ホームページに戻る
 

交野歴史健康ウォーク 第188回

石切剣箭神社と上之社詣で
2020.2.8(土) JR河内磐船駅 午前9時集合

行程 : JR河内磐船駅(午前9時集合)→ 放出駅にて東大阪線に乗り換え→
高井田中央駅→地下鉄高井田駅→新石切駅→石切剣箭神社→
石切神社商店街→石切大仏→千手寺→上之社→婦道神社・登美零社→
近鉄石切駅(解散)→河内永和東大阪線に乗り換え→放出→河内磐船駅

徒歩 約4.5KM

案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
     
参加者 28名(会員19名)

 2月に入り急に冷え込んできた2月8日(土)午前9時、28名の元気な仲間が河内磐船駅に集合。高尾部長の挨拶を受けて、村田事務局長から石切さんのお話など行程の説明のあと、河内磐船駅より放出駅にむけて元気にスタートしました。
 久しぶりに訪れた石切さん、大勢の参拝客で大賑わいでした。普段見ることが出来ない「神火祭」、「穂積殿宝物館」の貴重なご神宝などを拝見することが出来て感激でした。
 昭和の時代の面影が残る「石切参道商店街」を左右に見ながら途中、石切大仏や千手寺に立ち寄り、上之社へのぼること30分ばかり、皆さん元気に参拝されました。
 12時20分頃近鉄石切駅解散、帰路は河内永和駅で乗り換え放出駅経由で交野へ無事帰りました。
 3月の勉強会「物部氏と饒速日命と交野」討論会に向けて、物部氏ゆかりの石切剣箭神社・史跡を訪ねて、なお一層理解が深まったように思います。大変お世話になり有難うございました。

 ※レジメの作成や歴史的なデータ収集など高尾秀司氏に大変お世話になりました。
 石切剣箭神社ほかHPやWEB記事などを参考に掲載いたしました。
 記して感謝申し上げます。

 石切剣箭神社楼門・絵馬堂前にて記念撮影
 石切剣箭神社参拝 マップ
 
 
JR河内磐船駅(午前9時集合)→ 放出駅にて東大阪線に乗り換え→
高井田中央駅→地下鉄近鉄けいはんな線高井田駅→新石切駅

交野歴史健康ウォーク レジメ 
 
  石切剣箭神社本殿・スタート
石切剣箭神社本殿 (いしきりつるぎやじんじゃほんでん)
祭神 : 饒速日命(にぎはやひのみこと)・可美真手命(うましまでのみこと)

「参詣のしおり」によると、今からおよそ700年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿、宝庫が焼失したため社歴は詳らかではありません。しかし延長5年(927年)に編纂された「延喜式神名帳」の中には、既に「石切剣箭命神社二座」と記載されております。当神社の宮司は代々物部系の穂積氏(木積=こづみ))が務めており非常に由緒のある神社であります。
 宝庫には鏡・刀・青銅製品等が展示されております。
 今回、展示会期間中でありゆっくりと鑑賞することが出来ました。

石切劔箭神社・一の鳥居
 延喜式神名帳に、『河内国河内郡 石切劔箭神社二座』とある式内社で、東石切所在の“本社”と、その東方約1kmにある生駒山系・通称・宮山の山腹にある“上之社”(古く“上ノ神社”といった)の2社から成る。昔から鎮座地に変動はないという。
 
石切剣箭神社境内図
 
高尾秀司氏の案内で詳しくご説明頂きました。
 
 
絵馬堂・楼門の剣と箭(つるぎとや)
 社名・劔箭は“石をも切り、また貫くの意味で、武人物部氏との関係を語るものだろう”だというが(式内社の研究・1977)、劔箭の“劔”は、遠祖・ウマシマテが神武から賜ったとされる神剣・フツノミタマに、“箭”はニギハヤヒが神武に示した天つ神の子の証・天羽羽矢(アマノハハヤ・蛇の呪力を負った矢)に因むものとも考えられる。
 
石切剣箭大神御霊験の額
 なぜ腫れ物の神様と言われるようになってのでしょう。写真はこの神社の不思議な霊体験を記した感謝文。

何が書いてあるかというと。

私は大正7年に頸部リンパ節結核(喉に出来る腫れ物)と医師の診断を受けました。
医者からは非常に悪質な状態で手術をして、何度も切り取ってもまた再発し、命を取るものだと宣言されました。
これは神様、仏様のご加護に頼るよりすべはなしと決心し、石切劔箭神社にて1週間の願掛けをしましたところ、あら不思議、満願の朝・・・
昨夜まであった頸部リンパ節結核(喉に出来る腫れ物)は跡形もなく消え失せ、これまでの苦痛は夢のごとく、私はその霊験のあらたかな事に驚き、その日のお礼参りの足取りもあまりの嬉しさ有り難さに非常に軽く、地に足がおぼつかないほどでした。
その後も様々な不思議なご利益を頂いて、今日まで来ました。
今その霊験のあらたかなことを一般の人々にも広めてこの御恩に報いたいと思います。

