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一里塚周辺で詳しく説明される | ||||||
元禄10年星田村絵図(1697年) 一里塚が描かれている | ||||||
天保14年絵図にも一里塚が描かれている | ||||||
街道の側の古い地名は、「金門・車司」であつて 「寝屋」の長者屋敷と鉢かつぎ姫」に思いを馳せます。 |
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いずれも御伽草子の鉢かづき姫にでてくる長者屋敷にかかわる地名である。堀之内は、隣接する寝屋村も堀の内となっていてここに堀に囲まれた長者の屋敷があったとされている。金門は、金で装飾したような立派な門があったとされている。車司は、長者の乗る牛車をひく人々やその牛を飼育する人が住んでいたところであるとされている。 鉢かづきちゃんは、現在寝屋川市のマスコットキャラクターになっているが、寝屋川市にはこの原本の1つである「河内国交野郡寝屋長者鉢記(寝屋川市役所蔵本)」(1巻~7巻)が図書館で閲覧させている。この物語の長者は備中守藤原実高といって屋敷は、東西12町(1300m)、南北4町(440m)の広さがあり、幾百坪の建物や10数坪の土蔵が立ち並び近畿でも長者の頭と呼ばれていて、西側にたち川が流れていることを考えるとその規模からして長者屋敷はかなりの部分が北星田地区にあったと考えられる。なお、松会堂蔵版写本「寝屋長者鉢かづき」(万治2年―1698年)は、その頃は、屋敷の形は残っていたとされている。 |
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北星田地区区画整理の為、周囲は一変している | ||||||
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東高野街道の名称は、明治15年に初めて使われた。大阪市内の他の高野街道と区別の為です。男山八幡宮から河内長野迄の50km余伸びます。交野市はほぼ西端に南北に通り、一部茄子作も含め約5kmです。住宅開発や工場建設等で既に無くなった所もあります。一里塚のあった区間の内中央部半分は、区画整理事業で拡幅計画され、両端部は取付位置変更によつて無くなってしまう計画です。 | ||||||
北星田 土地区画整理事業 完成イメージ | ||||||
一里塚跡 付近に掲示されているのを参照しました。 |
星田の北はずれにある共同墓地の入□は、東高野街道に接します。六路の辻から流れてきた地蔵川に、街道の「墓之前橋」の石橋が明治37年7月と刻まれ、架かっている。この橋の横に7基並んだ石仏は、左端が新仏を迎え下さる「迎え地蔵」の地蔵菩薩で、二番目は弥陀の定印結ぶ阿弥陀如来坐像です。他の石仏は、昭和50年の改修工事で川床から上げられたものである。 |
「墓之前橋」の石橋が明治37年7月と刻まれている (風化して僅かに読み取れます) |
左端が新仏を迎え下さる「迎え地蔵」の地蔵菩薩で、 二番目は弥陀の定印結ぶ阿弥陀如来坐像です |
共同墓地内かかりの「板碑形」の阿弥陀如来坐像石仏は、頂部三角形でその下に二条線が見られる。この板碑は死者を追善する卒塔婆で、室町後期~桃山頃のもの。右側に舟形光背を背負う六地蔵が並ぶ。少し奥に215年前に「神祖営趾之碑」建立に関わった平井貞豊公のお墓があります。この碑には大坂夏の陣で、平井家に宿営した家康の参謀と平井家当主の事蹟が詳しく刻まれています。 |
「板碑形」の阿弥陀如来坐像石仏は、頂部三角形でその下に二条線が見られる。 この板碑は死者を追善する卒塔婆で、室町後期~桃山頃のもの |
舟形光背を背負う六地蔵が並ぶ |
河内相撲の大井川のお墓 |
215年前に「神祖営趾之碑」建立に関わった平井貞豊公のお墓があります。 この碑には大坂夏の陣で、平井家に宿営した家康の参謀と 平井家当主の事蹟が詳しく刻まれています。 |
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墓之前橋から北は、府道20号(枚方・富田林・泉佐野線で東高野街道のバイパス)と交わります。元の街道は東側の工場の敷地内に入って行ったのが、工場建設で無くなったのです。府道の西に「新仏道じるべ地蔵」があるが、元は東側の工場内で、元の街道の辻に立っていたのです。舟形の石に地蔵菩薩の立像は、美いヽ石仏です。 | |||||||||||||||||||||||||||
府道の西に「新仏道じるべ地蔵」がある |
東高野街道と第二京阪の交差部の西(コンビニの北側)で、弥生時代中期前半(約2200年前)に建てられた、独立棟持柱を持つ「大型堀立柱建物」の跡が、道路工事前の調査で見つかりました。平成17年3月の新聞では、「集落の中心施設で、弥生最古級の神殿跡?」と報道されて話題になりました。梁間4.5m、桁行8.6m、床面積39㎡(約12坪)です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
