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平田政信さん作成の私市の地名地図 |
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参照:交野市文化財事業団発行の「交野市歴史散策マップ(私市地区)」 |
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参照:交野市文化財事業団発行の「私市村役人文書」 |
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黒田企画部長の挨拶 |
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本日の案内人:村田さんの行程などの説明 |
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河内森駅前の交番前に集合 道一杯になりご迷惑をお掛けしました! |
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河内森駅から西側へ自転車駐輪所を左手に見ながら坂をおりて、私市の集落に入っていくと、小さな三角公園があります。今は廃寺となってしまいましたが、ここに千手寺がありました。 今はこの場所に、廃千手寺収蔵庫があり、市指定文化財の聖観音立像と如意輪観音坐像をはじめ、千手寺と私市の廃蓮華寺の仏像などが収蔵されています。 土地に残る伝承では、鎌倉時代の後期に亀山上皇が病気になり、獅子窟寺の薬師如来坐像が霊験あらたかであることを熊野権現の霊告により聞きつけ、獅子窟寺に登るための仮の宿所としたのが千手寺の始まりと伝えられています。 |
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如意輪観音坐像 |
聖観音立像 |
愛宕山の伏拝の石碑が立つ廃千手寺の境内に二尊仏がひっそりとまつられています。 鎌倉時代、亀山上皇が獅子窟寺の薬師如来に病気の回復を祈願し、回復を喜んだ上皇が、滞在した場所に観音寺(現在の廃千手寺)や、この寺を管理するための田を寄進しました。現在、この地域にある「院田(いで)」という地名は、この名残と考えられています。 廃蓮華寺や廃千手寺の仏像は、境内の収蔵庫に安置され、そのうち、聖観音立像と如意輪観音坐像は市指定文化財にも指定され、春に一般公開されています。 |
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西念寺から北へ100メートル、きれいなほこらの中に2対の阿弥陀さんがまつられています。 昔、道路沿いの小川の改修工事の時に出土した仏さんだそうで、いつも真新しい花が供えられている手入れが行き届いた石仏さんです。 |
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山号は磐川山、浄土真宗西本願寺末寺、本尊は阿弥陀仏。嘉永元年(1624)、無量光寺4世知了が私市村門徒のために開いた草庵。享保4年(1719)に西念寺と称した。 | |
交野の子どもの歌に、「さいたかさいたか西念寺 ういたかういたか雲林寺 松のたからは松宝寺」と歌われている西念寺は、天田神社鳥居前から続く天野川条里制の一条通より北の小川沿いに建っています。 門を入った南側に墾田地蔵さんが、8体の阿弥陀さんと一緒に東を向いて立っています。住職の話では、もともとこの石仏は、寺の北側の小久保川を越した北の墾田筋に立っていましたが、「西念寺に行きたい行きたいと夢告げされたので、ここにおいでいただいた」ということです。造立年代は室町中期と言われています。 ゆっくりとお地蔵さんの前で拝んでいると、いつの間にか悩みも消えて晴れ晴れとした気分になるようです。 つい最近、佃筋の地蔵さんがここに移られて8体となっています。(一番前面に祀られている色の黒い地蔵さん) |
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手前の色の黒い、佃筋の地蔵さん |
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奈良時代、郡津に郡衙(役所)が置かれたころ、天野川周辺は稲作の一等地として条里制が敷かれ、私市を一条通りとして北へ枚方市まで十条通りと区画整地されました。神社の西にある鳥居をくぐって左に100メートルも行くと、東西に伸びる道が現れますが、それが一条通りです。 市内には私市・天田神社から天野川に向かって一条通りが列し、京阪交野駅の北側に四条通りが、そして郡津に五条通りが列している。 条里制の行われた土地は、ちょうど碁盤の目のように、あぜ道をもって田を美しく整頓区画されている。 条里区画 六町(一町の長さ約100b)の間隔で、縦横に直線の大道がつけられる。 こうして出来た六町四面の田を里という。この里を東西に並べた列を条といって、一条、二条と列名がつけられ、その大道を一条・二条通りといい、郡津は五条通りにあたる。 |
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参照:交野地方の条里田(交野市史) |
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古代天野川地方条里区画一条通遺跡の碑 |
