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交野歴史健康ウォーク 第129回

淀屋の史跡を訪ねる シリーズT
=中之島周辺めぐり=

(午前中…9:00〜12:00)
  京阪枚方市駅9:00〜京阪天満橋駅・・・・・天満橋〜 南天満公園〜中之島公園〜
東洋陶器美術館〜中之島公会堂〜佐賀藩蔵屋敷跡(現在:大阪高等裁判所)〜大阪市役所〜
〜御堂筋〜淀屋橋〜淀屋屋敷跡〜日本銀行大阪支店〜大江橋駅(構内の蔵屋敷図)〜
〜堂島米市場跡〜中之島フェスティバルタワー(FT)〜昼食・食堂街
(午後の部…12:40〜13:15頃)
  中之島フェスティバルタワー(FT)〜中之島ダイビル〜田蓑橋〜蛸の松〜
福沢諭吉生誕地碑〜玉江橋〜高松藩蔵屋敷跡〜リーガルホテル(熊本藩・徳島藩・
高松藩蔵屋敷跡)〜京阪電車「中之島駅」 解散  徒歩 約6km

      

 2013.5.11(土)午前9時、京阪枚方市駅集合。天候雨。前日から雲行きが悪く、明け方になり雨が降ったりやんだりの天候であったが、歴史ウォークは決行。時間通り元気な14名(会員外3名)の顔が揃った。枚方市駅9:08分出発、京阪天満橋駅で下車。
 今回は、淀屋研究会代表の毛利信二さんの案内で、「商都大坂と中之島を築いた豪商淀屋の歴史を訪ねて」中之島周辺の史跡や歴史を隈なく歩いてきました。

 午後12時、新築開業された「中之島フェスティバルタワー12Fで昼食。午後は、午前10時頃から止んでいた雨がまた降り出し傘をさしてのウォークとなり、予定を早めて午後1時15分頃、京阪中之島駅にて解散。

※散策当日、頂戴しました毛利さん作成のレジメやパンフレット、Webなど各種の資料を参考に作成しました。
記して、感謝申し上げます。

 
 当日の散策マップと中之島周辺地図
(大阪 中之島今昔物語、グランキューブ大阪パンフ参照)
 
 
 商都大坂と中之島を築いた豪商・淀屋
(JAバンク大阪発行 会員誌「中之島倶楽部vol.12」を参照)
 
 
 
毛利さん作成のレジメ(史跡:参考)
1.八軒家浜(川の駅はちけんや)
 かつて大阪と京都の伏見(約44.8km)を往来した三十石船の船着場。蟻の熊野詣への起点。 
水都大阪のシンボルとして、平成20年(2008)春に水上バスの駅として開港。
川の駅は平成21年(2009)にレストラン、観光船案内所、情報発信スペースとしてオープン。
京阪電車や地下鉄に直結し賑わいを見せている。

2.八軒家浜舩着場跡の石碑  (参考)
 永田屋昆布店の軒先に建つ。昭和57年(1982)に設立。

3.天満橋       (谷町筋)
4.南天満公園
5.将棊島粗朶水制跡(しょうぎしまそだすいせいのあと)
  淀川の水が寝屋川や鯰江川に逆流しないようにした隔流堤。約430mあった。(半島状) 大和川はここに流込でいたが、宝暦元年(1704)に堺の方に付替えされた。

6.淀川三十石舩舟唄碑           S59.12.8
  三十船というのは、長さが17m、巾2.5mで、米を三十石(米俵にして七十五俵)積み込める。船頭4人、乗客定員は28人。上りは人力、下りは川の流れにまかせでしたが、流れの速い瀬では船頭が岸に上がり、綱で引いたといわれている。船賃は、上り172文、下り72文だった。

7.天満の子守歌の碑            S58.4.23
 ♪♪ ねんねころいち 天満の市で  大根そろえて 舟に積む  舟に積んだら どこまでゆきゃる 木津や難波の 橋の下  橋の下には 鴎がいやる 鴎とりたや 竹ほしや  竹がほしけりゃ 
竹やへござれ 竹はゆらゆら  由良之助 ♪♪

8.天満青物市場跡              S61.3
当初京橋の淀屋の屋敷で開かれたが、承応2年(1653)片原町からこの地に移った天満青物市場は、諸国に類をみない繁栄を続けた。昭和に至り変遷があったが昭和20年戦災で廃絶した。

9.天神橋     (松屋町筋)
10.中之島と中之島公園
 中之島は江戸時代初めに豪商淀屋の初代常安が家康の許可をもらい開拓した。
土佐堀川と堂島川に挟まれた中之島。 大阪の政治・経済・教育・文化の中心地の一つ。
 公園は明治24年(1891)に大阪市として初めて誕生した都市公園。2009年夏にリニューアルオープン。

11.中之島東端噴水
大川(旧淀川)は土佐堀川(南側)と堂島川(北側)に分かれます
水都2009の公園再整備の一環として設置。最大長さ約60m、高さ約20mの巨大なアーチを描きます。

