢公園)
  本陣とは大名や旗本、幕府役人、勅使、宮家、門跡などの宿泊所。広さは約470坪、建坪215坪、部屋数25で、大名は門・玄関・式台を通り、上段の間の前で駕籠をおりたという。主は、享保2(1717)年から明治の初めまでは池尻善兵衛。庄屋や問屋役人で苗字・帯刀。
 枚方宿を通行する大名は、親藩・譜代・大坂城御加番・長崎奉行等であった。親藩では紀州藩が代表的で、他には松江藩・高松藩・柳川藩・岸和田藩等。紀州藩は1日に40~43km歩き、和歌山~江戸間を片道14日ほどで往来。
 荷物は殿様の食事を作るための料理道具、殿様専用の風呂や手桶、携帯用トイレ、囲碁将棋の道具、殿様の寝床の下に敷くための鉄ののべ板まで持ち込んでいた。天保12(1841)年の紀州徳川家11代藩主徳川斉順(なりゆき)の参勤交代であh、約4000人、馬103頭。
 大名や公家など身分の高い人が泊まったり、休んだりした所。枚方宿を通行した大名は23家(天保11年)があつた。西国の大名は西国街道や淀川舟運を利用するものが多く枚方で休泊する大名は少なかった。それでも親藩では紀州藩が代表的で他には松江藩、高松藩、柳川藩、岸和田藩、中津藩、延岡藩等が常連化した大名であった。大名は、参勤交代などに必要な物を全て運んでくる。荷物が多いので人足や馬を問屋役人から助郷村に応援を命じました。枚方では紀州侯の参勤交代が特に大行列であつた。
 本陣は江戸初期の頃は宇野新右衛門、徳川吉宗以降は、池尻善兵衛(世襲)であつた。
 また、慶応4年3月(閏4月7日)明治天皇が行幸の途中枚方宿本陣で小休止しました。
本陣は明治3年に取り壊され、その跡地に北河内郡役所が置かれ、現在は公園(三矢公園)になっています。
 
 
北河内郡役所 明治30年代
 
慶応4年3月(閏4月7日)明治天皇が行幸の途中、枚方宿本陣で小休止しました。
 
 
 塩熊商店
江戸時代からの老舗。現在は、くらわんか茶碗などの雑貨や
屋号「塩屋」の由来となった塩を販売するお店
 
 
 枚方凍氷
氷屋さんの昔ながらのかき氷は、そこらのかき氷とは食感が違います。
夏はいつも大人気で賑わっています。
 
 
 札場の辻・高札場跡
 高札とは公共掲示板のこと。幅4m、高さ3m、奥行1.7m 土台石垣60cm 屋根付きだった。
徒党禁止や切支丹禁制にかかわる定、公定運賃のこと、親孝行を奨励するような内容が書かれていた。
幕府は費用を負担し、高札番が常時、整備・管理。船番所付近、西見附にもあった。

 村野に枚方市指定文化財となっている高札が現存。
 
この場所は、「札ノ辻」と呼ばれた。専光寺の角地
 
   
村野に枚方市指定文化財となっている高札が現存。  
 妙見宮常夜灯
  一晩中つけておく明かり。街道の街灯や川を行き交う船の灯台の様な働きか。昔菜種油、今はLED.三矢村と岡村の村境にある。かつてこの辺りに多かった商工業者が日蓮宗妙見菩薩におすがりする講の人たちの浄財で安政元年(1854)に建立。妙見宮講とあるのは、当時能勢妙見宮の信仰が厚かったものと思われる。矢筈の紋章は能勢妙見山(日蓮宗のお寺)が独自のものとして使用。
 妙見大菩薩は北極星・北斗七星を神格化したもので、北極星は常に北を指し、開運の守護神として深く信仰された。昔は神仏習合。
 
 
 岡本町会館
自治会館 2013年竣工。昭和30年代の枚方の風景を描いた「ふるさと絵図」が展示されている。 
 
 
 
  
 
