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2011年5/14(土)、天候晴れのち小雨、曇。 3月26日に開催された定例勉強会<継体大王の時代一古代国家形成前夜>近藤登紀氏講演の舞台である今城塚古墳を中心に歴史ウォークが実施され、案内人の近藤さんをはじめ参加者は総勢20名でした。 いつも参加される方々の姿が見えず少し寂しい思いでしたが、今年4月に入会された新入会員が4人、広報を見て参加された方が2人で、随分メンバーが入れ替わったように感じられた。 JR高槻駅行バス停(京阪枚方市駅北側ロータリー)に午前9時集合、9時14分発バスに乗車、9時35分JR高槻市駅前改札口に到着。ここで、本日ご案内して頂ける、近藤登紀氏と合流、黒田企画部長よりウォーク行程等の案内の後、午前9時53分、摂津富田駅に向けて乗車。 摂津富田駅より、皆さん元気に出発。途中、幹線道路の横断など交野に比べて車の交通量の多さにびっくり。足元に気をつけながら歩くこと約30分で今城塚古代歴史館に到着。 小休止の後、事前に近藤氏よりご依頼されていた、高槻市文化財スタッフの熊倉房明さんの明快な解説と案内が始まった。 まず、最初は三島と初期ヤマト王権の時代、古墳時代前期、三島の王とヤマト王権の関わりなど、巨大古墳時代、埴輪窯と形象埴輪のこと、今城塚古墳の実像、大王墓の葬送儀礼、今城塚古墳より発掘された本物の埴輪群(家・門・塀・太刀・盾・武人・巫女・力士・動物など)、3基の復元石棺や副葬品のことなど、余すことなく詳しく、また分かりやすい口調で解説がなされ、「古代のことが分かり、大変良い勉強が出来た」と大好評でした。 あっという間の時間でしたが、時計は12時10分を回っており、今城塚古墳公園の埴輪祭祀場近くの芝生に座って昼食。休憩もそこそこに、12時50分、午後の今城塚古墳の案内も熊倉さんの名調子で始められた。 埴輪祭祀場に復元された埴輪の多さ(200点以上)と綺麗に整列された状態に先ずびっくり。先ほど、歴史館で間近かに見た埴輪が見事に復元され、どれも北方面に向かって立っていた。何故だろうか?また、内堤の上の両端に、復元された1300個の埴輪がぐるりと展示されている様子は、素晴らしいというほかない。続いて内堤の断面展示を見てトンネルを出たあと、芝生が植えられた内濠を歩き、後円部を仰ぎ見る。 南の造り出しと前方部の南の隅を見ながら、後円部の裾に張られた張り石と葺き石の違いなど解説を聞いた後、後円部に上る。後円部の盛り土や排水溝の様子を確認、さらに墳丘に上り全体の大きさを見て、伏見大地震で崩れてあちこちに点在する石室基盤の石の様子に改めて驚く。続いて、古墳が造られた当時の姿が彷彿とする南西部の隅に下りて周りの状況を観察。墳丘を取り巻く水濠、北の造り出しの状況など、継体大王の思いが凝縮された素晴らしい古墳だなぁと納得。約1時間かけてじっくりと案内頂いた。 熊倉さん、大変わかりやすい解説をして頂きまして、本当にありがとうございました。 午後2時過ぎ、次の行程のハニワ工場へ向かって歩き出したところ、黒い雲が空に満ち小雨がぱらつき始めた為、急遽午後の行程は取り止めることとなり、次のバス時刻まで、再び歴史館でゆっくりと休憩し、JR高槻駅経由京阪枚方駅に5時前到着、解散しました。 午後予定されていた、ハニワ工場、太田茶臼山古墳見学は、残念ながら取りやめとなりましたが、また後刻、機会があれば企画したいと思います。 皆さんお疲れさまでした。 |
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当日頂いたパンフレット・資料、三島古墳群地図などの資料を基に掲載しました。 記して感謝申し上げます。 |
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今城塚古墳は淀川北岸では最大の巨大な前方後円墳であり、国史跡に指定されている。 今城塚古墳の墳丘規格が最近変更され次のようになりました。 古墳の規模は全長約357m、墳丘の長さ約181m、前方部の幅158m、高さ15m、後円部の径91m、高さ18mとされている。内濠に水がたまっている状態での数値になりました。(古市・百舌鳥の大型古墳はすべて水面上の墳丘サイズです) かつては墳丘や内堤にはハニワをめぐらし、二重の濠を持ち広大な墓域を誇つていた。古墳が築造されたのは6世紀前半と想定されており、古墳から高さ約1.7mで日本最大級の家形埴輪や、よろい姿の武人埴輪ほか色々な埴輪が出土している。 学術的には、継体大王(聖徳太子の直系の曽祖父)の真の陵墓とされている。1997年(平成9年)11月から古墳の発掘調査が始まつているが、10年にわたる発掘調査で明らかになつた大王墓の姿を整理して、広さ9ヘクタールの緑豊な史跡公園に、このたび生まれ変わつた。 