12.中之島バラ園
 昭和55年(1980年)に開園。面積1.3haに約310種、約3700株が植えられています。

13.・難波橋(ライオン橋)
橋の四隅にライオン彫刻(阿吽)。公儀橋。堺筋も始点。

14.木村長門守重成表忠碑
明治29年(1896)に、発起人は西村捨三と小林作兵衛。撰は西村捨三(元彦根藩士・元大阪府知事)書は日下部東作(明治三筆)。石は、安治川口の残念石を引き上げた。
木村は豊臣側の青年武将(1593-1615)。「茶臼山血判取」で有名。(九代目市川団十郎の弟子の五代目市川新蔵の名演技だったが、1895年頃、眼病を患ったのち失明し37歳で死亡)

15.(豊国神社)
豊臣秀吉を祀る神社として明治12年(1879)、現・中之島公会堂付近に建立され、昭和36年(1961)1月に現在の大阪城内に移設された。京都・名古屋・長浜・金沢・徳島などにもある。

16.(若永神社)
もと淀屋の屋敷内にあった鎮守の社とされ、その後も大川町に祀られていたが、御堂筋拡張に伴い、昭和2年(1927)にここ豊国神社に遷座されたが、昭和36年(1961)1月に現在の大阪城内に移設された。

17.東洋陶磁美術館
昭和57年(1982年)に設立。住友グループから寄贈された安宅コレクションと呼ばれる東洋陶磁コレクションを核とする。中国・韓国・日本の陶磁器約6000点収蔵。

18.関市長顕彰碑と銅像
17代の大阪市長・医学博士。大阪城や御堂筋の建設など大阪に大きな功績を残した。 20周忌にあたるS31年(1956年)に建立。

19.大阪市中央公会堂 
 (江戸時代は仙台藩の蔵屋敷跡・明治初めは大阪通商会社跡)・≪重要文化財≫
大正7年(1918)に株の仲買商・岩本栄之助の寄付により建てられた名建築。当時のお金で100万円。

20.鉾流橋・(天神祭)
陸渡御・・・公会堂前で披露(神社15:30出発)
船渡御・・・鉾流橋の乗船場から川を遡る。(神社17:30出発)

21.大阪高等裁判所(大阪地方裁判所)  (江戸時代は佐賀藩の蔵屋敷跡)
近畿2府4県を管轄している。明治8年(1875)に大阪上等裁判所として発足、
昭和22年(1947)に新裁判法により大阪高等裁判所と改称された。

22.佐賀藩蔵屋敷跡 ・(佐賀藩蔵屋敷舟入跡復元石垣遺構・・・現在工事中)
佐賀藩(鍋島家、357,000石)蔵屋敷の跡。舟入の跡が残る。約5267坪で大坂の蔵屋敷跡ではビッグ5に入る。平成2年(1990)の発掘調査で、長大な船溜・屋形・米蔵などの並ぶ様子が確認された。

23.水晶橋
 当初は稼動堰としたが、のちに歩行者専用になった。名前の由来は諸説ある。

24.大阪市役所  (江戸時代は唐津藩と福井藩の蔵屋敷跡)
旧庁舎は大正10年(1921)に中之島に完成。昭和61年(1986)に建替えし完成。8階建て。
1階に「大阪市廳」の旧表札が展示。人口:大阪府 880万人。大阪市 266万人。

25.府立中之島図書館  (江戸時代は浜田藩の蔵屋敷跡)
明治37年(1904)に住友家第15代住友吉左衛門友純(ともいと)が大阪府に寄贈した。
外観はルネッサンス様式、内部はバロック様式の名建築(ローマのパンテオンにならった)。国の重要文化財。

26.大阪通商会社・為替会社   (江戸時代は仙台藩の蔵屋敷跡・現在は大阪市公会堂)
明治2年(1869)に通商会社設立。 明治6年(1873)に為替会社となる。明治6年(1873)に国立銀行設立に伴い明治7年(1874)に解散。通商振興を図ることを目的とした銀行のはしり。

27.三好達治「乳母車」文学碑
28.御堂筋
昭和2年(1927)5月に道路幅を6m→43.6mに東側を拡張して完成。全長4km。現在は南行きの一方通行。ビルの高さが揃った整然とした景観がつくられた。約887本のイチョウ並木でも有名。

29.淀屋橋 ≪重要文化財≫
「淀屋(北浜)の米市」に来る人に便利なように、2代目・言当(个庵)が架けた橋
「淀屋の架けた橋」が「淀屋橋」の始めであり、現在より少し西寄りにあったとされる。
昭和10年(1925年)現在の橋は1924年の公募にてされたもの。コンクリートの橋で重要文化財。橋長:53.5m、幅員:36.5m、アーチ橋を渡る人7万人。車は6万台。淀屋橋駅は20万人

30.淀屋の碑・淀屋屋敷跡
江戸時代の豪商淀屋の屋敷跡で、心斎橋筋から現・三井住友銀行西側までの旧「大川町」のほぼ全域があり、敷地内には、いろは48蔵が建ち並んでいたといわれる。中之島も開拓して、淀屋橋は私費で架けた。淀屋が幕府に願い出て、屋敷前で「淀屋(北浜)の米市」が開かれていた。
(碑文=宮本又次:大阪大学名誉教授)
【淀屋屋敷跡碑文】 近世のはじめ、中之島の開発その他、大阪の発展に寄与するところが多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている。