ざっくりとこのような事が書かれていて、日付には昭和36年3月16日と記載がある。

この体験談は近代のものですが、昔からご利益を頂いた人がその御恩に口コミで広めたのでないかと・・・

関西では腫れ物の事を「でんぼ」といい、石切神社は「でんぼ」の神様と呼ばれ、腫れ物を直してくれる事で有名。
神社の説明によると実は「でんぼ」ではなく、本来は「伝法」だと言われているそうな。
古より伝わる禁断の秘法をさすのだそうな。

「伝法」が、上記のような口コミの為、「でんぼ」と伝わり、それを聞いて参拝した人がこれまた腫れ物が治ったとの口コミを広める。なので本当は腫れ物だけを治す神様ではないのでしょうね。
 
 
 
親子連れ牛像
石切神社の神事である「献牛祭」が昭和60年に
復活したことに因んで奉納されたのが親子連牛像
 
二の鳥居と本殿
 
本殿前はお百度参りの人達で賑わっていました
 
拝殿(本殿)にて参拝
 
 
御祈祷所
 午前10時半頃、神火祭が行われていました
病魔退散・家内安全の祈願する神事
 
 
 
 
 
 
 
 祈り亀。あなたの願い事を記し、祈り亀の腹中に納めて神霊池にお放し下さい。
祈り亀が静かに祈りつづけます。と書かれています。
 
 由緒あるご神宝をゆっくりと拝見することが出来感激です!
 
 
 
 
 
ご祭神について (WEBより参照)
 祭神
 当社由緒では、祭神は
 「天神から十種の瑞宝(ミズタカラ)を授けられ、天磐船に乗って河内国河上の哮峰(イカルガノミネ)に天降った饒速日命(ニギハヤヒ)と、その御子・可美真手命(ウマシマテ)の2柱」とするが、ニギハヤヒ・ウマシマテの神名・神格・系譜など、古事記(712)・日本書紀(720)・先代旧事本紀(9世紀後半・物部系史書)とで少しずつ異なる。
 略記すれば(いずれも大意)
 *古事記・神武天皇条
  ニギハヤヒが、神武のもとに赴いて、「天つ神の御子が天降られたと聞いて、あとを追って降ってきました」と申して、天つ神の子である証の宝物を奉って仕えた。
  ニギハヤヒ命が、トミピコ(ナガスネヒコ)の妹・トミヤヒメを娶って生んだ子が宇麻志麻遅命(ウマシマジ)で、ウマシマジは物部連・穂積臣らの祖先である。

 *日本書紀・神武天皇即位前紀
  ナガスネヒコ(神武の大和入りを阻んだ土豪)が使いを送って、天皇に「昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。命が、我が妹・ミカキヤヒメを娶って生まれた御子をウマシマテ命という。・・・」と告げた。
  ニギハヤヒは、天皇に抵抗するナガスネヒコを討って、天皇に帰順した。天皇はニギハヤヒが天から下った天孫であることが分かり、これを寵愛された。これが物部氏の先祖である。

 *先代旧事本紀
  アマテラスは御子・アメノオシホミミ尊の御子・天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒのミコト)に、天孫の爾である瑞宝を授けて葦原中国に天降らせた。
  ニギハヤヒは、天磐船に乗って河内国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天降り、さらに大和国の鳥見(登美・トミ)の白山に遷った。
  尊と鳥見の豪族・ナガスネヒコの妹・ミカシキヤヒメとの間に御子・ウマシマジ命(又の名:ウマシマデ、ウマシマミ)が生まれたが、尊自身はその誕生前に死んでしまわれた。
  御子・ウマシマジは、神武天皇に抵抗する舅・ナガスネヒコに従わず、これを殺し、衆を率いて帰順した。天皇は、その忠誠を喜び、神剣・フツノミタマの剣を与えられた。
  ウマシマジは、父ニギハヤヒから受け継いだ天爾瑞宝十種を天皇に奉り、天物部を率いて逆賊を斬り従え海内を平定した。
となるが、記紀と旧事本紀とでは次の点が異なる。
 *ニギハヤヒの出自について、記紀では天神とはするものの皇統譜には出てこないが、旧事本紀ではアマテラス直系の皇孫とする(記紀にいう皇孫ニニギ尊は出てこない)
 *天孫降臨の主体を、記紀にいうニニギ尊ではなく、旧事本紀ではニギハヤヒとする。
 *神武に抵抗するナガスネヒコを討ったのは、書紀ではニギハヤヒとするが、旧事本紀では御子・ウマシマジとする。
 *物部氏の祖を、書紀はニギハヤヒとするが、古事記・旧事本紀ではウマシマジとする。
 石切参道商店街
 
 
 
 
 
 
 
 
石切不動尊
 
 
 石切大仏
 
 
 説明看板によると、座像大仏様の大きさで日本で三番目と書いてある。
で、その高さは6mだそうだ。
日本には座像大仏の大きさで10mを越えるものが5つ以上はあるはずですが・・
 
 
 蝮塚・阪本漢方薬の由来 
  家伝薬として用いてきた各種漢方処方煎剤・丸剤・軟膏 剤・マムシ粉末を多くの方に提供し役立ててもらうために 阪本漢法製薬の前身、阪本製剤所は大正8年に産声を上げました。

