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交野歴史健康ウォーク 第185回

国史跡・石の宝殿古墳~寝屋川文化財資料館  ~忍陵神社・忍岡古墳(徳川秀忠本陣跡)

2019.7.13(土) JR河内磐船駅 午前9時集合

行程 : JR河内磐船駅~寝屋川公園駅~東高野街道四辻~明光寺~
高良神社~国史跡・石の宝殿古墳~寝屋川市立埋蔵文化財資料館~
東高野街道~打上古墳群~忍陵神社・忍岡古墳  約 4.5km徒歩


案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
     
参加者 26名(会員24名)

 梅雨の晴れ間の7月13日(土)、26名の元気な仲間がJR河内磐船駅に集合。9時4分発に乗車、最近駅名が変更された寝屋川公園駅に到着。(2019年3月16日(土)のダイヤ改正から、東寝屋川駅は「寝屋川公園駅」に改称されました)。

 今回も案内の高尾秀司さんが事前に周到な準備をされた「寝屋川公園駅から打上周辺を巡り、東高野街道を南下、四條畷の忍ケ丘駅まで」を隈なくゆっくりと案内頂きました。散策途中、生憎小雨がぱらつきましたが、殆ど気になるようなこともなく、初めて歩かれる方が多く行く先々で感動の声が上がりました。

 先ず、寝屋川公園駅から直ぐの東高野街道の四辻に建つ道標に案内され、昔の人々が行き交った往時を忍び、閑静な住宅街を上り、明光寺の雷神石や十三仏板碑、首なし地蔵などを見学。更に打上の急な坂道を上がり高良神社に参拝。境内を抜けて細い山道を100mばかり登ると、大きな石槨で作られた「国史跡・石の宝殿古墳」に出会いました。

 再び、寝屋川公園駅前に戻り、目の前の寝屋川東ファミリタウンのビルの1階に開設されている「寝屋川市立埋蔵文化財資料館」に立ち寄り、当館の浜田さんより約30分間、旧石器時代から江戸時代まで大変詳しく解説頂きました。それぞれの時代の人々の生活や背景も入れ乍ら大変興味深いお話を聞くことが出来ました。
 その後、東高野街道~打上古墳群~正縁寺十三仏~讃良川~忍陵神社・忍岡古墳を廻り、12時20分頃忍ケ丘駅で解散しました。

 ※レジメの作成や現地の案内など高尾秀司氏に大変お世話になりました。
  HPやWEB記事などを参考に掲載いたしました。記して感謝申し上げます。

 忍岡古墳を背に記念撮影
交野歴史健康ウォーク レジメ 
 
 
 
 寝屋川公園駅 スタート
 
平田会長の元気な挨拶
 
高尾秀司さんにご案内頂きました!
打上の道標・灯篭
寝屋川公園駅から直ぐ、打上の四辻の東高野街道に出る。この打上の四辻に立てられている道標は、東高野街道では市民に馴染み深い道標です。
打上の道標
JR寝屋川公園駅を上った東北方の四つ角に、この道標が立っている。
幅23cm、高さ143cm、安政4年(1857)の造立で各面に文字が刻まれている。
  • 安政四 為父母 施主
  • 南 かうや のさき 大坂みち
  • 東 なら いせ ミチ
  • 北 京 八はた 柳谷 星田妙見

この碑の南北に続く道が東高野街道で昔の姿が偲ばれます。
 
明光寺の十三仏
 明光寺(雷神石)(十三仏板碑)
当山の創建や由緒は不明であるが、山門横の雷神石や境内にある十三仏碑には山号や「弘治3年(1557)の銘が刻まれていることから、室町時代後期には存在していたと思われる。現在は浄土宗で知恩院末であるが、もとは融通念仏宗で守口佐太の来迎寺の末であった。山号を天照山と号するのは、この寺の上方にある国史跡「石の宝殿古墳」との繋がりが深かった事に由来していると思われる。
 
 
 
 
 打上の村の登り坂を行くと明光寺。境内には十三仏、珍しい板碑(雷神石)=古墳時代の石棺材を利用したもの、たらちねの乳房のように気根がぶら下った珍しいイチョウの古木などがあり、見学した後、うっそうと茂る木立の中を上ると、高良神社=こうらじんじゃ(竹内宿禰を祀る打上の氏神)に到着。
 高良神社から100mばかり山へ上ると「石の宝殿」(古墳(国指定史跡)、飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に珍しい墓室をもつ7世紀の古墳があります。