31.淀屋小路   (参考)
淀屋屋敷の裏門(南側)があった道が、今でも淀屋小路として残っている。

32.郵便の碑
明治4年(1871)の郵便制度発足に伴って駅逓司大阪郵便役所がおかれた(東京・大阪・京都)

33.日本銀行大阪支店旧館  (江戸時代は島原藩の蔵屋敷跡)  
明治36年(1903)にベルギーの国立銀行をモデルに建てられたドーム型の屋根と石造りが美しい名建築。 設計は辰野金吾氏。外装は花崗岩。

34.中之島の碑         
昭和61年(1986)に防潮堤の耐震補強工事と遊歩道の整備を実施を祈念して建立。

35.京阪電鉄・大江橋駅
2008年10月19日にオープン。地下1階に天保期の蔵屋敷跡の図が掲示され、商店と改札口がある。ホームは地下3階にある。軌道は地下約25mにある。なにわ橋駅は約30m、中之島駅は約15m

36.「蔵屋敷跡」(京阪電鉄・大江橋駅構内)
天保期(1830〜1843)の大坂中之島界隈蔵屋敷跡で、90藩が配置されている。

37.中之島ガーデンブリッジ
 歩行者専用。ANAクラウンプラザホテル前に架かる。夜間はLED証明している。

38.堂島米市場跡 ANAクラウンプラザホテル前の川岸にある
元禄10年(1696)に米市場が北浜からここに移転してきた。
享保15年(1730)に先物取引が公許された。今年で283年。世界でも初の組織化された先物取引。

39.中之島フェスティバルタワー(FT)
東地区は、2010.1.9着工。2012.11.6完成。地上39階建て、地上高 198.96m
フェスティバルホールは、2階〜7階で、2700人収容。4/10に開場。
フェスティバルホールの南外壁に「牧童、音楽を楽しむの図」のレリーフがある(信楽焼)

40.朝日稲荷大明神元高松藩の屋敷神)   13階のスカイロービの一角に祀られている

41.錦橋         
歩行者専用。大阪の橋をテーマにした錦絵をタイルに焼きつけたものを展示している。

42.住友ビル本館(住友グループの各会社が入居している)    〈遠見〉
1962年に竣工。地上12階、地下4階。鉄骨造り。

43.住友ビルディンブ(三井住友銀行大阪本店営業部)       〈遠見〉
 1期:大正15年(1926)2期:昭和6年(1930)延べ床面積 35,983uで当時最大。住友工作部(長谷川鋭吉・竹腰健造)が建設。

44.大同生命大阪本社ビル                         〈遠見〉
  1期:大正14年(1925) ヴォーリズの設計(ヴォーリズ氏の妻の満喜子夫人の兄が社長だった縁。
  2期:平成5年(1993) 旧建物の装飾は一部残している。ビルの地下1階には
   ・大金庫:大同生命の古い金庫扉が約65年間にわたり使用された。
   ・秀吉ゆかりの井戸:五三の桐の紋様が彫られた井戸。加島屋の屋敷内にあったもの。

45.朝日新聞社ビル
 昭和43年(1968)竣工。ビルの中を高速道路が貫通している。近くツインタワーとして西地区は、2017年に建て替える予定。

46.肥後橋
  江戸時代初め、橋北詰の中之島に肥後藩の蔵屋敷があったので肥後橋・肥後島町と呼ばれた。だが、元禄時代に中之島西部の越中橋の北詰へ移転したが橋名と町名はそのまま残った。

46.水上瀧太郎「大阪の宿」文学碑
47.筑前橋
江戸時代の筑前・黒田藩の蔵屋敷への便利なように架けた。筑前前橋とも呼ばれた。

48.大阪市立科学館
1989年に大阪市制100周年事業として、関西電力から65億円の建物設備の寄付を受けて開館。前身は、1937年に初のプラネタリウムを導入して四ツ橋に開館。

49国立国際美術館(NMAO)
1977年(52年)万博記念公園内に開館したが、2004年(H16年)現在地に移転した。
現在「美の饗宴 関西コレクションズ」展を開催中、7/15迄開催。

50.関電ビルディング
平成16年(2004)竣工。地上31階地下2階塔屋1階。最頂部 195.45m。関西電力の本社が入る。

51.ダイビル
大正14年(1925)竣工の渡辺節の設計でネオ・ロマネスク様式のビル。新ビルは外観復元を取り入れて完成。

51.田蓑橋
 古代の大阪にあった八十八島の一つ、田蓑島に由来する。

52.蛸の松顕彰碑
慶長年間(1596-1615)に廣島藩主・福島正則が植えたとされる黒松で枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていた。川向こうにあったが明治後半に枯死した。顕彰碑は田蓑橋北側に設置。

53.ほたるまち
1993年に大阪大学医学部附属病院が吹田市に移転した後、コンペにて2008年5月2日に街開きした。

54.朝日放送(ABC)
平成20年(2008年)5月19日にほたるまちに移転してきた。(5周年記念)

55.福沢諭吉生誕地碑  (中津藩蔵屋敷跡)
天保5年(1835)に誕生、安政2年(1855)適塾に入門、万延元年(1860)に渡米、欧米諸国を歴訪して「西洋事情」「学問のすゝめ」など著述。慶応4年(1868)に慶応義塾を開学。明治34年(1901)に死亡。小泉信三氏の筆。中津藩彰碑は北側の設置。