日本最大級の埴輪祭祀場や、墳丘内石積、石室基盤工といった当時最先端の土木技術などの発見が相次ぎ、どうやって造られたか、どのような祭りが行われたか、しかも誰が葬られたかを具体的に考えることができる唯一の大王墓として、かけがえのない歴史遺産です。 今城塚古墳のハニワをつくつた工場。それが、新池遺跡です。継体大王の墓といわれる今城塚古墳のハニワをつくつた工場で、発掘調査では丘陵一帯約3万uに広がる日本最古で最大級のハニワエ場であります。この工場が活躍したのは、今から1500年前。窯(かま)18基と工場3棟、工人(職人)たちの住居まで整っていました。3時期およそ100年間にわたり継続的に操業していました。西暦450年にはじまり、今城塚古墳・太田茶臼山古墳・番山古墳のためにハニワをつくつていましたが、550年ごろ、大型の前方後円墳も築かれなくなり、ハニワづくりも終わりました。 宮内庁は「継体陵」として治定、太田茶臼山古墳は一重の周濠をめぐらしたかなり大きな前方後円墳その規模は全長226m、前方部の幅は147mで長さ117m、高さは約20m、後円部の径138m、高さは約19mとされている。造営された時期は、昭和61年(1986年)に周濠から出土した埴輪の特徴などから見て、5世紀前半から中頃にかけての古墳時代中期であろうと考えられている。 |
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高槻市文化財スタッフの熊倉房明さんの明快な解説 |
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まず、最初は三島と初期ヤマト王権の時代、古墳時代前期、三島の王とヤマト王権の関わりなど、巨大古墳時代、埴輪窯と形象埴輪のこと、今城塚古墳の実像、大王墓の葬送儀礼、今城塚古墳より発掘された本物の埴輪群(家・門・塀・太刀・盾・武人・巫女・力士・動物など)、3基の復元石棺や副葬品のことなど、余すことなく詳しく、また分かりやすい口調で解説がなされ、「古代のことが分かり、大変良い勉強が出来た」と大好評でした。 | |
埴輪の上部に船の絵が画がれている | |
今城塚古墳が築かれた頃の風景 前方に前塚古墳、右前方に郡家車塚古墳が見えます |
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葺き石が積まれてゆく |
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排水溝の様子 |
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石室基盤石組の様子が展示 |
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阿蘇のピンク石の石棺に、継体大王らしき人物 |
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阿蘇のピンク石 |
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竜山石 |
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二上山白石 |
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今城塚古墳の全体図 |
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(家・門・塀・太刀・盾・武人・巫女・力士・動物など) |
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武人の埴輪 |
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力士の埴輪 |
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巨大な家形埴輪 |
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巫女の埴輪 |
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上部側面に埴輪の映像などが流される |
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珍しい牛の埴輪 |
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犬、豚などの埴輪 |
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あっという間の時間でしたが、時計は12時10分を回っており、今城塚古墳公園の埴輪祭祀場近くの芝生に座って昼食。休憩もそこそこに、12時50分、午後の今城塚古墳の案内も熊倉さんの名調子で始められた。 |
埴輪祭祀場 |