十三仏板碑
雷神石
明光寺の板碑


古墳時代の石棺材を利用し、それを少し加工し、文字を刻んで碑に仕立てた。材料は凝灰岩。


●偈頌(げしょう) 「天下和順 日月清明」
「伝説 無量寿経巻下」にみえる仏徳をたたえる詩。
 
 
明光寺の十三仏

十三仏は、死者の追善供養のために初七日(不動)、二七日(釈迦)、三七日(文殊)、四七日(普賢)、五七日(地蔵)、六七日(弥勒)、七七日(薬師)、百ヶ日(観音)、一周忌(勢至)、三回忌(阿弥陀)、七回忌(阿閦)、十三回忌(大日)、三十三回忌(虚空蔵)の十三仏事にわりあてられた仏・菩薩をいう。
 
 
 高良神社
 高良神社(打上神社)
祭神、武内宿祢 配神、八大龍王、人幡大神 摂社、住吉社 稲荷社 神明社
旧讃良郡に属し、江戸時代には交野郡に属していた。当社は江戸時代までは高良神社、高麗の訛であろうと推測されている。明治になって打上神社となったのではないかと推測される。
 

高良神社(竹内宿禰を祀る打上の氏神さん)
 
 
 
石の宝殿(国指定史跡)
 石の宝殿古墳
打上の裏山、海抜約80mの裏山にこの古墳はある。ほぼ南に開口し、横口式に花崗岩をくりぬいている。飛鳥時代(7世紀中頃)に築かれた石槨墳です。巨石を加工した石槨が露出している。この古墳を解明する上で「河内名所図会」に興味深い記述がある。すなわち石の宝殿のそばで高さ一尺をこえる金の骨壺がみつかり、その中に白骨が詰まっていたのに驚いて打上の極楽寺の地下に埋めたという記事がある。
 
 
 
 
 
 石宝殿(いしのほうでん)古墳(国指定史跡)は、飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に珍しい墓室をもつ7世紀の古墳です。
 寝屋川市東端の打上(うちあげ)の集落の中を通って裏山へ続く道の終点は高良神社ですが、この神社の東側の細い山道を100mほど進んだ所にある巨石が、石宝殿古墳です。
 石宝殿古墳は生駒山地からのびる丘陵に築かれた古墳です。

 巨大な花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)という硬い石をくり抜いて「石槨(せっかく)」と呼ばれる死者を葬る部分が造られています。石槨は、上面を平坦に加工した底石(下石)の上に直径3m、高さ1.5mの内部をくり抜いた蓋石を重ねたものです。

 内部は幅1m、高さ0.6m、奥行き2.3mで南側に入口があります。入口部分には左側の上下に丸い凹みがあり、本来は扉のようなものがあったと考えられます。この石槨の前には1.5mの間隔で板石が立てられており羨道(せんどう)と呼ばれる通路部分を造っています。

 同様な形をした横口式石槨は、奈良県斑鳩町の御坊山3号墳、明日香村の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)(厠(かわや))が知られているだけで、きわめて珍しい構造をもっています。

 石宝殿古墳の築かれた7世紀には、奈良県の飛鳥地域および「近つ飛鳥」と呼ばれる大阪府羽曳野市・太子町・河南町に集中して天皇・皇族やその側近が葬られていると考えられる古墳が築かれており、近畿地方の他の地域では古墳の築造はほとんど行われなくなります。この時期に北河内地域で唯一築かれた石宝殿古墳は、古墳の形や埋葬施設からも、かなりの有力者が葬られていたと考えられます。
 高良神社の隣地の高台は、役行者や不動明王が祀られ、寝屋川市内が一望されます。
 
 
役行者像
 
不動明王像
 
 
 寝屋川市立埋蔵文化財資料館
 埋蔵文化財資料館

 令和元年7月13日より来年の7月5日迄、新企画展「寝屋川歴史百科~郷土の過去を知り、思いを馳せる~」が開催されています。旧石器時代から江戸時代まで、市内の代表的な遺跡の説明と遺物が展示されています。

 昭和56年に北河内地域では最初に開設された文化財展示施設で、寝屋川市内の発掘調査で出土した土器・石器などの考古資料を時代やテーマに分けて展示しています。

 高宮八丁遺跡でみつかった弥生時代のドングリの貯蔵穴の実物標本や長保寺遺跡出土古代船(いずれも市指定文化財)は、常設の資料です。 

 
 
 
当館の浜田さんより大変詳しく解説頂きました。
 
約2万年前のナイフ形石器
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古代船の船体
平成5年に共同住宅の建設に伴う出雲町の長保寺遺跡の発掘調査で見つかった
古墳時代の井戸の中に設けられていた井戸枠は、古代船の船体の一部が再利用されたものです。
 