56.玉江橋     (なにわ筋北側・堂島川)   常安橋と同じデザインです。
 古代大阪に架けられていた堀江橋の名前で復活したが、玉江橋に変更された。堀江で美しい玉が見つかった故事に由来する。平成3年に常安橋と同じデザイン(高欄・照明灯・タイル舗装)で改装された。

57.常安橋      (なにわ筋南側・土佐堀川)    〈参考:遠見〉
淀屋常安が、中之島を開拓した功績にて6000町歩をもらい常安町・常安裏町としてここに住んだ。田邉屋さんがこの橋を寄贈したが、江戸中ごろには、いつしか常安橋と呼ばれるようになった。

58.慈雲尊者生誕之地の碑と顕彰碑  (高松藩蔵屋敷跡)
享保3年(1718)に誕生。真言宗の僧侶で戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。 河内の高貴寺を正法律の本山として、独自の雲伝神道を唱え磐船神社を根本道場とした。(南河内郡河南町)平成24年(2012)11月に建立。「左手に十善法語」と「道・在・近」を掘り込んでデザイン。後藤英之氏作。

59高松藩蔵屋敷跡
【碑文】 江戸時代、諸藩は年貢米の換金や産物の売捌きのため、水運の便利な中之島・堂島付近に蔵屋敷を建てた。ここは讃岐高松十二万石の蔵屋敷があったところである。

60.明治天皇聖躅碑・大阪高等裁判所跡
 明治10年(1898)2月15日に明治天皇が来所され裁判を叡覧された。

61.リーガロイヤルホテル   (熊本藩、徳島藩屋敷跡、高松藩蔵屋敷跡)
大阪を代表するホテル。S10年(1935年)に開業。S40年(1965年)に現在地に。

62.大阪国際会議場(グランドキューブ大阪)  (熊本藩、徳島藩屋敷跡、高松藩蔵屋敷跡)
平成12年(2000)にG8サミットを誘致する目的で大阪府が建築。地上13階、地下43階、高さ104.51mで黒川紀章の設計。メインホールは最大2754名収容可。

63.中之島センタービル(NCB)
昭和50年(1975)竣工。地下3階、地上31階、塔屋2階。最頂部 129m。スカイルーム有。
関西経済連合会・関西経済同友会・関西電力系企業が入居。2〜3階はホテルNCB。

64.玉吉稲荷の祠  元小倉藩蔵屋敷の屋敷神

65.大阪市立實業学校之跡
大正8年(1919)から昭和17年(1942)まで実業人を育成するために開校。

66.大阪中央卸売市場本場             〈遠見〉
昭和6年(1931)に開場。 

67.宮本輝「泥の河」文学碑
「堂島川と土佐堀川がひとつとなり安治川と名を変えて・・・」芥川賞作家。
 「船津橋・端建蔵橋(はたてくらばし)・昭和橋3つの橋が架かる。」昭和30年前半の作品。

67.端建蔵橋(はたてくらばし)
 中之島に西端にも蔵が建てられていたため、端建蔵という地名が生まれたとされる。
68.昭和橋       安治川に架かる橋で昭和7年に架けられた。

69.京阪電車「中之島駅」     解散(15時頃の予定)
平成20年(2008年)10月19日にオープン。中之島新線の始発駅
西口1階に蔵屋敷のモニューメントがある。
 
 淀屋の史跡を訪ねる シリーズT
=中之島周辺めぐり=
 
毛利さん、雨の中でしたが、八軒家浜〜京阪中之島駅まで熱心に案内頂きました。
八軒家浜


「八軒家浜」。その名前の由来は、古くから京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場(約44.8km)で、
江戸時代に八軒の船宿があったからと言われています。また、京都から船に乗り、
「八軒家浜」を経由して熊野詣でをしたことから、熊野街道への起点としても知られています。
水都大阪のシンボルとして、平成20年(2008)春に水上バスの駅として開港。
川の駅は平成21年(2009)にレストラン、観光船案内所、情報発信スペースとしてオープン。


天満橋方面を見る

天神橋方面を見る

京阪電車・天満橋駅エントランス


水都の新名所「八軒家浜」船着場 開港!

平成20年3月、京阪中之島線の起点となる天満橋駅北側に「八軒家浜」船着場が開港した。
これにあわせ、天満橋駅構内の商業施設「パナンテ京阪天満橋」もリニューアル・オープン。


地図

八軒家船着場の図


八軒家に、京都から三十石舟が到着し、乗り合い客や積荷の下船の様子が描かれている。
船着場の石段には、旅籠の客引き女や物売り男なども出迎えている。



枚方の辺りで物売りのくらわんか船が寄って、餅・牛蒡汁・酒など売りつけている。


大川(旧淀川)
淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。
滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km2。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。
第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。
南天満公園
南天満公園は天神橋と天満橋の間の大川沿い北側にある都市公園です。
桜の名所で開花 時期には屋台が建ち並び、多くの花見客で賑わう。