午後の今城塚古墳の案内も熊倉さんの名調子で始められた。 埴輪祭祀場に復元された埴輪の多さ(200点以上)と綺麗に整列された状態に先ずびっくり。先ほど、歴史館で間近かに見た埴輪が見事に復元され、どれも北方面に向かって立っていた。何故だろうか?また、内堤の上の両端に、復元された1300個の埴輪がぐるりと展示されている様子は、素晴らしいというほかない。続いて内堤の断面展示を見てトンネルを出たあと、芝生が植えられた内濠を歩き、後円部を仰ぎ見る。 南の造り出しと前方部の南の隅を見ながら、後円部の裾に張られた張り石と葺き石の違いなど解説を聞いた後、後円部に上る。後円部の盛り土や排水溝の様子を確認、さらに墳丘に上り全体の大きさを見て、伏見大地震で崩れてあちこちに点在する石室基盤の石の様子に改めて驚く。続いて、古墳が造られた当時の姿が彷彿とする南西部の隅に下りて周りの状況を観察。墳丘を取り巻く水濠、北の造り出しの状況など、継体大王思いが凝縮された素晴らしい古墳だなぁと納得。約1時間かけてじっくりと案内頂いた。 熊倉さん、大変わかりやすい解説をして頂きまして、本当にありがとうございました。 |
午後の今城塚古墳の案内も熊倉さんの名調子で始められた。 |
埴輪は整然と北を向いて整列していた 先ほど、歴史館で間近かに見た埴輪が見事に復元され、 どれも北方面に向かって立っていた。何故だろうか? |
武人や巫女の埴輪 |
力士の埴輪 |
復元されたお祭り広場 |
内堤の上の両端に、復元された1300個の埴輪がぐるりと 展示されている様子は、素晴らしいというほかない。 |
内堤の上の両端に、復元された1300個の埴輪がぐるりと 展示されている様子は、素晴らしいというほかない。 |
埴輪祭祀場と外濠(芝生)と堤(アンツーカー) |
外濠と内濠を結ぶ北川地下通路には、 内堤の調査で確認した盛土の断面土層が展示されている |
石敷遺構 |
内堤の断面展示を見てトンネルを出たあと、 芝生が植えられた内濠を歩き、後円部を仰ぎ見る。 |
水濠(芝生)を歩く |
南の造り出しと前方部の南の隅への張り石の状況 |
墳丘のすそに張り付けた張り石 |
南の造り出しと前方部の南の隅を見ながら、 墳丘部の裾に張られた張り石と葺き石の違いなど解説を聞いた後、後円部に上る。 |
後円部2段目の盛土内から、中心部の盛り土を取り巻くように 川原石を積み上げた大規模な石組・墳丘内石積と、そこからテラスへ 伸びる石を組んだ排水溝をいくつも見つけました。 盛土に浸透した雨水をいち早く排出し、墳丘のゆるみや崩落を 防ぐための施設です。 |
北側の崖下には、大規模な川原石の石組・石室基盤工が埋まっています。 文禄5(1596)年の伏見地震で割れて盛土ごと滑り落ちたものです。 もとは後円部2段目の上面中央(現在地付近)に埋め込まれた人工地盤とも いうべきもので、重い横穴式石室が沈下しないように築かれました。 この石室の上に継体大王の石室があったんか。 石室の存在を物語る石積み。大発見や! |
伏見の大地震で滑り落ちた石組み跡 |
石室の中央を示す石組 531(継体大王の亡くなった年)と2011の数字が刻まれている |
後円部の盛り土や排水溝の様子を確認、さらに墳丘に上り全体の大きさを見て、 伏見大地震で崩れてあちこちに点在する石室基盤工の石の様子に改めて驚く。 |
墳丘は後円部が3段、前方部が2段に築かれていました。 伏見地震による地滑りをまぬがれ、本来の高さをほぼ留めていました。 発掘調査により、埴輪列が確認されています。 テラスと違って底径35cmほどの小ぶりの円筒埴輪がまばらに 立て並べられていました。 |
続いて、古墳が造られた当時の姿が彷彿とする南西部の隅に下りて周りの状況を観察。 |
写真は、前方部1段目のテラスの円筒埴輪列 コーナーには、朝顔形埴輪が確認されています。 |
築造当時の姿を残す南西隅部 |
内濠、内堤には円筒埴輪がずらりと並べられている |
墳丘のくびれ部設けられていた四角い突出部を、造り出しと呼びます。 北造出し盛土は、地滑りで内濠側へ崩落していました。 そのため内濠から北造出しに置かれていた壺や器台など 一群の須恵器が見つかっています。 造出しで供物を捧げるなどの儀式が行われていたことの証です。 |
墳丘を取り巻く水濠、北の造り出しの状況など、 継体大王の思いが凝縮された素晴らしい古墳だなぁと納得。 |
最後に、埴輪祭祀場のの埴輪は、 北の方角にあった古代の道に 向かって並んでいただろうとのことであった。 |
約1時間余りかけてじっくりと案内頂いた。 熊倉さん、大変わかりやすい解説をして頂きまして、 本当にありがとうございました。 |
次回の114回の歴史ウォークは、6月11日(土)、「棚田100選・あらぎ島と濱口梧陵の稲むらの火、明恵温泉」のバスツアーです。集合は、午前8時、焼肉・久太郎の駐車場です。 |
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最後までご覧いただき有難うございました |