弥生時代中期前半〔約2200年前)に建てられたもので平成17年3月の読売新聞では集落の中心施設で「弥生最古級の神殿跡?」と報道され話題になりました。その外、須恵器の大甕を据えた水場、馬蹄形かまど跡、弥生人の指跡が明瞭に残る土器、モミを押し付けた痕の残る土器、須恵器の窯あとではないかと思われる焼けた土痕などが検出されました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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天野川と東高野街道の間の一帯を、古い地名「上ノ山」と云います。逢合橋西南のこんもり台地は、「上ノ山の辻」で東高野街道と、北東から上ってくる山根街道が合流します。そこには私部村地蔵講中が、1725年建立の「上ノ山地蔵」が立っている。地蔵の側の二つの道標は、「大峰山道標」1855年建立と「大阪府道標」1904年(明治37)建立です。京や八幡、宇治、津田、星田停留所等への案内です。 | ||||||||||||
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「うえん山」の辻 第二京阪国道が完成し、168号線のバイパスが通り周囲は変わっている。 |
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逢合橋を渡りまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、100㍍ほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。 この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標があったが、今は南の玉垣の前に移動している。 ここは、枚方市茄子作4丁目。 ※茄子作(なすづくり)の地名の由来 平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する。 南に進むと右に、玉垣があり地蔵様がおられる。ここは、上人松の伝説がある。明治30年ごろまで四方に枝を張った松があったが、今はその松はない。二代目と思しき松が玉垣の中に植えられている。 すこし上ると、「うえん山」の辻に出る。ここは山根街道の分岐点で、高さ2mを越す安政2年の道標がある。他に享保の地蔵があり、大阪府の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。歴史上の名だたる人々が往来し、真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。 |
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(えつぶちゅうひつきねんひ) |
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星田の第一御野立所「大正天皇行幸記念碑」から、上ノ山の第二御野立所「閲武駐蹕記念碑」のところへ移られて、天皇はここからも陸軍特別大演習の状況を統監された。この演習は明治25年から昭和11年迄(45年間)年1回行われ、両軍に分かれての大規模な模擬戦|ま、天皇が審判長を務められた。この少し前に日本は、第一次世界大戦に参戦したこともあり、白熱した演習となった。 | ||||||||||||
上ノ山の辻から北の左手に、玉垣の中に立派な地蔵と松の木が、「本尊掛松跡」。700年前の元亨元年、大念仏宗の中祖七世「法名上人」|よ、男山入幡神の霊夢を受け、深江から男山へ向かう途中、同じ霊夢を受け霊宝を届:すんと、八幡宮の一行とここで出合い、十一尊天得如来の画像を授かった。上人はこれを側の松に掛け念仏を唱えると感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの初まりです。 |
元亨(げんこう)元年(1321)11月16日夜、融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)中興の祖法明(ほうみょう)上人が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に出会い、11面尊天得如来(じゅういっそんてんとくにょらい)の画像を授かった。上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。やがて一夜の宿を乞うたのが犬井甚衛門(いぬいじんえもん)屋敷(茄子作北町)であったという。「本尊掛松」はこの画像を掛けたことに由来し、別名「ホトトギス松」とも言われるのは、ホトトギスの鳴き声を「ホンゾンカケタカ」と聞きなすためである。 1994年 枚方市教育委員会 |
玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。ここ「上人松」にこんな伝説がある。
後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。 以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。 |
本尊掛松跡から北へ進むと、逢合橋から西へ向かうバス通り(府道148号木屋交野線)の交差点に出る。この道は昔の「交野街道」で現在の(府道18号枚方交野寝屋川線)が天野川の西手前で右に折れ、逢合橋を渡って来た。枚方丘陵の南は平坦で、守□方面から交野までの街道があった。その先東高野街道は、バイパスの中に約130m消えた後茄子作東町の新興住宅地の中を北へ伸びて行きます。 |
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