将棊島粗朶水制跡(しょうぎしまそだすいせいのあと)
  淀川の水が寝屋川や鯰江川に逆流しないようにした隔流堤。約430mあった。(半島状)
  大和川はここに流込でいたが、宝暦元年(1704)に堺の方に付替えされた。
 
 
「粗朶」は木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、
河岸から河の中央に向かって設置された突起物のことです。
木の枝は主に柳が使われていて、腐食しにくく、屈撓性があり、運搬が容易である。
さらに、多孔質なので、生物が棲みやすい環境が形成され、今のコンクリートなんかより全然優れている工法.。

天満の子守歌


ねんねころいち 天満の市は
大根(だいこ)そろえて 舟に積む

舟に積んだら どこまで行きゃる
木津(きづ)や難波(なんば)の 橋の下

橋の下には かもめがいるよ
かもめとりたや 竹ほしや

竹がほしけりゃ 竹やへござれ
竹はゆらゆら 由良之助


賑わった天満の市の様子を子守歌に詠みこんでいる
 

淀川三十石舩舟唄碑           S59.12.8
  三十船というのは、長さが17m、巾2.5mで、米を三十石(米俵にして七十五俵)積み込める。
船頭4人、乗客定員は28人。上りは人力、下りは川の流れにまかせでしたが、流れの速い瀬では船頭が
岸に上がり、綱で引いたといわれている。船賃は、上り172文、下り72文だった。


天満の子守歌の直ぐ北に、天満の青物市場跡の石碑が建っている
天満青物市場跡

南天満公園の片隅に建つ「天満青物市場跡」の石碑。

石碑の側面には『(天満青物市場は)、昭和に至り変遷があったが
昭和20年戦災で廃絶した』と記されており、大阪中央卸売り市場に包括された後も、
市場そのものはこの地でも存在していたらしい。


南天満公園 天満青物市場跡

堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで大坂三大市場の一つがこの地である。
青物とは果物・野菜を指す。問屋が40軒、仲買が150軒という大規模なものであったことが
「摂津名所図絵」に記されている。元々青物市場は石山本願寺の辺りにあつて繁栄していたが、
大坂城築城によつて京橋北詰に移動され、寛永12(1635)年に天満に移された。

明治・大正期になっても大阪一の青物市場として栄えた。
大正12(1923)年に中央卸売市場方が制定され、公設市場の親市場としての
中央卸売市場の開設が求められ、昭和6(1931)年、福島区野田に
大阪市中央卸売市場が開設され、天満青物市場は廃止となつた。


大坂三大市場 
 
 

天下の台所を支えた三大市場

水上交通に恵まれた大阪の物流の中心は、
堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場で、これらは近世大阪の三大市場といわれます。
堂島には当時の物価の基準となっていた米を商う市場が開設され、全国の年貢米が集積しました。
京橋南詰で開かれていた青物市場は1653年に天満に移転。近郊農村から多くの野菜などが船で運び込まれました。
魚市場も17世紀後半に、船場から荷揚げに便利な雑喉場に移りました。
雑喉場魚市場には近海はもとより四国・九州からも多くの魚が運ばれ活況を呈しました。

天神橋 橋名飾板
天神橋の北詰に保存されている
天神橋を渡る頃、やっと雨も止む。
 中之島剣先公園
 天神橋を渡り、中央に設置されている「螺旋状の通路」を下り、剣先公園へ!

剣先公園の噴水前で記念撮影

大川(旧淀川)は土佐堀川(南側)と堂島川(北側)に分かれます
水都2009の公園再整備の一環として設置。
最大長さ約60m、高さ約20mの巨大なアーチを描きます。

 
剣先公園を望む

当日は、噴水時間の10時であったが、噴水は見られず、Webより参照。

中之島は江戸時代初めに豪商淀屋の初代常安が家康の許可をもらい開拓した。
土佐堀川と堂島川に挟まれた中之島。 大阪の政治・経済・教育・文化の中心地の一つ。
 公園は明治24年(1891)に大阪市として初めて誕生した都市公園。2009年夏にリニューアルオープン。


 
ばらぞの橋
 
 
中之島バラ園で記念撮影
 
 
 
バラ園のバラが満開、少し撮影してきました!
   
   
 なにわ橋の下を歩き、「なにわ橋駅」前に進む。
 なにわ橋 - ライオン橋

なにわ橋 - ライオン橋
橋詰の四箇所には堂々たるライオン像が設置されたことから「ライオン橋」の
愛称で現在も市民に親しまれている。昭和50年(1975)合成桁形式に替えられたが、
旧来の姿を保全するように配慮され、当時の勇姿を今に残している。 

江戸時代 天満橋、天神橋とともに浪花三大橋と呼ばれた難波橋は
大坂の八百八橋を代表する長大橋であった。当時大川の川幅は現在より広く、
また中之島の東端は難波橋の下流部にあったため、200メートルを
超える木橋として堺筋の西側の脇に架けられていた。

堺筋の市電開通にともない、大正4年に現在の場所へ移された。
都市景観を考慮し、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、石造りの階段のほか、
橋の四隅には阿吽のライオンの石造があり、「ライオン橋」とも呼ばれ、親しまれている。
(大阪絵ハガキ) 大正15年(1926)刊

