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日時 : 2017年3月11日(土) 午前9時30分 JR河内磐船駅集合 参加者 17名(会員9名) 行程 :JR河内磐船駅 → 津田駅 → 北代遺跡 → 機物神社 → 倉治公園 → 旧交野中学プール跡 → 交野山石切り場跡 → 展望台 11時50分頃解散。 |
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2017年3月11日(土)、天候 晴れ時々曇り。河内磐船駅を9時38分に乗車、津田駅で待合せた3人と合流、併せて17名の元気な皆さんが参加された。 津田駅前で、高尾事業部長から行程についての挨拶のあと、倉治の桜道に沿って流れる「がらと川」の右岸道路へと歩き、倉治8丁目の「北代遺跡」について発掘調査結果など詳しく解説頂き、その後、倉治の閑静な住宅街を抜け、機物神社、倉治公園を過ぎ、旧交野中学のプール跡の横を通り抜けて、交野山へと続く急な坂道の「見晴らしの道」を約20分ばかりゆっくりと登り、今回のウォークのメインテーマの「交野山石切り場跡」を見学しました。 展望台から見える第二京阪国道の流れや大阪のビル群の中に「あべのハルカス」を確認したりして雄大な眺望を楽しみました。11時50分頃解散、河内磐船駅行きと津田駅行きの2班に分かれて、夫々無事に帰途につきました。 今回のウォークは、平成26年に発掘・発見され新規に埋蔵文化財包蔵地として指定された2遺跡を中心に案内していただきました。健脚コースと明記された影響か、いつもの例会に比べて参加者が少なめでしたが、参加された皆さん、元気に「交野山石切り場跡」まで登られ、「参加して良かった!」と感想を述べられ好評でした。 ※HPの掲載に当たり、講師の高尾さん作成のレジメを中心に、交野市教育委員会発行の交野市文化財だより、特別展示内容、各種書籍・文献書類など、参考にさせていただきました。記して感謝申し上げます。 |
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=北代遺跡と交野山石切り場跡= レジメ | |
桜道手前の「外池」は整備され柳の木が綺麗に写っていました! |
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倉治桜道にそって流れる「がらと川」の右岸、倉治8丁目で開発事業が計画され、それに先立って、遺跡の所在と範囲などを確認するために、埋蔵文化財の試掘調査がおこなわれました。 |
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奈良時代の掘立柱建物が確認された |
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がらと川の旧河川や掘立柱建物と柵列 |
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調査地から交野山を望む |
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高尾さんから発掘当時の写真で詳しく解説頂きました |
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倉治8丁目の「北代遺跡」について発掘調査結果など詳しく解説頂き、その後、倉治の閑静な住宅街を抜け、機物神社、倉治公園へと歩きました。 | ||||||||||||||||||
がらと川を渡り倉治の集落に入り静かな街並みを真っすぐに南に行くと石橋があり、その東側に「仁平川の洗濯場」がある。この洗濯場の西側にある家の屋号が「仁平」といい、流れる小川が仁平川という。 「この洗濯場は、村の人々の語らいの場であり、コミュニケーションの場であった。家で親夫婦、年寄りが昼寝をしている間にそっと洗濯にくるのが仁平川の洗濯場だった」と高尾さんは説明された。 |
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《倉治の迷路・光明院付近》 交野の古い村々の中で、倉治の光明院付近の道が特に分かりにくい。 古い道は、T字型に結ばれていて、遠見遮断(辻から辻が曲がっていて見えない)になっているうえ、くねりが細かい。道かと思って飛び込んだら家で閉ざされた袋小路であったりする。 倉治の集落は、北のがらと川と南の倉治中川とに囲まれて密集した形態をしており、環濠集落ではないかという。道路も狭く、カギの手にいくつも分かれた防御的配慮がなされている。村から出る道は、北は津田道、春日道、西は郡津道、南は私部道、東は機物神社への参道である。(交野市史より) |
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現地では、梶の木と説明しましたが、間違いでした。たらようの木でした。 七夕に梶の木の裏に願い事を書く風習もあるそうです。 |
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たらようの葉っぱの裏に沢山願い事が書かれていました! |
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倉治公園では子供たちが元気に野球の練習をしていました。 |
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旧交野中学校の国旗掲揚の跡か? |
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旧中学校のプールの跡へ、現在、里山ゆうゆう会の 物置小屋が建設中であり、驚きました! |
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交野山石切り場は旧かたの中学校のプールの横を通り抜け急坂を登りつめた交野山西北尾根の頂部に位置します。これまで遺跡として知られていませんでしたが「矢穴」と呼ばれる砕石の痕跡の発見をきっかけとして詳細な分布調査が行われた。遺跡の広がりを確認した上で、新規の埋蔵文化財包蔵地として登録されました。 「矢穴」とは 花崗岩や安山岩などの硬質石材の採石で用いる「矢」とよばれる楔状(くさびじょう)の道具を挿入するための穴のことです。矢穴による採石方法が中世から現代の機械の導入まで長期にわたって使われた技術であります。 今回の分布調査の結果、矢穴が穿(うが)たれた石材は9点認められ、その内2点は石材の周囲をクレータ状に掘り込んだ遺構(採石土坑)に伴っていました。矢穴石の周辺には石材の剥片(はくへん)や屑石が認められず、多くの自然石の中に矢穴石が点在する状況でした。これはこの場所があくまでも石切場であり、石材の加工や調整は別の場所で行っていたことを示していると考えられます。 ここで切出された石は徳川大坂城の供給した石ではないようです(当時の大坂城の石に比べて小さい)どうも散発な石材の切だし長期間おこなわれた石切り場であったようです。 |
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交野山石切り場跡の矢穴石 | ||||||||||||||||||
交野山石切り場跡の矢穴石 |
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まず、石の目(割れる方向)を見定め、石に矢穴と呼ばれる穴をミシン目のように数箇所堀り、 楔(くさび)等を打ち込んで石を割ります。 工程は次の通りです。 @矢穴を掘るための仮線を掘る。 A矢穴を掘る。 B矢穴に矢と呼ばれる楔(くさび)等を打ち込み、石を割る。 石切りといいますが、実際は“切る”ではなく“割る”といった方がいいかもしれません。 割られた石は、平らに加工、あるいはそのまま使用されます。 |
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下記のDVDをご覧ください! |
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展望台から見える第二京阪国道の流れや大阪のビル群の中に 「あべのハルカス」を確認したりして雄大な眺望を楽しみました。 |
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展望台で記念撮影 |
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最後までご覧いただき有難うございました |