高宮八丁遺跡でみつかった弥生時代のドングリの貯蔵穴の実物標本
打上古墳群 
 打上古墳群
打上にはかって多くの古墳があったと言われる。「河内名所図絵」には「八十塚。同村に有り、由緒不詳。八十はその数の多きをいう」と紹介されている。打上には「八十塚」をしのばせるものとして、高塚、呉塚、堀塚、中塚、等「塚」のつく小字名が多く残っている。ここには古墳に使われていたと思われる大きい石が置かれております。
 
 
 
二月堂の灯篭
 東高野街道沿いに建っています。
 
 
正縁寺の十三仏 
 
 
正縁寺(しょうえんじ)本堂
 
正縁寺(しょうえんじ)十三仏板碑
(安土桃山時代 天正十四年 1586年、花崗岩、高さ 84Cm)

十三仏の向かって右側に「時講人数十三人 敬白」、
左側に「天正十四年(1586)二月十一日」の刻銘がある。
 
永禄二年(1559)の六字名号板碑
忍陵神社・忍岡古墳
 忍陵神社(式内社)
 当神社は今から1200余年前より当地域(岡山、岡山東、砂地区)の守護神、熊野皇大神、大将軍神、馬守大神をおまつりしています。古くは別々に祀っていたが明治、大正時代に合祀され今の社名に改称された。又古墳時代前期の前方後円墳の石室が現存し、又大阪夏の陣では徳川方の本陣が設営されたことでも有名であります。

 
 
 
 
 忍岡古墳
 忍岡古墳(大阪府指定史跡)
 この古墳は、古墳時代中頃に築造された全長87mの前方後円墳で、標高36m、河内平野を一望できるこの場所に豪族が豪華な副葬品と共に葬られていました。古墳の発見は昭和9年(1934)の室戸台風によって神社が倒壊し、その再建工事中に石室が発見されたことにはじまります。
 石室は長さ6m、幅1mで板石を丁寧に積み上げた立派な竪穴式石室である。近年の研究で石は兵庫県の猪名川産であることが分かりました。
 
 
忍岡古墳(しのぶがおかこふん)】 四條畷市岡山
 JR学研都市線「忍ケ丘」駅から200mほど西へ行くと、左手に小高い丘陵が見え、その頂上部にある。 忍陵神社で、ここが忍岡古墳である。
昭和9年9月の第1室戸台風によって忍陵神社が倒壊した。その後復旧工事が行なわれ、昭和10年4月拝殿整地中に竪穴式石室が発見された

 石室の規模は、幅1m,長さ6mで板状割石を内面に揃えて小ロ積みしたもの。この忍陵古墳は、忍ケ丘丘陵の突端部の景勝地に築造したものである。北向きの前方後円墳で、全長87m、後円部径45m、高さ6mの規模で、石室内から石釧、紡錘車、鍬形石、剣、斧、刀子が出土している。
 これらの出土遺物や石室・古墳の形から古墳時代前期につくられたと推定されている。
 北河内で同時期の古墳として、枚方市の万年寺山古墳、藤田山古墳、交野市の妙見山古墳があげられる

忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ)
 忍岡古墳の後円部に建てられているのが忍陵神社である。社伝では、1200余年前より四條畷の岡山、岡山東、砂地区の守護神 熊野皇大神・藤原鎌足公・大将軍神・馬守大神を祭祀としてきたと伝える。(延喜式内社)

近世、大阪夏の陣では、2代将軍徳川秀忠の本陣が設営され勝利したので御勝山と称された。
同日、初代将軍家康は本陣を星田平井家および新宮山に設営し大阪城を目指した。

【讃良川(さらがわ)の遺跡】
 忍岡古墳の北側、寝屋川市南端の台地との谷間に流れる川が讃良川である。
東の山々にその源を発して、門真市巣本附近で寝屋川に合流しているが、昔はこの丘陵の谷間を自由に流路を変えて流れ、西の平地にいたって天井川を形成していった。
 この讃良川畔一帯は、旧石器、縄文後・晩期、古墳時代、白鳳時代に創建されたと推定される更良寺等々の遺跡が重なりあった貴重な地域である

忍岡古墳

近世、大坂夏の陣では、2代将軍徳川秀忠の本陣が設営され勝利したので御勝山と称された。
同日、初代将軍家康は本陣を星田平井家および新宮山に設営し大坂城を目指した。
大 正 寺
 松風山・大正寺(だいじょうじ)は、鎌倉時代に、法然上人のお弟子さんであった
西仙房心寂上人がこの大正寺の地に庵をたてたのが始まりです。
 
 
大正寺の梵鐘
(梵鐘には「宝永八年(1711年)」の年号が刻まれている。)
 

観音堂に安置されている聖観世音菩薩は、、
讃良寺が廃れた後、大正寺へ祀られたと言われ、
平安時代初期藤原時代のものと伝えられている


最後までご覧いただき有難うございました

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