「なにわ橋駅」前
 
明治29年(1896)に、発起人は西村捨三と小林作兵衛。
撰は西村捨三(元彦根藩士・元大阪府知事)
書は日下部東作(明治三筆)。石は、安治川口の残念石を引き上げた。
木村は豊臣側の青年武将(1593-1615)。「茶臼山血判取」で有名。
(九代目市川団十郎の弟子の五代目市川新蔵の名演技だったが、
1895年頃、眼病を患ったのち失明し37歳で死亡)
 

父は豊臣秀次の老臣でその謀反事件に連座して切腹。重成は幼少期から秀頼に仕えていたと言い、
冬の陣で豊臣・徳川講和の際茶臼山(家康本陣)に赴き、家康に指を切らせて血判誓書を得ています。
夏の陣で河内方面に進撃、井伊直孝と激戦の末、21歳で戦士を遂げたと言います。
出陣の際、討死を覚悟して兜に香を焚き込めていたと言う名高い話が残っています。
この碑は明治29年建立されました。
豊国神社境内にあった碑ですが、神社が大阪城内に移転したので碑が取り残されました。

 
中之島遊歩道と橋

鉾流橋ほこながればし
 天神祭の「鉾流神事(川に神鉾を流し、その年の神霊渡御地・お旅所を決定する行事)」が
この橋のたもとで行われることにちなんでその名が付いたといわれる「鉾流橋」。

 初めて橋が架けられたのは1918年(大正7)ですが、
現在見られる鉾流橋は1929年(昭和4)に完成したものです。

 天神祭の鉾流神事が行われることを考慮して、高欄、照明灯、親柱など
日本調にクラシックなデザインが採用されたそうです。

 これらの高欄、照明灯は戦争中の金属供出などによって失われましたが、
1980年(昭和55)に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や
照明灯、レンガ敷きの歩道が整備されました。

鉾流橋
 

鉾流橋・(天神祭)
陸渡御・・・公会堂前で披露(神社15:30出発)
船渡御・・・鉾流橋の乗船場から川を遡る。(神社17:30出発)
 


大阪高等裁判所(大阪地方裁判所)  
(江戸時代は佐賀藩の蔵屋敷跡)
近畿2府4県を管轄している。明治8年(1875)に大阪上等裁判所として発足。
 
大阪高等裁判所(大阪地方裁判所)  (江戸時代は佐賀藩の蔵屋敷跡)


水晶橋
 当初は稼動堰としたが、のちに歩行者専用になった。名前の由来は諸説ある。

水晶橋
 

.佐賀藩蔵屋敷跡
(佐賀藩蔵屋敷舟入跡復元石垣遺構・・・現在工事中)
佐賀藩(鍋島家、357,000石)蔵屋敷の跡。舟入の跡が残る。
約5267坪で大坂の蔵屋敷跡ではビッグ5に入る。
平成2年(1990)の発掘調査で、長大な船溜・屋形・米蔵などの並ぶ様子が確認された。
中之島のレトロ建物
 
大阪府立図書館


大阪府立図書館
重要文化財 本館左右翼三棟 〔国指定昭和49年5月21日〕
 この建物は 住友吉左衛門が図書館として本府に寄附されたもので
 住友本店技師長野孫市及び技師日高胖氏の設計監督のもとに
明治33年に着工同37年1月に竣工したものである


府立中之島図書館  (江戸時代は浜田藩の蔵屋敷跡)
明治37年(1904)に住友家第15代住友吉左衛門友純(ともいと)が大阪府に寄贈した。
外観はルネッサンス様式、内部はバロック様式の名建築(ローマのパンテオンにならった)。国の重要文化財。
 
 
府立図書館の中央ホール 素晴らしい建物に感動!
 

図書館の模型
この模型を見て初めて、中央ホールのドームが確認できた。


 建物は、煉瓦及び石造三階建で中央に円屋根をつけた十字形平面の本館と
左右翼(大正11年増築)からなっている。
明治の大阪写真集  明治42年(1909)刊

大阪市中央公会堂
 (江戸時代は仙台藩の蔵屋敷跡・明治初めは大阪通商会社跡)・≪重要文化財≫
大正7年(1918)に株の仲買商・岩本栄之助の寄付により建てられた名建築。当時のお金で100万円。
 大阪通商会社・為替会社  (江戸時代は仙台藩の蔵屋敷跡・現在は大阪市公会堂)
明治2年(1869)に通商会社設立。 明治6年(1873)に為替会社となる。
明治6年(1873)に国立銀行設立に伴い明治7年(1874)に解散。通商振興を図ることを目的とした銀行のはしり。


2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定される。
老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)
9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。
耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった。


大阪証券取引所の株仲買人の岩本栄之助氏の寄付により、大正7年に完成した。
1階の大集会場は2000人収容でき、2階には、500人が一度に会食できるホールや
中小の集会室があり、多くの市民に利用された。
鉄筋、鉄骨コンクリート造りで、赤レンガなどで外面を化粧している。
(大阪・東京名所絵ハガキ) 大正10年(1921)刊


大阪市中央公会堂  栴檀木橋より
1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が当時の100万円を
寄付して建設計画が始まった。1913年(大正2年)6月に着工、
1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦に
よる相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を
見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。
公会堂内 岩本記念室