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河内森駅を東へしばらく歩くと天田の宮(天田神社)があります。 このあたりは土地が広く、水がよく行きわたり、稲作には申し分のない良田でした。3世紀終わりから4世紀にかけて、開墾が進んだと思われます。昭和35年(1960年)、社務所付近から土師器や須恵器の土器が多数出土し、弥生時代の後期ごろから人々が水田を作っていたことが裏付けられました。 ウォーク当日の13日は私市の秋祭りの宵宮で、天田神社では山車が綺麗に飾られ祭り気分が漂っていました。山車を背景に参加者全員で記念撮影しました。 |
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天田神社の山車(私市の秋祭り10/13-14)を背景に記念撮影 |
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天田神社から坂口の村を通り、昔からの獅子窟寺への参道を上がり、竹内惟真・信治の御霊のしずまる処・精霊送りの地蔵さんへご案内しました。 | |
奥野平次氏が著された、「ふるさと交野を歩く・ひろい話(ニ)」48ページを参照させて頂きました。 昔長慶天皇が岩屋にお越しになった、元中9年(1392)閏10月15日御不予になり、その時竹内惟真(これさね)73歳・竹内信治61歳が自害された。長慶天皇は王の墓から右寄りの尾根の東の頂に骨を埋め、松と榊を植えたと北河内史蹟史話に書いてある。 その殉死された竹内惟真・信治の御霊を山にお祭りし、盆のお精霊さまにお供えしたものを、山の三体の地蔵さんの前に送ることが昔から決まっており、今も毎年、坂口の村の方々はお盆の16日の朝、お精霊送りを続けておられる。 |
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奥野平次氏が著された、 「ふるさと交野を歩く・ひろい話(ニ)」 を参照させて頂きました |
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今年10月、水道局の新浄水場が完成しました。詳しいことは、「広報かたの」11月号を参照下さい。 低区配水池の下で、新浄水場のこと、低区配水池・高区配水池・汲み上げ井戸のことなど簡単にご説明いたしました。 ※水道局のHPを参照させて頂きました。 |
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昔、獅子窟寺への参道は二つありました。一つは、私市の在の道を通って岩屋道を東へ歩き現在の私市山手1丁目の外れを山に向かうのと、もう一つは坂口の村から上る道でした。昭和45年水道局の低区配水池が完成した時、私市山手1丁目の道と坂口からの道が繋がりました。 | |
私市の上ん山を切り開いて昭和4年、生駒電鉄私市線が完成。その後、昭和48年、上ん山が潰され松宝寺池が半分埋め立てられた。上ん山の南側の道が岩屋道、その南に「つぶれ池」があった。岩屋道沿いには沢山の地蔵さんが祀られていたそうですが、昭和36〜37年以降、私市山手が開発されたころ無くなったしまった。その後、上ん山を畑にと開墾された時出て来られたのが、「岩屋橋の地蔵さん」だそうです。今も大事にお祭りされています。 | |
私市の山手から松宝寺池へと少し下ると、高くて立派な石垣が積み上げられた松宝寺に着きます。 春にはらんまんの桜が咲き乱れる松宝寺池の堤の上からは、きれいに整地された棚田の奥に、天田の宮と一条通りを見渡すことができ、緑色の京阪電車と桜のコントラストがすばらしい風景が広がります。ときには、この風景を撮影するアマチュアカメラマンの姿が、群れをなします。 この付近は眺望もひらけ、昔から月見に最適といわれたため、月秀山の号をもち、もとは獅子窟寺の十二院の塔中の一つ、松宝院であったと思われます。 境内には、千手寺にあった南北朝時代(14世紀代)の十三重の塔が建っています。 |
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百重が原橋を渡り、わだんざか(和田の坂)を下り雲林寺へと向かう。「井出の内」付近にあった、そうれん道の休憩所のお話。 この付近の田んぼの持主が何気なく持って帰った、握りこぶし大の綺麗な石。その晩、持って帰った御主人はひっくり返るほどの腹痛に襲われた。手当をすれど痛みは激しくなるばかり、「これは、持って帰った綺麗な石は、そうれん道の地蔵さんだったに違いない」と、翌朝早く奥さんが綺麗な石を元の場所へ返され、家に戻ってみると、御主人は元気に朝食を摂られていたそうで、今も、この綺麗な地蔵石は田んぼに大事に祀られているそうです。 |
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直ぐに南に行き、石垣や板塀の静かな村の中へと進むと、雲林寺の「二月堂の伏し拝み」や昔懐かしい風情のある「灯ろう」と出会えます。 | |
若宮神社東側の路地沿いに、阿弥陀さん、地蔵さん、宝筐印塔、五輪塔など13体が東向きに整然と安置されています。 私市の蓮華寺や村の辻にあったものが集められたのでしょうか、阿弥陀さんが7体と多く、西方浄土を夢見た庶民の願いが感じられる石仏群です。赤と白の前垂れに「奉納」と大きく書かれ、大切にまつられています。 |