 
京街道の街灯 
 平成23(2011)年3月、大阪府のまちづくり支援事業の一つとして、文禄堤上の往還に街灯を7基建てる。京街道と明示。
 
 ビオルネ・文禄堤
 昭和30年代頃から三矢の商店が次々と岡本町に移転。古くから栄えていた岡本町商店街を防災上の問題もあり、京阪電車の高架事業に合わせて再開発。駅の高架化事業は、昭和53(1978)年12月に着工。平成5(1993)年3月25日に高架化工事は竣工。
 住人や店舗とマイカルサティ・住宅公団の誘致によって市街開発事業として建設、平成2年4月竣工。そのとき埋蔵文化財調査で、地下2mに文禄堤が築造されていることを確認。四角い茶色のタイルを結んだところが文禄堤の位置。突貫工事で、墓石も掘り込み、石泥棒といわれた。この道が後に京街道になったが、それまでは東高野街道が使われていた。守口市駅近辺に文禄堤の跡が残っている。

 ※大坂城:1583年築城開始 1598年頃完成。  
   伏見城:1592年築城開始 1596年完成後地震で 1597年再建。
 文禄堤 : 現在の大阪府枚方市から大阪市長柄まで全長約27km続くとされる堤防で、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に淀川の改修工事を命じて建設。慶長元年(1596年)に完成した。河内平野に淀川が氾濫するのを防止するのに役立った。
 また堤防の上は大阪と京都を結ぶ最短路である京街道(または大坂街道)として安定した交通路となった。
 
 
岡本町公園
 
 
 
枚方ビオルネ前の道路は文禄堤
 宗左の辻
 市の登録文化財。
 京街道と磐船街道の分岐点は、附近にあった油屋の名を取って「宗左の辻」と呼ばれる。
 「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻まで」と俗謡。遊女が客をここまで見送ったという。
 文政9年(1826年)に建てられた道標で、「右 大坂ミチ」「右 くらじたき 是より四十三丁」「左 京下り やわた二り」と刻まれており、大坂方面、京・八幡方面、倉治の滝方面(交野市)と三方の行き先と道程を示している。
 丙戌(ひのえのいぬ):干支の組み合わせ23番目、1826年。四十三丁:約4.7km
 ※大坂 → 大阪  説が多くあり、詳しくは不明。当初「大坂」が一般的であったが、「土に返る」と読めてしまい、縁起が悪いということから、江戸時代ころから「大阪」とも書くようになったとも。 
 
 
    
 
 
宗佐の辻にて解散。皆さん、お疲れさまでした!
 =枚方宿を楽しもう=  広報枚方
枚方宿
 江戸時代、枚方は東海道の宿場町として、また、京と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港として多くの人が行き交いました。市は、街道や史跡が今も残る枚方宿地区の歴史的景観を生かしたまちなみ整備を進めるとともに、地域や市民と協力して新たなにぎわいづくりに取り組んでいます。いにしえの街道を歩きながら、宿場町「ひらかた」の魅力を再発見してみませんか。


買い物や音楽を楽しめるイベントも
 毎月第2日曜に手作り雑貨など約180店が街道沿いに並ぶ「枚方宿くらわんか五六市」をはじめ、春と秋に公園やカフェなどで音楽を楽しめる「枚方宿ジャズストリート」など、一年を通してさまざまなイベントが開かれています。


水陸交通の要衝としてにぎわった枚方 
 京都と大阪の中間に位置する枚方は、古くから交通の要衝でした。文禄年間、豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」は京と大坂を結ぶ幹線陸路の役割を果たし、やがて、京街道として整備されました。「大坂夏の陣」(1615年)の後、大坂城を接収した江戸幕府は京街道を東海道の延長部として組み込み、伏見・淀・枚方・守口を宿に指定。品川宿から数えると56 番目にあたる枚方宿には参勤交代で江戸・和歌山を往復する紀州徳川家が定期的に宿泊しました。将軍・徳川吉宗へ献上する象が、ベトナムから長崎に運ばれ、陸路で江戸へ向かう途中に枚方宿で一泊したという記録も残っています。
 