岩本栄之助氏銅像

株式仲買業を営む岩本商店の法被
 
 
 御堂筋
昭和2年(1927)5月に道路幅を6m→43.6mに東側を拡張して完成。全長4km。現在は南行きの
一方通行。ビルの高さが揃った整然とした景観がつくられた。約887本のイチョウ並木でも有名。
   
拡張前の御堂筋   拡張された北御堂付近
 
淀屋橋 ≪重要文化財≫
「淀屋(北浜)の米市」に来る人に便利なように、2代目・言当(个庵)が架けた橋
「淀屋の架けた橋」が「淀屋橋」の始めであり、現在より少し西寄りにあったとされる。
昭和10年(1925年)現在の橋は1924年の公募にてされたもの。コンクリートの橋で重要文化財。
橋長:53.5m、幅員:36.5m、アーチ橋を渡る人7万人。車は6万台。淀屋橋駅は20万人
 
 
 
 淀屋の碑・淀屋屋敷跡
江戸時代の豪商淀屋の屋敷跡で、心斎橋筋から現・三井住友銀行西側までの旧「大川町」のほぼ全域があり、
敷地内には、いろは48蔵が建ち並んでいたといわれる。中之島も開拓して、淀屋橋は私費で架けた。
淀屋が幕府に願い出て、屋敷前で「淀屋(北浜)の米市」が開かれていた。
(碑文=宮本又次:大阪大学名誉教授)
【淀屋屋敷跡碑文】 近世のはじめ、中之島の開発その他、大阪の発展に寄与するところが
多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている。
 
 
 
毛利さんより、米市場の様子を事細かく説明を受ける
大阪市庁舎


現在の大阪市庁舎は、昭和57年に取り壊され、昭和61年(1986)に竣工 
鉄筋コンクリート造り地上8階地下4階建、高さ50.5m 

大正10年(1921)に竣工した、地上5階、地下1階の旧庁舎
大阪名所絵葉書 大正10年(1921)刊
 

大阪市役所  (江戸時代は唐津藩と福井藩の蔵屋敷跡)
旧庁舎は大正10年(1921)に中之島に完成。昭和61年(1986)に建替えし完成。8階建て。
1階に「大阪市廳」の旧表札が展示。人口:大阪府 880万人。大阪市 266万人。
 

大阪市営地下鉄開業80周年にちなみ、初代の車両が展示されていた!
 
大阪ダックツアーの水陸両用の派手なバスが、丁度市役所前を通過
日本銀行 大阪支店
 日本銀行大阪支店旧館  (江戸時代は島原藩の蔵屋敷跡)  
明治36年(1903)にベルギーの国立銀行をモデルに建てられた
ドーム型の屋根と石造りが美しい名建築。 設計は辰野金吾氏。外装は花崗岩。


日本銀行 大阪支店
明治36年建設の辰野金吾博士の設計になる旧日銀大阪支店は、
昭和55〜57年建て替え時、歴史的建築物として外観部や、内部の一部が
建設当時のままの形で保存され、内部が見学コースとなっています。
新館は、旧館の奥に1980年竣工された。
写真の後ろに見えるのは、中之島セントラルタワー。


日本銀行旧館(設計、辰野金吾)は明治36年(1903)建設。
旧舘は煉瓦・石造2階建て地下1階 外装には花崗岩が用いられています。
明治大正の大阪の写真集 大正4年(1915)刊
 京阪電鉄・大江橋駅
2008年10月19日にオープン。地下1階に天保期の蔵屋敷跡の図が掲示され、商店と改札口がある。
ホームは地下3階にある。軌道は地下約25mにある。なにわ橋駅は約30m、中之島駅は約15m
京阪電車・大江橋駅構内に掲示されている
中之島界隈蔵屋敷跡図面


「蔵屋敷跡」(京阪電鉄・大江橋駅構内)
天保期(1830〜1843)の大坂中之島界隈蔵屋敷跡で、90藩が配置されている。
人道橋の中之島ガーデンブリッジを渡ると
堂島米市場跡記念碑が建っている


中之島ガーデンブリッジ
 歩行者専用。ANAクラウンプラザホテル前に架かる。夜間はLED証明している。
堂島米市場跡記念碑
所在地:大阪市北区堂島浜1丁目
最寄駅:京阪本線OR地下鉄「淀屋橋」下車、淀屋橋、大江端を渡り
西へ、「ANAクラウンプラザホテル」前、中之島ガーデンブリッジの北詰

江戸時代、諸藩はこの中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米や国産品を換金したが、
この蔵屋敷の販売事務を町人(掛屋)が代わって行うようになり、町人蔵元が出現した。
蔵米の取引を最初に開いたのが、淀屋の2代目个庵といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。

1705年(宝永2年)淀屋が闕所になった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立した。
その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、1730年(享保15年)公認の帳合米市場である
「堂島米市場」が発足した。

江戸時代、大坂のほかに江戸、京都、大津、下関にも米市が立っていたが、
堂島米市場で立った相場で取引がなされ、ここで立った相場が全国の米相場の基準とされた。
この取引の手法は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された
商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、先物取引発祥の地とされている。