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若宮神社は私市地区の氏神で、私市会館の北側にあります。 ところが、私市にはもう1つの氏神、天田神社があります。両社はともに、海の神・航海の神とされる住吉の神々を主神として祀っています。 なぜ同じ神を祀る神社が私市には2社あるのでしょうか。 「交野町史」によれば、18世紀の初頭に星田・私市村と、奈良県の田原・南田原村が磐船神社を総社としていました。 しかし、交野の村々の氏子が少なくなったため、両者の間に宮座争い(氏子グループ間の勢力争い)が起こり、解決せず物別れに終わりました。その後、それぞれの村が磐船神社の分霊(これがこの当時は住吉の神々でした)を連れ帰り、立派な社を建てて住吉神を祀りました。 私市村にはすでに天田神社があり住吉神を祀っていましたが、田原から来る人に立派な社を見せるために、新たに村の南側に建てた神社が若宮神社です。 中世には、住吉信仰が流行し、交野の村々でも、祭神を住吉の神々に変更する神社が数多く出てきました。 現在も市内で住吉神を祀る神社は、郡津神社・住吉神社(寺地区)・住吉神社(私部地区)・天田神社・若宮神社・磐船神社・星田神社の7社があります。 |
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若宮神社では、お祭りの「子供神輿」の御祓いが行われていました。 |
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若宮神社では、毎朝付近の住民の皆さん(40〜50人)が集まられて 元気にラジオ体操が行われています。 |
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Q:私市・若宮神社のラジオ体操の状況は A:2010年7月1日より始めた私市健康・維持・増進プロゼクト、早くも2年と3カ月が過ぎました。 地元機関誌に投稿したものを掲載させて頂きます。 よそ(他)の地区でラジオ体操やってはんのに、なんで私市はしやはらへんのや? 星田も松塚も天野が原でも・・・分かってまんがな、知ってる、見てるっちゅうねん。 あんた、やっていなぁ〜という言葉に発奮!やる限りには続けなアカン。 そこでスタッフ探し、一人、二人と協力者が出来、よっしゃ!。場所は若宮神社や。 早速、総代さんや区長さんにお願いにいったら、それはええことや、やってくれとの返事、ヤル気モード全開。 数日後、2010年の7月1日から実施。(名称:私市健康・維持・増進プロゼェクト 会長:冨田亨) 2011年6月末で丸1年「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑ニモマケヌ」の精神で、そしてこの6月13日には参加延べ人員1万人を達成した。 何月何日に1万人達成?を応募したところ2名の方が的中されました。 「一定のメドが立てば・・・」景品の授与も行いたい。(笑い)今年の流行語大賞候補? 第一・第二体操、ストレッチと流れた後、一言コメントを交えながら笑わせてくれる人・毎日の参加者をカウントしてくれる人・境内を清掃してくれる人・ラジオのスタート、ストップを操作してくれる適材適所の人、そんな人・人・人たちが毎朝集う若宮神社は今や私市の情報発信基地でもあり・パワースポットでもあります。(毎月会報誌の発行) (平田政信さんより) |
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体操の後、代表者が毎日入れ替わり、体操の解説や時事問題などを話しされるそうです。 |
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私市駅から歩いて5分、「私市共同墓地」に弘安地蔵さんが安置されています。 このお地蔵さんは、府内で最古の銘「弘安4年(1281年)」を持つお地蔵さんで、府指定文化財・重要美術品に指定されています。 弘安地蔵さんは、右手に錫杖を持たない古い形式のもので、頭上とその左右には地蔵菩薩を示す梵字「カ」が彫られています。像の右側には「石作三郎」と石工の銘が確認できます。 別名「杖あずけの地蔵さん」とも呼ばれ、安置されている地蔵堂の中には、帽子や杖などが置かれています。 人が亡くなると、生前、身につけていたものを地蔵堂に預けることで、早く極楽に導いてもらいたいという願いからかもしれません。庶民の願いを聞いてくださるありがたい仏さまとして、今も大切にまつられています。 |
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京阪・河内森駅 |
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京阪電車の架線を潜って天田神社から若宮神社まで |
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獅子舞 |
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私市駅 |
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墾田地蔵 (昭和54年) |
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弘安地蔵 (昭和55年) |
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10月14日(日) | |
翌日の14日の本宮での「獅子舞」の勇壮な踊りの写真を、高尾さんから送って頂いた。 | |
平田政信さんの説明で、獅子舞も最高潮! |
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次回は、第125回歴史ウォーク、11月10日(土)、ふるさと交野を歩くパートY「郡津の東高野街道を歩く」、集合は、京阪・郡津森駅 10時です。 お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。 |
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最後までご覧いただき有難うございました |