また、淀川を往来した「三十石船」の中継港としてもにぎわい、枚方宿には乗船場がある旅はたご籠(船待ち宿)もありました。船の上から「餅くらわんか、酒くらわんか」と乱暴な言葉で旅人に食べ物を売りつける「くらわんか舟」は枚方の風物詩として親しまれるなど、江戸時代の枚方は水陸交通の中継地として大いににぎわいました。 


枚方宿鍵屋資料館
   宿場町としてにぎわった枚方の歴史を紹介する展示施設として平成13年にオープンした枚方宿鍵屋資料館が今年で開館12周年を迎えました。
 鍵屋は江戸時代、三十石船の船待ち宿として多くの旅人でにぎわいました。明治以降は料理旅館を営んでいましたが、平成9年に廃業。200年前に建てられた主屋は市有形文化財の指定を受け、解体復元工事によって表口と淀川の船着き場に通じる裏口をつなぐ土間や船を待つ客が休むための板縁など、船待ち宿独特の姿がよみがえりました。
 同館は主屋と昭和3年建築の別棟からなり、主屋内部が見学できるほか、別棟では実寸大のくらわんか舟の復元模型や三十石船の旅人に船頭が餅やごんぼ汁を売る様子を再現した映像を楽しむことができます。「くらわんか茶碗」などの出土品約200点も展示され、枚方宿の歴史や淀川舟運について分かりやすく紹介しています。また、2階には63畳敷の大広間があり、邦楽の演奏会や歴史講座、茶会など近代和風建築の雰囲気を生かしたさまざまなイベントが催されています。

これ以降の記述は、10年前の
2013年の7月の歴史健康ウォークで訪問した時の記録です。
今回は、異常気象で酷暑の為に探訪しませんでした。

夜な夜な修行に出られるという
「夜歩き地蔵」の臺鏡寺
 
 
夜に修行に出られるので、足元が少し汚れているのだという話。
 
 
 願生坊
 浄土真宗の中興の祖、蓮如上人(1415-1499年)の5男・実如が願生坊の前進である順興寺を建立しました。枚方の宿場町は、順興寺の寺内町として栄えましたが、その後、天正年間に織田信長に焼かれたので、慶長年間に東本願寺の教如が順興寺を再建しましたが京都に同名のお寺があったので願生坊と改称しました。なおこの地の人々は、願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊と呼びどちらも尊崇していたようです。
 
 
 
 
 
 
 急坂と石の階段を登って
「万年寺山」「意賀美神社」
万年寺山・意賀美神社・梅林
 淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを眼下に見おろし、こんもりと突き出た丘が万年寺山です。摂津・丹波の山々や、豊かな淀川を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都のちょうど中間にあり、数々の歴史の舞台となってきました。この丘の上にある意賀美(おかみ)神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土しました。言い伝えによると、推古天皇(592~628)の時代、高麗(高句麗)の僧・恵灌(けいかん)が、この地の風景を愛で、眺めが唐の林岸江(りんがんこう)に似ているとして、草庵を営んだのが万年寺のはじまりです。
 一千年余の法灯を伝え、夕暮れを告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令により廃寺となり、仏像等は三矢(みつや)の浄念寺に移されました。参道の石段横には、今も「長松山萬年寺」と刻んだ石柱や十三重の石塔が苔むしており、往時をしのばせてくれます。近年、境内に植えられた多くの紅白梅が大きくなり、観梅の名所になっています。梅林の西にある豊臣秀吉の御茶屋御殿跡は、展望広場として整備された眺望の素晴らしいところです。
 
 
 
 
 
意賀美神社
 高龗神神を主祭神とし、素蓋鳴尊・大山咋神・大国主神を配祀する。素蓋鳴尊は須加神社の大山咋神・大国主神は日吉神社の祭神で、明治時代に合祀されたものである。

 
 
豊臣秀吉の お茶屋御殿
 京・大坂間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿(おちゃやごてん)を建てたのは文禄4年(1595)のことです。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。京都伏見と大坂に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。
 文禄五年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残つています。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって全焼し、以後再建されることはありませんでした。
 
 
 
 
御茶屋御殿跡は展望広場として整備され眺望が素晴らしい
 
右手道路の左に見える三矢公園は、本陣跡

 万年寺山の麓
 
 
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