1876年(明治9年) に「堂島米穀取引所」と改称され、1939年(昭和14年)に廃止された。



堂島の米市場「摂津名所図会」 堂島河岸の米市での取引のさま。
 

旧・ダイビルが建設中であった
 
人道橋の中之島ガーデンブリッジに展示されている
「なにわ八百八橋」
の絵図

高麗橋

新町橋

中之島ガーデンブリッジ

 中之島フェスティバルタワー(FT)

東地区は、2010.1.9着工。2012.11.6完成。地上39階建て、地上高 198.96m
フェスティバルホールは、2階〜7階で、2700人収容。4/10に開場。
フェスティバルホールの南外壁に「牧童、音楽を楽しむの図」のレリーフがある(信楽焼)
 
中之島フェスティバルタワー12Fのフェスティバルキッチンで昼食を楽しむ!
眺望の優れた、広々としたカフェテリアです。
健康を考えた美味しいメニューがリーズナブルに味わえます。
オフィスワーカーはもちろん、一般の方も気軽に使えます。


Aランチ、Bランチ、焼きそば、カレーなど美味しくて本当に安いです!

朝日稲荷大明神元高松藩の屋敷神) 
  13階のスカイロービの一角に祀られている
 
 
 昼食後、歩き出そうとしたらまた、雨が降ってきた!

 ダイビル本館、2013年3月完成
大正14年(1925)竣工の渡辺節の設計でネオ・ロマネスク様式のビル。
新ビルは外観復元を取り入れて完成。
 
 

このビルの特に凄いと思ったところは、旧ダイビルを復元するために、
煉瓦は旧ビル解体時に約18万個を手作業で取り外し、ビルの外装材として95%以上に再利用したそうです。
建物内部でも、床やタイルを再利用したということでした。
新しいビルなのに歴史を感じさせるのは、そういったところもあるのですね。

 
田蓑橋より、新ダイビル本社を撮影
 
田蓑橋を渡り、中津川藩蔵屋敷跡へと進む
 蛸の松

慶長年間(1596-1615)に廣島藩主・福島正則が植えたとされる黒松で
枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていた。
 川向こうにあったが明治後半に枯死した。顕彰碑は田蓑橋北側に設置。
 

堂島川に架かる田蓑橋(たみのばし)北詰めに「蛸の松」があります。
江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、屋敷前に各藩自慢の松を植えていました。
中でも、久留米藩と広島藩の境の松は、枝振りが
蛸が泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と親しまれました。

「なにわ百景」にも、「中の嶋蛸の松」の錦絵が描かれています。
蛸の松は、明治の末頃に枯死しましたが、雛松会によって再現された。


江戸時代の蛸の松は、対岸の旧位置にありました

再現された、蛸の松

中津藩蔵屋鋪の跡

福沢諭吉誕生の地
天保5年(1835)に誕生、安政2年(1855)適塾に入門、万延元年(1860)に渡米、
欧米諸国を歴訪して「西洋事情」「学問のすゝめ」など著述。慶応4年(1868)に慶応義塾を開学。
明治34年(1901)に死亡。小泉信三氏の筆。中津藩彰碑は北側の設置。


天保5(1835)年12月12日、福沢諭吉は豊前中津藩士福沢百助の末子として、
中津藩大坂蔵屋敷のこの地で誕生。父は諭吉が1歳8ヶ月のとき急死し、
母に連れられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元(1854)年、
長崎遊学を終え江戸へ上る途中に大坂の蔵屋敷へ立ち寄り、
兄のすすめで翌年3月に緒方洪庵の適塾に入門し後には塾頭にまで。
江戸に慶応4(1868)年、慶応義塾を開設した。

 


玉江橋 (なにわ筋北側・堂島川) 
  常安橋と同じデザインです。
 古代大阪に架けられていた堀江橋の名前で復活したが、玉江橋に変更された。
堀江で美しい玉が見つかった故事に由来する。
平成3年に常安橋と同じデザイン(高欄・照明灯・タイル舗装)で改装された。

玉江橋より四天王寺五重塔を望む
昔は、玉江橋の反り橋からは五重塔が望めたらしい

堂島川に架かる玉江橋方面を振り返ると
福島区に新しく誕生した「ほたるまち」のビル群

ほたるまち
1993年に大阪大学医学部附属病院が吹田市に移転した後、
コンペにて2008年5月2日に街開きした。
.朝日放送(ABC)、平成20年(2008年)5月19日にほたるまちに移転してきた。(5周年記念)

「ほたるまち」という印象的な名前は、コピーライターの道面 宣久さんが、
与謝蕪村の俳句「淀船の 棹の雫も ほたるかな」をもとに、
きらびやかな光ではなく、蛍のようなやさしい光で川を照らす街になってほしい、
という思いから名づけられたそうです。 

中之島線の中之島駅が最寄りとなります。


 京阪電車「中之島駅」  解散(13時15分頃)
平成20年(2008年)10月19日にオープン。中之島新線の始発駅
西口1階に蔵屋敷のモニューメントがある。
 
京阪中之島駅にて解散。皆さん、お疲れさまでした!
次回の歴史ウォークは、6月8日(土)午前8時30分、
「滋賀県日野町へのバス旅行」毎年恒例のバス旅行です。
弁当を持参下さい!焼き肉「久太郎」駐車場前集合です。
最後までご覧いただき有難うございました!

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