昭和39年、現在の阪本漢法製薬が設立。その後、マムシの抽出方法を開発し、カプセル剤・錠剤・顆粒剤に応用、とくに抽出液を応用したドリンク剤の発売などで実績を積み上げながら多くの方に支えていただき今日に至っています。 (阪本漢法製薬HPより)
 千手寺
 役行者がこの一寺を建立、その後焼失した堂宇を在原業平が中興したと伝えられています。中世には修験道の道場として使われていたといわれます。本堂には大阪府の指定文化財に指定されている木造千手観音が祀られています。又前住職の木下密雲氏は仏教美術の専門家としても有名であり、交野市の「石仏の道」の石仏の鑑定にも加わって頂き現地の説明にもその説明書が残つております。
 
 
 
由緒書  残念ながら読めません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業平と 背中合わせの ぬくさかな
 
 石切剣箭神社・上之社
御祭神・饒速日命と可美真手命を祀る
神社の由緒書きによると明治40年政府の神社合祀政策によつて上之社は下之社に合祀される。その後上之社跡地として石碑のみ残つていたが、参拝者は後を絶たず昭和47年に再興され現在に至っております。
 
 【上の社】
 社殿は、道路脇からの参道石段の上に鎮座する。
 当社に伝わる古書・“遺書伝来記”に、
 「神武天皇紀元2年、現生駒山中の宮山にニギハヤヒ尊を奉斎申しあげたのをもって神社の起源とし、・・・」
というように、当社の起源となる宮山だが、その創建時期は不詳。
 先述のように、明治以降、本社との間で合祀・分離を繰りかえしたが、昭和47年(1972)、氏人の要望を受けて現在地に再建され:今に至るという。

 境内中央に拝殿が、その背後の山腹・覆屋の中に本殿(桁行二間一尺・梁行二間二尺)が鎮座する。元は本殿のみだったようで、拝殿・社務所は昭和47年の新築という。 
 
 
石切劔箭神社上之社
 いつもひっそりとしてはいるが、清廉で厳かな空気に満ちた、
圧倒的な存在感を感じる浄化のパワースポットである。
 
 
 
 境内中央に拝殿が、その背後の山腹・覆屋の中に本殿(桁行二間一尺・梁行二間二尺)が鎮座する。
元は本殿のみだったようで、拝殿・社務所は昭和47年の新築という。
 
 
 
 【上の社】
 社殿は、道路脇からの参道石段の上に鎮座する。
 当社に伝わる古書・“遺書伝来記”に、
 「神武天皇紀元2年、現生駒山中の宮山にニギハヤヒ尊を奉斎申しあげたのをもって神社の起源とし、・・・」
というように、当社の起源となる宮山だが、その創建時期は不詳。
 先述のように、明治以降、本社との間で合祀・分離を繰りかえしたが、昭和47年(1972)、氏人の要望を受けて現在地に再建され:今に至るという。

 境内中央に拝殿が、その背後の山腹・覆屋の中に本殿(桁行二間一尺・梁行二間二尺)が鎮座する。元は本殿のみだったようで、拝殿・社務所は昭和47年の新築という。 
 
 
 石切神社下之社で願ったお願い事が叶った際にはここにお礼の亀を奉納するのだとのこと。
 婦道神社
 婦道神社(登美霊社を合祀)
弟橘姫(おとたちばなひめ)は大和武尊(やまとたける)の妃であり、物部系の同族に当たります。第10代景行天皇の時代、大和武尊が東北平定に向われる途上、相模の海上で暴風雨に遭われました。弟橘姫命は嵐を鎮めんとして我が身を船上より海に投じ尊の無事を祈りました。

 「登美霊社=祭神は饒速日命の妃神の「三炊屋媛」は北隣にありましたが、近年当社が修繕の見通しのたたないほど毀損している事が分かり、婦道神社に遷座して祭祀を続けていくことになりました。今後は婦道神社にお参り頂きますようお願い申しあげます。
 
 
 
 
 
 婦道神社--摂社
  祭神--弟橘姫命(オトタチバナヒメ)
  オトタチバナヒメは、ヤマトタケルの東国征討で、走井海(浦賀水道という)の海神が荒れて海峡を渡れなかったとき、命の身代わりとなって海に入り海神を宥めたという后だが、穂積氏忍山宿禰命の娘とされる(書紀・景行紀)ことから、当社に祀られたのだろう。
 ただ、古くからの神社ではなく、昭和48年に創建されたものという。

 ・登美霊社
  路の突き当たりに建つちょっと変わった形の建物で、中には祭壇が設えられている。信徒会館とも思われるが詳細不明
 
 
 長髄彦(ナガスネヒコ)との関係
 神社の公式な見解にはないが、進藤治によると「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある。」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある。」などの口伝があるという。進藤は「石切」の音をi-si-kiri-jiと分解し、アイヌ語で解釈することで、「長髄彦」と訳出可能であることを指摘する。同じ結論を大山元も指摘しており、「石切」 i-si-kiri はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるという。

最後までご覧いただき有難うございました

交野古文化同好会HPに戻る